チグリス川・ユーフラテス川とは?メソポタミア文明が興った理由
更新日:2023.04.03
投稿日:2022.03.10
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世界最古の文明、「メソポタミア文明」が発祥したのは、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域です。東トルコの山岳地帯を水源とし、ペルシャ湾へと流れる2つの大河は、この地域に豊かな自然と文化をもたらしました。
この2つの川を中心に、メソポタミア文明が興りました。その理由を、歴史も踏まえながら徹底解説します。この記事を読めば、チグリス川とユーフラテス川でメソポタミア文明が栄えた理由や、このエリアにいる珍しい動物や遺跡など、旅行に行く際に役立つ知識について、理解を深められるでしょう。
Contents
チグリス川とは
名称 | チグリス川(Tigris River) |
---|---|
全長 | 約1,800km |
流域面積 | 221,000㎢ |
水源 | 東トルコ・タウルス山脈 |
平均年間流量 | 約26㎦ |
チグリス川とは、トルコ、シリア、イラクを流れる世界でも有数の大河です。このチグリス川とユーフラテス川との間の地域に、メソポタミア文明が形成されました。チグリス川は西アジアの東側、ユーフラテス川は西側を流れています。
チグリス川の特徴
チグリス川は、全長約1,800kmの西アジア有数の大河です。水源は東トルコのタウルス山脈の山岳地帯で、タウルス山脈から流れた水が土壌に染み込み、その水がエラズー県のハザル湖に集まります。そしてハザル湖に溜まった水が下へと流れていき、チグリス川となるのです。
トルコ内525㎞を通った後、一部シリア、イラクを通過し、ユーフラテス川と合流しペルシャ湾へと注いでいます。チグリス川は古来から流れが非常に速いことで知られています。夏から秋は干ばつや降水量が減少するため流量も減少しますが、冬から春は雪解け水の影響もあり、1年の中で最も水量が増えます。
チグリス川は傾斜が急で、流量が増すと上流から下流にかけて一気に水が流れ落ちるため、よく洪水が起こる川としても有名です。チグリス川下流にあるイラクには、川の流れを抑制するための世界最大規模の「モスルダム」があり、イラクの電力供給源にもなっていますが、近年整備不良による決壊のリスクが指摘されています。
チグリス川の名前の由来
チグリス川は、「ティグリス川」とも表記されます。シュメール語の「idigna/idigina」が大元の語源とされ、エラム語の「ti-gi-ra」、古代ペルシャ語の「Tigra」へと変化・派生したと言われています。
語源となったシュメール語の「idigna/idigina」には、「流れの速い川」という意味があります。また、動物のトラ「tiger」の語源は、チグリス川の「tigris」から来ていると言われています。トラの獰猛さや力強さがチグリス川の雄大な流れをイメージさせたのかもしれません。
ユーフラテス川とは
名称 | ユーフラテス川(Euphrates River) |
---|---|
全長 | 約2,800km |
流域面積 | 440,000㎢ |
水源 | 東トルコの山岳地帯 |
平均年間流量 | 約25㎦ |
ユーフラテス川は、東トルコに源流があり、シリア、イラクを流れ、チグリス川と合流してペルシャ湾にたどり着く大河です。ユーフラテス川は、西アジアの西側にあり、東側のチグリス川との間には、メソポタミア文明が生まれました。
ユーフラテス川は、文明を発展させた青銅器を造るための銅を運ぶ運河として利用されていため、「銅」を意味する古代シュメール語がその名の由来とする説もあります。
ユーフラテス川の特徴
ユーフラテス川の全長は、約2,800kmに及びます。南西アジアでは、最も長い川です。トルコ国内では計1,263Kmもの長さがあり、その後シリア、イラクの地へ入ります。イラクで東側から流れてくるチグリス川と合流し、「シャットゥルアラブ(シャトルアラブ)川」と呼び名を変えて、ペルシャ湾へと注ぎます。
