ムハンマドとは?イスラム教の創始者の生涯や宗教の成り立ちを徹底解説
更新日:2023.08.24
投稿日:2022.06.29
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イスラム教は、ほとんどの日本人にとってあまりなじみがない宗教かもしれません。イスラム教の創始者である「預言者ムハンマド」についても、「教科書で読んだことがあるけれどよく知らない」という人が多いのではないでしょうか。
ムハンマドがどのような生涯を歩み、世界三大宗教のひとつであるイスラム教を誕生させたのかを知っておくと、トルコをはじめイスラム圏のことがより身近に感じられるはずです。今回は預言者ムハンマドについて徹底解説します。
Contents
ムハンマドとは
預言者ムハンマドこと、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(Muhammad ibn Abdullah)は、メッカ(Mecca:現在のサウジアラビアの都市)で生まれたイスラム教の創始者です。日本語では「メフメット」「メフメト」「マホメット」「モハメド」とも表記されますが、現在は「ムハンマド」が一般的に使われています。
ムハンマドは神ではなくあくまで預言者であるものの、イスラム教において崇敬の対象であり、イスラム圏では過去から現在にいたるまで「ムハンマド」という名前が大人気。イスラム教はキリスト教や仏教と並ぶ世界三大宗教のひとつで、信者数は約19億人とキリスト教に次ぐ第2位の規模を誇ります。ムスリム(イスラム教徒)の多さから、ムハンマドの名を持つ人は世界に約1億5,000万人にものぼり、「世界一多い名前」ともいわれているのです。
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歴史に名を残したムハンマドといえば、オスマン帝国時代にエジプトの総督となった「ムハンマド・アリー」や、スーダンの宗教家でマフディー運動を行った「ムハンマド・アフマド」などがよく知られています。現代に目を向けると、エジプトのサッカー選手「モハメド・サラー」、シンガポール出身のサッカー審判員「ムハンマド・タキー」、そしてアフガニスタンの政治家で、ターリバーンの創始者「ムハンマド・オマル」など、枚挙にいとまがありません。このようにムハンマドの名を持つ人が多いため、創始者のムハンマドは「預言者ムハンマド」と呼ばれています。
商人から預言者へ
ムハンマドはもともと商人でした。ときに西暦610年、家庭を築き商人としてそれなりに成功を収めていた40歳のムハンマドが、ヒラー山(メッカ郊外にある山)で瞑想をしていると、突如目の前に天使ガブリエル(アラビア語ではジブリール)が現れ、神の啓示を伝えます。このとき伝えられた啓示は、コーラン第96章の1節から5節に次の内容で記されています。
一凝血から、人間を創られた。」
誦め(よめ)、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、
筆によって(書くことを)教えられた御方。
人間に未知なることを教えられた御方である。」
驚き恐怖を覚えたムハンマドは家に帰り、妻のハディージャにこのことを話します。ハディージャはムハンマドの話を信じ、キリスト教徒のいとこに相談しました。そのいとこから諭されたムハンマドは、自分が「預言者」であることを自覚。神(アッラー)の言葉を人々に伝えることを決意します。
ちなみに「預言者」とは、神の啓示を預かりそれを人間に伝える役割を担う人のことです。未来を予知する「予言者」と混同されがちですが、まったく違うものだと覚えておきましょう。また、キリスト教では始祖であるイエス・キリストは神の子であり、信仰の対象となっていますが、イスラム教におけるムハンマドは預言者であり、信仰の対象ではありません。
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最後の預言者
実は、ムハンマドの前にも預言者はいました。しかしムハンマドの後に預言者はおらず、イスラム教においてムハンマドは「最後の預言者」と呼ばれています。
神はもともと、ユダヤ人(ユダヤ教)に神の言葉を伝えました。その内容が記されているのが「旧約聖書(律法の書)」です。しかし、ユダヤ人たちは神の教えを守っていないとされ、次にイエス・キリスト(キリスト教)を通じて神の言葉を伝えました。それが「新約聖書(福音書)」です。
