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オスマン帝国はなぜ600年以上も続いたのか?栄光と滅亡の歴史と強さの秘密

更新日:2023.04.04

投稿日:2022.03.31

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メフテル オスマン帝国

巨大帝国といわれるモンゴル帝国の存続が150年余りだったのに対して600年以上も続いたオスマン帝国。次々に領土を拡大していったオスマン帝国は、どのように繁栄し滅亡していったのでしょうか。

オスマン帝国の概要

オスマン帝国

史上最も強大な帝国の一つとして知られるオスマン帝国は、13世紀末にアナトリア北西部で勃興し、東ヨーロッパ・西アジア・北アフリカまで版図を広げた大帝国です。もともとは、現在のトルコであるアナトリア地方に誕生した集団でしたが、全盛期である君主スレイマン1世の時代に次々と領土を広げて広大な国に発展しました。

また、モンゴル帝国が150年余りで解体したのに対して、オスマン帝国は623年もの長きに渡り続いた帝国です。

英語では、「Ottoman Turks」、「Turkish Empire」と呼ばれていたことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることもありました。しかし、現在はオスマン帝国またはオスマン朝と称するようになり、オスマントルコという呼称は使用されなくなっています。

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オスマン帝国の国旗

トルコ 国旗 オスマン帝国

現在のトルコの国旗は「新月旗」または「月星章旗」と呼ばれており、1844年に公式に定められたオスマン帝国の国旗と概ね同じデザインでした。ちなみに、1844年に公式国旗に採用されるまで、オスマン帝国には単一の国旗が存在していませんでした。

また、三日月と星の組み合わせはイスラム教のシンボルとされており、三日月は進歩と発展、星は光明と知識を表しています。

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オスマン帝国の主な出来事

  • 1299年:オスマン1世がオスマン帝国を建国
  • 1366年:アドリアノープルをエディルネと改名しオスマン帝国の首都に
  • 1396年:アッパース家のカリフであるムタワッキル1世がベヤズィト1世に「スルタン」の称号を授ける
  • 1453年:コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を占領し、遷都する(ビザンツ帝国の滅亡)
  • 1460年:メフメット2世がトプカプ宮殿建設に着工
  • 1529年:スレイマン1世による第一次ウィーン包囲、帝国の全盛期を迎える
  • 1571年:レパントの戦い、初めて西欧軍に大敗
  • 1683年:第二次ウィーン包囲とともに大トルコ戦争が勃発
  • 1699年:カルロヴィッツ条約によって初めて領土を失う
  • 1768~1774年:露土戦争でロシアに大敗
  • 1826年:イェニチェリ軍廃止
  • 1876年:オスマン帝国憲法発布→2年後に停止
  • 1914年:第一次世界大戦勃発(トルコはドイツ、オーストリア側で参戦)
  • 1920年:トルコ革命が始まり、連合軍がイスタンブールを占拠
  • 1923年:トルコ共和国成立、首都イスタンブールからアンカラへ遷都

オスマン帝国の強さの理由

オスマン帝国 トプカプ宮殿

巨大帝国といわれるモンゴル帝国が150年余りで解体したのに対して、623年も続いたオスマン帝国。オスマン帝国の領土は広大で、北はハンガリーから南はエジプト・イエメンまでの領土を支配していました。

また、最盛期の人口は1500万人に達したとされています。オスマン帝国の強さの理由としてあげられるのが、歴代君主のスルタンやスルタン直属の兵力であるイェニチェリの存在です。また、他民族、他宗教と共存していたことも深く関わりがあります。

オスマン帝国の代表的なスルタン

オスマン帝国の歴代君主はスルタン(イスラム教における世俗の最高権力者の称号)として知られています。第7代スルタン・征服王メフメト2世は難攻不落の城塞として知られていたコンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻め落とし、さらなる帝国拡大の道筋を作りました。

第10代スルタン・壮麗王スレイマン1世は三大陸にまたがるまで領土を広げ、オスマン帝国の全盛期を築き上げたことで知られています。歴史上有名な「ウィーン包囲」はヨーロッパ中を震撼させました。

スルタンの意味をわかりやすく解説!イスラム教世界やオスマン帝国の支配者の称号

オスマン帝国の人材登用は能力重視

オスマン帝国 イェニチェリ

オスマン帝国では、強大な権力を有するスルタンを頂点として、整備された官僚制度を持つ中央集権体制がとられました。なぜ強いかという理由としてまずあげられるのは、世界から恐れられたスルタン直属の直属兵力「イェニチェリ」の存在です。

イェニチェリは「デヴシルメ」という徴兵制度において、才覚あるキリスト教徒の少年を徴用し、英才教育を受けさせて育成されたオスマン帝国のいわば親衛隊です。ちなみに、デヴシルメはトルコ語で「強制徴用」を意味します。

