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メソポタミアの文明の特徴と歴史をわかりやすく解説!

更新日:2023.03.31

投稿日:2022.02.14

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イサックパシャ

メソポタミアは「文明のゆりかご」とも言われる世界最古の文明、メソポタミア文明を育んだ地です。チグリス川、ユーフラテス川のふたつの大河の狭間で栄え、世界最古の文字や法典など、さまざまな文化を生み出しました。また、開放的な地形ゆえ、さまざまな民族が侵入し、多くの国々が興亡を繰り返した歴史的背景も持っています。

メソポタミアに多くの恵みをもたらしたチグリス川、ユーフラテス川は、ともに東トルコの山岳地帯を源流としています。また、この地の文明の礎となったのはトルコ南東のギョベクリ・テぺ遺跡ともいわれており、メソポタミア文明は、実はトルコと深い関わりを持っています。

今回は、そんなメソポタミア文明の歴史や文化、ぜひ訪れたい遺跡についてご紹介します。メソポタミアへの知識が深まれば、トルコ観光もより魅力的なものになるでしょう。

メソポタミアとは?簡単に解説

メソポタミア トルコ マルディン

メソポタミア文明についてくわしく解説する前に、まずはメソポタミアという地がどんな場所なのか、文明が興った背景とともにおさらいしておきましょう。

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メソポタミアの意味

「メソポタミア」とは、古代ギリシア語で「ふたつの川の間の土地」を意味する言葉です。この「ふたつの川」とは、チグリス川、ユーフラテス川を指します。

チグリス川は、東トルコのタウルス山脈の山岳地帯エラズー県マデン郡ユルドゥズハン村に源流を持ち、トルコ内525㎞を通った後、一部シリア、その後イラクを通りペルシャ湾に注がれる全長1,900㎞の大河です。一方、ユーフラテス川は、東トルコのアール県ディヤディンが源流のムラト川と、同じく東トルコのエルズルム県ドゥムルダーが源流のカラス川のふたつの支流が、エラズー県内で合流して形成される川です。全長2800㎞の西アジア最長の大河で、トルコ内1263㎞を流れた後、シリアとイラクを通りペルシャ湾へ注がれます。

チグリス川・ユーフラテス川とは?メソポタミア文明が興った理由

メソポタミアってどこ?現在と照らし合わせての位置

メソポタミアはその名の通り、チグリス川、ユーフラテス川に挟まれた沖積平野のことを指します。長い歴史を持つメソポタミアですが、「メソポタミア」というひとつの古代国家があったわけではなく、あくまで地域の名称です。

現在の地図と照らし合わせると、イラク、シリア北東、トルコ南東の地域一帯にあたります。

メソポタミアといえば、メソポタミア文明

メソポタミアは、エジプト、黄河、インダスと並ぶ世界四大文明の一つで最古の文明である、メソポタミア文明発祥の地として知られています。

文明が興った背景には、メソポタミアが、地理的に恵まれた土地であったことが挙げられます。チグリス川、ユーフラテス川の氾濫や潮の干満、雪解け水による洪水によって、メソポタミアは農業に適した肥沃な大地となりました。さらに温暖な地中海性気候も手伝い、植物、動物、人間が生活しやすい環境が整っていました。

メソポタミアにシリアから東地中海沿岸、エジプトのナイル川北部を加えた半円形の地域は、肥沃な三日月地帯と呼ばれ、その中核を担ったメソポタミアでは早くから灌漑農業も始められていました。このほかにもメソポタミア文明では、世界最古の楔形文字や法典が発明され、暦、天文学、占星術の発展も目覚ましいものでした。