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ところが、それでも人々が神の教えを守らなかったため、最後の預言者としてムハンマドが選ばれました。ムハンマドが受けた教えが記されているのが、イスラム教の聖典「コーラン」です。コーランの第3章144節には、こう書かれています。
「そしてムハンマドは一人の使徒に過ぎず、かつて彼以前にも使徒たちが逝った」
複数存在する預言者の中で日本人になじみがあるのは、ノアの箱舟を作った「ノア」や十戒で知られる「モーセ(モーゼ)」などでしょう。ノアもモーセも旧約聖書に登場する人物ですが、イスラム教においても重要な存在なのです。
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神からの啓示
預言者ムハンマドが初めて啓示を授かったのは、ムハンマド自身が40歳のときのことでした。それ以降も啓示は何度も訪れ、時期としては初期・中期・後期の3つに分かれています。
このうち初期は、西暦610年に最初の啓示を受けたムハンマドがメッカで宣教活動を開始した頃です。大商人たちに反対され、迫害を受けながら神の教えを広めていった苦難の時期に当たります。
やがてムハンマドはメッカでの状況を絶望的と判断し、活路を求めて西暦622年にメディナ(メッカの北およそ350kmの位置にある都市)へと移住。このときの移住は「ヒジュラ(聖遷)」と呼ばれています。
信者たちとともにメディナに移住したムハンマドは、西暦632年に亡くなるまでに「ウンマ」と呼ばれるイスラムの宗教・政治共同体を作りあげました。苦難の多かったメッカ時代とは違い、イスラム教が世界的な宗教となる出発点となったこのメディナ時代が後期にあたります。
なお中期は、メッカ時代の終わりからメディナ時代の初期を指します。
コーランはイスラム教の聖典
「コーラン」(クルアーン)は、ムハンマドが神から受けた啓示がアラビア語で記されているイスラム教の聖典です。キリスト教でいえば聖書、仏教であれば般若心経や法華経などのお経にあたります。
コーランは単なる書物ではなく、ムスリムにとって何よりも尊いものであり、命より大切なものです。粗末に扱うことは神への冒涜となり、決して許されません。ここではコーランの基礎的な知識を解説します。
コーランの成立はムハンマドの死後
コーランは、ムハンマドが人々に伝えた神の言葉をまとめた書物です。しかし、ムハンマド自身が書いたわけではありません。当時の大半の市民と同じく、ムハンマドは読み書きができませんでした。初めての啓示にある「誦め(よめ)」に対しても、「読めません」と答えています。
コーランが成立したのは、ムハンマドが亡くなってから約20年後のことです。ムハンマドの死後、親友のアブー・バクルが初代正統カリフとなった頃に、ムハンマドの秘書を務めたザイド・イブン=サービトによって初めて編纂されました。その後、第3代正統カリフとなったウスマーンの時代に、ザイドを中心に再び編纂が行われ、現在の形になっています。なおカリフとは、ムハンマド亡き後のイスラム社会における最高指導者のことを指します。
コーランの内容
コーランの内容は、1300年以上も前に成立して以来、変わっていません。書かれていることは、ムハンマドが最初に受けた啓示や神(アッラー)のこと、死後のこと、禁止されていることや積極的に行うと良いことなど、多岐にわたります。
たとえば、日本でもよく知られている「豚肉を食べてはいけない」「お酒を飲んではならない」といったイスラムの戒律も、コーランに書かれていることです。食べ物や飲み物に限らず、ムスリムはコーランに基づいて毎日の暮らしを送っています。
コーランのボリュームはおよそ78,000語であり、これは新訳聖書とほとんど同じ分量です。文芸書に換算すれば500ページ程度と、かなりのボリュームがあります。コーランをすべて暗記している人は「ハーフィズ」と呼ばれ、尊敬されます。
コーランは歌のように美しい
コーランは黙って読むものではなく、読誦(声に出して読むこと)するものです。コーランの文章は詩のように韻を踏んでいるのが特徴で、独特のリズムが音楽のように美しく、芸術的。ムスリムがメッカの方角に向かって1日5回行うサラート(礼拝)では、コーランの冒頭が唱えられています。
ムハンマドの家族:生誕・愛妻・子ども・後継者
ムハンマドはメッカの生まれ
ムハンマドが生まれたのは、西暦570年頃(日付不明)のことです。父アブドゥッラーフと母アーミナの子として、メッカにて誕生しました。ムハンマドの祖父であるアブドゥルムッタリブは、メッカを支配するクライシュ族「ハーシム家」という名門の一族で、ムハンマドもその一員です。
