アレクサンドロス大王をわかりやすく解説!東方遠征で拡大した領土と強さの秘密
更新日:2023.04.04
投稿日:2022.04.18
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紀元前4世紀頃、日本では稲作が始まり弥生時代の幕が開けた頃、同じ時代にマケドニア王国はギリシャからインド北部までの広大な地域を支配下に置きました。そのマケドニアを率いた偉大な王は、無敗の戦略家であり司令官でもあるアレクサンドロス3世です。
残念ながらアレクサンドロス3世は、32歳の若さで亡くなってしまいます。もし、長生きをしていたらどれほどの領土を支配下に置いたのでしょうか?アレクサンドロス大王の強さの秘密や戦術、後世に残した功績について解説します。
Contents
アレクサンドロス大王とはどのような人物?
呼称 | アレクサンドロス3世 アレキサンダー大王 イスケンデル |
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誕生 | 紀元前356年7月 |
王に即位 | 紀元前336年(20歳) |
死去 | 紀元前323年6月10日(32歳) |
征服地域 | ギリシャ アラビア半島を除く中東地域 エジプト 中央アジア 北インドの一部 |
アレクサンドロスは古代マケドニア王国(現在のギリシャ北部)の王で、紀元前4世紀に活躍しました。アレクサンドロス大王は武力に秀でており、自ら軍隊の先頭に立ちマケドニア軍を率いて数多くの戦争で勝利をもたらしました。無敗の強さを持ったマケドニア軍は、ギリシャ、アナトリア、エジプト、ペルシャ、中央アジア、インドの一部までを短期間の内に征服します。
当時のギリシャ諸国の考えでは、遥か東のインドまで到達をすることは、世界征服に等しいと考えられており、アレクサンドロス大王は世界征服をした偉大な王として称えられています。
そして驚くべきは、20歳で王に即位してから、32歳までの間に広大な地域を征服したことです。アレクサンドロスは若い王でありながら、その戦略と味方を統率する力は敵を圧倒するほどのものでした。彼が成し遂げた偉業は、カルタゴの将軍ハンニバル、ローマのカエサル、フランスのナポレオンなど、その後に現れた歴史的な偉人達にも影響を与えました。
アレクサンドロス3世?アレキサンダー大王?正しい呼び名は?
アレクサンドロス大王の正式な名前は、アレクサンドロス3世です。「大王」というのは通称で、これは彼の死後、紀元前1世紀ごろに、その偉大な功績から「Magnum(ラテン語で“Great”の意)」とローマで呼ばれたのが由来という説があります。偉大な王であることから、大王という名称がつけられました。
アレクサンドロスはギリシャ語での呼び名となり、英語表記はAlexander IIIで、アレクサンダー3世やアレキサンダー3世と呼ばれます。英語での通称は、Alexander the Greatとなり、大アレキサンダーの意味を持っています。
一方トルコでは、アレクサンドロスやアレキサンダーとは呼ばず、イスケンダルと呼ばれています。アレクサンドロスはギリシャ語で「偉大で勇敢な人」という意味があり、トルコ語やアラビア語では「偉大で勇敢な人」をイスケンダルと発音します。名前の持つ意味から、トルコではアレクサンドロスはイスケンダルと呼ばれるようになりました。
正式な名前はアレクサンドロス3世ですが、彼の功績から「大王」や「大」と付けられることや、英語読みでのアレクサンダーという読み方、またはトルコ語でのイスケンダルも全て正しい名称と言えます。このコラムではアレクサンドロス大王の名称を使わせていただきます。
アレクサンドロス大王の生涯
アレクサンドロス大王は32歳という若さで亡くなっています。その若さと短期間で世界征服に等しいほど領地を拡大したことは、後世の多くの人々から大英雄とうたわれる要因となっています。アレクサンドロス大王がどのような生涯を送ったのか、ご紹介いたします。
出生と幼少期
アレクサンドロスは紀元前356年7月に、マケドニア王国の首都ペラで生まれました。父親はマケドニア王のフィリッポス2世で、母親は王の4番目の妻オリンピアスです。後にアレクサンドロスの側近となるクレイトスの兄妹であるラニケが乳母を務め、アレクサンドロスを育てました。幼少期になると母親の親族のレオニダスらによって、マケドニア王子としてのマナー、読み書き、戦闘、乗馬や狩りの方法を教え込まれました。
若年期から青年期
