エルトゥールル号遭難事件とは?日土友好のきっかけとトルコからの恩返し
更新日:2023.09.11
投稿日:2023.09.11
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エルトゥールル号遭難事件とは、1890年にオスマン帝国の軍艦が日本の和歌山県串本町沖で座礁し、沈没してしまった出来事です。500名以上の犠牲者を出した痛ましい事故でしたが、沿岸の紀伊大島の住民による必死の救助活動によって69人の乗員救出に成功。日本とトルコの深い交流の端緒となりました。
トルコが親日国となったきっかけとしても知られるエルトゥールル号遭難事件の顛末や、この出来事を忘れなかったトルコ人からの心温まる恩返しのエピソードをご紹介します。
Contents
エルトゥールル号遭難事件を簡単に解説!
エルトゥールル号は、1887年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問への返礼などの目的で、オスマン帝国から日本に派遣された船です。
親善使節団を乗せて1889年7月にイスタンブールを出港したエルトゥールル号は厳しい航海の中、途中イスラム諸国に立ち寄りつつ、1890年6月に日本に到着。無事に明治天皇に親書を手渡し、東京に3ヶ月滞在した後、1890年9月に横浜港を出航して帰国の途につきました。
しかし、その途中で台風に遭遇し、エルトゥールル号は暴風雨によって和歌山県串本町紀伊大島沖の樫野埼付近で座礁・沈没。使節団を含めた656人の乗員のほとんどは荒海に投げ出されてしまいました。
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日本人が69名の生存者を懸命に救助
このとき、エルトゥールル号の乗員を救助したのが、地元串本町大島の島民たちです。海岸に流れ着いた乗員を発見し、遭難事故を知った大島の人々は不眠不休で生存者を捜索し、生存者の救護活動を懸命に行いました。
海岸に打ち上げられた傷だらけの遭難者をロープで自分の身体に縛り付け40メートルの崖を登って救護所に運び込む人もいれば、海水に浸かって冷えきった彼らの身体を抱きしめ、自らの体温で温めた人もいました。さらに当時は貴重な食料であった畑の芋や非常食用のニワトリを惜しみなく供出し負傷者に分け与えたのでした。
エルトゥールル号の死者・行方不明者は587人に上りましたが、こうした献身的な救助活動の甲斐あって69名の命が救われたのです。
生存者は無事トルコに帰国
知らせを受けた明治政府も、明治天皇の意向を受け、すぐ現地に医師や看護師を派遣。日本全国からは多くの義援金や物資が贈られました。
救助された69人の生存者は神戸で治療を受けてそれぞれ快方に向かいました。そして、同年10月に比叡、金剛2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌年1月に無事イスタンブールに無事入港したのです。当時は日本との国交は樹立されておらず、軍艦2隻による送還には多額の出費を伴うため、異例中の異例の対応でした。
トルコ側はこのときの日本人の救助活動や政府の対応に大きな感銘を受けたそうです。
エルトゥールル号遭難事件を契機とした山田寅次郎の活躍
さらに、話はこれだけでは終わりません。実業家の山田寅次郎はエルトゥールル号の犠牲者遺族に対し義援金を送ろうと計画します。彼は日本全国で講演を行い、現在の価値で約1億円にもなる寄付を集めてトルコへ渡りました。熱烈な歓迎を受け、トルコ皇帝にも拝謁した寅次郎は、その後、トルコの士官学校で日本語や日本文化を教えたり、トルコと日本の貿易事業を立ち上げたりして、両国の交流に尽力しています。
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「エルトゥールル号の借りを返しただけ」トルコからの恩返し
エルトゥールル号遭難事故での感謝を忘れなかったトルコ人は、1世紀の時を経たイラン・イラク戦争の際に、今度は日本人の危機を救ってくれました。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日にイラクのフセイン大統領が「48時間後にイラン上空を飛ぶ航空機を無差別に撃ち落とす」という声明を発表。世界各国が自国民のために救援機を出す中で、自衛隊の海外派遣がタブー視されていた日本は救援機を送れず、イラン在住の日本人はテヘラン空港に取り残されてしまいました。
そんな中、2機のトルコ航空の救援機が、自国のトルコ人よりも優先して日本人を救出し、215名全員が無事イランを出国できました。しかし、なぜトルコ政府が自国民を危険にさらしてまで日本人を優先救助してくれたのか、当時は日本政府にもマスコミにも分かりませんでした。