しかし父親はムハンマドが生まれる前に亡くなり、母親もムハンマドが6歳の頃にこの世を去ったため、ムハンマドは孤児になってしまいます。ムハンマドは叔父のアブー・ターリブに育てられ、やがて叔父と同じように商人になりました。
ムハンマドの最愛の妻 :ハディージャ
ムハンマドは初めての啓示を受けた時点ですでに結婚していました。生涯独身だったイエス・キリストや、妻子を捨てて出家したブッダとは異なり、夫や父としての顔を持つ家庭人であり続けたのです。
ムハンマドにとって最初の妻であり、最愛の妻であり続けたのが「ハディージャ」です。ハディージャは商人として成功していた裕福な未亡人で、ムハンマドの誠実でやさしい人柄に惹かれ、結婚を申し込みます。2人が結婚したときムハンマドは25歳で初婚、ハディージャは40歳で3度目の結婚でした。ハディージャと結婚したことでムハンマドは安定した生活が送れるようになり、家庭のぬくもりを知ることとなります。
ハディージャはムハンマドとの子どもを多く残した女性で、ムハンマドにとって最愛の妻でした。当時のアラビア半島では一夫多妻制が一般的で、ムハンマドも一生のうちに12~13人の妻を持ったといわれていますが、実はムハンマドはハディージャが亡くなるまでの25年間は、誰とも結婚をしていません。
ムハンマドに神の啓示があったときも、異常な体験に恐怖するムハンマドをハディージャが支えて励まし、夫の言葉を信じて最初のムスリムとなります。ハディージャは、イスラム教創始の影の立役者ともいえる存在なのです。
ムハンマドを看取った妻:アーイシャ
年上の妻ハディージャは西暦619年、ムハンマドが48歳のときに亡くなります。その後、12人ほどの妻を迎える中で、ムハンマドを看取ることになるのが、51歳のときに迎えた3番目の妻「アーイシャ(アーイシャ・ビント・アブー・バクル)」です。
アーイシャは、ムハンマドの親友であるアブー・バクルの娘で、結婚した当時はわずか6歳。実際に結婚生活をスタートさせるのは彼女が9歳になってからのことです。アーイシャは、ほかの妻たちと違って自分自身が処女のまま嫁いだことを誇りに思っていたといいます。
ムハンマドは、アーイシャの可愛らしさや家柄のみならず聡明さもこよなく愛していました。一方でアーイシャはほかの妻に嫉妬することもあり、亡きハディージャに対しても、次のように言っています。
――私は預言者の妻たちの中で、ハディージャに対するほど嫉妬を覚えたことはありません。彼女に会ったことはありませんが、預言者はしきりと彼女の思い出話をしました。時には私も彼に「まるでこの世にハディージャしか女性がいないかのようです!」と不満を言うのでした。――
ムハンマドはそんなアーイシャに対し、厳しい態度を見せることもありましたが、最愛の妻であると明言していました。西暦632年、ムハンマドはアーイシャの膝の上で生涯を閉じます。結婚生活はわずか9年間と短いものでした。
第二の聖典「ハディース」
「ハディース」とは預言者ムハンマドの言行録で、イスラム教でコーランに次ぐ第二の聖典とされるものです。ムハンマドの死後、約200〜250年経った頃にまとめられました。ハディースは本のような性質のものではなく、ムハンマドの言動をまとめた言行録です。生前のムハンマドが日常生活の中で語った言葉などが、第三者(とくに側近の女性)によって残されていたことから、成立しました。
中でもムハンマドを看取った妻アーイシャは、ムハンマドの死後もイスラムの教えを人々に伝え、2,210ものハディースや伝承を伝えたとされています。ハディースはコーランと同様に、ムスリムにとって大切な生きるための指針となっています。
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ムハンマドの子どもたち
ムハンマドは、生涯で7人の子どもを授かっています。そのうち6人(2男4女)を出産したのは、最初の妻であるハディージャでした。残りの1人は、エジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間に誕生した男の子です。
当時の社会では男児が尊重されていましたが、ムハンマドの息子3人は全員幼くして亡くなってしまいます。娘4人のうち3人もムハンマドの存命中に亡くなり、唯一ムハンマドより長く生きた四女のファーティマも、ムハンマドの死後、数ヶ月ほどで亡くなっています。
ムハンマドは実子のほかに2人の養子もいました。1人目は、ハディージャがムハンマドとの結婚の際に贈った「ザイド・イブン・アルハーリサ」です。ザイドは立場としては奴隷でしたが、ムハンマドを慕い、家族がザイドを引き取るために身代金を持ってメッカにやって来たときも、ムハンマドのもとに留まりたいと懇願。ムハンマドは彼を養子にし、自由を与えました。
