トルコが誇る世界遺産

世界遺産ディヤルバクル城塞とは?メソポタミアとアナトリアの交差路を守った砦

更新日:2023.02.28

投稿日:2022.11.14

Views: 758

ディヤルバクル トルコ 世界遺産

ドイツのネルトリンゲンや、マルタのヴァレッタなどの城塞都市では、中世の面影を強く感じることができ、多くの観光客を惹きつけています。トルコにあるディヤルバクル城塞は、規模や歴史などでそれらに見劣りすることはないですが、残念ながらあまり知られていません。隠れた名所であるディヤルバクル城塞の魅力を、たっぷりとご紹介させていただきます。

ディヤルバクル城塞とは?

ディヤルバクル城塞

トルコ南東部の都市ディヤルバクルの旧市街スールを囲むようにして作られたのが、ディヤルバクル城塞です。東西約1.6㎞、南北約1.1㎞の壁で四方が囲まれ、城壁の全長は5.5㎞となります。城壁には82の塔が建ち(現存は62基です)、強度の高い玄武岩で作られた堅牢な城塞となっています。スールに出入りする主要な門は、東西南北それぞれに作られています。

城壁内の北東の一角はさらに城壁に囲まれており、イチ・カレとよばれる内城が作られています。これは外敵に対する二重の防衛となり、また、城壁内で反乱や暴動が起きた場合に内部からの攻撃を防ぐ目的もありました。イチ・カレは高さ50mの丘の上に作られており、全長600mの城壁と18の塔を現在も見ることが出来ます。

ディヤルバクルの城塞は、現存する城塞の中で中国の万里の長城に次ぐ長さと範囲を持っています。2000年から2007年にかけて、古代の城壁の姿に戻すために大規模な修復作業が行われました。そして、2015年にヘヴゼル庭園と共に、「ディヤルバクル城塞とヘヴゼル庭園の文化的景観」として世界遺産に登録されました。

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ディヤルバクルの場所と町の紹介

ディヤルバクル トルコ

ディヤルバクルはトルコ南東部、シリアとの国境の北に位置している街です。その地理的な重要性から、古来よりメソポタミア地域と黒海や地中海方面を結ぶ交易の要衝でした。現在は、市内中心部から車で15分の場所にディヤルバクル空港があり、イスタンブールやアンカラから国内線が飛んでいます。イスタンブールから約1時間50分、アンカラからは約1時間25分のフライトです。

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ティグリス川沿岸、玄武岩で作られた土手にディヤルバクルの街があります。南東アナトリア地方では、ガジアンテップに次ぐ大きさの街です。また、トルコ国内で最も多くのクルド人が居住をしています。ティグリス川の恵みを受けた肥沃な土地では、古来より小麦やゴマなどの生産が盛んに行われてきました。近年ではスイカ、レーズン、アーモンドなどが作られヨーロッパに輸出されています。

都市名の由来

ディヤルバクルは古くから様々な呼び名がつけられています。ローマ帝国の支配下では町はアミダと呼ばれ、11世紀~15世紀にこの地を治めたアルトゥク朝では、カラ・アミドと呼ばれました。カラは黒いと言う意味で、ここで採れる玄武岩により建物が暗い色だったため、この名前が付けられたと考えられています。トルコ遊牧民族の書物には、カラ・ハミドとして登場します。

オスマン帝国時代には、この都市はイスラム王朝時代の呼び名ディヤール・バクルとして知られていました。これは6世紀頃に東アナトリアに定住したアラブ部族のバクル族に由来します。ディヤール・バクルとは、アラビア語で「バクル族の所有する土地」という意味です。

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1937年にトルコ共和国初代大統領アタテュルクがこの街を訪れ、町の名前の由来が不確かであると指摘をします。そこで、この場所で豊富に銅が産出されることから、トルコ語で「銅の土地」を意味するディヤルバクルが正式名称として採用されました。

ディヤルバクル城塞の歴史

ディヤルバクル

西暦297年にローマ人によって城塞の建設が始まりました。349年にはローマ皇帝コンスタンティウス2世の命令により、壁が大幅に拡張されます。その後もこの地を支配下に置いた統治者たちにより、壁の拡張や強度補強が行われました。城壁にはローマ人、フルリ人、アルメニア人、ペルシャ人、クルド人、トルコ人などによって刻まれた碑文が残されています。

16世紀初頭に、東アナトリアを支配下に置いていたサファヴィー朝と、アナトリア全域の征服を目指すオスマン帝国の間で戦いとなります。ディヤルバクルの城塞を攻略するために、オスマン帝国は大砲を撃ち壁の破壊を行いました。その後、ディヤルバクルを占領したオスマン帝国によって、城塞は再建されます。現在見ることができる城塞の姿は、この時に再建されたものです。

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オスマン帝国が解体されトルコ共和国が誕生した後は、ディヤルバクルでクルド人による反乱がたびたび発生しました。紛争は1990年代にピークを迎えますが、2000年にクルド労働者党が攻撃停止を宣言して、平穏な日常が戻りました。しかし2015年に再びトルコ治安部隊との間で大きな戦闘が起こり、旧市街の多くの地域が破壊され城塞に損害が発生してしまいました。現時点では都市の復興に向けて、大規模な修復工事が行われています。

