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世界史に燦然と輝くビザンツ帝国(東ローマ帝国)1000年の歴史をわかりやすく解説

更新日:2023.04.05

投稿日:2022.10.05

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イスタンブール トルコ

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、ローマ帝国の分裂による成立から、オスマン帝国による首都コンスタンティノープルの陥落までの1,000年もの長きにわたり存続した帝国です。ビザンツ文化の繁栄や東西キリスト教会の分裂など、ビザンツ帝国が後世に残した影響は大きく、世界史のなかでもその歴史の歩みは特筆すべきものだといえるでしょう。

今回は、ビザンツ帝国について、その歴史や文化、後世に残したレガシーなどをご紹介。ビザンツ帝国1000年の歩みをわかりやすく解説していきます。

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とはどんな国?

イスタンブール 城壁

ビザンツ帝国は中世に存在した大国。ビザンツ帝国とは、コンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)を首都とした中世ローマ帝国の通称です。ビザンティン帝国や東ローマ帝国と呼ばれることもあります。ビザンチン帝国という名前がついたのは、コンスタンティノープルの前身がギリシャの植民地の「ビザンティオン」であったからだともいわれています。

395年に皇帝コンスタンティヌス1世の死去によりローマ帝国が東西に分裂し、476年にローマを中心とする西方領が滅びた後も、1453年までコンスタンティノープルを中心とした東方領土でローマ帝国の系譜が存続し続けました。この1000年ほどの長きにわたる時期の帝国のことをさしてビザンツ帝国(東ローマ帝国)と呼んでいるのです。

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ビザンツ帝国が世界史に与えた影響

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ビザンツ帝国の住人はギリシャ人がほとんどだったため、ギリシャ語が公用語。国教はキリスト教でしたが、今日ではギリシア正教と呼ばれる教派であり、ビザンツ帝国はギリシャ正教圏の長としても君臨していたため、コンスタンティノープル教会とローマ教会は5本山の中の首位権を巡って対立していました。726年ビザンツ皇帝レオン3世が聖像(イコン)禁止令を出したことで、さらなる対立を深め、最終的に1054年にはキリスト教会が東西で分裂しました。

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文化においても歴史への影響力は大きく、ビザンツ帝国で花開いた文化はビザンツ文化と呼ばれました。古典ギリシャの文芸を保存育成し発達させ、西欧諸国やイスラム世界に伝えたことで、後世の文化の形成などにも大きな影響を及ぼすこととなります。

ビザンツ帝国は、政治・宗教・文化・社会・経済などすべての面で先進し、周辺諸国に模範として影響を及ぼしたこともあり、東のローマ帝国という認識が中世世界に浸透していたといえますが、オスマン帝国が首都コンスタンティノープルを陥落したことで、1453年に滅亡してしまいます。

ビザンツ帝国と東ローマ帝国の違い

イスタンブール

ビザンツ帝国と東ローマ帝国は同じ国として認識されることが多いのですが、厳密にいうと歴史概念的に若干違いがあります。ここでは、ビザンツ帝国と東ローマ帝国の違いについて解説していきます。

当時の人々は自分たちの国をローマだと認識していた

一般的に、ビザンツ帝国と東ローマ帝国は同じ国だと認識されていることが多いですが、実は微妙に違っています。そもそも、当時の帝国の人々は、自分たちの国を「東ローマ帝国」とも「ビザンチン帝国」とも呼んでいませんでした。東西に分裂しているとはいえ、自分たちの住んでいる場所はローマ帝国の領土に変わりないので、「ローマ帝国」や「ロマニア」、「ローマ共和国」などと呼んでいたといわれています。

また、東ローマ帝国の住人はほとんどがギリシャ人でしたが、12世紀頃までは自分たちのことをギリシャ語でローマ人を意味する「ロメイ」と呼んでいたようです。その後、時代が進んでいくと徐々にギリシャ人を意味する「ヘレーネス」や「イリアス」などと呼ぶようにもなりますが、基本的にはローマ人だと自称していたといわれています。

ビザンツ帝国と呼ばれるようになったのは後世になってからだった

イエス・キリスト

現在では東ローマ帝国=ビザンツ帝国と呼ぶのは一般的になっていますが、東ローマ帝国が「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになったのは16世紀に入ってからだといわれています。7世紀以降の東ローマ帝国は、ローマ帝国とは違う性質を持つキリスト正教会を信仰するギリシャ人のローマ帝国となっていきました。そのため、ローマの伝統を継承しキリスト教化された時代との区別を図るため生み出されたのが「ビザンツ帝国」という名称でした。

