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セルジューク朝の成立から滅亡までを徹底解説!オスマン帝国との関係も説明

更新日:2023.04.05

投稿日:2022.05.31

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セルジューク朝

セルジューク朝は、トルコ系民族のオグズ族率いるセルジューク家が1038年に現在のイランに樹立した王朝です。イランからインドにかけての地域を支配していたカズナ朝との争いに勝利したことで誕生しました。トルコの歴史はもちろん、ヨーロッパやアジアの歴史を語る上で忘れてはいけない王朝です。トルコというとオスマン帝国が有名ですが、セルジューク朝は、オスマン帝国ともかかわりがあります。

一時期は大帝国といわれるまでに繁栄しますが、十字軍による侵攻や内戦など、さまざまな要因が重なり1157年に滅亡しました。この記事では、セルジューク朝の特徴や、誕生から滅亡までの歴史、有名なオスマン帝国との関係などを解説します。

セルジューク朝とは?

セルジューク朝

1035年 セルジュークの部族がカズナ朝に勝利を収めホラーサーンに侵攻
1038年 ニーシャプールでトゥグリル・ベクが独立宣言
1055年 トゥグリル・ベクがカリフから初代スルタンの称号を与えられる
1063年 アルプ・アルスラーンが2代目スルタンに即位
1071年 マラズギルト(マンジケルト)の戦いでビザンツ帝国に勝利する
1072年 マリク・シャーと大宰相ニザームル・ムルクにより全盛期を迎える
1077年 クタルムシュオール・スレイマンがセルジューク朝から独立し、ルーム・セルジューク朝が成立
1092年 マリク・シャーが死去し、セルジューク朝の衰退がはじまる
1097年 十字軍の侵略により、ルーム・セルジューク朝の首都が陥落
1101年 ルーム・セルジューク朝が首都をイコニウムに移転
1157年 8代目の王が死去し、セルジューク朝が滅亡
1308年 本家滅亡後も存続していたルーム・セルジューク朝の滅亡

セルジューク朝は1037年から120年間続き、8人の君主が誕生した王朝です。1157年に滅亡した後も、後継であるルーム・セルジューク朝がしばらく続きます。ルーム・セルジューク朝とは、セルジューク朝から独立した王朝のことです。そもそも、セルジューク朝とはどのような王朝だったのでしょうか。

11〜13世紀に存在したトルコ人イスラーム政権

セルジューク朝

トルコ系民族は遊牧生活を送る民族が多く、広範囲に移動していました。トルコ系民族がさまざまな土地に定住しはじめると、イスラーム教の勢力から影響を受けてイスラーム化が進みます。セルジューク朝もそのひとつで、王朝では多くのイラン系ペルシャ人が官僚を務めていました。ペルシャ人はセルジューク朝において、政治のみならず学問や芸術の分野でも活躍します。

そのため、トルコ民族の文化とともにペルシャの文化も受け継がれており、王朝ではトルコ語とペルシャ語が使い分けられていました。宮殿や軍で使用されていたのはトルコ語、公用語はペルシャ語、宗教や研究に関してはアラビア語です。

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10th year

セルジューク朝を興した民族

王朝を樹立したオグズ族はペルシャ語で「トゥルクマーン」と呼ばれていました。トゥルクマーンとはペルシャ語で「トルコ人に似たもの」を意味します。ほかのトルコ系民族と同様にイスラーム化が進んでいたセルジューク朝もイスラーム教徒でした。なお、セルジューク朝はイスラーム教スンニ派です

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セルジューク朝の首都は現イランにあった

ニーシャプール イラン セルジューク朝

セルジューク朝の最初の首都がおかれたのは、現在のイラン北東部に位置する町「ニーシャプール」です。その後、シャフレ・レイ、イスファハーンといずれも現イラン内で2回遷都しています。

支配面積は約390万平方キロメートルと、広大な領土を支配していました。ちなみに、現在の地図で示すと、アナトリア半島、アフガニスタンに位置するヒンディークシュ山脈、ペルシャ湾やアラル海近辺を線で囲んだ地域です。

セルジューク朝の興亡の歴史

オグズ族はもともと現在のカザフスタン周辺で暮らしている遊牧民族でした。10世紀の後半に起きたモンゴルの暴動がきっかけでトルコ系民族の合併や移住がはじまり、部族長のセルジュークも部族を率いて移住することを決意します。

アラル海東部に位置するジェイドへ移ったもののトルコ民族との争いが勃発し、セルジュークの長男は、「チャガリー」と「トゥグリル」という2人の息子を残して戦死してしまいました。父を亡くした2人は、祖父にあたるセルジュークに育てられることになります。