イェニチェリは従来の騎射を主戦術とするトルコ系騎兵の軍事力に頼らず、トルコ人以外のキリスト教徒の子弟から徴用されていたことが大きな特徴の一つです。イェニチェリは「新しい軍」を表し、トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味しています。

なお、イェニチェリは少数精鋭部隊であり、徴用されてもイェニチェリとして配属されるとは限りません。眉目秀麗で戦闘に適した体格に恵まれ、知性にも優れた人のみが宮廷や地方政府の重要ポストに登用されるといった能力主義の制度でした。

様々な特権を持つイェニチェリですが、結婚が禁止されていたため、その地位は1代限りで終わってしまいます。要職が世襲制でないことで権力の固定化や汚職などが発生しにくい体制であった点も、オスマン帝国が長きにわたって勢力を保てた理由の一つです。

オスマン帝国は宗教の自由が認められていた

キリスト モザイク画

オスマン帝国は、ムスリム(イスラム教徒)を中心とした国でしたが、キリスト教徒やユダヤ教徒などの非ムスリムの臣民も存在しています。非ムスリムの臣民は、権力を制限されることはあっても、社会経済で重要な役割を果たした存在です。このように、オスマン帝国は宗教については寛容でした。

ミレットという宗教ごとの共同体を作らせ、税を徴収する一方で、信仰・言語の自由の他に裁判権も認めていたのです。帝国内で多民族・他宗教の平和共存が実現したことも、オスマン帝国の強さといえるでしょう。

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オスマン帝国の歴史

オスマン帝国料理 トルコ料理

小アジアの中で台頭してきたオスマン1世がオスマン帝国を建国させたのは1299年のことでした。以降、精力的に領土を広げていったオスマン帝国の始まりから滅亡までの歴史を振り返ってみましょう。

帝国を建国したオスマン家とは?

オスマン家は、オスマン帝国の皇帝(スルタン)の家系として続いたテュルク系のヨーロッパ・アジアの皇帝家です。13世紀末にアナトリア半島北東部を支配したオスマン1世から始まり、36代皇帝メフメト6世が廃位する1922年までオスマン帝国に君臨し、今日に至るトルコ人(オスマン人)を形成しました。

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バルカン半島への進出

トルコ イスタンブール

オスマン帝国は、1326年にビザンツ帝国の重要都市ブルサを落として首都とし、1354年以後バルカン半島に進出しました。そして、1361年頃アドリアノープル(現エディルネ)を征服して首都を移しました。

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1453年にメフメト2世の率いるオスマン軍はコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅亡させると、この都をイスタンブールと改名し、国内各地からトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人などを移住させて新しい首都建設を行いました。

そして、16世紀中頃にはイスタンブールの人口は約50万に上り、ヨーロッパで最も大きな都市となったのです。

オスマン帝国の最盛期とスレイマン1世

15世紀末、オスマン帝国はアナトリアとバルカンのほぼ全土を平定、16世紀に入るとシリア方面の領有をめぐってエジプトのマムルーク朝と対立しました。マムルーク朝は、エジプトを中心としたイスラム王朝で奴隷身分の騎兵やその子孫から構成された朝廷です。1517年にセリム1世率いるオスマン軍はエジプトに侵攻してマムルーク朝を滅ぼしました。

それに伴い、メッカ、メディナの両聖都の保護権を獲得し、ここにオスマン朝の支配者(スルタン)は同時にスンニー派イスラム教徒の指導者カリフの地位をも手中にしたのです。

オスマン帝国 トプカプ宮殿

スレイマン1世は、父であるセリム1世の死を受けて第10第スルタンとなりました。その後、1526年のモハーチの戦いでハンガリーを支配下におき、1529年9月にはウィーンを包囲攻撃によってヨーロッパ諸国を震撼させ、ヨーロッパに大きな影響を与えたのです。

スレイマン1世の艦隊は、1538年にプレヴェザ沖の海戦においてスペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合艦隊に勝利して地中海を掌握しました。

さらにチュニジア、アルジェリアの領土も獲得。東側ではバグダード、バスラ、メソポタミアも征服し、黒海、紅海、ペルシア湾の制海権も獲得し、全方位に広がる国際貿易ルートを支配下におさめることで繁栄を極めます。

17世紀にはアフリカ・中東・ヨーロッパにわたって最大の領土を築き、東はアゼルバイジャン、西はモロッコ、南はイエメン、北はハンガリーまで広く支配しました。

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オスマン帝国の衰退

ムスタファ・ケマル・アタテュルク トルコ共和国 大統領

第一次世界大戦での敗戦が続いたオスマン帝国最後の皇帝メフメト6世は、1918年に連合軍に対して降伏しました。イギリス、フランス、イタリア、ギリシャの連合国はイスタンブールを占領し、メフメト6世はその支配下に置かれ傀儡政権化しました。