アレクサンドロスが13歳になった頃、フィリッポス2世は哲学者などによって、より学問的な教育をアレキサンドロスに受けさせたいと考えました。何人かの候補の中から、最終的に万学の祖と呼ばれる哲学者アリストテレスが選ばれ、首都ペラから離れたミエザの街にあるニンフ神殿の敷地に学校が作られます。
アレクサンドロスは13歳で入学し、後にアレクサンドロスの側近や将校になる学友たちと一緒に学んだようです。なお、アレキサンドロスが通った学校には、後のエジプト王になるプトレマイオス1世や、マケドニア王の座を奪うことになるカッサンドロスもいたと言われています。
アリストテレスは、学校で薬の知識、哲学、道徳、宗教や芸術などを教えました。アレクサンドロスは、ホメロスの叙事詩「イーリアス」の複製をアリストテレスから与えられ、主人公の英雄アキレウスに対して強い関心が生まれたと言われています。その後、アレクサンドロスは16歳までミエザの学校で学びました。
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紀元前338年、アレクサンドロスは18歳の時に初陣をかざります。当時マケドニア軍がカイロニアで衝突したのは、フィリッポス2世のマケドニアに脅威を感じていたアテナイとテーバイです。
アレクサンドロスは将軍として騎兵隊を率いて活躍し、アテナイ・テーバイ連合軍の撃破に貢献しました。この戦いでアレクサンドロスは父親の戦術を目の当たりにし、今後の戦いに生かしていくことになります。
王位即位とギリシャ全土制圧
カイロネイアの戦いで勝利をしたマケドニアは、スパルタを除く都市国家とコリントス同盟を結び、ギリシャでの覇権を確立しました。フィリッポス2世は次の目標として、紀元前336年にペルシャ遠征を計画します。しかし、同年の夏に娘の結婚式に参加するためにアイガイの街に滞在をしていた際、近衛兵長によってフィリッポス2世は暗殺されてしまいます。
父親の死を受け、アレクサンドロスは敵対者を倒し、若干20歳で王位を継承しマケドニア王となります。しかし、フィリッポス2世の死去を知った北方の国やアテナイ、テーバイ、トラキアなどの近隣諸国はこれを機に、コリントス同盟を破棄しマケドニアに対し反旗を翻しました。
アレクサンドロスの側近は外交での解決を進言しますが、アレクサンドロスはすぐに騎兵を連れて出陣し、素早い機動力を駆使して都市国家を次々と制圧して行きました。そして近隣諸国の反乱を全て平定し、ギリシャ全土を掌握することに成功します。
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8年間に及ぶ東方遠征
アレクサンドロス大王は、紀元前334年にマケドニア王国(現在のギリシャ北部)を出発しました。ペルシャ王国などの強敵と戦いながら東に向けて進軍し、次々と勝利を収めました。そして紀元前326年に、インド北部のパキスタンとの国境近くのビアース川(ハイファシス川)まで到達をしました。わずか8年間の間に、アラビア半島を除く中東地域、エジプト、中央アジア、そして北インドの一部という広大な地域を征服したのです。
東方遠征の途中、中央アジアにあったバクトリアやソグディアナなどの戦いに勝利した紀元前328年に、アレクサンドロス大王はバクトリアの有力豪族の娘ロクサネと最初の結婚をしました。ロクサネは結婚の翌年に行われたインド遠征に同行をし、その後の行動をアレクサンドロス大王と共にします。そして後に息子のアレクサンドロス4世を産むことになります。
東方遠征からの帰還
アレクサンドロス大王は、さらに東に進み中央インドの制圧を考えていましたが、部下たちの強い反対があり、やむなく引き返すことにします。紀元前326年の冬に全軍を分割し、自分は残存する敵を倒しながら北インドからインダス川を南下し、ペルシャ湾沿いに現在のパキスタンやイランの砂漠地帯を西に進みました。そして紀元前324年の春にイラン西部のスーサに到着しました。
融和政策を進めていたアレクサンドロス大王は、紀元前324年にマケドニア人指揮官とペルシャの貴族の女性との集団結婚式をスーサで開催しました。自身はペルシャ王国最後の王であったダイオレス3世の娘スタテイラと結婚します。
志半ばでの死去
紀元前323年の春にメソポタミアのバビロンに帰還し、広大な領地の統治計画、バビロンの水路建設、ペルシャ湾沿岸の都市計画を行いました。そしてアラビア半島への遠征を準備していた最中、宴会の席で酒を飲んだあとに倒れ、高熱が10日間続いた後に亡くなってしまいました。
