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「ヒッタイト帝国と首都ハットゥシャ」王国滅亡の理由と遺跡の見どころ

更新日:2023.04.05

投稿日:2022.06.17

Views: 4310

ヒッタイト帝国 ハットゥシャ

世界史の古代オリエントの授業で、必ず習うのが鉄器と軽戦車で有名な「ヒッタイト帝国」です。古代エジプトと力を二分したヒッタイト帝国無くしてオリエント史は成り立たないでしょう。しかし、世界史の授業で習ったこと以外の情報は、あまりご存じない方が多いのではないでしょうか?

この記事では、そんな謎に包まれたヒッタイト帝国と、その首都ハットゥシャに関して、歴史と滅亡の理由、観光する際の見どころを解説します!

ヒッタイト帝国とは

ハットゥシャ トルコ アナトリア

ヒッタイト帝国は、紀元前16世紀~11世紀に現トルコの中央部に君臨し、古代エジプトと勢力を二分する大帝国でした。世界史の古代オリエント史の授業では、製鉄技術を独占した国として、必ず出てくるでしょう。

なお、ヒッタイト帝国は、紀元前1286年に行われたカデシュの戦いで古代エジプトに勝利し、世界最古の講和条約を結んだ国としても有名です。このように、西アジアで最大の勢力を誇っていたヒッタイト帝国ですが、紀元前1190年に「海の民」などの異民族の侵攻によって滅亡してしまいました。

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ヒッタイト帝国の首都「ハットゥシャ」はユネスコ世界文化遺産にも登録

かつてのヒッタイト帝国の都ハットゥシャは、現在のトルコ共和国の首都アンカラから東へ約200km、現チョルム県ボアズカレ郡にあったとされています。

1986年にこのハットゥシャは「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都(Hattusha: the Hittite Capital)」という名目でユネスコ文化遺産に登録されました。現在は歴史好きにはたまらない観光地として、世界中から観光客が訪れるスポットになっています。

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ハットゥシャ遺跡の発見

ハットゥシャの古代遺跡は、1834年にフランス人考古学者チャールズ・テキシエが発見し、日の目を見ることとなりました。その後、調査をしながら1906年より発掘を行ったドイツ人考古学者フーゴー・ウィンクラーが書庫を発見します。

そこから出て来た大量の粘土板によって、ここがヒッタイトの首都ハットゥシャであることが突き止められました。

ハットゥシャ遺跡の見どころ

ヒッタイト メソポタミア アナトリア

現在、広大なハットゥシャの遺跡はほとんど基礎部分しか残っていませんが、しっかりとハットゥシャ帝国が存在していた頃の建物の位置がわかる見どころが沢山あります。

ここでは、そんなハットゥシャ遺跡の見どころを当時の構成に沿ってご紹介します。ヒッタイト人が暮らしていた頃のハットゥシャは、以下のような構成になっていました。

  • 上の都市
  • 倉庫などがある「下の市」
  • 大城塞宮殿(ビュックカレ)
  • ヤズルカヤ

何も知らずに通り過ぎたらもったいないポイントが盛りだくさんなので、ハットゥシャ遺跡を訪れる前に確認しておくのがおすすめです。

南側「上の都市」

約1㎢の広さがあり、聖なる地や神殿があるのが上の都市です。ここでは上の都市にある見どころをご紹介します。

大神殿

ヒッタイト トルコ ハットゥシャ

上の都市には、紀元前14世紀に造られた135m×160mの大きさの神殿があります。大神殿は保存状態も良好で、現在残っている基礎部分だけでも、当時の壮大な姿を想像できるヒッタイト期を代表する建築物です。

大神殿の周辺には、大きな壺がいくつも置かれています。この壺には穀物やビール、ワインなどが貯蔵されていたと考えられており、ヒッタイト人は好んでビールを飲んでいたことがわかっています。

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願いの石(グリーンストーン)

大神殿の敷地内には、「願いの石」と呼ばれるキューブ型の巨石があります。古代遺跡の中に1つだけ緑色をした石があるので、とても異質で神秘的です。願いの石はカデシュの戦いの後に、エジプトのラムセス2世から贈呈されたと考えられており、宗教儀式で使われていたとの見解もあります。現地ではパワーストーンとして人気があり、そうした背景から「願いの石」とも呼ばれるようになりました。