2人目の養子は、ムハンマドを育てた叔父アブー・ターリブの息子、アリーです。アブー・ターリブが財政難に陥ったとき、叔父の負担を軽くするために、ムハンマド自身にとっては従兄弟でもある5歳のアリーを引き取りました。アリーはのちにムハンマドの四女ファーティマと結婚し、第4代正統カリフにもなっています。
ムハンマドの後継者
ムハンマドの息子は全員幼くして亡くなったため、ムハンマド家は四女ファーティマと結婚したアリーが後継者となりました。ムハンマドの血統は四女ファーティマによって受け継がれ、ファーティマとアリーの子孫は「お家の人々(ムハンマドの子孫)」と呼ばれています。
ファーティマとアリーの間には長男「ハサン」と次男「フサイン」という2人の息子が生まれました。ムハンマドの没後に発生したイスラム教の党派である「シーア派」の第2代、第3代イマームにそれぞれ就いています。なお、イマームとは「指導者または模範となるべき者」のことです。
のちにムハンマドの子孫は「ハサン系」と「フサイン系」に分岐。ちなみにモロッコ王家やヨルダン王家はハサン系です。
また、2018年にはイギリスのエリザベス女王が預言者ムハンマドの子孫であるというニュースが流れ、世界中から注目を集めました。しかし詳細に立証はされていないため、真相の究明が待たれているところです。
一方でイスラム社会の後継者としては、ムハンマドの没後にウンマ(イスラム共同体)が最高指導者となる「カリフ」を選出することになります。
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カリフとイマームの違い
「カリフ」とは、神(アッラー)の言葉を授かったムハンマドの「代理」、そしてムハンマドの後継者であり、イスラム社会の最高指導者のことです。ムハンマドの教えを忠実に伝える役割を持つ、最高権威者といえるでしょう。
「イマーム」とは、イスラム信者の共同体「ウンマ」の指導者のことを指します。しかしながら、イスラム教の党派「スンナ派」と「シーア派」ではイマームの定義が異なります。
ムハンマドの娘婿アリーは第4代正統「カリフ」ですが、アリーの長男と次男は「イマーム」です。スンナ派は、ムハンマドの後継者を初代から4代までの4人を正統カリフとした一派で、カリフや優れたウラマー(神学・法学者)をイマームとします。
一方のシーア派は、血縁を重視し、アリーとその子孫だけを正統なムハンマドの後継者と主張し、イマームとしている少数派です。シーア派にとってイマームこそが最高指導者といえるのでしょう。
ムハンマドの生涯:イスラム教の布教
生誕地メッカで布教を開始
西暦610年、瞑想中に天使ガブリエルから啓示を与えられ、自らが預言者であることを自覚した40歳のムハンマドは、神(アッラー)からのメッセージを人々に伝えていくことを決意します。
その内容は、
- 神は唯一であり創造神であること
- 死後に来世が待ち受けていること
- この世のおこないに基づいて神の裁きがなされ、来世の行き先が決まること
などです。
第一号のムスリムは、妻のハディージャでした。ムハンマドは、最初の3年間は親類や友人のみに神の教えを説いていきます。ムハンマドの出身部族であるクライシュ族の多くは、馬鹿げた教えだと嘲笑しましたが、ハディージャやアリーといった身内がムスリムとなり、ハーシム家(ムハンマドの家系)の人々も少しずつ入信するようになっていきました。当時の信者の数は、30人ほどだったといわれています。
当時の信者がムハンマドを預言者として認めた理由として、ムハンマドの説く教えが詩のように美しかったことがあげられます。当時のアラブ世界で詩人は尊敬の対象であり、美しい詩を作れることは才能だと考えられていました。人々は「読み書きのできないムハンマドがこれほど美しい言葉で語るのは、本当に神から言葉を預かってきたからだ」と考えるようになったのです。
メッカで迫害に遭う
ムハンマドは当初、自分の生まれ故郷であるメッカで布教活動を行っていました。しかし当時のメッカは多神教であり、偶像崇拝がさかんに行われ、詩人やシャーマンによって超常的存在である神やジン(精霊)などを媒介する役割を担っていたのです。
多神教を信じる人々からすると、ムハンマドが説く一神教は理解しがたいものでした。そのうえムハンマドは「裕福な人々は、貧しい人のために財産を寄付しなさい」と説いたため、クライシュ族をはじめとする裕福な人々は猛反発。ムハンマドや信者たちを中傷・迫害し始めます。これによりムハンマド自身は重症を負い、信者や親戚たちは食べる物すらない状況に追い込まれていきました。