紀元前323年6月10日のことで、わずか32歳の若さでした。亡くなる前に側近たちが大帝国の後継者を訊ねた際、アレクサンドリア大王は「最強の者が継承せよ」と答えたと言われています。死因に関しては、西ナイルウィルス感染症、アルコールの過剰飲酒、毒殺など様々な説がありますが、明らかにされていません。
アレクサンドロス大王の遺体は、蜂蜜が満たされた黄金の棺に納められ、バビロンから故郷のマケドニアに運ばれることになりました。しかし、途中で将軍プトレマイオスの指示により、エジプトのメンフィスで埋葬されました。当時は王の遺体を埋葬することで、自分が後継者であると示そうとすることがよくありました。
その後、紀元前280年頃にプトレマイオスの息子によって、遺体はエジプトのアレクサンドリアに移されました。その証拠として、ローマのカエサルやアウグストゥスが、アレクサンドリアにあったお墓を訪れたという記録が残されています。しかし、その後アレクサンドロス大王の墓はファラオにより非公開とされ、訪問者がいなくなり、お墓の所在地は現在も不明のままとなっています。
アレクサンドロス大王の東方遠征
アレクサンドロス大王の偉業として特に有名なのが東方遠征です。アレクサンドロス大王は東方遠征において、ギリシャからアラビア半島を除く中東地域、エジプト、中央アジア、北インドの一部までと、当時のギリシャでは世界征服と考えられているほど広い領土を獲得します。
ここでは、アレクサンドロス大王が率いるマケドニア軍がどのような道筋をたどり、どのような戦いを経て次々と領土を拡大していったのかを解説します。
マケドニア出発そしてグラニコス川の戦い
ギリシャ制圧によって自国の危険を排除したアレクサンドロス大王は、父親の意思を引継ぎ、紀元前334年にマケドニアの首都ペラからペルシャ遠征に出発しました。歩兵や騎兵からなる約4万人のマケドニア軍は、トラキア地方からヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡り、小アジアに上陸しました。小アジアに上陸後、グラニコス川を対峙して、マケドニア軍と小アジアのペルシャ軍による戦いの火ぶたが切って落とされました。
兵士の数は双方互角でしたが、ペルシャ軍には精鋭部隊である騎兵隊が配置されていました。軽装備の騎兵に対して、マケドニア軍は重装歩兵を中央に配置して対抗します。アレクサンドロスは敵から狙われ、度々危ない場面がありましたが、側近の手助けもあり、なんとかこの戦いに勝利することができたのです。
グラニコス川の戦いによってマケドニア軍の強さは小アジア西部に広まり、多くの都市が降伏したため、アレクサンドロスは小アジアの半分を手に入れることとなりました。
グラニコス川の戦いの後、マケドニア軍は南に進路を取り、抵抗を続けていたハリカルナッソスを攻略し、地中海沿いを東に進みペルゲにたどり着きました。その後、北に向かったアレクサンドロスは、紀元前333年の春に中央アナトリアにあるフリギア王国の首都ゴルディオンで、軍隊の再編成を行います。
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遠征中2番目に大きな戦い|イッソスの戦い
アレクサンドロス大王はゴルディオンを出発し南に進み、カッパドキアやタルソスを経由し、シリア北部地域に入りました。その後、紀元前333年11月にアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス3世率いるペルシャ軍と、ピナルス川河口のイッソスで戦闘になりました。
ペルシャ軍は約10万人、マケドニア軍は約4万人でしたが、主戦場は海と山に囲まれた狭い平地だったため、ペルシャ軍は大軍を十分に展開できませんでした。海側の平地に展開するマケドニア軍の部隊がペルシャ軍の攻撃を食い止めている間に、アレクサンドロス率いる部隊が山側から相手陣形を突破します。マケドニア軍が中央に攻め込むと、ダレイオス3世は敗走し、ペルシャ軍の兵士も続々と逃げ始めたため、イッソスの戦いはマケドニア軍の勝利に終わりました。
イッソスの戦いに勝利した後、逃げ遅れたダレイオス3世の妻、娘、母親を捕虜にしたアレクサンドロス大王は、ダレイオス3世から和睦の提案を受けますが、これを拒否します。
イッソスの戦いは、1831年にポンペイで見つかったモザイク画に描かれており、アレクサンドロス大王とダレイオス3世の姿を見ることができます。現在、この有名なモザイク画はナポリ考古学博物館に所蔵されています。