1920年8月、連合国側が講和条約としてセーブル条約を押し付けてきましたが、内容はオスマン帝国の領土をほぼ奪い、軍備の制限、治外法権の維持、財政はイギリス、フランス、イタリア3国の共同管理下に置くという苛酷なものだったのです。しかし、メフメト6世は連合国による一身の安全と財政保障を密約条件として、事実上祖国の滅亡を意味するこの条約に調印してしまいました。

それに対して、ムスタファ=ケマルを中心とするアンカラ政府が受諾を拒否しました。ムスタファ=ケマルは、当初スルタンへの忠誠を表明していましたが、ギリシャ軍の侵攻に対してアンカラにトルコ大国民議会を招集して新政府樹立を諸外国に通告すると、それを越権行為として激高したメフメト6世は、ムスタファ=ケマルたちに欠席裁判で死刑を宣告したのです。

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オスマン帝国の崩壊とトルコ革命

アンカラ トルコ共和国

ケマルの指導するトルコ国民軍が善戦し、ギリシャ軍の侵攻を撃退して1922年にはローザンヌで新たな講和条約の締結のための会議が開催されることとなりました。

この会議の開催通知がメフメト6世にも送られてきたことがトルコ国民を刺激しました。「連合国はまだスルタンを正式代表と見なし、手を組むことによって救国独立戦争の成果を骨抜きにしようとしている。トルコを守るにはスルタンを倒すしかない」と、国民は初めてスルタン制そのものを退ける声をあげたのです。

国民会議は満場一致で帝政廃止を可決しましたが、メフメト6世が家族とともに英国軍艦でマルタ島へ亡命することを黙認しました。こうして、オスマン帝国は崩壊し1923年には共和制を採択して、現在のトルコ民族による現在の国トルコ共和国となったのです。

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オスマン帝国がヨーロッパに与えた影響

メフテル オスマン帝国

オスマン帝国の全盛期である16~17世紀にかけてのトルコの文化や服飾は、当時のヨーロッパに大きな影響を与えていました。現在でもヨーロッパの軍隊には、その影響が多く見られます。

オスマン帝国の軍服

第一次世界大戦後、ムスタファ・ケマル・アタテュルクを指導者とするトルコ革命により、1922年にスルタン=カリフ制が廃止されてオスマン帝国は消滅し、翌年の1923年にトルコ共和国が成立しました。

トルコ共和国の成立による洋式軍制・軍服の導入によって、これまでのターバンの代わりに導入されたのがフェス帽です。フェス帽は、頭頂部から房の垂れ下がった、つばのない円筒形の帽子で、赤やえんじ色であることが一般的です。 このフェス帽や、オスマン帝国のイェニチェリがまとっていたサッシュなどは、ヨーロッパの軍服にも採用されています。

ちなみに、オスマン帝国は末期にドイツ軍との連携を深めていたため、建国当初のトルコ共和国の軍服には、上着や、肩章、靴などにドイツ軍の影響が残っていました。

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オスマン帝国軍の軍楽メフテル

メフテル オスマン帝国

メフテルは、西欧ではイェニチェリ音楽として知られている、オスマン帝国軍の軍楽です。また、オスマン帝国やトルコ共和国の伝統的な軍楽でトルコ軍楽とも呼ばれており、メフテルを演奏する軍楽隊をメヘテルハーネといいます。

メへテルハーネは、兵士を鼓舞したり敵軍を威嚇したりする目的で戦地に同行したほか、宮廷などの儀礼の場でも活躍しました。これを受けて、西洋諸国も軍楽隊やブラスバンドを持つようになったのです。

また、メフテルは西洋音楽にも影響を与えました。あの有名な「トルコ行進曲」もメフテルの旋律を意識して生まれた曲です。現在、メフテル軍楽隊の演奏を鑑賞できる場所として、イスタンブール新市街の軍事博物館があります。

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オスマン帝国を感じられる人気観光スポット

深く長い歴史を持つオスマン帝国。トルコにはオスマン帝国の建物や文化に触れるために現在でも見学できる人気観光スポットがあります。

オスマン帝国のスルタンの居城「トプカプ宮殿」

トルコ イスタンブール トプカプ宮殿

トルコの世界遺産「イスタンブールの歴史地区」にあるトプカプ宮殿は、周囲を海に囲まれた丘の上に建つ宮殿です。15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の皇帝であるスルタンが居住していたことで知られています。オフマン帝国のシンボルとされていたトプカプ宮殿は、メフメト2世によって建造されました。

トプカプは「大砲の門」を意味し、ボスポラス海峡側に大砲があったことから名付けられたといわれています。約70万㎡の広大な敷地を有する宮殿は、歴代スルタンの居城でありオスマン帝国の政治の中枢でした。

トプカプ宮殿は一つの建物ではなく、緑豊かな庭を中心に「ハレム」や「議会場」、「宝物館」などの敷地内に20箇所以上点在する敷地全体のことをいいます。

また、トプカプ宮殿の第二庭園には調理場が残っています。当時調理されていたオスマン帝国の宮廷料理は現在でも伝統的な世界三大料理として人気です。

トプカプ宮殿はオスマン帝国皇帝達380年の居城!見逃せない観光ポイント!