「ビザンツ帝国」という名称は、1544年にギリシャ史に力を入れていたドイツ人歴史家のヒエロニムス・ウルフ氏が『Corpus Hostoriae Byzantinae』という書籍で初めて使用し、7世紀以降の東ローマ帝国を特質化して表したことがきっかけだともいわれています。

ビザンツ帝国1,000年の歴史を解説

ここでは、ビザンツ帝国1,000年の歴史を一挙大紹介。時代を初期・中期・後期の3つに区切り、わかりやすく解説していきます。

ビザンツ帝国の略年表

286年 ローマ帝国の分裂により二頭政治の時代へ
330年 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が帝国の首都をコンスタンティノープルに遷都
380年 皇帝テオドシウス1世によりキリスト教が国教に制定される
395年 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の死去によりローマ帝国が東西分裂。コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国が成立する
476年 西ローマ帝国が滅亡。東ローマ帝国皇帝がローマで唯一の皇帝となる
533年 アヤソフィア大聖堂の再建完成
620年 皇帝ヘラクレイオスにより公用語がラテン語からギリシア語に
674~678年 イスラムのウマイヤ朝によりコンスタンティノープルが包囲されるが撃退する
726年 皇帝レオン3世により聖像(イコン)が禁止される(843年に解禁)
800年 西ではカール大帝がローマ皇帝に即位。西ローマ帝国を継承したとする神聖ローマ帝国が成立。ローマ教皇とともに権力を高める
1054年 キリスト教会が東西に分裂
1071年 トルコ系イスラム国家のセルジューク朝とのマンジケルトの戦いに敗れ小アジアの領土を失う。これにより小アジアのトルコ化が進む。さらに、セルジューク朝はキリスト教の聖地エルサレムも占領
1095年 コムネノス朝のアレクシス1世が、それまで対立していたローマ=カトリック教会に支援を要請したことで、ローマ教皇ウルバヌツ2世により十字軍の派遣が呼びかけられる
1204年 第4回十字軍によりコンスタンティノープルが征服され、ビザンツ帝国が一度消滅。ラテン帝国が樹立される
1261年 ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回。ビザンツ帝国が復活
1453年 オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落。ビザンツ帝国滅亡
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初期~コンスタンティノープルの建設から皇帝フォカスの退位まで~

東ローマ帝国の始まりと繁栄

テオドシウス1世

東ローマ帝国の始まりをいつととらえるかについては諸説ありますが、330年の首都コンスタンティノープルの成立からとするのが一つの考え方です。395年、ローマ帝国のテオドシウス1世が死去するとローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれます。その後476年には西ローマ帝国が滅亡。これによって東ローマ帝国が唯一のローマ帝国となります。

東ローマ帝国は首都コンスタンティノープルを中心に第二のローマともいわれるほど栄えましたが、その領土の地域性や、住民のほとんどがギリシャ人だったこともあり、時代が進むにつれギリシャ的な影響が色濃くなっていきます。宗教においても、ギリシャ正教を信仰していたこともあって、ローマ教会との対立が激しくなっていきます。

6世紀に入るとユスティニアヌス帝が西地中海を征服。555年に東ゴート王国を滅ぼしゲルマン諸国を征服するなど領土を拡大していきます。この時代に東ローマ帝国はかつてのローマ帝国のほぼ全土を回復し、全盛期をむかえることとなります。

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異民族の侵略と反乱

ヘラクレイオス

6世紀後半になると、ふたたび異民族による領土の侵略が起こり、東ローマ帝国は危機をむかえます。そのような状況の中、608年カルタゴ総督だったヘラクレイオスにより反乱が起こり、610年にコンスタンティノープルが開城。フォカス皇帝は処刑され、ヘラクレイオスの息子で同名のヘラクレイオスが皇帝に即位します。

中期~ヘラクレイオス1世から第4回十字軍による首都陥落まで~

7世紀からの王朝変遷まとめ

610~711年 ヘラクレイオス朝
867~1056年 マケドニア朝
1081~1185年 コムネノス朝
1185~1204年 アンゲロス朝
1204~1261年 十字軍に征服されラテン帝国が支配
1261~1453年 パライオロゴス朝

