ナイチンゲールって何をした人?なぜ有名なのか、その生涯と功績を紹介!
更新日:2023.05.08
投稿日:2022.08.10
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「ナイチンゲール」という名前は多くの人にとってなじみがあるでしょう。また、ナイチンゲールが看護師だったことも有名です。
しかし、実際にナイチンゲールが何をした人なのか、どうして有名になったのかはあまり知られていません。また、実はトルコがナイチンゲールにとって縁のある場所だったことも知らない人が多いでしょう。
ここでは、ナイチンゲールの生涯や功績、有名になった理由に加え、意外なトルコとのつながりについて紹介します。
Contents
ナイチンゲールとはどんな人物?
「白衣の天使」と呼ばれたナイチンゲールとはどんな人物だったのか、歴史や功績とともに振り返ります。まず、ナイチンゲール本人の基本情報は以下のとおりです。
- 名前 :フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)
- 生年月日:1820年5月12日
- 出生地 :トスカーナ大公国/首都フィレンツェ(現イタリア/フィレンツェ)
- 没年 :1910年8月13日(享年90歳)
フローレンス・ナイチンゲールの早見年表
ナイチンゲールの功績や主な出来事を年表にまとめると、以下のようになります。
1820年5月12日 | 両親の新婚旅行中にフィレンツェで誕生 |
---|---|
1836年(16歳) | 神のお告げを聞く |
1847年(27歳) | ローマ旅行でハーバート夫妻と出会い交流 |
1851年(31歳) | カイゼルスベルト学園(ドイツ)で看護師の勉強を開始 |
1853年(33歳) | ロンドンの病院に就職 |
1854年(34歳) | クリミア戦争に従軍、イスタンブール・スクタリの野戦病院で約2年間看護活動に従事 |
1856年(36歳) | イギリス国内の病院における看護、衛生改革に乗り出す |
1857年(37歳) | 過労で倒れ、ほぼ寝たきりの状態に |
1860年(40歳) | ナイチンゲール看護学校設立、著書「看護の覚え書」出版 |
1901年(81歳) | 失明 |
1907年(87歳) | イギリス政府から女性初の「メリット勲章」の叙勲を受ける |
1910年8月13日 | イギリスの自宅にて静かに息を引き取る(享年90歳) |
ナイチンゲールの主な功績
ナイチンゲールがここまで有名になった理由としては、以下のような功績が挙げられます。
- クリミア戦争において徹底した衛生管理により兵士の死亡率を激減させる
- 看護環境を改善する過程でレーダーチャートやグラフ、統計学を生み出した結果、女性初の王立統計協会会員に選出される
- 専門的教育を受けた看護師の必要性を説き、世界初の看護学校を設立する
- イギリス陸軍病院の衛生改革を行い、近代的な看護体制を確立する
- 女性初のメリット勲章を受章する
30歳を超えてから看護師の勉強を始めたにもかかわらず、世界初・女性初といった偉大な功績が多いことに驚かされます。
ナイチンゲールの生涯
さまざまな功績を残したナイチンゲールですが、看護師になるまでには紆余曲折がありました。ナイチンゲール自身の生涯を詳しく振り返ります。
生い立ち
ナイチンゲールは当時のトスカーナ大公国の首都フィレンツェ(現イタリア/フィレンツェ)で誕生しました。「フローレンス(Florence)」という名前は出生地フィレンツェの英語読みから名付けられています。両親はイギリス人であり、約2年にもわたる新婚旅行中に滞在していたフィレンツェでナイチンゲールを出産しました。
ナイチンゲールはとても裕福な家庭に生まれ、幼少期からフランス語やギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、イタリア語などの外国語や、ギリシャ哲学(プラトン)、数学、天文学、経済学、心理学、歴史学など幅広い分野の高等教育を受けていました。これは当時の女性にとってはとても珍しいことです。