メッカというと、黒く巨大な直方体がそびえる「カーバ神殿」を思い起こす日本人は多いでしょう。ここは今でこそイスラムの聖地として知られていますが、神殿自体はイスラム教が誕生する前から存在し、当時は多神教の神々の像が祀られていました。クライシュ族がカーバ神殿に神々の偶像を集め、大きな利益を得ていたことも、一神教のイスラム教を迫害する一因となったのです。
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さらに西暦619年には、ムハンマドを育てた叔父のアブー・ターリブと、ムハンマドを支え続けた妻のハディージャが相次いで死去。この西暦619年は「悲しみの年」として知られています。2人の死をきっかけに、メッカでのイスラム教に対する風当たりはますます強まり、ムハンマドはムスリムの集団全体でのメッカからの逃亡を決意します。
メディナへ聖遷(ヒジュラ)
ムハンマドが逃亡先に選んだのは、メッカの北およそ350kmの位置にある都市「メディナ」(当時の名はヤスリブ)です。メディナの人がメッカ外での布教活動に力を入れていたムハンマドの説教を聞き、迎え入れることになりました。これは部族同士の戦いによって荒廃していたメディナが、指導者を必要としていたためです。
ムハンマドは70人ほどの信者たちをメディナに移住させた後、自身もアブー・バクル(親友であり、後の初代正統カリフ)と一緒にメディナへと移住します。これは単なる引っ越しではなく、生まれ故郷との縁を絶ち切るという決意の表れでもあり、「ヒジュラ」(聖遷)と呼ばれています。
ムハンマドがメディナへ移ったのは、西暦622年7月15日のことです。のちにこの年は、イスラム暦(ヒジュラ暦)の元年と定められました。メディナではムスリムによる「ウンマ」(イスラム共同体)が成立し、モスクが建てられてイスラム教に基づく日常生活が営まれ、イスラム社会やイスラム国家の原型となっていきます。
ところでこの頃の日本では、飛鳥時代の推古天皇の御世で、ちょうど聖徳太子が亡くなった年でした。聖徳太子は仏教を厚く信仰していたため、法隆寺を建立するなど興隆に力を入れていましたが、世界ではそれぞれの宗教が発展していったのですね。
聖戦(ジハード)の開始
ムハンマドたちがメディナへ移住した頃、つまり後期には、異教徒に対する聖戦(ジハード)を許容する次のような啓示が下ります。
「まことに信仰する者、そして移住し、神の道でする者、それらの者は神の御慈悲を期待できよう」(コーラン第2章218節)
これによりムハンマドは、メッカにいる多神教徒の勢力と戦うことを決意します。西暦624年には兵を率いて初めてメッカ軍と戦い、大きな勝利を収めました。これが「バドルの戦い」です。さらに翌年の西暦625年に起こった「ウフドの戦い」では敗れたものの、からくもメッカ軍を退け、メディナを守ります。
その後、西暦627年にはメディナにメッカ軍が襲来したものの、塹壕を使った戦術で撃退しました。これは「ハンダクの戦い」(塹壕の戦い)といわれています。
メッカを無血開城
メッカ軍の襲来を退けたムハンマドは、西暦630年に1万の大軍を率いてメッカに向かいます。目的はもちろん、生まれ故郷の地メッカで活動するためです。メッカの反対勢力はムハンマドの大軍を見て抵抗を諦め、戦わずしてムハンマドたちがメッカに入ることを認めました。ムハンマドはメッカの無血開城に成功したのです。
その後ムハンマドは、カーバ神殿に祀られていた多神教の神々の像を破壊し、カーバ神殿をイスラムの聖地として定めました。ムスリムを迫害したクライシュ族も、指導者アブー・スフヤーンをはじめ、ことごとくイスラムに改宗します。
ムハンマドの勝利は瞬く間に各地へと広がり、アラビア半島の指導者たちはこぞってムハンマドのところに使者を送るようになりました。こうしてアラビア半島全域にムハンマドの名がとどろき、イスラム教が伝わっていったのです。
イスラム教の二大聖地:メッカとメディナ
ムハンマドはメッカを「イスラム教の聖地」として定めましたが、自身はメディナに住み続けました。西暦632年になると、ムハンマドはメッカへの「大巡礼」をおこないます。そしてムスリムの義務とされる五行を定めました。
- 信仰告白(シャハーダ)
- 礼拝(サラート)
- 断食(サウム)
- 喜捨(ザカート)
- 巡礼(ハッジ)