ユーフラテス川の水は、上流地域の降水と雪解け水が大部分を占めているので、4〜5月の間は年間で一番水量が多くなります。夏と秋には水量が減り、流れは緩やかとなります。
以前は洪水を起こすこともありましたが、支流が少なく水量が多くないので、周辺では農業や遊牧地域として栄えています。下流は平原で水量が少なくなり、排水も悪いので沼沢地が多くなっています。
ユーフラテス川の水源は、チグリス川と同じく、トルコ東部の山岳地帯にあります。山岳地帯を源流とした「ムラト川」と「カラス川」の2つの川が、トルコ内で合流したのがユーフラテス川です。
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ユーフラテス川の名前の由来
日本語や英語で使われている「ユーフラテス」は、ギリシャ語の「エウフラテス」に由来します。トルコ語では「フラット」、アラビア語では「アル・フラーット」、クルド語では「フィラット」、ペルシャ語では「フォラート」などと、言語によって異なる呼ばれ方がされています。
古代ペルシャ語とアッカド語が語源である、アッカド語とシュメール語が語源であるなど、語源にはさまざまな説があります。例えば古代ペルシャ語では、「渡るのが簡単」という意味を持つ「ウフラトゥ」が「ユーフラテス」の語源となっていると言われています。
2つの大河は合流してシャットゥルアラブ川に
チグリス川とユーフラテス川は、イラク南部の海の近くで合流して、全長は約200kmの「シャットゥルアラブ川」になります。イラクとイランの国境地帯を流れた後に、ペルシャ湾に注ぎこみます。
シャットゥルアラブ川は、イラク側・アラブ側の名称で「アラブ人たちの河」という意味を持ちます。
チグリス川・ユーフラテス川周辺が文明の発祥地となった理由
チグリス川、ユーフラテス川周辺が、なぜ世界四大文明であるメソポタミア文明の発祥地となったのか解説します。
肥沃な三日月地帯の位置
「肥沃な三日月地帯」とは、ペルシャ湾からチグリス川とユーフラテス川の間にあるメソポタミア、シリアからパレスチナを含めた三日月形の地域のことを言います。
肥沃な三日月地帯は、北は山岳地帯となっており、南部は降水量の少ない砂漠や乾燥地帯となっています。西側は地中海に面しているので、気候が温暖で土壌の養分も多く、農業や牧畜に適した環境です。そのため、紀元前9000年頃までには、人類で初めての農業が始まったと言われています。
メソポタミア文明が栄えた理由として、肥沃な三日月地域が、広くメソポタミアの範囲にあったことが考えられます。この辺りは、チグリス川、ユーフラテス川の洪水のせいで栄養分豊富な土壌が蓄積されました。その広大な土地に加え、温暖な気候だったため、人間も動物も暮らしやすい環境となったのです。
灌漑農業の発展
灌漑農業とは、川や湖などから人工的に水を引いて、給水や排水を調整して農業を行うことです。灌漑農業が普及する前は、雨水を使った天水農業が一般的でした。
しかし、メソポタミアには、天水農業が難しい降水量の少ない乾燥地帯や、チグリス川の洪水によって発生した沼地も多くありました。
そこで、氾濫した水を調整するための池や、配水をするための水路などの排水システムが作られるようになったのです。
こうした水をコントロールする技術が普及したことにより、メソポタミアの地域では効率的で生産性が高い灌漑農業が行われるようになりました。灌漑農業が繁栄することで人が集まり、さらに文明が栄えていったと考えられます。
メソポタミアで生産されていた代表的な植物は、フタツブコムギ、ヒトツブコムギ、大麦、レンズ豆、えんどう豆、ヒヨコ豆、そら豆などです。これらの植物は、農業の基礎を形成する植物と言われ、現在でも世界各地で栽培されている農作物です。
チグリス川とユーフラテス川が生んだメソポタミア文明
南メソポタミアでは、灌漑農業が盛んになりました。農業を行う人、灌漑工事をする人、その工事に使う用具作りなどを行う人が集まってきました。灌漑農業が栄えるにしたがって、人々がメソポタミアに集まり定住するようになり、都市の中心として文化も開花していきました。
メソポタミア文明は、世界四大文明のひとつで最古の文明と言われています。メソポタミアでは、複数の王朝が繁栄し、その過程で多くの人類最古の発明が生まれました。
メソポタミアの意味は?