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エジプトの解放
イッソスの戦い後、マケドニア軍はイッソスから南下して、抵抗の意思を示したシリアの都市ティールとガザを征服すると、11年前からペルシャに支配されていたエジプトに入りました。アレクサンドロス大王はペルシャの統治に不満を抱いていたエジプトから解放者として歓迎され、紀元前332年11月にエジプトの解放を行います。エジプトの解放後、アレクサンドロス大王はエジプト王ファラオとなりました。
また、エジプトには自身の名前を付けたアレクサンドリアという都市を建設しました。アレクサンドリアの建設にあたり、アレクサンドロスは自ら都市の設計図を作ったと言われています。
後に臣下だったプトレマイオスがエジプトを支配した際は、アレクサンドリアはプトレマイオス朝の首都として一層発展しました。ちなみに、有名なクレオパトラはプトレマイオスの子孫となり、祖先はエジプト人ではなくギリシャ人です。
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ガウガメラの戦いとペルシャ征服
エジプトで補給を行ったマケドニア軍は、紀元前331年にエジプトを出発し、ペルシャの中心部メソポタミアへ進みました。同年10月にペルシャの大軍を率いたダレイオス3世と、イラク北部のガウガメラで再び刃を交えることになります。
一説によると、マケドニア軍は約4万7千人の兵力に対して、ペルシャ軍は戦車部隊やインドの戦象を含めた総動員で待ち構え、約20万人と大規模な兵力を用意したそうです。
しかし、兵士の数で圧倒していたペルシャ軍には、経験のある兵士が少なく全軍の連携が取れていませんでした。また、兵士の多くが弓矢で装備した軽装でした。対するマケドニア軍は重装歩兵を中央に配置し、両翼にアレクサンドロス大王と経験豊富な副司令官のパルメニオンが陣取りました。
戦闘が始まると、重装歩兵がペルシャ軍の攻撃を受け止めている間に、アレクサンドロス大王率いる部隊が、前線にできた隙間からペルシャ軍の中枢に突入します。
包囲されることを恐れたダレイオス3世は戦場から撤退し、アレクサンドロス大王は追走をしようとしますが、パルメニオンの苦戦を知り、助けに戻ったため、ダレイオス3世に逃げられてしまいました。戦いはマケドニア軍の勝利で終わり、ガウガメラの戦いで勝利したアレクサンドロス大王は、ペルシャの重要都市であるバビロンに入り、ここを拠点とします。
その後、マケドニア軍は冬の離宮スーサや首都ペルセポリスなどの主要都市を陥落させながら、逃げたダレイオス3世を追い続けました。
しかし、紀元前330年にダレイオス3世は、側近のベッソスによって暗殺されてしまいます。ダレイオス3世を追い続けていたアレクサンドロス大王はベッソスを処刑し、最終的にはアケメネス朝ペルシャは滅亡しました。
中央アジア制圧とインド到達
アレクサンドロス大王はペルシャを征服後、さらに東を目指し、中央アジアに進出しました。しかし、紀元前329~327年の間に、現在のウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタンの地域にあったバクトリアやソグディアナとの間で戦いが繰り広げられ、マケドニア軍は苦戦を強いられます。
マケドニア軍はソグディアナの堅牢な要塞や徹底した抵抗を受け、苦戦しながらも何とかバクトリアやソグディアナの攻略に成功。その後、現在のウクライナ周辺で遊牧民国家を築いていたスキタイ人の騎兵とも戦い、勝利を収めました。
ペルシャと中央アジアを征服したアレクサンドロス大王は、紀元前327年にアフガニスタン北部の街バクトラを出発し、インドを目指します。
ガンダーラ地方の領主たちの多くは、アレクサンドロス大王に服従し協力を申し出ましたが、一部の領主たちは抵抗の意思を示しました。アレクサンドロス大王に抵抗の意志を示した部族と戦い、アオルノス(現パキスタンのピールサル山と言われています)で討ち取ります。
このアオルノスの戦いが、アレクサンドロス大王最後の包囲戦となるのでした。アオルノスの戦いがあった翌年、アレクサンドロス大王はインダス川を越え、インド北部のパンジャブ地方の都市タクシラにたどり着きました。
アレクサンドロス大王はタクシラに到着後、インド中央部まで進軍することを目標に、ヒュダスペス河畔に到着します。しかし、紀元前326年の5月にヒュダスペス河畔で、パンジャブ地方東部を支配するポロス王が立ちはだかり、大規模な戦闘が繰り広げられました。アレクサンドロス大王は相手の戦象部隊を撃破し、戦いを勝利で飾りポロス王を捕虜にするものの、多くの兵士を失ってしまうのでした。