スフィンクス門

スフィンクス門

スフィンクス門は、上の都市の中で一番高い所にある門です。スフィンクス門のオリジナルはボアズキョイ博物館に所蔵されており、ハットゥシャ遺跡では現在レプリカしか見ることができません。ここには71mの長さの地下通路が通っており、当時この通路は宗教儀式や文化儀式を行う際や、侵略された際に外部に逃げるための連絡路としても使われていたと言われています。

ライオン門

ヒッタイト ハットゥシャ ライオン門

上の都市にある西門です。この門の獅子たちは、ハットゥシャの象徴とも言われています。左側の獅子は復元された物ですが、右側の獅子はオリジナルです。

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王の門

ヒッタイト ハットゥシャ

上の都市にある東門で、刀と斧を持った王または神のレリーフが施されています。現在見ることのできるレリーフはレプリカで、オリジナルはアンカラのアナトリア文明博物館に所蔵されています。

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ニシャンテペ碑

上の都市の中央、ビュックカレの前にあるヒッタイトに関して、最も長くルヴィ語で書かれた石碑文です。

中間「大城塞宮殿(ビュックカレ)」

ヒッタイト ハットゥシャ トルコ

ビュックカレは、ヒッタイトの大王たちの居城でした。ビュックカレ内にある書庫の地下室からは、ブッラ(印影付封泥)が3,268点、楔形文字タブレットが28点見つかっています。ブッラの3分の2は、大王の印章が付いており、大王の印章の他に王妃の印章も発掘されました。大王の印章には、シュッピルリウマ1世から、その孫である帝国最後の王シュッピルリウマ2世のものまで残っています。

北側「下の都市」

ハットゥシャ遺跡の北側に存在する下の都市には、以下の建造物が残っています。

  • 大神殿:嵐の神テシュプと太陽女神アリンナに捧げられた大神殿
  • 象形文字の部屋:シュッピルリウマ2世の業績が書かれている部屋
  • 穀物庫

聖域「ヤズルカヤ」

ハットゥシャの北東約2kmのところにあるのが、“書かれた岩”を意味するヒッタイト人の聖域「ヤズルカヤ」です。ここは自然の岩でできた野外神殿で、大王たちの葬儀の際に使われていたとも言われています。

ヤズルカヤは大ギャラリーと小ギャラリーの2部屋構成です。大ギャラリーには63体の神々や王トゥトゥハリヤ4世が彫られており、小ギャラリーにはシャルンマ神と王トゥトゥハリヤ4世、12神と地下の刀神ネルガルなど、多くのレリーフが状態良く残っています。

ハットゥシャ遺跡に行くならここもお見逃しなく!

ハットゥシャを訪れる際は、ヒッタイトと由縁のあるボアズキョイ博物館やアラジャホユック遺跡も訪れてみてください。どちらもハットゥシャ遺跡から徒歩圏内にあり、ハットゥシャで発掘された遺跡の現物を見ることも可能です。ここでは、そんなボアズキョイ博物館とアラジャホユック遺跡について解説します。

ボアズキョイ博物館

ハットゥシャ ボアズキョイ博物館 スフィンクス

ボアズキョイ博物館には、スフィンクス門のオリジナルなど、ハットゥシャから発掘されたヒッタイトに関する大変貴重な遺物がたくさん展示されています。

名称 ボアズキョイ博物館(Boğazköy Müzesi)
住所 Çarşı, hitit cad.no:16, 19310 Boğazkale/Çorum
開館時間 夏季(4月~10月)は08:00~19:00
冬季(11月~3月)は08:00~17:00
休館日 無し (砂糖祭りと犠牲祭の初日は13:00より開館)
入場料 12.5TL
公式サイト https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=BOG01&DistId=MRK

アラジャホユック遺跡

ハットゥシャの北約20㎞の距離にあるのが、ヒッタイト時代に重要な宗教施設で美術の中心地であった女神アリンナの都「アラジャホユック」です。入口のスフィンクス門が印象的で、ヒッタイト時代前の紀元前2500年頃のハッティの王たちのお墓も残っており、一見の価値がある遺跡です。

名称 アラジャホユック遺跡(Alacahöyük Örenyeri)
住所 Alacahöyük/Alaca /Çorum
開館時間 夏季(4月~10月)は08:00~19:00
冬季(11月~3月)は08:00~17:00
休館日 無し(砂糖祭りと犠牲祭の初日は13:00より開館)
入場料 12.5TL

ハットゥシャ遺跡の場所・観光の所要時間は?