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大巡礼を終えたムハンマドは、大役を終えたと感じたのか病に倒れます。西暦632年6月8日、アラビア半島から異教徒を追放すること、そして自分の死後もコーランに従うようにと遺言を残し、メディナの自宅で妻アーイシャに看取られながら亡くなりました。初めての啓示を受けてから約22年、およそ62年間の生涯でした。
メッカとメディナを高速鉄道が結ぶ
メッカにハッジ(巡礼)するとき、メディナも一緒に訪れたいと願うムスリムは少なくありません。しかし2つの都市は直線距離で約350km、道のりでは約450kmも離れているため、大変なことでした。しかし2018年には、最高時速300kmで両都市を結ぶ高速鉄道「ハラマイン高速鉄道」が運行を開始し、便利になっています。
観光地としてもメッカの「グランドモスク」(カーバ神殿のあるモスク)やメディナの「預言者のモスク」は人気が高く、ムスリムでなくとも一度は訪れてみたいスポットです。
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ムハンマドのお墓と聖遺物
メディナの自宅で亡くなったムハンマドは、その場で埋葬されました。「聖者の遺体の一部」や「聖者の使用した道具や衣類など」といった「聖遺物」(遺品)は「アーサール」(アサル)といい、モスク(イスラム教の寺院)などで保管されています。ムハンマドのお墓とアーサールが見られるスポットについてご紹介します。
預言者のモスク
サウジアラビアの都市であるメディナは、イスラム教にとって第二の聖地であり、街の中心部には「預言者のモスク」が建っています。
白壁と10本のミナレット(塔)が繊細な美を感じさせる中でひときわ目を引くのが、南東の角にある緑色をしたドーム屋根。この緑のドームの下には、ムハンマドのお墓があります。ここはつまり、ヒジュラ後のムハンマドが暮らし、その生涯を終えた場所なのです。モスクはヒジュラ後にムハンマドの自宅に隣接する形で建てられ、のちに各地で建設されるモスクの原型にもなりました。
敷地内にある説教壇とムハンマドの墓の間のエリアは「ローダ・アッシュ・シャリファ(=高貴な庭園の意)」と呼ばれ、“ここで唱えた祈りは受け入れられないことはない”とされています。ムハンマドが葬られてからも増改築が重ねられ、今なお世界中からムスリムが訪れる場所になっています。
名称 | 預言者のモスク(Al-Masjid an-Nabaw) |
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住所 | Al Haram, メディナ 42311 |
公式サイト | https://wmn.gov.sa/public/?page=page_144724 |
トプカプ宮殿
イスタンブールの代表的な観光スポットである「トプカプ宮殿」には、ムハンマドのアーサール(聖遺物)がもっとも多く保管されているといわれています。オスマン帝国のスルタン(皇帝)の居城として、15世紀に建設されました。ボスポラス海峡を望む小高い丘の上に今もなおたたずんでいます。
宮殿の内部は博物館として公開されているため、誰もが見学可能。まばゆいばかりの宝飾品や美術工芸品のほか、ムハンマドが身に着けていたといわれる外套をはじめ、剣や弓、歯やヒゲといったアーサールが多数収蔵されています。オスマン帝国のスルタンは、イスラム社会の最高権威カリフの地位を兼ねていたため、トプカプ宮殿には大変貴重な聖遺物が多いのが特徴です。
このほかイスタンブールで一番美しい泉「アーメッドⅢ世の泉」や、女性たちが暮らしたハレムといった見どころもあり、イスタンブール旅行で外せないスポットとなっています。
名称 | トプカプ宮殿(Topkapi Palace Museum) |
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住所 | Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, Turkey |
公式サイト | https://www.millisaraylar.gov.tr/en/saray-kosk-ve-kasirlar/topkapi-sarayi |
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メヴラーナ博物館
トルコのコンヤにある「メヴラーナ博物館」は、イスラム神秘主義の一派であるメヴレヴィー教団(旋舞教団)の創始者「メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミー」の霊廟(霊を祀る施設)でした。13世紀末に造られたのち、西暦1925年にトルコの初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの命令によって修行場は閉鎖、教団も解散。西暦1927年以降は博物館として一般公開されています。