ナイチンゲールはとくに得意だった数学の道に進みたいと考えており、反対する両親とたびたび衝突していたというエピソードもあります。
看護の世界を志すきっかけ
ナイチンゲールは小さい頃から、動物や周りの人が病気や怪我をした際に献身的に介護をする優しい人物でした。また、ナイチンゲール家では貧しい家を助ける慈善活動を行っていました。高度な教育を受けていたナイチンゲールですが、慈善活動に携わったことで大きく運命が変わります。
ナイチンゲールは生涯で4回にわたって神の声を聞いたと自身のメモに残しています。そして、16歳のときに初めて聞いた声が「神に仕えなさい。自分の信じる道を進むのです。」でした。
当時のイギリスは飢餓が蔓延しており、貧困層の暮らしぶりはひどいものでした。こうした状況から、ナイチンゲールは24歳のとき「自分の信じる道は貧しい人や病人を助けること」だと考えます。16歳のときに聞いた神の声に対する答えを見つけたナイチンゲールは、看護の道を目指すことに決めました。
家族の猛反対
当時のイギリスでは、女性が社会へ出て活躍することは推奨されていなかったうえ、とくに裕福な家庭では結婚こそが大事だとされていました。
また、富裕層にとっては医者が家に来る往診が当たり前となっており、病院は下層階級の病人が集まる不潔な場所とされていました。病院は、現代のように病気を治すための場所という純粋な存在ではなかったのです。
そして、看護師という職業も評判が悪く、専門知識も必要とされていませんでした。ただのお手伝いやお世話係といった印象が強く、下層階級で教養のない女性がする仕事だったのです。
そのため、ナイチンゲールが看護の世界に入ることは家族から猛反対されていました。
31歳でようやく看護の道へ
看護の道を目指すと決めたナイチンゲールでしたが、猛反対する母や姉との不仲などもあり、望む進路に進めない状態が続きます。
ナイチンゲールが27歳のとき、友人に誘われて行ったローマへの旅行で、保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと知り合います。帰国後もハーバート夫妻との交流は続き、とくに夫人のエリザベスはナイチンゲールを応援し、のちにナイチンゲールの世話をしてくれる存在となります。
そして、ナイチンゲールが31歳のとき「精神を病んだ姉の看護をする」という口実で家族の猛反対を押し切り、ドイツのカイゼルスベルト学園で看護師の勉強を始めました。こうして、ようやく看護の世界に入れたのです。
ドイツのカイゼルスベルト学園は病院に併設されており、ナイチンゲールはここで看護の経験を積みました。
帰国後ロンドンの病院へ就職
ドイツのカイゼルスベルト学園で看護の経験を積んだあと、ナイチンゲールはイギリスに帰国してロンドンの病院に就職します。就職先を斡旋してくれたのは、27歳のときローマ旅行で出会ったエリザベス・ハーバートでした。
ただ、当時の看護師は前述のとおり評判が悪く“卑しい職業の代名詞”といった扱いを受けていました。待遇もひどく、ナイチンゲールは無給で働いていたのです。ナイチンゲールの父は、看護の道に進むことをよく思ってはいないながらも理解はしており、生活費を全額まかなうなど金銭面においてサポートしてくれていました。
ナイチンゲールの生きた19世紀のイギリスでは、産業革命により都市に多くの労働者が流れました。しかし、街では労働者を受け入れる体制や環境が整っておらず、低賃金で働く人々の生活水準は劣悪を極めていました。
都市はスラム化しており、ペストやコレラといった伝染病が蔓延した結果、1853~54年には1万人以上もの犠牲者を出したといわれています。
看護の世界に入ったナイチンゲールは、ただ患者の世話をするだけでなく、患者が過ごす環境を整えることにも情熱を注ぎ、病院の立て直しに励んでいました。具体的には、各階における温水用の配管や、患者の食事を上階に運ぶための「リフト」、ナースコールの原型である「呼び鈴」の設置を病院に指示したとされています。
ナイチンゲールの転機|クリミア戦争の勃発
ナイチンゲールが34歳のとき、転機が訪れます。クリミア戦争の勃発です。