ヒッタイト ハットゥシャ トルコ

ハットゥシャ観光のベストシーズンは春(4月~6月頃)と秋(9月後半~11月頃)です。ハットゥシャは内陸にあるため、冬季は積雪で行けないことがあります。また、夏季は日影がほとんどなく大変暑いので、観光には春秋が適しています。

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遺跡は足元が悪く歩くことも多いため、歩きやすい運動靴を履きましょう。また、夏場は日陰がありませんので、日よけの帽子とミネラルウオーターご用意してください。

ハットゥシャ遺跡への行き方

ハットゥシャ遺跡の最寄空港はアンカラですが、日本からの直行便はありません。そのため、日本からイスタンブール空港まで行き、イスタンブールからアンカラまで移動するのがおすすめです。

イスタンブールからアンカラまでは、以下の移動手段があります。

アンカラからハットゥシャまでは約200kmあり、かなりローカルな交通手段を使わなければなりません。ハットゥシャは不便なところにあり個人で訪れるのは難しいため、ツアーを利用するのがおすすめです。

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観光の所要時間

ハットゥシャ遺跡は広大なため、全てをじっくり観光するには、1時間半~2時間程はかかります。また、ハットゥシャ観光には徒歩圏のヤズルカヤも絶対に外せません!ハットゥシャとヤズルカヤ両方を観光するには、3~4時間程必要となります。

ヒッタイト人の基本情報

ヒッタイト ハットゥシャ トルコ

ここでは、ヒッタイト帝国に住んでいたとされるヒッタイト人の呼称の由来や言葉・文字を解説します。

「ヒッタイト」の呼称は聖書のヘトから

ヒッタイト人と呼ばれるようになったのは、ハットゥシャが発見された19世紀になってからです。イギリス人アッシリア学者のアーチボルト・セイスが、ボアズカレなどで発掘された碑文の文字から、この古代帝国の民族が旧約聖書に出てくる「ヘテ人」であるとし、英語で「Hitti」=「ヒッタイト人」と名付けました。

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ヒッタイトの人種と言葉・文字

ヒッタイト人は、インド・ヨーロッパ語族の最古であるアナトリア語派のヒッタイト語とルヴィ語を話し、アッシリアから伝わった楔形文字やアナトリア象形文字を使っていました。

ヒッタイト人は自分たちの言語をヒッタイト語とは言わず、ネシャ語と呼んでおり、ヒッタイト人の出自をネシャ/カニシュ(現カイセリ北部20㎞の距離にあるキュルテペ)としていたとされています。

ヒッタイトの政治・文化

ヒッタイトは、当時の他諸国に比べて文化が非常に発展していました。公平と正義を強調する成文化された法律「ヒッタイト法典」があり、「パンク」という元老院・議会で行政が行われた世界初の立憲君主制の国でした。

当時の国々は専制君主制を敷くのが一般的であったため、ヒッタイトは珍しい政治体制であったことが窺えます。なお、女性も男性と同等の権利があったとされているのも驚きです。

ヒッタイトを解き明かす『ボアズキョイ文書』

ヒッタイト ハットゥシャ トルコ

首都ハットゥシャの遺跡からは、ヒッタイト文書とも言われる粘土版タブレットがこれまでに3万点以上見つかっています。13ヶ所の建物跡から粘土板が発見されていますが、中でも宮殿のビュックカレ(大城塞)には書庫や書棚と思われる部屋が5つあり、ここから大量の粘土板が発見されたのです。