トプカプ宮殿のハレムとは?

ヒュッレム ハレム オスマン帝国

トプカプ宮殿のハレムは、国政を行う外廷とスルタンの生活空間である内廷に接しています。ハレムは、宮廷の女性たちの生活の場でもあり、戦いの場でもありました。歴代のスルタンがハレムの増改築を繰り返したため、ハレムには大小合わせて300ほどの部屋や中庭がありますが、そのうちの約20部屋や中庭などを見学できます。

ハレムでは、奴隷身分侍女やスルタンの側室として多いときには1000人以上の女性が暮らしていました。ハレムに入れる男性は限られており、スルタン以外は黒人宦官と年少の王子だけです。

基本的に男子禁制のハレムは、日本でいうところの大奥と同じようなイメージを持つ人も少なくないでしょう。ちなみに、16世紀後半から17世紀半ばにかけてのオスマン帝国は「女人の政治」と呼ばれています。

前近代国家では、女性が表舞台で活躍する機会はほとんどありませんでした。しかし、ハレムの女性たちは、宮廷内外の諸勢力と結託して国政に影響力を与えた存在として知られています。

ハレム(ハーレム)とは?知られざる意味とオスマン帝国宮廷の女性たちの生活

オスマン帝国を舞台にした作品

様々な歴史的ストーリーが楽しめるのもオスマン帝国の魅力です。オスマン帝国を舞台にした魅力的な作品を紹介します。

オスマン帝国を舞台にしたドラマ

トルコのみならず世界90ヵ国以上で大ヒットしたドラマに「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」があります。

46年もの間、オスマン帝国の統治~最盛期に導いた第10代皇帝スレイマンの治世や、寵妃であるヒュッレムをはじめ女性たちによる権力と恋愛を巡る争いを描いた作品です。4シーズン全312話という壮大なスケールで描いた超大作が楽しめます。嫉妬と欲望、愛憎渦巻く宮廷を舞台にしたストーリーで、まさにトルコ版「大奥」ともいえるでしょう。

中国や韓国ドラマの愛憎劇をも超えるドロドロのストーリー展開にハマる人が続出したといわれています。ハレムにいる奴隷身分の女性と結婚することはオスマン帝国の歴史上ありませんでしたが、このドラマの主人公ヒュッレムは持ち前の美貌と魅力でスレイマンの寵妃になり、正式な婚姻関係を結びハレムの頂点にのぼりつめました。

ヒュッレムとは何者か?オスマン帝国ハレムにおける功績と激動の生涯

オスマン帝国を舞台にした映画

オスマン帝国を舞台にした映画として「神聖ローマ、運命の日 オスマン帝国の進撃」があります。2012年に制作された超大作映画で、17世紀のヨーロッパを舞台にイスラム教勢力のオスマントルコ軍がキリスト教勢力である神聖ローマ帝国の都市ウィーンを包囲した「第二次ウィーン包囲」を描いた内容です。

砂塵を舞い上げてウィーンに進撃するトルコ軍のおびただしい軍勢、爆破によって崩れ落ちた城壁の煉瓦の上で展開する凄まじい戦闘、運命を決するクライマックスの壮絶な戦乱は臨場感と躍動感に溢れ、ダイナミックで迫真に満ちた映像に圧倒されるでしょう。

また、17世紀ヨーロッパの王侯貴族の煌びやかなファッションや生活様式、ゴージャスなライフスタイルも魅力的に描かれています。

オスマン帝国を舞台にした漫画

前述のオスマン帝国のハレムを舞台にしたドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」に登場する奴隷の身分でありながら、スレイマン1世の寵妃にまで登りつめたヒュッレムを同じく主人公とした日本の漫画もおすすめです。スレイマン1世に仕えるイブラヒムとヒュッレムの禁断の恋愛を描いた史実とは異なるフィクションの物語となっています。

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オスマン帝国の歴史や文化に触れトルコ観光を満喫しよう

トプカプ宮殿 トルコ イスタンブール

トルコのイスタンブールでは、オスマン帝国を代表する世界遺産のトプカプ宮殿など、現在でもオスマン帝国のかつての栄華に触れられる観光スポットが数多くあります。実際に訪れてオスマン帝国の歴史や文化を楽しんでみませんか。

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