王朝が変遷する中世ローマ帝国

7世紀以降は皇帝の世襲が一般化します。クーデターによる皇帝位の廃位も頻繁におこり、王朝がたびたび変わった時代で、中世ローマ帝国とも呼ばれています。

繁栄の礎を築いたヘラクレイオス朝

ヘラクレイオス ペルシア

中世のビザンツ帝国は、ヘラクレイオス朝、マケドニア朝時代は繁栄していましたが、コムネノス朝あたりから衰退への道をたどります。

ヘラクレイオス1世の治下では、国力の全体的低下を補うために統治方式がテマ制度(軍管区制)ヘと転換。テマ制度は、帝国の各地に軍隊の指揮官をおき、各地方の軍事権と行政・司法の権限も与えて地方を統括するという制度のこと。軍の兵士に農地が与えられ、平時は農業に従事し税を負担。戦争になると装備を自弁し戦いに参加するという方式のため、税収と徴兵のベースが安定し、マケドニア朝の繁栄の礎ともなっていきます。

ヘラクレイオス1世は、シリア・エジプトへ侵攻し、627年のニネヴェの戦いではササーン朝ペルシアを撃破。領土を奪回することに成功します。

ヘラクレイオス1世は620年に公用語をギリシャ語に変更します。ローマ帝国の分裂後も、東ローマ帝国ではローマ帝国にならってラテン語を公式な言語としていました。しかしながら東ローマ帝国の住民はほとんどがギリシャ人だったため、実際にはラテン語の重要性は低下。このような状況を認めて公用語を変更しました。

アラブ・東ローマ戦争

ヘラクレイオス ビザンツ帝国

ビザンツ帝国とササーン朝ペルシアが抗争し互いに疲弊する一方で、アラビア半島ではイスラム勢力が台頭し、ビザンツ領へ侵入してきます。

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これに危惧したヘラクレイオス1世は軍を率いてシリアに赴きますが敗北。これによって、シリアとエジプトを失ってしまいます。穀倉のエジプトを失ったことで、ローマ帝国以来の伝統であった小麦粉の配給ができなくなってしまいました。「パンとサーカス」という言葉で表現されていたように、娯楽と主食を皇帝から与えられるのは半ば国民の権利のように考えられていた制度が崩壊したことで、皇帝の求心力も次第に低下していくことになります。

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さらにイスラム勢力の侵入はすすみます。674~678年にはイスラムのウマイヤ軍によりコンスタンティノープルが包囲され、717~718年にも同じく首都包囲をされますが、強固な城壁などに助けられ撃退。この時代では、首都を防衛することに成功します。

ローマ教会とコンスタンティノープル教会が対立

聖像崇拝論争 イコン

ビザンツ帝国はギリシャ正教を国教としており、ギリシャ正教圏の長として君臨していたため、コンスタンティノープル教会とローマ教会は、当時の五本山の中の首位権を巡って対立します。726年にレオン3世が聖像(イコン)禁止令を出したことで、この対立は決定的となりました。

843年にこの聖像禁止令は解除されるのですが、その後も対立の溝はうまらず、最終的に1054年にローマ教会とコンスタンティノープル教会が互いを破門。キリスト教会が東西で分裂することになります。

ビザンツ帝国衰退の始まり

セルジューク朝

11世紀に入ると中央アジアから移動してきたトルコ系イスラム国家のセルジューク朝が、ビザンツ帝国の領土に侵入してきます。1071年にはビザンツ帝国とセルジューク朝のあいだでマンジケルトの戦いが起こり、ビザンツ帝国が敗北。小アジア(アナトリア)の領土を失ってしまいます。これをきっかけに、小アジアのトルコ化がはじまります。

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さらに南イタリアの領土にはノルマン人が侵入、こちらでも領土を失います。この時代、ビザンツ帝国の中央集権的な軍事行政制度であるテマ制が崩壊。有力者に大土地所有を認めるプロノイア制に制度へと変容したことで、封建化が進んでいくこととなり、ビザンツ帝国の衰退のひとつの理由を生み出すこととなってしまいます。