粘土板に書かれた内容は書簡、医学、歴史、行政、法律、契約、呪文、儀式、祭日、神話、祈祷などに関するもので、ヒッタイト語、ルヴィ語、パラ語、シュメール語、フルリ語、ハッティ語に加え、当時の国際公用語であったアッカド語が楔形文字や象形文字で書かれており、これによってヒッタイトの当時の様子が明らかにされてきました。

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ハッティ人とヒッタイト人の違い

ハッティ人とヒッタイト人を混同する方が多くいますが、同じではありません。ハッティ人はヒッタイト人がアナトリアに入る前からアナトリアにいた原住民で、インド・ヨーロッパ語族ではなく、アジア語派の民族と言われています。

一方、ヒッタイト人は紀元前2千年頃に、コーカサスからアナトリアに入ったと考えられているインド・ヨーロッパ語族の民族です。ヒッタイト人がハッティ人の地「ハットゥシャ」を征服してから、ハッティ人は段々とヒッタイトに同化していきますが、ハッティ人の宗教や文化の多くがヒッタイトに組み込まれて受け継がれました。

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ヒッタイトの歴史を解説!

ヒッタイト

後に帝国となるヒッタイトですが、早期の紀元前2000年~紀元前1680年頃はアナトリア東南部の小さな君侯国でした。その後、紀元前1660年頃に中央集権国家となってから滅亡する紀元前1190年までに古王国時代、中王国時代、新帝国時代と3つの時代が過ぎます。ここではヒッタイトの地で居住が始まった頃から、ヒッタイト帝国の滅亡までの歴史を余すことなく解説します。

ヒッタイトでの居住の始まり

ハットゥシャはアナトリアの壮大な大地が見渡せる丘の上に存在し、紀元前3000年頃から当時の原住民による居住が始まったとされています。紀元前2500年頃からは、ヒッタイトはアナトリア原住民であるハッティ人が住む「ハッティの地」となりました。

紀元前19~18世紀には「下の市」といわれる丘の下方に、アッシリア商人居留地時代の居住が発見されています。この頃に書かれた楔形文字文献の中で、初めてこの都市「ハットゥシャ」の名が出てきました。その後、紀元前17世紀~紀元前13世紀の約400年に渡り、ハットゥシャはヒッタイト人の首都となります。

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ヒッタイト人はどこからきたの?

ヒッタイト カラテペ トルコ

紀元前2000年頃にアナトリアに流入したヒッタイト人は、アナトリアの南から南東にかけて集落を形成していました。しかし、ヒッタイト人がどこから来たのかはまだ解明されていません。説としては2つあり、1つは黒海北部からコーカサスを越えてアナトリアに流入した説。もう1つはアナトリアに元々いた原住民であったという説です。

ヒッタイト王国の始まりとアニッタ王

ヒッタイト王国の始まりとして、かかせないのが中央アナトリア南部にあったクッシャラ国の王アニッタです。紀元前17世紀、アニッタ王は「ネシャ/カニシュ(現キュルテペ)」を征服し、クッシャラとネシャを本拠地とします。ネシャ/カニシュは、紀元前2000年頃からアナトリアで貿易をしていたアッシリア商人の中心地であり、居留地でもあった都市です。

その後、アニッタ王は、本拠地ネシャと同等の大きさであり、先住民ハッティ人の国があった「ハットゥシャシュ」を一夜の内に征服し、今後この地を誰にも占領させないよう、焼き払って呪いをかけてしまいます。

アニッタは中央アナトリアの小国を征服しながら中央集権のシステムを作り、ヒッタイト帝国の基礎を築きました。そして諸小国の王と区別するために、「諸王の王=大王」と名乗るのです。後のヒッタイト王達もこの称号を使いました。

上記のヒッタイトの創設に関しては、ハットゥシャ遺跡から出土した最古のヒッタイト語文書「アニッタ文書」に書かれており、アニッタの実在を裏付けることとなる青銅製の「アニッタの槍先」がネシャ/カニシュで見つかっています。

なお、ヒッタイトの歴代の王たちは、アニッタとその父王ピトハナをヒッタイト最初の王として崇め、自分たちの出自がネシャであることを述べたそうです。

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古ヒッタイト王国〜中期ヒッタイト王国時代(紀元前1680年頃~紀元前1400年頃)