チグリス川とユーフラテス川の間に挟まれた「メソポタミア」は、「二つの川の間」という意味を持っています。メソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川から運搬された砂や泥などが蓄積されて形成された、広大な沖積平野なのです。
現在のトルコ南東、シリア北東、イラクの地域一帯が、メソポタミアと呼ばれる地域です。
紀元前6000年頃 | ハラフ文化(農耕・牧畜の開始) |
---|---|
紀元前5000年頃 | ウバイド文化(灌漑農業の発生) |
紀元前4000年頃 | ウルク文化(都市国家の興り) |
紀元前3000年頃~紀元前2350年 | シュメール初期王朝時代 |
紀元前2350年~紀元前2154年 | アッカド王朝 |
紀元前2004年~紀元前539年 | バビロニア |
紀元前3000年頃~紀元前609年 | アッシリア |
紀元前550年~330年 | アケメネス朝ペルシャ |
230年 | ササーン朝ペルシャ |
1534年 | スレイマン大帝が征服し、オスマン帝国に |
1920年 | 第一次世界大戦後、イギリス委任統治領メソポタミアに |
1932年 | イラク独立。メソポタミアのほとんどがイラクの領土に |
シュメール人の都市文明
「シュメール人」は、紀元前4000年頃にメソポタミア南部に定住し、初期メソポタミア文明の中心となった人々です。彼らは灌漑農業を行い、18の大都市にて階級社会が生まれ、都市国家が成立したのち、シュメール初期王朝時代が築かれました。
シュメール人は、「ジッグラト」と呼ばれる山を模した高い神殿に神々を祀っていました。ジッグラトは、メソポタミアの都市国家の中心で、王の権力を表していたのではないかと言われています。
アッカド帝国
「アッカド帝国」は、チグリス川とユーフラテス川の流れが最も近寄っている地域であるアッカドを中心に興りました。シュメール人を征服し、メソポタミアを統一したのです。
交易路となるアナトリアやシリア方面にも勢力を伸ばし、紀元前2300年頃の領地はメソポタミア全域に及びます。アッカド帝国は史上最初の中央集権国家となり、約200年続きましたが、徐々に衰退していきました。
アッカド人が使っていたアッカド語は、メソポタミアの共通語となりました。それまで使われていたシュメール語は使われなくなりましたが、文字として表す際にはシュメール人が使っていた楔形文字が使われたと言われています。
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バビロニア
チグリス川とユーフラテス川下流にある「バビロニア」を支配したアムル人の王国が「古バビロニア王国」です。バビロンを都市とし、メソポタミア文明を築き上げました。
バビロニア王国が最も栄えたのが、紀元前18世紀頃の「ハンムラビ王」時代です。ハンムラビ王は、「ハンムラビ法典」を発布した人物です。この法典の有名な「目には目を歯には歯を」という記述は、今でもことわざとして使われています。
古バビロニアは、ハンムラビ王死後、急速に衰えてしまい、紀元前1595年には、ヒッタイトによって滅ぼされました。その後、メソポタミアの北部にあったアッシリアが軍事国家となって力をつけ、アッシリア帝国としてメソポタミアを統一します。
しかし、紀元前626年にアッシリア帝国の支配下にあったセム系カルデア人が反乱を起こし、メソポタミアに「新バビロニア王国」を建国します。新バビロニア王国の首都は、バビロニアに置かれ、バビロニア時代で最も栄えました。しかし、内紛によって次第に衰えていき、紀元前539年にはアケメネス朝シリアに滅ぼされました。
アッシリアとヒッタイト
「アッシリア」は、紀元前3000年頃から、北メソポタミアに興ったセム系アッシリア人の国家です。アッシリアがあった場所は、天水農業の地帯で安定した穀物栽培ができなかったため、青銅器の原料を扱った中継貿易で栄えます。
アッシリアは、最初は小さな民族の群れでしたが、領土の拡大に力を入れ、帝国主義政策を行っていました。紀元前1200年頃に滅亡したアナトリアの「ヒッタイト人」から鉄器製造技術を受け継いだこともあり、鉄製武器・戦車などを造り、更に軍事力を高めました。