メソポタミア文明の歴史

メソポタミア文明の歴史を、時系列に沿って紐解いていきましょう。

紀元前3300年頃 先史の文化を経て、シュメール文明が興る
紀元前2300年頃 セム語系民族アッカド人が侵入。サルゴン1世がメソポタミア初統一。
のちに(紀元前1900年頃)古代バビロニア王国が建国される。
紀元前2000年頃~紀元前1200年頃 インド=ヨーロッパ語系民族が侵入。建国、滅亡を繰り返す。
紀元前7世紀中頃 アッシリア帝国によるオリエント世界統一。
紀元前612年 アッシリア帝国が滅亡。
紀元前625年 新バビロニア王国が成立。
紀元前539年 アケメネス朝ペルシャが新バビロニア王国を滅ぼす(メソポタミアを支配)。
紀元前330年 アレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼす。
116~118年 トラヤヌス率いるローマ帝国軍が占領する。
230年 ササン朝ペルシャの領土となる。
634年 アラブ軍の支配下に入り、北はモースルを、南はバグダッドを首都とした二つの州に分かれ、その後バクダッドはイスラム国家の首都となる。その後アッバース朝が支配。
1258年 モンゴル帝国の地方政権イルハン朝の領土となる。
1534年 オスマン帝国のスレイマン大帝が征服。
1920年 第一次世界大戦後にイギリス委任統治領となる。
1932年 イラクが独立したと共に、メソポタミアのほとんどがイラクの領土となる。

先史の文化を経て、シュメール文明が最初に興った

ギョベクリ・テペ メソポタミア

メソポタミアの歴史は古く、北メソポタミアでは紀元前1万年頃から、南メソポタミアでは紀元前5500年頃から人々が定着し、集落が生まれました。トルコ南東の世界遺産ギョベクリ・テぺ遺跡は、新石器時代の紀元前1万1400年に作られ、紀元前8000年頃に放棄された世界最古の宗教遺跡といわれています。

紀元前6000年~紀元前5400年頃には北メソポタミアのハラフ文化が、紀元前5900年~4300年頃にはウバイド文化が興り、後期ウバイド期には神殿の建設や車輪の発明も行われました。

その後、紀元前3000年頃、メソポタミア文明の始まりとなるシュメール文明が花開きます。シュメール文明では文字、言語、医学、天文学、数学、宗教、占術、呪い、魔術、神話などの分野が初めて生み出され、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家が築かれました。それぞれの都市の中心には、ジッグラトと呼ばれる聖塔が置かれていました。

シュメール文明を築いたのはシュメール人ですが、実は謎が多く、出自のわかっていない世界最古の民族のひとつといわれています。

セム語系民族アッカド人が侵入~サルゴン1世がメソポタミア初統一~古代バビロニア王国建国へ

ハンムラビ法典 メソポタミア

シュメールの後にメソポタミアの主権を握ったのは、紀元前2500年頃からメソポタミアに移住してきたセム語系民族アッカド人です。紀元前2300年頃、サルゴン1世が王となりシュメールを征服し、南メソポタミアにアッカド王国を建国。のちに領土を広げ、メソポタミアを初統一しました。

その後、周辺民族の反乱に遭いアッカド王国が滅びると、シュメールが再興されメソポタミアはウル第3王朝の時代となります。しかし、ほどなくしてアムル人やエラム人の侵攻を受けることとなり、ウル第3王朝は、紀元前2004年頃にはエラム人によって滅ぼされてしまいます。

これにより、メソポタミアは諸王朝による抗争の時代となりますが、紀元前1900年頃に建国された古代バビロニア王国の第6代目王、ハンムラビの時代には、再び全メソポタミアが統一されます。ハンムラビ王は「目には目を、歯には歯を」の原則が有名な、ハンムラビ法典を定めたことでも知られています。

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インド=ヨーロッパ語系民族が侵入

ヒッタイト メソポタミア

紀元前2000年頃は、カスピ海周辺の地域から移動してきた多くのインド=ヨーロッパ語系民族が、西アジアへと押し寄せた時期でした。そんななか、古代バビロニア王国はインド=ヨーロッパ語系民族のヒッタイト人の侵入により滅亡します。

高度な鉄器文化を持ったヒッタイト人は西アジアに鉄器文化をもたらすとともに、彼らの興したヒッタイト王国は、エジプト新王国とも対抗し栄えました。しかし、紀元前1200年頃には東地中海一帯で活動していた系統不明の民族、海の民によって滅ぼされたとされています。

「ヒッタイト帝国と首都ハットゥシャ」王国滅亡の理由と遺跡の見どころ

その他、メソポタミアにはミタンニ人、カッシート人、アッシリア人らが侵入し、建国、滅亡を繰り返しました。

セム語系3民族の台頭

ヒッタイト王国滅亡の混乱の中、東地中海では内陸交易で活躍のアラム人、地中海の海上貿易で活躍したフェニキア人、イスラエル王国を作ったヘブライ人の、セム語系3民族が台頭しました。フェニキア人は、アルファベットを残した民族としても知られています。