ヒュダスペス河畔での戦いに勝利後、アレクサンドロス大王はさらに東に進み、インド北部のパキスタンとの国境近くのビアース川(ハイファシス川)まで到達をしました。しかし、ヒュダスペス河畔の戦いが、アレクサンドロス大王最後の大規模な戦いとなってしまいます。
東方遠征からの撤退
アレクサンドロス大王はインド中央部まで進むことを考えていましたが、ヒュダスペス河畔で多くの兵士を失い、さらに東には大軍団が待ち受けているという情報が入ってきます。
また、8年間、アレクサンドロス大王はマケドニアから遠く離れていたため、一緒に戦っている兵士たちからは、故郷への帰還を懇願する意見が出ました。
悩んだ末にアレクサンドロス大王は兵士たちの意見を聞き入れ、紀元前326年11月にバビロンへ戻ることを決定します。こうして、アレクサンドロス大王の東方遠征に終止符が打たれることとなりました。
アレクサンドロス大王はなぜ強いのか?連戦連勝の戦術を解説
アレクサンドロス大王が率いたマケドニア軍はなぜ無敗だったのでしょうか?ここでは、アレクサンドロス大王が用いた戦術の一部をご紹介させていただきます。同じ戦術を使うのではなく、相手に合わせて戦術を変更する柔軟さが最大の強さと言えるかもしれません。
斜線陣
アレクサンドロス大王が数々の戦いで用いた戦術に「斜線陣」があります。この戦術は自分の主力部隊や機動力のある騎兵を陣形の左側に集中して配置し、相手の弱点である右側を攻める方法です。
古代ギリシャでは重装歩兵は右手に槍、左手に大きな盾を持ち、兵士が横並びで隊列を組むことで、自分の盾で左隣の兵士の右半身を守りながら強力な前線を形成していました。
ただし、隊列の一番右端の兵士は、自分の右側を守る兵士がいないため、陣形の右側や背後からの攻撃が弱点でした。アレクサンドロス大王は、相手の弱点である右側を攻めつつ、自分の陣地の弱点である右側は突撃を遅らせるという工夫をしました。
自分の陣地の弱点である右側は突撃を遅らせることで、陣形が斜めになることから「斜線陣」と呼ばれます。
斜線陣はもともとアレクサンドロス大王の父親フィリッポス2世が、テーバイ(ギリシャ中央部)に人質に取られていた時に学んだ戦術です。後にアレクサンドロスに受け継がれ、さらに改良がされ、数々の戦いで用いられました。
鉄床戦術
「鉄床戦術」もアレクサンドロス大王によって頻繁に使われた戦術です。「鉄床戦術」は重装歩兵が敵を引き付けている間に、敵の側面または背後から騎馬隊を突撃させる戦術です。攻撃を食い止める歩兵と素早く攻撃する騎兵が、鍛冶屋の金床と槌にそれぞれ例えられ、この戦術名がつきました。
マケドニア軍の騎馬隊は、当時のギリシャの一般的な長さの槍よりも長い槍を持ち、三角形または逆三角形の隊列を用いることで、より高い攻撃力を発揮しました。
騎馬隊には重装騎兵と軽装騎兵がいますが、アレクサンドロスは相手の装備や陣形によって、重装騎兵と軽装騎兵をうまく使い分けながら鉄床戦術を用い、戦いを勝利に導いています。また、アレクサンドロス大王は自ら騎馬隊の先頭に立ち、数で勝るペルシャ軍を何度も撃破しました。
ファランクス
ファランクスとは、丸い大きな盾と槍を持った兵士が横並びで隊列を組んだユニットのことです。当時のギリシャでは既に存在した戦術ですが、アレクサンドロス大王は一般的な槍の約2倍となる6mの槍を採用しました。
そのため、最前列から5列ほど後ろからでも、兵士の槍が敵に届いたと言われています。最前列の兵士が倒れた場合は、後ろの兵士が前に出て、常に陣形を維持して戦いました。
長い槍を扱うには技術が必要ですが、マケドニア兵は十分な訓練を受けていたため、ファランクスの戦術が大いに役立ったそうです。
アレクサンドロス大王の功績
アレクサンドロス大王が成し遂げたのは、マケドニア帝国の領土を拡大させただけではありません。ここでは、その他のアレクサンドロス大王の功績をご紹介させていただきます。
ヘレニズム文化の誕生
古代ギリシャの文化が東方のオリエント文化に出会い、融合して生み出されたのがヘレニズム文化です。アレクサンドロス大王は、支配した地域に対して基本的に融和政策(敵対国の主張をある程度尊重し譲歩することで、摩擦を回避していく外交政策)を取っており、ヘレニズム文化もペルシャとの融和政策のもと誕生しました。
アレクサンドロス大王がペルシャを征服した際は、大王自らがペルシャ風の服を着て、ペルシャの風習を積極的に取り入れました。ペルシャ風の服は部下にも強制して着用させましたが、当時のギリシャの習慣に反していたため、部下たちがアレクサンドロス大王に対して不満を抱くことになってしまいます。