小アジアを手握し勢力を強めていたセルジューク朝は、ついにキリスト教の聖地エルサレムを占領してしまいます。これによって、コムネノス朝のアレクシス1世は、それまで対立していたローマ=カトリック教会に支援を要請。イスラム世界の急激な勢力拡大に危機感をいだいていたローマ教皇ウルバヌツ2世により、1095年十字軍の派遣が呼びかけられました。

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13世紀になると十字軍運動は聖地回復という目的から外れ、経済的要求を強めていきます。そのような状況下の1202年、ローマ教皇権の最盛期を誇っていたインノケンティウス3世により提唱された第4次十字軍はヴェネチア商人主導の下で行われ、コンスタンティノープルを襲撃し、ビザンツ帝国の領土を占領してラテン帝国を建国。ビザンツ帝国は領土の大半を失ってしまい、しばらくの間ラテン帝国による支配が行われることとなります。

第4次十字軍 コンスタンティノープル

後期~ニカイア帝国の発足からコンスタンティノープル陥落まで~

コンスタンティノープルの再興

ビザンツ帝国のコンスタンティノープルを襲撃し建国されたラテン帝国は、その後第2次ブルガリア帝国との戦いに敗れるなど領土を拡大できず停滞していました。そんな状況下の1261年、ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回することに成功。これによってラテン帝国は滅亡します。

ニカイア帝国パライオロゴス朝ミカエル8世が即位したことで、ビザンツ帝国は再興。一時期勢力を盛り返しますが、その支配力が及ぶのは、コンスタンティノープル周辺とギリシャの一部地域だけに限定されていました。

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オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落とビザンツ帝国の滅亡

コンスタンティノープルの陥落

14世紀中頃になると、オスマン帝国がバルカン半島や地中海に進出していきます。1366年にはアドリアーノプルを攻略し新首都としてエディルネと改称します。さらに、1389年コソボの戦いで、オスマン帝国のムラト1世がセルビア、ブルガリアを撃破。ビザンツ帝国を北側から脅かすようになります。

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キリスト教国連合軍は、オスマン帝国の侵入を食い止めようとしますが、1396年ニコポリスの戦いで敗北。これによりオスマン軍はコンスタンティノープルを直接包囲することができるようになります。

しかし、そのすきに東方からティムールが小アジアへ進出したため、オスマン軍は転進。1402年アンカラの戦いにオスマン軍が敗れたことで、オスマン軍の侵攻が停滞し、ビザンツ帝国は一時オスマン軍の脅威を逃れることとなりますが、1453年メフメト2世によりコンスタンティノープルは陥落。ビザンツ帝国はこれによって滅亡します。

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世界史のなかでのビザンツ帝国の重要性

ビザンツ帝国は1,000年の歴史の中で、後世に影響を及ぼす功績をたくさん残しました。ここでは、世界史の中でのビザンツ帝国の重要性がわかる事柄を、政治・経済、宗教、文化それぞれの側面から解説していきます。

政治・経済

ラヴェンナ モザイク

ビザンツ帝国は、皇帝による君主制を採用し、共同皇帝を含め90人以上の皇帝によって14の王朝を経て統治されました。ユスティニアヌス1世の皇后テオドラのように皇后も権力を持ち、女帝も存在。女性の地位が向上したとも評価されています。

地方行政としては、屯田制度とも呼ばれるテマ制という兵農一致の地方制度を採用。初期帝国の繁栄の礎となりました。

軍事面では、テオドシウスの城壁など難攻不落の強固な城壁を築きコンスタンティノープルを難攻不落の都としました。また、ギリシャの火薬という秘密兵器を開発。これらによって首都陥落の危機を幾度となく乗り越えます。

経済面では、中世のドルとも呼ばれる高純度のノミマス金貨を発行したことが特筆されます。これによって貨幣の信頼度が高まり、経済が好転。コンスタンティノープルは貨幣経済の中心地として栄えます。さらに、住民のほとんどがギリシャ人だったこともあり、当初使用されていたラテン語が衰退。その事実を認め620年にギリシャ語を公用語としました。

宗教

アヤソフィア

ビザンツ帝国は、国教としてキリスト教の教派の一つギリシャ正教を信仰。コンスタンティノープルには古代の五大総主教のひとつ、コンスタンティノープル総主教座が置かれていました。東方のイスラム教の拡大を受け、レオン3世が「聖像(イコン)禁止令」をだしたことなどで、西側のローマ教会との対立が深刻化し、1054年にはギリシャ正教として分離独立。ギリシャ正教は東ヨーロッパに広まっていくこととなります。