フェニキア人とは?地中海交易を支配した一大勢力の歴史的重要性と功績

前述した西アジア、東地中海における民族移動やセム語系3民族の台頭によって、メソポタミア・エジプト・東地中海のそれぞれの文明は徐々に統一されていき、オリエント世界統一への足掛かりともなりました。

最初の世界帝国・アッシリア~新バビロニア

アッシリア メソポタミア

紀元前7世紀中頃、アッシリア帝国がオリエント世界を統一し、最初の世界帝国となります。アッシリア人は、紀元前3000年頃から北メソポタミアに住んでいたセム系の民族です。幾度となく国の衰退や他国からの侵略に見舞われながらも国家体制を維持し、紀元前9世紀ごろから領土を拡大。ペルシャ湾からエジプトまでの土地を獲得し、遂にオリエントの統一に至りました。

しかし、紀元前612年にアッシリア帝国は滅亡し、メソポタミアには紀元前625年、新バビロニアが勃興します。新バビロニアは、2代目の王であるネブカドネザル2世の時代が最盛期でした。ネブカドネザル2世は、イスラエルのユダ王国の首都エルサレムを占領し、反乱防止・職人確保・労働力確保の目的でユダヤ人をバビロンに強制連行捕囚した「バビロン捕囚」を行った人物としても有名です。

アケメネス朝ペルシャとその後

紀元前539年、アケメネス朝ペルシャがバビロンを無血開城させ、新バビロニアは滅亡します。同時に、メソポタミアはアケメネス朝ペルシャの支配下となりました。

アケメネス朝ペルシャの初代王であるキュロス2世は新バビロニアを含む数々の国を滅ぼして勢力を拡大。キュロス2世の息子であるカンビュセス2世は、エジプト第26王朝を支配下に入れ、オリエント統一を達成しました。

アケメネス朝ペルシャはその後も領土を拡大しますが、紀元前330年、アレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされます。これをきっかけに、メソポタミア文明とエジプト文明を合わせたオリエント文化は新たにギリシア文明と融合し、ヘレニズム文化を形成することになります。

アレクサンドロス大王をわかりやすく解説!東方遠征で拡大した領土と強さの秘密

その後のメソポタミアは、ローマ、ササン朝ペルシャ、アラブ、モンゴル、オスマン帝国による支配を経て、1920年、第一次世界大戦後にイギリス委任統治領メソポタミアが成立することとなります。

現在のメソポタミア


前述のとおり、メソポタミアは現在のイラク、シリア北東、トルコ南東の地域一帯にあたります。

イラクは、イギリス委任統治領メソポタミアから1932年にイラク王国として独立しました。2014年6月以降、イラク北部・西部を中心に多くの都市がISILなどの武装勢力に占拠されましたが、2017年12月には当時のアバーディー首相によってイラク全土におけるISILからの解放宣言が出されました。しかし、依然としてテロ分子の掃討作戦は継続されています。

シリアは1946年にフランスから独立し、その後エジプト・シリアによるアラブ連合共和国が成立したものの1961年に離脱しました。2011年、シリア危機が勃発し、シリア全土で死者や国内避難民が発生、難民が流出しました。2022年現在も、人道危機は継続しています。

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メソポタミア文明の文化

メソポタミアは長い歴史を持ち、さまざまな民族による建国と滅亡が繰り返されてきました。この過程でメソポタミア文明は、人類にとって重要な多くの文化を生み出してきました。

ここからはテーマ別に、メソポタミア文明の文化について紹介します。

メソポタミアの宗教

メソポタミア シェドゥ ラマッス

メソポタミアの宗教は、複数の神々を信仰する多神教でした。神様の数は2400にものぼると言われています。この多神教は、紀元前4000年頃にシュメール人が信仰していた神々と文化がもとになっており、アッカド、バビロニア、アッシリアと複数の時代を超えて約4200年に渡り信仰されました。

紀元前400年頃には信仰が消滅しましたが、メソポタミアの神々の要素は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などさまざまな他の宗教にも影響を与えています。