また、融和政策の一環として、紀元前324年にスーサでマケドニア貴族や兵士の男性と、ペルシャ人女性の合同結婚式が行われました。しかし、合同結婚式で結ばれた多くの夫婦は、離婚をしてしまいます。
当時のギリシャには、自国の価値観だけにとらわれず、広い世界で物事を考えるのはまだ早かったのかもしれません。しかし、こうしたアレクサンドロス大王の融和政策によって、ヘレニズム文化は芸術に影響を及ぼし、人間的な要素が入ったミロのビーナスやサモトラケのニケなどの傑作が作られました。
領土の統治
アレクサンドロス大王は、東方遠征により征服領土が増えたため、マケドニアから全ての地域の統治を行うことが難しくなっていきます。そこで、特にペルシャ地域より東の地域は、戦いで降伏させた領主にそのまま統治を行わせることで、住民から反発されることを防ぎ、広い領土をうまくまとめ上げていきました。
当時は、支配下に置いた領主を殺してしまい自国から領主を連れてくることが一般的であったため、積極的に領主に統治を引き続き任せたのは画期的でした。降伏した領主にそのまま統治を行わせるという画期的な手法は、アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世から気づきを得たと考えられています。
アレクサンドロスの青年期、マケドニア王国には、ペルシャから追放された貴族や知識人が父親のフィリッポス2世によって保護されていました。当時のアレクサンドロスは、父親がマケドニア王国に追放されたペルシャの人々からペルシャの政治問題を聞いており、マケドニアの統治に反映させていたのを見ていたと言われています。
アレクサンドロス大王は父親の統治する姿から発見を得て、文化や慣習の異なる他国を統治するには、他国の国民に任せるのが最適だと考えたのかもしれません。
インフラ整備や都市の建設
アレクサンドロス大王は、征服した国のインフラ整備や都市の建設を次々と行なっていきました。アレクサンドロス大王によって攻撃された街は、徹底的に破壊され、略奪されることもありましたが、補給や交易の重要な拠点となる街は破壊されずに残されています。破壊せずに残した街は、水路や交通路などのインフラ整備が行われ、街が大きく発展しました。
また、アレクサンドロス大王は各地で自分の名前を付けた「アレクサンドリア」という都市を建設していきます。その数は約70か所となり、エジプトのアレクサンドリアが一番有名な都市となりました。
後に各地のアレクサンドリアには、捕虜になった兵士やギリシャ人傭兵が入植させられたと言われています。アレクサンドリアには、アレクサンドロス大王に不満を持つ人たちを、マケドニアから離れた場所に隔離するという役割もあったようです。
東方遠征の史料
アレクサンドロス大王は東方遠征中に、兵士だけでなく学者も同行させ、自身の活躍を書物に残すよう命じました。残念ながら多くの書物は現在失われてしまっていますが、一部残っているものは、当時のペルシャや中央アジアを知るための貴重な史料となっています。
アレクサンドロス大王の後継者は?マケドニア王国のその後
紀元前323年6月10日、32歳でアレクサンドロス大王は死去しますが、亡くなる前にマケドニア王国を「最強の者が継承せよ」と遺言を残しました。大王の死去後、家臣たちは今後の国の体制を決めるために、バビロンで会議を開きます。
アレクサンドロス大王の最初の妃ロクサネはこの時妊娠していましたが、子供の性別がわからなかったため、アレクサンドロス大王の異母兄弟であるアリダイオスがフィリッポス3世として、マケドニア王に即位しました。
アリダイオスが王位を継承後、ロクサネが出産したのは男の子であったため、アレクサンドロス4世と名付けられます。アリダイオスには精神的な障害があり、アレクサンドロス4世は幼すぎるため、家臣たちが摂政を務めました。よって、フィリッポス3世とアレクサンドロス4世の共同統治は形だけのものでした。しかし、2人とも家臣たちの権力の座を争う戦いの最中に殺されてしまいます。
家臣たちによる権力争いはディアドゴイ(後継者)戦争と呼ばれ、紀元前323年~紀元前281年の約40年間続きました。後継者争いの後、広大な領地はアンティゴノス朝マケドニア(ギリシャ)、セレウコス朝シリア(アナトリアとメソポタミア)、プトレマイオス朝エジプト(エジプト)の3つに分割されます。これらはヘレニズム3国と呼ばれましたが、いずれの国も長く繁栄はせず、紀元前2世紀~1世紀の間にローマによって滅ぼされてしまいました。