クリミア戦争の始まりはオスマン帝国とロシアの戦いでしたが、のちにイギリスも参加することになります。イギリス軍はイスタンブールのスクタリ(現ユスキュダル)に基地を置き、そこに陸軍の野戦病院を設立しました。
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戦争の様子はイギリス国内でも報道されていました。戦場で傷付いた多くの兵士たちが手当もされないまま死んでいること、薬も包帯もなく満足な治療とはほど遠い状態であること、さらにはイギリス以外の国では医者の数が多いうえに慈善会のシスターたちが優れた看護をしていることなどが報じられたのです。クリミア戦争の最前線において、負傷したイギリス軍の兵士たちが受ける悲惨な扱いをイギリス国民全体が知ることとなりました。
戦時大臣のシドニー・ハーバート(エリザベス・ハーバートの夫)は事態を重く捉え、ナイチンゲールにクリミア戦争への看護師としての従軍を依頼します。報道で戦争の様子を知っていたナイチンゲールもイスタンブールに渡る方法を模索していたため、シドニーの依頼を承諾しました。
ナイチンゲールはすぐさま、イギリス人のシスター24人と看護師14人とともに、イスタンブールに渡りました。
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スクタリの野戦病院の惨状
ナイチンゲールが向かったのは、最前線で負傷した兵士たちが治療のため搬送されてくる、スクタリの野戦病院でした。ナイチンゲールが到着すると、現地には地獄ともいえる惨状が広がっていました。負傷兵は不潔な床にそのまま寝かされ、汚水による悪臭が立ち込み、包帯や食糧は十分に行き届いておらず、救えるはずの負傷者が次々と命を落としてしまう悲惨な状況でした。
また当時の陸軍は男社会であったため、野戦病院に到着したナイチンゲール一行は“お嬢様たちのお遊び”と馬鹿にされ、看護の業務に就かせてもらえませんでした。病院のあるまじき惨状について、ナイチンゲールは軍医長官たちに直談判するもまったく相手にされません。軍医長官は、このような状況でも本国に「問題なし」と報告していたのです。
当然ながら一部の看護師は扱いに不満を感じており、なかにはイギリスに帰る者もいました。
最初の一歩はトイレ掃除から
看護の業務に就かせてもらえなくても、ナイチンゲールはあきらめません。できることから始めようと最初に着手したのは、管理が行き届いていないトイレの掃除でした。誰もやりたがらないトイレ掃除を自ら引き受け、そこから病院内部の清掃へと範囲を広げていきました。ナイチンゲールの衛生改革はトイレ掃除から始まったのです。
ナイチンゲールの尽力によって病院の状態が改善していくと、次第にその成果が認められます。戦闘の激化により多くの負傷兵が搬送されるようになったこともあり、負傷者の介助や看護の業務も任されるようになりました。
ナイチンゲールたちの活動が従軍記者によってイギリス本国に報じられると、世論は看護師団を支持します。ヴィクトリア女王もナイチンゲールへの支持を表明し、彼女の報告書を直接自身に提出するよう布告を出しました。
女王の布告には軍医長官も折れざるを得ず、ナイチンゲールはついに野戦病院の看護師長として正式に看護業務にあたることが許されました。ナイチンゲールがスクタリに来て半年経った頃のことです。
衛生改革から「クリミアの天使」と呼ばれるまでの活躍
看護師長になると、ナイチンゲールにとって本当の戦いが始まります。昼夜を徹した看護もむなしく、戦場から生き残った兵士が病院で命を落としてしまう状況が続きます。ナイチンゲールが看護師長になった直後の負傷兵の死亡率は、42%にまで上昇してしまっていたのです。
状況を見続けていたナイチンゲールは、兵士たちが命を落としている原因は戦場での怪我ではなく、病院の衛生環境に起因する感染症の蔓延によるものだと気付きます。
そして衛生改革に乗り出します。徹底的なノミ、シラミ、ネズミの駆除や、悪臭改善を目的とした換気窓の使用に加え、壁を白く塗って汚れを分かりやすくするなど衛生的な環境を保てるようにしました。さらに、病院周辺にいた売春婦と区別するため看護師たちに制服の着用を命じます。腕利きの料理人を雇用し、冷たかった病院食を温かくおいしい食事に変え、健康管理も含めた看護を行いました。