メソポタミアの神々にはそれぞれ守護都市があり、都市は神々の家と考えられていました。人々は各都市にジッグラトという聖塔を建て、守護神を祀っていたといわれています。

メソポタミアの建築

最古の神殿は、南メソポタミアで後期ウバイド期に作られたと言われています。世界文化遺産に登録されたトルコ東部マラティヤ県内のアルスランテペ遺跡からも、紀元前3600年~紀元前3500年頃の神殿が見つかっています。

また、シュメール文明の頃には、神々を祀る聖塔であるジッグラトが各都市に作られました。ジッグラトは、古いものでは高さのある一段構造の単純な形状でしたが、徐々に多層化し、2~7段ほどのものも作られていきました。最下層は食糧倉庫、中層は学校と神殿、上層は展望台などと、各層が異なる役割を持っていたといわれています。

ちなみに、旧約聖書に記載されている「バベルの塔」は、バビロンに作られた巨大なジッグラトがモチーフになったといわれています。

また、同じくメソポタミアの建築にまつわる逸話に世界七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」があります。こちらは新バビロニア2代目の王ネブカドネザル2世が妻のために作った宮殿だという説がありますが、現在も考古学的な発見には至っておらず、まさに不思議な庭園といえるでしょう。

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メソポタミアの言語・文字

メソポタミア 文字 言語

メソポタミアではさまざまな民族が興亡を繰り返したため、使用された言語も時代によって異なり、多岐に渡ります。

シュメール人によるシュメール語は、その後アッカド人によるアッカド語に置き換わっていったものの、1世紀ごろまでは口語的な文学や科学などで使われ続けました。一方のアッカド語は、アッカド王国以降、古代オリエントの国際共通語とされました。

その他、時代の変遷に合わせ、アラム語、アッシリア語、バビロニア語なども使われました。

また、世界最古の文字は、メソポタミアのウルク遺跡で発見されたウルク古拙文字と言われています。ウルク古拙文字は、楔形文字の最古の原型とされており、シュメール文明の頃に簡易化されて楔形文字となり、メソポタミア全土に広がりました。

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文字のあったシュメール文明では、世界最古の法典「ウル・ナンム法典」も生まれました。文字は世界最古の法治国家誕生にも欠かせない存在であったといえるでしょう。

暦・天文学・占星術など、文明の利器が生まれる

メソポタミア 天文学 暦

メソポタミアでは、シュメール文明のころに暦・天文学・占星術が発達し、月30日、年360日とする太陰暦、月の満ち欠けの変化から1週を7日とする七曜制を使用していました。

また、バビロニア人は紀元前2000年ころには、太陽の運行周期を考慮して太陰暦を調整した太陰太陽暦を使用していたといわれています。太陰太陽暦は新バビロニア王国のころ完成し、さまざまな地域に広がりました。現代ではほとんどの地域で太陽暦(グレゴリオ暦)が使われていますが、ユダヤ人社会ではバビロン捕囚のころにユダヤ人に受け継がれた太陰太陽暦をもとにした、ユダヤ暦が現在でも使われています。

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また、メソポタミア文明で生まれた有名なものに、60進法があります。シュメール文明の時代、楔形文字には1~59に対応する数字がありました。60進法は天文学において天体の運行を調べるために使われるようになったといわれており、現在でも時間や時刻、緯度・経度などの角度を表記する際に用いられています。

最古の文学作品であるギルガメシュ叙事詩が生まれたのもメソポタミアです。英雄ギルガメシュは、シュメールのウルク王朝時代に実在した王であるとされています。ギルガメシュ叙事詩に書かれている洪水伝説は、旧約聖書のノアの箱舟のモデルになったと考えられています。

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メソポタミア文明の遺跡が残る世界遺産5選

メソポタミア文明は、遡れば途方もない歴史を持っていますが、現在でもその歴史を肌で感じることのできるさまざまな遺跡があります。

ここからは、そんなメソポタミア文明の遺跡をご紹介します。

アッシュール

アッシュールは、メソポタミアのチグリス川中流域にある古代都市で、アッシリア帝国最初の都として知られています。もとはシュメール人によって建設されました。

ジッグラトや宮殿などが発見されていて、2003年に世界遺産に登録されました。しかし、下流のダム建設によって浸水の危機にさらされており、世界遺産登録と同時に、危機遺産にも登録されました。