ヒッタイト ハットゥシャ トルコ

紀元前1680年以降、ラバルナ1世がクッシャラを首都として古ヒッタイト王国を建国します。ヒッタイト王国建国後、この初代王ラバルナの名が、代々ヒッタイト王の称号として使われるようになりました。

その後の紀元前1650年代、ハットゥシリ1世(ラバルナ1世?)が首都をネシャからハットゥシャへ移します。そこから急速に力を付けたヒッタイトは、短期間の内に北メソポタミアのアララハ(現アンタクヤ東部)、南西トルコにあったアパサ(現エフェソス)を首都としたアルザワ国を征服しました。なお、この頃北シリアから連れてこられた書記官によって、ヒッタイトの記録が残されるようになります。

その後、ハットゥシリ1世の後を継いだムルシリ1世は、紀元前1595年頃に古バビロニア王国のハンムラビ王朝を滅亡させました。中期ヒッタイト王国時代に入ってからは、6人の王の治世が在りますが、記録が残っておらず、真相は謎に包まれたままとなっています。

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新ヒッタイト王国ーヒッタイト帝国時代(紀元前1400年頃~紀元前1178年頃)

ヒッタイト ハットゥシャ トルコ

紀元前14世紀にヒッタイトは力を復活させて最盛期となり、大帝国を築きます。紀元前1350年頃、シュッピルリウマ1世は北シリアとミタンニ王国を征服して領地を拡大しました。ヒッタイトは西アジアで最大の国となり、王国から帝国へと変貌するのでした。

シュッピルリウマ1世の治世中、あの有名な古代エジプトの少年王ツタンカーメンが亡くなります。王妃アンケセナーメンは、ツタンカーメンを暗殺したとされる宰相アイとの結婚を拒み、秘密裏にシュッピルリウマ1世に「皇子の一人を婿に迎えてエジプトの王にしたい」と手紙を送ったそうです。シュッピルリウマ1世は、息子の一人ザナンザを送りますが、エジプトに行く途中に暗殺されてしまい、この結婚は実現しませんでした。

紀元前1286年、当時の大国ラムセス2世率いるエジプトと、ムワタリ2世率いるヒッタイトの間で、オリエントの覇権をかけて衝突します。これは、シリア・パレスチナ地方中間地点にあるアムル国の地をめぐり、シリア北部のオロンテス河畔カデシュにて行われた戦いでした。いわゆる有名な「カデシュの戦い」です。

カデシュの戦いは激戦の末ヒッタイトが勝利し、史上最古の成文化された講和条約「カデシュ条約」が締結されました。この条約の粘土板は首都ハットゥシャで発見され、現在イスタンブール考古学博物館内の古代東方美術館に展示されています。

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ヒッタイト滅亡とその原因

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巨大化したヒッタイト帝国では、人口増加による食糧不足や貿易停滞などによる経済の低下、政治の崩壊に悩まされていきます。加えて、バルカン半島から「北の民族」や、エーゲ海地方から「海の民」と呼ばれる異民族が流入し、最終的に紀元前1190年に最期の王シュッピルリウマ2世を以て、ヒッタイト帝国は歴史から消え去りました。

ヒッタイト帝国滅亡によりヒッタイト人が四方に散らばり、製鉄技術が拡散され、青銅器時代が終焉して鉄器時代へと変わっていったとされています。

ヒッタイトを滅亡させた異民族の大移動とは

紀元前1200年~紀元前1050年間、東地中海世界の中で多種多様な民族による大規模な移動が起こります。この流れは、アナトリアのヒッタイトだけでなく、トロイやギリシャのミケーネなども滅亡させ、キプロス島やエジプトにまで及んだ大きな脅威となりました。この異民族の大移動が起こってからは、数百年間、東地中海世界は暗黒時代に入ってしまいます。

この民族移動には陸路で移動した民族と、海路で移動した民族の二通りがありました。アナトリアに陸路で移動したのは、南東ヨーロッパやバルカン半島に住んでいた民族と言われています。もう一方は、「海の民」として海路で侵攻した民族です。