いずれも現在の病院では当たり前のことですが、ナイチンゲールはその基礎に通じるさまざまな改革を行ったのです。集められたお金以外にも、ナイチンゲール自身が私財を投じて必要なものを揃えたといわれています。
衛生改革の結果、戦地の病院において42%もあった死亡率はわずか3ヶ月で5%にまで激減しました。ナイチンゲールは看護師として、“看護の力”でそれを成し遂げたのです。
また看護の仕事に加え、負傷した兵士たちのために母国に残された家族に手紙を書いたり、亡くなってしまった兵士の家族にわずかな義援金を送ったりするなど、心理的なケアも行っていました。
ナイチンゲールの活躍は、戦場に同行していたロンドンニュースの記者による報道でイギリス国内に知られることとなります。改革によって助けられた兵士たちはナイチンゲールを「天使」と呼んで慕い、兵士たちもその活躍を国中に伝えたのです。結果、ナイチンゲールは「クリミアの天使」のほか、ランプを持って夜の見回りをする姿から「ランプの貴婦人」などと呼ばれるようになりました。
トルコはナイチンゲールにとって縁のある場所だとお伝えしましたが、ナイチンゲールが活躍した野戦病院のある場所こそがトルコのイスタンブールだったのです。ナイチンゲール自身が看護師として奉仕していた期間は2年半と短かったのですが、そのうちの1年半がクリミア戦争におけるスクタリの野戦病院での看護活動でした。
クリミア戦争の終結と帰国
1856年3月30日、パリで平和条約が締結されたことによって4月29日をもってクリミア戦争は終結します。しかしナイチンゲールは終戦後もすぐには帰国せず、スクタリの野戦病院で負傷兵の看護を続けました。7月16日に最後の患者の退院を見届けたあとも、病院が閉鎖されるまでスクタリに残っていました。
クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍は報道によってイギリス国内に知れ渡っており、ナイチンゲールは国民的英雄となっていました。しかしナイチンゲール本人は“多くの人を救えなかった”という後悔の思いが強く、自身が英雄扱いされることを快く思っていませんでした。
そのため、スクタリの病院が閉鎖されたあとの8月6日、ナイチンゲールは「スミス」という偽名を使ってひそかに帰国します。36歳のときでした。
統計学者としてのナイチンゲール
帰国してまもない11月、ナイチンゲールはクリミア戦争をともにした看護師団を再集結させました。そして、クリミアでの負傷兵の死因分析の結果や、衛生環境改善および従軍看護師の必要性をヴィクトリア女王に伝えるため、報告書(レポート)をまとめます。
クリミア戦争で死亡した兵士の状況を分析するため、死亡率や平均入院日数の計算などを用いた医療統計学を生み出しました。900ページにも及んだといわれる報告書は、医療従事者ではないヴィクトリア女王にも理解しやすいよう、図やグラフなどを用いて視覚的にわかりやすく作成されていたといわれています。
まだ円グラフも棒グラフもなかった時代に、ナイチンゲールの報告書には「レーダーチャート(クモの巣チャート)」が使われていました。レーダーチャートは現在でもさまざまな場面で活用されていますが、実はナイチンゲールが莫大なデータの分析結果を示すために考案したものだったのです。レーダーチャートのほかにも「鶏のとさかグラフ(コウモリの翼グラフ)」と呼ばれる円グラフもナイチンゲールが生み出したものでした。
幼いころから高等教育を受け、とくに数学を得意としていたナイチンゲールだからこそ考案できたものだといえるでしょう。
統計学の観点での功績が認められ、ナイチンゲールは1859年に女性初の王立統計協会会員に選ばれ、1875年には米国統計学会の名誉会員にもなりました。イギリス政府は、統計学の先駆者としてナイチンゲールの名を挙げています。
あまり知られていませんが、実はナイチンゲールは看護だけでなく統計の分野でも大きな功績を残していたのです。
世界初の看護師養成学校の設立