主な展示内容は創始者メヴラーナの美麗な棺をはじめ、メヴラーナの愛用品や衣服のほか、セルジューク朝時代やオスマン朝時代に作られた工芸作品、コーランの古い写本などです。また、館内中央のガラスケースにはムハンマドの「あごヒゲ」が収められている小箱がそっと置かれています。この小箱からは薔薇の香りがするといわれており、ガラスケース下部の小さな穴からその臭いを嗅ごうとする人もいます。
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名称 | メヴラーナ博物館(Mevlana Müzesi) |
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住所 | Aziziye Mah, Mevlana Cd. No:1, 42030 Karatay/Konya, Turkey |
公式サイト | https://turkishmuseums.com/museum/detail/2131-konya-mevlana-museum/2131/4 |
ムハンマドの肖像画
イスラム教では偶像崇拝が禁忌とされ、神は可視化してはならないとされています。偶像は神そのものではなく、人間が作ったものに過ぎないからです。
その一方で、ムハンマドの肖像を描くことについては、「コーラン」で禁止されているわけではありません。しかし、第二の聖典である「ハディース」では、ムハンマドの外見について視覚的に描写することを禁じています。ムハンマドが描かれた絵画は存在しますが、ほとんどは顔に布をかけた姿などで、はっきりと顔を見ることはできません。
これは、イスラム教よりも前に成立したキリスト教の影響が考えられます。キリスト教ではイエス・キリストを偶像化したことにより、神だけでなくイエス・キリストまで崇拝の対象となってしまいました。イスラム教では、ムハンマドへの個人崇拝を排するために、肖像を描かないというわけです。
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コーランの第3章144節でも、ムハンマドについて次のように書かれています。
「そしてムハンマドは一人の使徒に過ぎず、かつて彼以前にも使徒たちが逝った」
ムハンマドの前にも預言者は存在し、ムハンマドも預言者のうちの一人でしたが、神の教えを忠実に守り人々に伝えたことで、結果的に最後の預言者となりました。さらにムハンマド自身も死せる人間であることを、コーランでは伝えています。
「ムハンマドが人間である」とコーランで書かれているものの、キリスト教徒がイエス・キリストを崇拝するほど、ムハンマドが敬われていないわけではなく、ムハンマド自身への崇敬もムスリムにとっては当たり前のことといえるでしょう。
ムハンマドの風刺画
ムハンマドの肖像に関することでたびたびニュースになるのが、「風刺画」の存在です。2005年にはデンマークの「ユランズ・ポステン」紙、そして2015年にはフランスの「シャルリー・エブド」紙が、ムハンマドの風刺画を掲載し、世界中のムスリムから反発を受けました。
このときムスリムにとって問題となったのは、ムハンマドの顔を描いたことではなく、「風刺」によって預言者ムハンマドに対する攻撃や侮辱を込めたことです。預言者を冒涜することは、死刑が科されることもあるほどの重罪なのです。ムハンマドの肖像を描くことが禁止されているからという理由では決してありません。
しかしながら、ムハンマドの顔を描くことはイスラム教における教義上のグレーゾーンに該当します。伝統的には、預言者ムハンマドへの敬意を込め、偶像化を避けるために顔を描かないのが一般的でしたが、実際にはしばしば描かれています。近代や現代においても、顔を描くことが全くないわけではありません。
トルコへ訪れたらムハンマドの功績を偲んで
トルコ国民の多くはイスラム教徒で、生活にはイスラムの教えが根付いています。「ブルーモスク」や「アヤソフィア大聖堂」など、イスラムに関連する観光スポットも少なくありません。今でこそ世界三大宗教に数えられるイスラム教も、創始の頃は苦難の連続でした。トルコを訪問したら、預言者としての生を全うしたムハンマドの人生や功績に思いを馳せてみましょう。
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