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文化

ビザンツ帝国では、ヘレニズム文化を基に、ギリシャやローマの古典文化や西アジアのオリエント文化が融合した、独自のビザンチン文化が花開きました。ビザンチン文化はイスラム世界の文化や、後のイタリア・ルネッサンスにも影響を与えることとなります。ビザンチン文化は、東ヨーロッパに広がっていたスラブ諸国にも広まったため、東ヨーロッパ独自の文化圏の形成にも影響を及ぼしました。

学問

古代ギリシャやローマから受け継がれた実証的・客観的な歴史叙述を重視する歴史家プロコピオスにより、『戦史』などが書き残されました。また、ミカエル・プロセルロスにより、プラトン哲学、神学、法学、自然科学などの古典文化の復興がはかられたことも、後世において評価されています。

芸術

アヤソフィア大聖堂 モザイク キリスト教

ビザンツ帝国では、キリスト教美術としてのビザンツ美術が発展します。教会建築や聖堂内に描かれるモザイク画やイコンなどが独自に発達し成熟していったことは、特に重要なポイントだといえるでしょう。

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ビザンチン文化は、とくに6世紀のユスティニアヌス1世の時代に花開きます。当時の建築様式やモザイク画などが見られる代表的な教会は、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア聖堂や、ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会、サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会などです。

ビザンツ美術は8~9世紀の聖像禁止令下で一時衰退しますが、11~12世紀に再興し全盛期を迎えます。この時代を代表する建築物は、アテネ近郊にあるダフニ修道院やパトモス島の聖ヨハネ修道院などです。ビザンツ文化は、ギリシャ正教の布教や交易によって周辺地域にも波及しました。ヴェネチアのサン・マルコ聖堂やキエフの聖ソフィア大聖堂なども、ビザンチン文化の影響を大いにうけた建築物です。

イスタンブールにあるビザンツ帝国の遺跡を訪れてみよう

かつてのコンスタンティノープルだった場所でもあるトルコのイスタンブールには、ビザンツ帝国時代の遺跡が多く残されています。ここでは、代表的なものをご紹介していきます。次回のトルコの旅で、ぜひ訪れてみてくださいね。

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アヤソフィア(ハギア・ソフィア)

アヤソフィア イスタンブール

世界遺産にも登録されているイスタンブールの歴史地区にあるアヤソフィアは、ビザンツ帝国を代表する建造物。巨大ドームを有するパシリカ式聖堂で、ビザンツ建築の最高傑作とも称されます。聖堂内を飾るモザイク画は壮麗で、ビザンチン文化の美術の粋が詰め込まれています。

アヤソフィアは、ビザンチン帝国下では、ギリシャ正教の総本山として君臨しましたが、ビザンチン帝国の滅亡後は、オスマン帝国のスルタン・メフト2世によってイスラム教のモスクに改修されます。聖堂内を飾っていた壁画も漆喰で塗りつぶされ、イスラム教のミナレットやイスラム教の預言者ムハンマドの名が記された円盤などが設置されます。

オスマン帝国が滅亡し1923年にトルコ共和国が成立すると、トルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクによって無宗教の博物館へと変容します。修復工事によって漆喰がはがされ、ビザンツ美術を代表する美しいモザイク画が復活しました。しかし、2020年にアヤソフィアは再びモスクとなることが決定されました。現在も、集団礼拝などのないときには一部見学が可能ですので、イスタンブールを訪れたら、ぜひ足を運んでみてください。

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ヒッポドローム(コンスタンティノープル競馬場)

イスタンブール トルコ ヒッポロドーム

ヒッポドロームは、ビザンチン帝国の時代に競馬や戦車の競争が行われた競技場だった場所。世界遺産にも登録されている、イスタンブールの歴史地区の人気観光スポット、スルタン・アフメット・ジャーミー(ブルーモスク)の西隣にあります。

当時のビザンツ帝国はで「パンとサーカス」という言葉で表現されるように、主食と娯楽は皇帝から国民に与えられるものでした。そのため、娯楽を市民に提供するこの場所は重要なスポット。10万人もの観客が収容できたともいわれ、とりわけ戦車競技は人気があったと伝えられています。