名称 アッシュール(Ashur・Qal’at Sherqat)
ユネスコURL https://whc.unesco.org/en/list/1130

バビロン

古代バビロニア王国の中心地であるバビロンは、2019年に世界遺産に登録されました。遺跡群の広さは10平方キロと広大ですが、世界遺産登録時点でおよそ2割しか発掘されていません。中には崩壊寸前のものもあり、遺跡の保護が求められています。

鮮やかな青色の美しいイシュタル門のほか、泥れんがで造られた遺跡群があります。

名称 バビロン(Babylon)
ユネスコURL http://whc.unesco.org/en/list/278

アフワール

南イラクのアフワールは、「イラク南部の湿原地域:生物多様性の保護地とメソポタミア都市群の残存する景観」として2016年に登録された世界複合遺産です。旧約聖書に記述されているエデンの園があったと考えられているウル、ウルク、テル・エリドゥの3つの遺跡群と、東ハマー、西ハマー、フワイザ、セントラル4つの湿地帯から構成された遺跡です。

ウル、ウルク、テル・エリドゥの遺丘からは、シュメール人の都市と定住した痕跡を見て取ることができます。

名称 アフワール(The Ahwar of Southern Iraq: Refuge of Biodiversity and the Relict Landscape of the Mesopotamian Cities)
ユネスコURL http://whc.unesco.org/en/list/1481

ギョベクリ・テぺ遺跡

ギョベクリ・テペ遺跡 メソポタミア

ギョベクリ・テぺ遺跡は、トルコ南東のシャンルウルファに位置し、今から1万年以上前に作られたものだということがわかっています。世界最古の宗教施設と見られており、石柱や石壁にはさまざまな動物のレリーフや腕や手などのモチーフが刻まれています。

2018年、トルコの18件目の世界遺産として登録されて以来、トルコ国内のみならず世界中から注目を集めている遺跡です。

名称 ギョベクリ・テぺ遺跡(Göbekli Tepe)
住所  Örencik, 63290 Haliliye/Şanlıurfa
ユネスコURL https://whc.unesco.org/en/list/1572

ギョベクリテペ遺跡とは?謎多き世界最古のトルコの遺跡【世界遺産】

アルスランテペ遺跡

アルスランテペ トルコ メソポタミア

「ライオンの丘」という意味を持つアルスランテペ遺跡は、2021年にトルコ19件目の世界遺産として登録されました。

アルスランテペは、紀元前5000年頃から紀元前7世紀ごろにアッシリアに征服されるまで都市として存在し、この地にはさまざまな集落が根付いてきました。1932年に開始された発掘により、紀元前3600年~紀元前3500年頃の神殿や、世界最古の雨水排水路を備えた日干し煉瓦の宮殿、紀元前2900年頃の王墓などが見つかっています。

名称 アルスランテペ野外博物館(Arslantepe Acik Hava Muzesi)
住所 Merkez, Ordüzü, Malatya Merkez, Malatya
営業時間 夏季(4/1~10/31)08:00~19:00
冬季(11/1~3/31)08:00~17:00
※最終入場時間は閉館時間の30分前
※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館。
定休日 無し
入場料金 無料
ユネスコURL http://whc.unesco.org/en/list/1622

アルスランテペ遺跡は、現在野外博物館として見学できるようになっています。

アルスランテペ遺跡は2021年に世界遺産となったトルコの注目の遺跡!

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メソポタミアの歴史を感じに、ぜひトルコに行ってみて!

メソポタミアは、世界最古の文明を育んだ地であり、さまざまな歴史の興亡が繰り広げられた舞台でもあります。

現在のイラク、シリア北東、トルコ南東の地域にあたり、今なお現地には歴史を物語る貴重な痕跡が多数残されていますが、あいにくイラク、シリアの2カ国については、情勢の不安定さにより外務省から渡航制限の勧告が出されています。

メソポタミアの歴史を肌で感じるなら、トルコへの旅行がおすすめです。ご紹介した2カ所の世界遺産以外にも、トルコにはたくさんの見どころがあります。メソポタミアに興味がある人、もっと知識を深めたいという人は、ぜひこの記事を参考に、実際にトルコへと足を運んでみてください。

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