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アレクサンドロス大王の逸話
当時のギリシャでは世界征服と考えられていたほどの広い領土を獲得したアレクサンドロス大王には、興味深い逸話が数多く残されています。ここではアレクサンドロス大王にまつわる逸話をご紹介します。
ブケパロス
アレクサンドロスが10歳の時に、隣国との交易でフィリッポス2世のもとに立派な馬が連れて来られました。しかし、連れて来られた馬の気性が荒かったため、フィリッポス2世はうまく乗りこなすことができず、馬を手放そうとします。
しかし、アレクサンドロスはその馬が自分の影におびえていることに気づき、馬の向きを変えて落ち着かせることに成功しました。アレクサンドロスが馬を落ち着かせる様子を見てフィリッポス2世は大変喜び、「マケドニアは小さすぎるので、自分で大きな国を見つけなさい」と伝え、馬をアレクサンドロスに与えます。
その馬はブケパロス(牡牛の頭の意味)と名付けられ、アレクサンドロス大王と共に遥か東のインドまで行きました。ブケパロスが亡くなった場所に作られた街は、アレクサンドリア・ブーケファリアと名付けられました。
ゴルディアスの結び目
ゴルディアスの結び目は、アナトリアにあったフリギア国の都ゴルディオンにまつわる話です。フリギア王ゴルディアスが自分の荷車を神殿の柱に結び付け、「この結び目を解いたものがアジアの王になる」と言いました。結び目は誰も見たことがない方法で結ばれており、多くの人が挑戦をしましたが、長い間誰も解くことができませんでした。
紀元前333年の春に、東方遠征中にゴルディオンに立ち寄ったアレクサンドロス大王も挑戦しますが、結び目を解くことができずにいました。結び目を解けないことがわかると、アレクサンドロス大王は突然剣を抜き、結び目を一刀両断してしまいます。
その後、ゴルディアスの言ったとおり、アレクサンドロス大王はインド北部までの広大な地域を支配することになりました(当時のアジアはアナトリアから中央アジアの地域を意味していました)。
哲学者ディオゲネス
ディオゲネスは名の知れた哲学者で、ギリシャのコリントスで質素な生活を送っていました。アレクサンドロス大王が東方遠征へ向かう前、コリントスに立ち寄った際に、ディオゲネスを訪ねたと言われています。
アレクサンドロス大王がディオゲネスの前に立ち、「何か望みのものはないか」と聞いたところ、ディオゲネスは「あなたがそこにいると日陰になるのでどいてください」と答えました。アレクサンドロス大王は欲深さのかけらもない彼の答えに敬服し、「私がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい」と言ったといわれています。
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ゼウスの子供
アレクサンドロス大王は、フィリッポス2世とオリンピアスの間に生まれましたが、マケドニアやギリシャではゼウスの子とみなされていました。きっかけは、ある夜フィリッポス2世の就寝中、アレクサンドロスがオリンピアスのベッドで巨大なヘビを見たことから始まっています。このヘビはゼウスが変装した姿と考えられており、アレクサンドロス大王は、実はゼウスとオリンピアスの子供であると言われるようになりました。
時が経ち、東方遠征中のエジプト滞在中に、アレクサンドロス大王はアメン神の聖地を訪れ、神々の主アメンの子供であるという神託を受けます。ギリシャでは、アメンはギリシャ神話の最高神ゼウスと同一視されていたため、その神託を受け、アレクサンドロス大王は自らをゼウスの息子であると名乗るようになったそうです。
その後、ギリシャからエジプトにやってきた使節団が大王と面会した際に、ゼウスの子供であるという神託を受けたことを聞き、アレクサンドロス大王はマケドニアやギリシャでゼウスの子と考えられるようになりました。
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アレクサンドロス大王とトルコの関係
アレクサンドロス大王が東方遠征の際にギリシャを出発して、初めて足を踏み入れた地が現在のアナトリア(トルコ)で、そこでペルシャ軍との最初の戦闘が行われました。トルコにはアレクサンドロス大王にゆかりのある場所が多くあります。ここでは、アレクサンドロス大王と関係の深いトルコの観光スポットをご紹介します。