1860年、ナイチンゲールが40歳のとき、戦時中に作られた「ナイチンゲール基金」が目標の45,000ポンドに到達しました。そしてロンドンの聖トーマス病院内に「ナイチンゲール養護学校」という看護師養成学校を設立します。
ナイチンゲールが創設した看護学校は、看護知識だけでなく病院管理の教育も担いました。そして、宗教とは一切関係のない世界で最初の看護養成学校でもありました。
看護養成学校の校長は、聖トーマス病院の看護師長ウォードローバーが務めました。しかしナイチンゲール自身も教育に携わり、生徒たちを厳しく指導していたといわれています。指導を受けたナイチンゲール養護学校の生徒たちは卒業後に各地の病院で活躍し、イギリス医療体制の大きな改善に貢献しました。
その後、同様の養成学校がイギリス各地に作られると、現代に近い看護師養成体制が整いはじめます。この頃には、ナイチンゲールが看護の道を目指したときに存在した「看護師に対する偏見」はほとんどなくなっていました。
なお、現在この聖トーマス病院にはナイチンゲール博物館があります。
晩年のナイチンゲール
晩年のナイチンゲールは、自力で生活することが困難になった両親の介護にあたります。しかし、1874年に父親が80歳で、1880年に母親が91歳で亡くなると、その後は活動も少なくなります。1890年に姉が71歳で亡くなったあとは、自宅で過ごすことが多くなりました。
生涯独身を貫いたナイチンゲールでしたが、自宅には甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りしていたためとても賑やかだったといわれています。
ナイチンゲールはベッドの上でも執筆活動などを続けてきましたが、1901年に視力を失ってしまいます。その後、ナイチンゲールは表舞台に姿を現すことがなくなりました。
メリット勲章
1907年、ナイチンゲールが87歳のとき、クリミア戦争での功績やその後の看護改革などの功績を称えられ、メリット勲章を授かります。メリット勲章とは、イギリス国王もしくは女王から贈られる勲章で、現存する勲章の中で最も名誉なものであるとされています。
ナイチンゲールは、女性として初めてメリット勲章を受章した人物です。
ナイチンゲールの最期
1910年8月13日、90歳となったフローレンス・ナイチンゲールは自宅で静かに息を引き取ります。90歳で亡くなるまで、ナイチンゲールは一生のほとんどを看護改革などに費やしました。
ナイチンゲールの死に際し、イギリス政府は国葬を打診しました。しかし遺族がこれを拒否し、ナイチンゲールは親族のみによって静かに見送られました。
遺族が国葬を断ったのは、ナイチンゲール自身が生前にそう望んでいたからだといわれています。また、ナイチンゲールの墓は本人の意志により、イギリス・ハンプシャー州の聖マーガレット教会に置かれました。墓石には「Florence Nightingale」というフルネームではなく、「F.N」というイニシャルだけが刻まれています。
ナイチンゲールの執筆活動
ナイチンゲールは看護に関する執筆活動も行っており、出版物は150以上にものぼります。
実は、ナイチンゲールはスクタリでの活動中にクリミア・コンゴ熱にかかっており、治ったあとも後遺症が残ってしまっている状態でした。さらに、さまざまなストレスや心労が重なった結果、「慢性疲労症候群」を患ってしまいます。ナイチンゲールの体力は落ち、看護の第一線から退くこととなりました。
そして、それ以降亡くなるまでの約50年間はほとんどベッドの上で生活をしていました。慢性疲労症候群によってベッドでの生活を余儀なくされたナイチンゲールですが、看護に対する想いは消えておらず、本の執筆活動などを行っていました。150以上にものぼる出版物は、ベッドの上で執筆されたのです。
看護覚え書(Notes On Nursing)
ナイチンゲールの著作として最も有名なのが、1860年に出版された「看護覚え書 (Notes On Nursing)」です。“看護とは何か”という定義が書かれた初めての書物で、日本の看護師なら誰もが知っている名著の一つであり、看護師のバイブルともいわれています。