セルジュークがこの世を去るとセルジュークの次男「アルスラン」が部族を率いることとなり、王朝は勢いを増しました。ところが、アルスランはもともとセルジュークの部族が服していたイラン東部からインドの一部までを支配していた王朝「カズナ朝」に捕らえられてしまいます。このとき、叔父でもある部族長を助け出すために立ち上がったのが、チャガリーとトゥグリルの兄弟です。

2人はセルジューク部族を分担して率いる部族長となり、1030年にカズナ朝との戦いを開始。1035年、ついに大勝利を収めます

その後メルブを支配下におくためにホラーサーンへ侵攻し、1038年には再びカズナ朝との戦いで勝利を収めました。これをきっかけにニーシャプールで独立宣言を行い、セルジューク朝の歴史が幕を開けます。

建国したのはトゥグリル・ベク

セルジューク朝

前述のとおり、セルジューク朝を建国したのはセルジュークではなく、セルジュークの孫トゥグリル・ベクです。彼は王朝の建国者であると同時に、東方イスラーム世界を統治する初代スルタンでもありました。スルタンとは、カリフというイスラーム世界における最高権威者から1055年に与えられた称号のことです。「スルタン」は、スンニ派のイスラーム王朝の君主へ受け継がれていきます。

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セルジュークとは建国者の祖父の名

「セルジューク」という名前は建国者トゥグリル・ベクの祖父であり、オグズ族を率いてきたセルジュークの名前が由来です。また、そもそもセルジュークという名前自体、オグズ族クヌク氏族出身である一族のなかで伝説のような存在とされる始祖からはじまったといわれています。なお、セルジュークはトルコ語で「セルチュク」といいます。セルチュクはトルコの観光地としても人気を集める、エフェソス遺跡が残る町の名前と同じです。

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アナトリアへの扉を開いた2代目スルタン「アルプ・アルスラーン」

アルプアルスラーン セルジューク朝

1063年にトゥグリルがこの世を去ると、チャグリーの息子が王位を継承します。2代目スルタンを継承したアルプ・アルスラーンは、シリアやパレスチナをはじめ、アナトリアに進出し、ビザンツ帝国が支配していたアニ城を征服しました。アナトリアは現在のトルコ共和国が位置する半島のことです。

1071年8月19日にはアナトリア東部で繰り広げられた「マラズギルト(マンジケルト)の戦い」において、ビザンツ皇帝ロマノス4世率いるビザンツ帝国に大勝利し、皇帝を捕虜にしました。ちなみに、この戦いで皇帝は幹部たちに裏切られ、一緒に戦ったのはわずかに残った忠実な家来のみだったといわれています。

王朝が勝利を収めるとトルコ人の多くがアナトリアへ入植しはじめたため、徐々にトルコ化していきました。なお、アナトリアはこの後トルコ人によるルーム・セルジューク朝やオスマン帝国などに支配されることとなります。

2代目スルタンがこの世を去るまでに、セルジューク朝はアナトリアのほとんどの地域を支配するようになっていました。

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王マリク・シャーと宰相ニザームル・ムルクによる最盛期

11世紀末になると、王「マリク・シャー」と王をサポートする宰相「ニザームル・ムルク」が王朝を統治し最盛期を迎えます。王朝は帝国といわれるほど巨大化しており、セルジュークの一族が各地を分担して支配していました。

マリク・シャーのサポート役である宰相ニザームル・ムルクは、軍事や行政に関するイクター制度を整備した名宰相です。イクター制度とはブワイフ朝から続く給与制度で、俸給として土地を与え、その土地で得られた収益の一部を俸給とする制度のことです。また、ニザームル・ムルクはスンニ派の神学・法学者を育成するために、ニザーミーヤ学院など、いくつかの教育機関を創設しています。

マリク・シャーが王となり指揮をとっていた王朝はウスキュダル、シヴァス、トカットアヤマスから黒海、アナトリア中央や北西・西部など、あらゆる地域へ侵略し、着々と領土を広げていきました

1077年になると、セルジュークの玄孫がアナトリアを支配するようになり、本家から独立したルーム・セルジューク朝が樹立されました。

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衰退→滅亡

十字軍

1092年にマリク・シャーがこの世を去ると王朝の衰退がはじまり、複数の要因により滅亡への道をたどります。まず、セルジューク朝に多くの領土を奪われていたビザンツ帝国は、危機感を覚えキリスト教世界に助けを求めます。助けを求められた当時のローマ教皇が十字軍の派遣を呼びかけ、王朝の領土に侵入をはじめました

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この頃、イスラーム世界の最高権威者であるカリフの権力は形だけのものとなっており、実際はセルジューク朝のスルタンが実権を握っていました。ところが、セルジューク一族の間では内戦が激化していたため、団結して十字軍と戦うことができません。