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イスケンデルン
トルコの地中海沿岸にある都市イスケンデルンは、アレクサンドロス大王と関係が深い都市です。ダレイオス3世のイッソスの戦いでの勝利を記念して、アレクサンドロス大王はイッソスの近くにあるトルコ南部の地中海沿いに街を建設させました。
この街は、当初エジプトのアレクサンドリアと区別するために、アレクサンドリア・ニア・イッサスと呼ばれていましたが、後にアレクサンドレッタとなり、現在はトルコ語でイスケンデルンと呼ばれています。
名称 | イスケンデルン(İskenderun) |
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住所 | İskenderun/Hatay, トルコ |
アルテミス神殿
アルテミス神殿は、トルコのエフェソスにある遺跡です。アレクサンドロスが生まれた日に、アルテミス神殿が火事で焼け落ちました。この火事は、女神アルテミスがアレクサンドロスの出産に立ち会うために、留守にしたことが原因だと言われています。
アルテミス神殿は放火などにより、幾度も破壊と再建を繰り返しており、現在は復元された柱が1本残るのみとなってしまいました。しかし、世界七不思議の1つとして、トルコでは有名な観光スポットとなっています。
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名称 | アルテミス神殿(Artemis Tapınağı) |
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住所 | Atatürk, Park İçi Yolu No:12, 35920 Selçuk/İzmir, トルコ |
アキレウスのお墓
アリストテレスのもとで学んでいた時より、アレクサンドロス大王は英雄アキレウスの活躍に心酔していました。東方遠征の際にアナトリアに上陸した後、アレクサンドロス大王は本隊を離れてトロイアに向かい、トロイアにあったアキレウスのお墓に献花したと言われています。また、アーテナー神殿に自分の武具を奉納し、代わりにトロイア戦争時代の鎧と盾をもらい受けました。
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イスタンブール考古学博物館
アレクサンドロスの石棺は、現在イスタンブール考古学博物館に所蔵されています。ただし、アレクサンドロス大王の棺ではなく、レバノンのシドンを治めていたアブダロニュモスの棺と言われています。
保存状態が非常に良く、大理石でできた棺の側面にイッソスの戦いやライオン狩りの様子、アレクサンドロス大王の姿が掘られている貴重な発掘品です。25トンの大理石で作られた世界最大級の石棺で、イスタンブール考古学博物館を代表する所蔵品となっています。
名称 | イスタンブール考古学博物館(İstanbul Arkeoloji Müzeleri) |
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住所 | Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, トルコ |
公式サイト | https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=IAR01&DistId=IAR |
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アレクサンドロス大王は世界征服を成し遂げた偉大な人物!
数々の戦いで無敗の強さを誇ったアレクサンドロス大王。当時のギリシャでは世界征服に等しいほどの領地拡大を成し遂げたことは、彼の死後2,300年以上経った今も彼が残した伝説として語り継がれています。
トルコにはイスケンデルンを代表として、アレクサンドロス大王にまつわる地がたくさん存在しています。アレクサンドロス大王が当時見た景色を思い浮かべながら、ゆかりの地を散策すると、より一層感慨深いトルコ旅行ができるでしょう。アレクサンドロス大王にゆかりのあるスポットはトルコの各地に点在しているため、ぜひ観光ツアーを利用して効率よく回るのがおすすめです。
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