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その結果、紀元前729年には当時力のあったバビロンを征服し、メソポタミアを統一しました。この統一により、人類で初めての「世界帝国」が誕生しました。しかし、軍事力で制圧していたため、諸民族の反発もあり、約100年でその歴史は幕を閉じました。
アケメネス朝ペルシャ
アッシリア帝国滅亡後、分裂するオリエントを統一したのが、イラン系ペルシャ人の「アケメネス朝ペルシャ」です。アケメネス朝ペルシャでは、アッシリアとは対照的に征服された人々の宗教や慣習を尊重していたので、国内では様々な言語が用いられていました。
官僚制度や交通網を発達させ、中央集権体制が整っており、その勢力はイランからエジプトを支配するまでに強まりました。紀元前525年には、オリエント統一も果たします。
さらに、王朝の全盛期にダレイオス1世がギリシャを統一しようとしましたが、支配に失敗します。紀元前334年に、ギリシャからペルシャに遠征中のアレキサンダー大王率いるマケドニア軍との戦いに破れ、アケメネス朝ペルシャは滅亡しました。
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メソポタミア文明後のメソポタミア地域
その後は、アケメネス朝ペルシャを滅ぼしたアレキサンダー王が、アム川流域のバクトリアを征服しました。続いて台頭した隣国のパルティアが、シリアやイラク方面に進出し、紀元前170〜130年頃に全盛期を迎えます。
パルティアは、ローマとの抗争により次第に勢力は衰え、230年ササーン朝ペルシャによって滅ぼされます。ササーン朝ペルシャは、イラン高原を支配した農耕イラン国家です。インドとのアラビア海貿易で栄えましたが、7世紀半ば頃にイスラム勢力によって滅ぼされました。
その後、イスラム勢力は複数の帝国を築き、イスラム教信仰によってアラブ人の他、イラン人やトルコ人などが結びつき勢力を拡大していきました。しかし、1258年にアッバース朝がモンゴル軍の侵略により滅ぼされます。
この後に栄えたのが、14〜20世紀初頭の長期にわたって存続したイスラム教スンナ派のオスマン帝国です。
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長い間、オスマン帝国の支配下にあったメソポタミアは、第1次大戦から第2次大戦後までは、イギリスの委任統治領として支配されました。現在のメソポタミアの大部分がイラク共和国の独立と共に、イラクの領土に含まれました。
神話や叙事詩に登場する洪水は、チグリス川・ユーフラテス川の洪水
近年の考古学的研究によって、古代の神話や叙事詩に書き記されている洪水の多くは、チグリス川、ユーフラテス川の洪水がモデルになっていると見られています。
2つの川は、水位8mに及ぶ大洪水を、時々起こしていたことがわかりました。特に水の流れが速いチグリス川は、川から100㎞圏内の町や地域ごと水没する程の大洪水を起こしていたそうです。シュメール人が作った「シュメール神話」と「シュメール王名表」で初めて洪水の記録がされました。
シュメール初期王朝時代の王について書かれた史上最古の文学作品「ギルガメシュ叙事詩」、アッカド王朝時代の「アトラハシス叙事詩」にもチグリス川、ユーフラテス川で起こったとされる洪水をモチーフとした物語があります。カルデアのベロッソス神官の記述でも、神が洪水の発生を予測し、人々に船を造るよう命じたと記録されています。
また、洪水の神話と言えば、旧約聖書の「創世記」に記されているノアの箱舟が有名ですね。ノアの前に神が訪れ、「大洪水が起こるから、船を造って家族や動物を乗せて逃げなさい」と告げました。神のお告げ通り、大洪水は起こり、船に乗ったノアは洪水から免れて助かったという話です。
ちなみに、ノアの箱舟がたどり着いた場所は、トルコに実在するアララト山です。
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チグリス川・ユーフラテス川が干上がるって本当?