海の民は地中海ギリシャのアカイア人、エトルリア人、アナトリア南部のリュキア人、イタリア半島のサルデーニャ人、シチリア人だと言われています。これらの民族は、より良い土地を求めて東地中海世界に進出し、数々の王国を滅亡させたのでした。

ちなみに、この大規模な民族流入で北西アナトリアへ移民し、大きな力を持ったのが、「王様の耳はロバの耳」で有名なミダス王が統治したフリギア王国のフリギア人です。

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ヒッタイト滅亡後のハットゥシャ

紀元前1190年にヒッタイト帝国滅亡後、ハットゥシャは4世紀ほど放棄されていましたが、紀元前8世紀中ごろになると、フリギア人が住み着きました。その後、紀元前3世紀~西暦3世紀のヘレニズム・ローマ帝国時代には、城壁に囲まれた小さな君侯国の中心地となり、ビザンツ帝国時代には村のような状態になります。その後のハットゥシャは荒廃し、19世紀に発見されるまで忘れ去られてしまうのです。

帝国を造った偉大なヒッタイト王たち

アナトリアの小さな侯国が王国となり、それをオリエントの覇権をもった帝国と成しえた王達はどんな人だったのでしょう。ここでは、3,000年以上たった今でも名が残るヒッタイトの偉大な王をご紹介します。

ハットゥシリ1世(紀元前1650~1620年の治世)

ハットゥシリ1世は、ハットゥシャをヒッタイトの首都とした古王国時代初期の王です。周辺諸国に遠征し、ヒッタイトを強国にしました。遷都した地ハットゥシャにちなみ、自らの名をハットゥシリと改名します。

シリア遠征の際に、アッカド語を知る書記官をハットゥシャに連れ込んだことで、年代記などにヒッタイトの記録が残るようになりました。

シュッピルリウマ1世(紀元前1344~1322年の治世)

シュッピルリウマ1世は、約22年間の治世、ヒッタイトを王国から帝国へと導き、新ヒッタイト帝国を建てた偉大な王です。ヒッタイトの最盛期を築き、オリエント史に足跡を残したことからも、ヒッタイトを語る上では欠かせません。

また、政治的・軍事的才能を持ったシュッピルリウマ1世は、王国時代の壊れかけていた内政を立て直し、アナトリアでの領地を拡大しました。さらに、北ミソポタミアのミタンニ王国の首都や、ウガリット(現シリアのラス・シャムラ)も属国にすることに成功し、エジプトと国境を合わせるまでに至っています。

ちなみに、シュッピルリウマ1世の後継者のムルシリ1世は、バビロン第1王朝であるハンムラビ王朝を滅亡させたことで高名です。

ムワタリ2世(紀元前1295~1272年の治世)

ムワタリ2世は、新ヒッタイト帝国時代のムルシリ2世の息子で、ラムセス2世率いるエジプト軍と争った「カデシュの戦い」に勝利し、世界最古の講和条約を結んだ大王です。

また、紀元前1280年には西アナトリアのウィルサ国のアラクサンドゥと同盟を結んでいますが、このウィルサがイリオス、アラクサンドゥがアレクサンドロスのヒッタイト語だと言われています。

つまり、ホメロスの有名な叙事詩『イーリアス』の舞台であるイリオス(トロイア)国のパリス(アレクサンドロスはパリスの前の名)と同盟を結んだのではないかとの見解があるのです。

オリエントを制したヒッタイトの強さは?!

チャリオット 軽戦車

当時の超大国エジプトにも劣らない強国となったヒッタイトの強さは、何だったのでしょうか。ヒッタイトをオリエントの強大帝国と成し得た強さの原因は二つあったとされています。ここでは、ヒッタイトが西アジアで最大の国となった要因を解説します。

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製鉄技術を独占!