前述のとおり、当時は看護師に対する偏見がありました。一方、自宅で病人を看護する女性たちも慣習による間違った手当てをしていました。ナイチンゲールはこうした実態を正したいと考え、「看護覚え書」には看護の原点・基本的原理が綴られています。
病院覚え書(Notes on Hospitals)
看護覚え書とおなじく有名なのが、同年に出版された「病院覚え書(Notes on Hospitals)」です。
当時、病人を病気から回復させるための施設であるべき病院は、管理不備や建築構造の欠陥によって病状を悪化させ、感染症を誘発させる温床となっていました。病院建築のあり方を見直すべく、「病院覚え書」には患者一人に必要な療養空間や窓・ベッドの配置方法など、ナイチンゲールの考え・理論が記述されています。
なかでも「ナイチンゲール病棟」と呼ばれる建築方式は、ナイチンゲール本人指導のもとで聖トーマス病院の建築に利用され、のちにさまざまな国で取り入れられました。
「国際看護師の日(看護の日)」はナイチンゲールの誕生日
近代看護教育の母とも呼ばれるようになったナイチンゲール。そのナイチンゲールが生まれた5月12日は「国際看護師の日」に制定されました。
1965年に国際看護師協会によって制定された国際看護師の日は、看護師の社会貢献を称える日となっています。日本でも、厚生省(現厚生労働省)によって1990年に「看護の日」が制定されました。
トルコとナイチンゲールの関係性
看護の世界で多大な貢献を果たしたナイチンゲールは、実はトルコと深い関係があります。
トルコで看護師として従事
ナイチンゲールが看護師として従事した期間の大半は、トルコ・イスタンブールでのものでした。その功績を称え、イスタンブールにはナイチンゲールの名を冠した病院が4ヶ所もあります。
また、1961年にイスタンブールの新市街シシリ(Şişli)に造られたトルコ最初の高等看護学校は、「ナイチンゲール看護学校」と名付けられました。1977年にイスタンブール大学医学部の管轄になったあとも、「医学部フローレンス・ナイチンゲール看護学科」の名で教育が続けられています。
フローレンス・ナイチンゲール博物館
ナイチンゲールが活躍したスクタリの野戦病院は、もともと「セリミエ兵舎(Selimiye Kışlası)」と呼ばれ、オスマン帝国の第28代皇帝セリム3世によって1806年頃に建てられた兵舎でした。
クリミア戦争時、イギリス軍にこの兵舎が割り当てられたことにより、1854年からナイチンゲールが看護に従事することとなったのです。
セリミエ兵舎はイスタンブールのアジア側「ユスキュダル(Üsküdar)」にあり、現在はトルコ第一国軍の兵舎となっています。建物北西部分にあるナイチンゲールおよび看護団が寝泊まりしていた部屋は、1954年に「フローレンス・ナイチンゲール博物館」として公開されました。当時ナイチンゲールが使っていた机や写真、メモなどが展示されています。
名称 | フローレンス・ナイチンゲール博物館 (Florence Nightingale Müzesi) |
---|---|
住所 | Selimiye Kışlası, Üsküdar / İstanbul,トルコ |
開館日 | 月曜~金曜日 |
休館日 | 土・日曜日、祝日 |
入場料 | なし |
軍施設のため、見学の際は2日前(48時間前)までに電話を入れたうえで、パスポートコピーと訪問日時、訪問理由をあらかじめFAXまたはE-mailで送り、事前予約をとる必要があります。
ナイチンゲールについてのまとめ
本記事では、ナイチンゲールの生涯や功績をまとめて紹介しました。ナイチンゲールは看護の概念がない時代にその基礎を築き上げ、看護や病院のあり方を説き続けました。現代の看護があるのも、ナイチンゲールの功績によるものといえます。
また、ナイチンゲールは医療衛生の改革者でありながら、看護の世界だけにとどまらず統計学の先駆者という一面も持ち合わせていました。誰もがお世話になる病院、そして看護師、その原点にナイチンゲールがいたことを知ってもらえたなら幸いです。
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