古代から洪水が発生するほど豊富な流量を有していたチグリス川とユーフラテス川ですが、近年では治水のためのダム建設や、流域国の発展による水利用の増加などによって、流量の減少問題が指摘されています。
農耕文明の発祥地となったチグリス川とユーフラテス川の恵みは、現在でもメソポタミアの地に暮らす人々にとって不可欠なのです。周辺諸国では、効率的で持続可能な水資源の確保を目指す交渉や取り組みが続けられています。
他ではなかなか見られない!チグリス川・ユーフラテス川の多種多様な動物たち
チグリス川・ユーフラテス川の豊かな自然
メソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川がよく氾濫したため、泥沼が多い湿地帯でした。2つの川の洪水によって、土壌が中下流に溜まっていき、養分の多い土壌が川の周辺に集まりました。こうして形成されたのが肥沃な三日月地帯です。
肥沃な土壌が集まるこの地帯では、ナッツや穀物などの多くの植物が育ち、川辺には鳥や小型哺乳類が多く集まりました。これらの動物を捕食するために大型哺乳類も多くいたと言われています。ここからは、チグリス川、ユーフラテス川で見られる動物について紹介します。
ゴールデンハムスター(シリアンハムスター)
ペットとしても人気のハムスターですが、野生の「ゴールデンハムスター」が生息するのは、シリアとトルコの国境周辺の限定的なエリアです。乾燥した岩場や砂地に生息し、体長は15〜20cmと小さいですが、餌を探して20kmも移動します。
ホオアカトキ
「ホオアカトキ」は、全長80cmのペリカン目トキ科に属する鳥です。モロッコやトルコに生息していて、絶滅が危惧されている稀少種です。ユーフラテス川付近には、ホオアカトキ繁殖場があるので、運が良ければ川の周辺でホオアカトキを見られるかもしれません。
ユーフラテススッポン
「ユーフラテススッポン」は、「メソポタミアハナスッポン」とも呼ばれています。このスッポンは、世界でもチグリス川、ユーフラテス川流域だけにしか生息していない品種です。水深が浅く、流れの緩やかな場所に生息しているとされています。
ハッラントカゲ
「ハッラントカゲ(ハラントカゲ)」は、北メソポタミアから北西に進んだ場所にあるトルコ南東のシャンルウルファ県ハラン地区にしか生息していない、トルコ原産の珍しいトカゲです。ハッラントカゲは、ハラン遺跡に開いた穴や、ハルマラの根の間に生息しているのが確認されています。
ハランは預言者アブラハムが立ち寄った地として長い歴史を持ち、周辺には貴重な遺跡も多く残されています。
サンエアリ・ブルー
「サンエアリ・ブルー」は、「シジミチョウ」のことで、羽の色彩や斑紋は多種多様な小型のチョウです。その中でも、サンエアリ・ブルーは、光り輝く綺麗な水色の羽が特徴の品種です。
メソポタミア農耕文明以前の遺跡が発見!世界遺産ギョベクリ・テペ
近年、メソポタミア文明が発展した土地から、世界最古の宗教施設と言われる「ギョベクリ・テペ」が発見されました。ギョベクリ・テペは、トルコ南東部にあるシャンルウルファの丘の上に位置しています。
発見された遺跡は、T字型の石柱でその胴体には、人、手、腕、色々な種類の動物、抽象的なシンボルが彫刻されていました。これらは、今から1万2,000年前に建造され、メソポタミア文明より古い遺跡だと言われています。
これらの彫刻が表しているモチーフやこの地周辺には住居跡などが発見されていないことから、ギョベクリ・テペは宗教施設だったのではないかと推測されています。そのため、農業や文明が開花する前から宗教は広がっていたのではないかとも言われ、これまでの通説を覆す学術的に大きな発見となっています。
名称 | ギョベクリ・テぺ遺跡(Göbekli Tepe) |
---|---|
住所 | Örencik, 63290 Haliliye/Şanlıurfa |
ユネスコURL | http://whc.unesco.org/en/list/1572 |
ギョベクリテペ遺跡とは?謎多き世界最古のトルコの遺跡【世界遺産】
チグリス川とユーフラテス川の知識を深めてのトルコ旅行がおすすめ
この記事では、チグリス川とユーフラテス川で世界最古の文明であるメソポタミア文明がなぜ栄えたのか解説しました。この2つの川があったからこそ、自然豊かな場所で農業が発達し人々が集まり、文明が興ったと言えるでしょう。
トルコには、チグリス川やユーフラテス川付近の豊かな自然、世界最古の遺跡「ギョベクリ・テペ」など、人気の観光地が多数あります。ぜひチグリス川とユーフラテス川にまつわる歴史について知識を深めたうえで、トルコ旅行を楽しんでください。
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