実はこの場所は、歴史的な事件の舞台ともなっています。532年、戦車競技の応援団の喧嘩が発端となり、鬱積していた市民の不満が爆発。市民が皇帝を引きずり下ろそうとする大暴動へと発展してしまいます。この事件は「ニカの乱」と呼ばれています。

この騒動によって、アヤソフィアも火災で焼失してしまいましたが、市民の気持ちを抑えるために、皇帝ユスティニアヌスにより再建されました。

テオドシウスの城壁

テオドシウスの城壁

テオドシウスの城壁も、世界遺産に登録されているイスタンブールの歴史地区にある遺跡のひとつです。ビザンツ帝国の皇帝テオドシウス2世によって、5世紀の初頭に建設されたといわれています。

コンスタンティノープルは三方を金角湾とマルマラ海に囲まれているため、陸側から攻め込まれる可能性のあった西側の防衛のために建てられました。内壁、外壁、堀の三重構造で、約7kmの長さを誇り、現在のイスタンブールの旧市街地が覆われるぐらいの規模だったそうです。

内壁・外壁などをあわせた全体の壁の厚みは60mもあったといわれる強固な城壁で、オスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落するまで約1,000年もの長きにわたり、首都コンスタンティノープルを守り続けました。

テオドシウスの城壁は、現在もほぼ良好な状態で保存されていて、一部登れる部分があります。実際に訪れてみて、難攻不落のコンスタンティノープルに思いをはせるのもいいですね。

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地下宮殿

地下宮殿 イスタンブール バシリカ・シスタン

地下宮殿は、ビザンツ帝国の皇帝・ユスティニアヌスが527年に作らせた地下の貯水池です。水の中から大理石の柱が無数にそびえたつその様から、地下宮殿とも呼ばれています。また、この貯水池の上にバシリカがあったため、バシリカ地下貯水池とも呼ばれています。

ビザンツ帝国時代、大宮殿を含む現在の旧市街地区全体というコンスタンティノープルの広範囲の居住者に水を提供していた地下貯水池で、オスマン帝国でもしばらくの間使われていました。オスマン帝国のスルタンの住居でもあるトプカプ宮殿の庭園にも水が供給されていたといわれています。

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この貯水池は16世紀に再発見されるまで、ひっそりとイスタンブールの地下に存在していました。現在は一般公開されていて、イスタンブールの人気の観光スポットのひとつとなっています。

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ヴァレンス水道橋

ヴァレンス水道橋 イスタンブール

ヴァレンス水道橋は、コンスタンティヌス1世の命で306年頃工事が始められ、373年ヴァレンス帝の時代に完成した水道橋です。コンスタンティノープルが新首都となり急速に人口が増えたため、不足した水を補うために建設されました。水源から首都の中心地まで水を引いた端と水路の全長は約250km。その最後の部分がこの水道橋で、この橋を通り地下宮殿などの街中の貯水池や野外貯水池などに水が貯められていました。

イスタンブールの旧市街地のほぼ中央に位置し、いくつもある橋脚の間を車で通ることができます。特に、夜のライトアップは幻想的で必見です!

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大宮殿モザイク博物館

イスタンブール歴史地区あるブル-モスクと、その南東にあるアラスタバザールの辺りに、かつてビザンツ帝国の歴代皇帝が居住した大宮殿がありました。コンスタンティノープルが陥落とともに大宮殿もなくなってしまいましたが、アラスタバザール横の大宮殿の内庭だった場所で450~550年頃のモザイク画が発見され、大宮殿モザイク博物館として公開されています。

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ビザンツ帝国1000年の歴史の舞台となったイスタンブールを旅しよう

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今回はビザンツ帝国について紹介してきました。ビザンツ帝国はローマ帝国の分裂にはじまり、オスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落まで、1000年にわたり存在した帝国です。歴史に翻弄されながら、長い歴史をつむぎつづけ1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落により滅亡しました。ビザンツ帝国が残したレガシーは多く、世界史的にも重要な帝国だといえるでしょう。

トルコのイスタンブールはビザンツ帝国1000年の歴史の主役ともいえる首都コンスタンティノープルのあった場所。現在も、ビザンツ帝国の歴史を伝える遺跡が多く残っています。ビザンツ帝国の歴史ロマンに思いをはせながら、イスタンブールを旅するのは格別な時間です。ぜひトルコを訪れて体感してください。

Historic Areas of Istanbul – UNESCO World Heritage Centre

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