ディヤルバクル城塞の見どころ

ディヤルバクル城塞

歴史あるディヤルバクル城塞にはたくさんの見どころがあります。

城壁と塔

城壁の高さは10~20mで、厚さは3~5mとなっています。堅い玄武岩を基本として、レンガや周辺地域で採れる火山岩を使い作られています。塔は2階~4階建てで、1階部分の壁は4.4mの厚さを持ち、上部に行くにつれ薄くなる構造です。外壁には82の塔が建っていましたが、戦争などで破壊され現在は62基を見ることができます。

東西南北の城門

北門は、山(ダー)の門という名が付いており、山々に面しているためこの名前が付けられました。多数の動物のレリーフと、ギリシャ語とアラブ語の碑文が刻まれています。1980年代までは車で通ることができましたが、現在は車両の通行は不可となっています。

西門は、シャンウルファの町に通じる道がこの門から始まることから、ウルファ門と呼ばれています。門には3つの入り口があり、中央は拡張され車が通行出来ます。左の入り口の上には、牛の頭蓋骨の上に鷲が乗っているレリーフがあります。

預言者の町シャンルウルファ・とんがり帽子の家が並ぶハラン

南門から伸びている道がマルディンの町に通じていることから、南門はマルディン門の名称です。以前は3つの入り口がありましたが、2つは壁の中に埋め込まれてしまい、現在は1つしか残っていません。昔は南門の3つの道が、西門の3つの出入り口と繋がっており、メソポタミアとアナトリアを結ぶ交易路として使われたことを示しています。

東門はティグリス川に面しており、主にヘヴセル庭園に行き来をするための裏門として使われていました。その小さな門は、他の門と比較して新しい時代に作られたため、新しい(イェニ)門と呼ばれてます。

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大モスク(Great Mosque)

ディヤルバクル モスク

城壁内の旧市街の中心部に位置するのが大モスクです。11世紀のセルジューク朝の時代に、現在の姿に近い構造で再建されました。トルコで現存する最も古いモスクの内の一つです。黒い玄武岩を基本に、白い石灰岩が使われており、重厚な建造物に色のコントラストを生み出しています。また、他のモスクとは異なり礼拝堂の中央にドーム天井が設置をされておらず、シンプルな外見のモスクとなっています。広い礼拝堂には約5,000人が入ることが出来ます。

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シェイクマタールモスク(Sheikh Matar Mosque)

このモスクは白羊朝時代の1500年に建てられました。石とレンガを交互に積み作られた建物で、単一のドームを持っています。建物の面積は221㎡で、最大500人が礼拝を行うことが出来ます。このモスクで一番の特徴は、4本の巨大な石柱の上に作られたミナレットです。その姿から4本足のミナレットと呼ばれています。モスクが建設される前の906年に塔として建てられ、その後隣にモスクが建てられるとミナレットに改装をされました。

ベーレムパシャモスク(Behram Pasha Mosque)

ベーレムパシャモスク

Dosseman, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

オスマン帝国時代の16世紀に、総督のベーレムパシャの委託を受けて作られました。北のファサードにある身を清めるための八角形の水場や、モスク本殿の柱には珍しい特徴があります。黒と白の石が交互に配置をされており、柱の中央部は編み込みをしたようなデザインとなっています。8つのアーチで支えられた礼拝堂の上に、直径15.9mの大きなドームがあります。このモスクの外装と内装のデザインは、現代の建築家からも高い評価を得ています。

セントジョージ教会(St. George Church)

旧市街の北東に位置している内城の中にあり、高い丘の上に建てられています。2~3世紀頃に建設されたと考えられ、ローマ時代には神殿として使われていました。そして、アルトゥク朝時代には宮殿の浴場として使用されていました。現在は改修され、アートギャラリーとなっています。

考古学博物館(Archaeological Museum)

内城にあるかつての神学校が改装され、現在は考古学博物館となっています。この地で見つかった新石器時代の土器からオスマン帝国時代の武器まで、様々な時代の出土品が展示されています。

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へヴセル庭園

ディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園

ヘヴセル庭園とは、ディヤルバクル城塞とティグリス川の間にある700ヘクタールの土地のことです。東京ドーム約150個分の広大な土地は、古くから城塞の水源や、食料を供給する農作地として重要な役割を持っていました。庭園と名付けられていますが、宮殿にあるような庭ではなく、農作物が栽培されている広大な畑のイメージとなります。

今から約7,000年前にはこの土地が存在していたと考えられています。紀元前9世紀にはヘヴセル庭園が文書に登場し、人々はこの肥沃な土地の丘の上に街を築きました。中世には、メロン、ブドウやスイカなどの果樹園、キャベツ、ナス、パセリなどの野菜が作られ、ポプラが木材の原材料として栽培されていました。

農作物や植物だけではなく、ヨーロッパやアジアの間を移動する鳥たちの楽園にもなっています。180種以上の鳥が生息をしており、多くの鳥たちがこの場所で羽を休めています。また、51種の魚が生息をしています。ヘヴセル庭園は、しばしばエデンの園と比較されるほど、緑豊かで生命力が溢れる土地です。

現在もこの場所で農作物の栽培がおこなわれていますが、近年はチグリス川の水量が、ダム建設などにより減少しています。そのため度々発生していた川の氾濫が減少し、肥沃な土壌が形成されにくくなっています。また、違法建築や不法投棄などが行われ、環境破壊が起こり生態系の変化が起こっています。ヘヴセル庭園を未来に残すための努力が、現在求められています。

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