ヒッタイトが製鉄技術を産みだしたと言われていますが、近年この見解は見直されています。「ヒッタイト=鉄」と思われ、ヒッタイトの時代は鉄器時代だったと思われがちですが、当時は未だ青銅器時代でした。

ヒッタイトは既に発明されていた製鉄技術を独占していたことで、周辺諸国の青銅製武器に対して、鉄の武器を調達できたのが強さの要因です。なお、ヒッタイト帝国が滅亡すると共に製鉄技術が広がり、青銅器時代が終焉して鉄器時代となりました。

鉄の発明はヒッタイトではなかった!?

カマン・カレホユック トルコ

以前はヒッタイトが製鉄の技術を発明したと言われていました。しかし、ヒッタイトより1,000年以上前の時代にできた鉄器や、世界最古の鉄の塊が近年ハットゥシャの南西約120kmにあるカマン・カレホユック遺跡から発見されています。この世紀の大発見により製鉄はヒッタイト以前から行われていたことが判明し、ヒッタイト起源の通説が覆されてきているのです。

このカマン・カレホユック遺跡は、中近東文化センターの付属機関であるアナトリア考古学研究所の日本人考古学者・大村幸弘所長率いる発掘隊が発掘を手掛けています。未だ発掘調査中のカマン遺跡は、東西南北の交通の要でもあった古代遺跡ですので、これからの発見が大いに期待されています。

名称 カマン・カレホユック考古学博物館(Kaman Kalehöyük Arkeoloji Müzesi)
住所 Fatih Mah. Fatih. Cad. No: 69-83-10 Çağırkan/Kaman/Kırşehir
開館時間 08:00~17:00 (最終入場時間は16:45まで)
休館日 無し(砂糖祭りと犠牲祭の初日は13:00より開館)
入場料 12.5TL
公式サイト https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=KKK01&DistId=MRK

カマン・カレホユック遺跡とは?製鉄の歴史が塗り替えられた場所

軽戦車「チャリオット」

ヒッタイトの軽戦車は軽くて小回りが利くだけでなく、調教された馬により高い戦闘能力を持っていました。ヒッタイト前期のチャリオットは二人用で、一人は手綱を引いて盾で守り、もう一人は弓矢で戦っていたことがわかっています。

一方、カデシュの戦いでも使用された後期のチャリオットは3人乗りとなり、手綱を引く者、盾で守る者、弓矢を引く者と役割が分かれていたようです。なお、馬の調教に関しては、ミタンニのフルリ人から技術を取得したと言われています。

ヒッタイトが舞台の漫画『天は赤い河のほとり』

クズルウルマク川 ヒッタイト

日本でヒッタイトが幅広く知られたきっかけと言っても過言ではないのが、篠原千絵さん原作の『天は赤い河のほとり』です。以下であらすじを簡単に解説します。

物語の主人公は、現代に生きる普通の女子高生・夕梨(ユーリ)です。夕梨はある日突然、ヒッタイト皇妃の魔力で生贄となるために、紀元前14世紀のヒッタイト帝国の首都ハットゥシャへ連れ去られてしまいます。

王妃の魔術から逃れながら、ヒッタイトの皇子カイル(ムルシリ2世)と愛を育み、女神イシュタルおよび皇妃タワナアンナとして、自身のいた時代には戻らずヒッタイトの地で生きていくというとっても壮大なストーリーです。

ヒッタイトの史実を基に、ヒッタイトやエジプト、ミタンニとの関係なども描かれており、古代オリエントの世界に触れられるとても興味深い漫画です。ぜひ一度読んでみてください。

ヒッタイトの首都ハットゥシャへはツアー利用がおすすめ!

ターキッシュエアラインズ

ハットゥシャ遺跡はユネスコ世界文化遺産にも登録されているだけでなく、世界史を勉強した方であれば誰しも知っている古代遺跡です。トルコを訪れた際にはぜひ訪れていただきたい観光スポットではあるものの、主要な都市から離れているだけでなく、かなりローカルな移動手段を使用しなければいけません。

そのため、アンカラやカッパドキアなど、周辺の観光地スポットも一緒に観光したい場合には、観光ツアーを利用するのがおすすめです。旅行会社のツアーならいくつかの観光スポットを効率的に回れるだけでなく、移動手段も旅行会社が手配してくれます。ぜひツアー利用でハットゥシャを訪れて、3,000年以上前の古代の息吹を感じてみてください。

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