さらに、オグズ族の反乱や皇子達の反乱、西遼(カラ・キタイ)による侵略なども重なり、王朝は衰退の一途をたどります。最終的には1157年、跡継ぎのいない8代目スルタンのサンジャルがこの世を去り、セルジューク朝は滅亡してしまいました。

本家滅亡後もアナトリア半島で後継「ルーム・セルジューク朝」が継続

ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジュークを樹立したのは、もともとトゥルクマーンを統率する目的でアナトリアへ送られたセルジュークの玄孫にあたる「クタルムシュオール・スレイマン」です。ルーム・セルジューク朝の「ルーム」はローマという意味があり、ルーム地方のセルジューク朝という意味があります。

彼はビザンツ帝国の主要都市を征服した後、本家王朝から独立したルーム・セルジューク朝を樹立し、ニカエアを首都とします。1097年になると十字軍が領土に侵攻しはじめたことで、ルーム・セルジューク朝はニカイアから撤退し、アナトリアの中央部へ向かいました。1101年には現在のコンヤにあたるイコニウムに遷都し、現在のトルコ共和国とほぼ同じくらいまで領土を広げます。ルーム・セルジューク朝ではモスクや病院、マドサラなどたくさんの芸術的な建物を建築しました。

本家の滅亡後も存続し13世紀のはじめ頃に最盛期を迎えるものの、モンゴル帝国による侵略や内戦などで衰退し、1308年に滅亡しました。

セルジューク朝とオスマン帝国の関係

オスマン帝国 イェニチェリ

ルーム・セルジューク朝が滅亡した時代とオスマン帝国のはじまりの時代が近いため、セルジューク朝とオスマン帝国は混同されがちですが、両者は別物です。

ルーム・セルジューク朝が衰弱しはじめると、ベイという君侯が統治するアナトリアの君侯国家(ベイリク)が力をつけていきました。ルーム・セルジューク朝が滅亡したことでベイリク同士の争いが発生し、それぞれが領地を広げようとします。この争いでほかのベイリクを併合しながら帝国を築き上げたのがオスマン帝国です

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オスマン帝国が誕生したのはルーム・セルジューク朝が滅亡してからであるものの、ルーム・セルジューク朝ともかかわりがあります。オスマン帝国の前身ともいえるオスマン侯国の初代君主の父親が、ルーム・セルジューク朝において活躍していたからです。彼は功績を認められて冬用地と夏用地を授与されており、ここからオスマン侯国がはじまったとされています。

セルジューク朝の遺跡が多く残る都市「コンヤ」

トルコの首都から南に約250km離れたところに位置する「コンヤ」は、ルーム・セルジューク朝の首都が存在していたこともあり、セルジューク朝の遺跡が数多く残る都市です

アラエッディン・モスク

コンヤ アラエッディンモスク

たとえば、ルーム・セルジューク朝の最盛期だった1221年に建造された「アラエッディン・モスク」です。アナトリア地方では最大級のモスクで、陶器のタイルを施した堂内や説教壇に施された彫刻など美しい芸術を目にすることができます。また、古代の建物を利用しており、石柱につけられたローマ時代やビザンチン時代の柱頭も注目です。

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カラタイ博物館

コンヤ カラタイ博物館 トルコ

1251年に建造された神学校を陶器博物館として利用している「カラタイ博物館」も、ぜひ見学しましょう。セルジューク様式の鍾乳石飾りが施された正門や、トルコならではの建築様式、ターキッシュトライアングルでつくられた建物が見物です。

インジェ・ミナーレ博物館

インジェ・ミナーレ コンヤ トルコ

1265~1267年にかけて建造された神学校を博物館にした「インジェ・ミナーレ博物館」も、セルジューク様式を取り入れた代表的な建築物です。美しいセルジューク様式の建築物が残るコンヤで、セルジューク朝の名残を楽しむのも良いのではないでしょうか。

ちなみに、コンヤは京都市と姉妹都市。その関係で、「京都庭園」という日本庭園がつくられています。

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トルコへ行ってセルジューク朝の遺跡探訪をしよう

セルジューク朝 キャラバンサライ

トルコには、トルコの歴史を語る上で欠かせないセルジューク朝の遺跡が残っています。セルジューク朝は、ビザンツ帝国を破り繁栄した時代があったものの、十字軍の侵攻や内戦など複数の要因で衰退から滅亡の一途をたどった激動の歴史を持つ王朝です。

セルジューク朝はトルコ文化とペルシャ文化が融合した独特の文化が魅力で、遺跡にも美しく繊細な細工が多数見られます。トルコのコンヤで、日本では目にすることのできない芸術的な遺跡を楽しんでみませんか。独特の文化とともに、モスクや神学校など当時の風景をそのまま切り取ったような建築物を間近で見学できることも魅力です。

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