駐日トルコ大使は後に、このときトルコが日本を助けた理由について、次のように語っています。
「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです。エルトゥールル号事故のときの日本人の献身的な救助活動を、トルコ人は今も忘れていません。私も小学生のとき、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでもエルトゥールル号事件を知っています。だから、日本人を助けるためにトルコ航空機が飛んだのです」
エルトゥールル号事件から95年を経て、日本への恩を返したイランでの救出劇は、トルコの親日感情と両国の友好を象徴する出来事といえるでしょう。
エルトゥールル号遭難事件を題材にした日本・トルコ合作映画
2015年には、日本・トルコ合作でエルトゥールル号遭難事故を描いた映画「海難1890」が制作されています。きっかけは、当時、乗員らを治療していた日本人医師の手紙が発見されたことでした。トルコから救援活動に要した諸々の費用を請求するようにとの申し出に対し、医師は手紙で「「最初からお金を請求するつもりはない。ただただ痛ましく哀れに思い行ったこと。そのお金は遭難した人々に施してあげてほしい」と断ったのです。
発見された手紙の写しが地元の寺から110年ぶりに発見され、串本町の町長は事故をきっかけに始まった日本人とトルコ人の交流を描いた映画を制作することを提案。大学の同期だった映画監督の田中光敏氏の協力により製作が実現しました。撮影はトルコと串本町の両方で行われ、両国の豪華キャストが出演しました。
映画『海難1890』公式サイト:http://www.kainan1890.com/
友好ソングを歌うのは「飛んでイスタンブール」の歌手
2007年11月、エルトゥールル号事件120周年を記念した『誓い エルトゥールル号遭難120周年記念/日本・トルコ友好のテーマ」が発表されました。
日本とトルコの友好ソングであるこの曲を歌うのは、1978年に『飛んでイスタンブール」の大ヒットで有名になった女性歌手の庄野真代さんです。作詞を務めるのは和歌山出身でトルコ人の夫をもつ及川眠子さん、作曲も和歌山出身の蝦乃木ユウイチさんです。120年の時を経て、再びトルコと日本、和歌山の絆が歌によってよみがえりました。
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エルトゥールル号遭難事件は道徳の教科書にも
エルトゥールル号遭難事件は、オスマン帝国の人々に感銘を与え、トルコ共和国が建国されてからも語り継がれました。トルコの小学校の教科書に取り上げられた時期もあり、事件から130年以上経った現在でも、トルコ人の3割がこの出来事を知っているといわれています。
また、日本でもトルコとの関係や国際交流を学ぶ題材として、中学校の道徳の教科書にエルトゥールル号遭難事件を取り上げた『海と空 ―樫野の人々―』という読み物が掲載されました。
エルトゥールル号遭難事件をきっかけに今も続く日土の友好
エルトゥールル号遭難事故をきっかけにして、和歌山県串本町はトルコの都市と姉妹都市協定を結んでいます。1つはトルコ北部のヤカケント町です。
1963年8月、トルコ日本友好議員連盟の議員らがエルトゥールル号事件で救助を行った串本町を訪れました。その際、串本町の漁村風景がトルコのヤカケント町に似ていたことから、1964年11月11日、姉妹都市関係が決議されました。1997年5月14日、当時のヤカケント町長イブラヒム・バトゥ氏が来日し、調印文書を交わして正式に姉妹都市提携が結ばれました。
もう1つはトルコ南部の都市メルシン市です。1975年10月8日に姉妹都市になり、メルシン市には串本町との友好関係を表す串本姉妹都市通りが作られています。
エルトゥールル号遭難事件の歴史に触れられる観光スポット
和歌山県串本町沖の海底には、未だエルトゥールル号の残骸が海底に沈んでおり、現在も引き上げ作業や調査は続けられています。串本町には、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者を弔うために建てられた慰霊碑があり、5年ごとに追悼式典が行われているのです。
また、エルトゥールル号遭難事件の遺品や写真を展示したトルコ記念館が建てられています。
エルトゥールル号遭難事件の慰霊碑
遭難現場である船甲羅岩礁の真上にある樫野埼の丘にエルトゥールル号が遭難した際、引き揚げられた遺体が埋葬されています。遺体はエルトゥールル号遭難事件の際に救出されて一命を取り留めたハイダール士官立ち合いのもと埋葬されたといわれています。
遭難事件の翌年、和歌山県知事や有志の義金により墓碑と追悼碑が建立され、追悼祭が行われました。
その後、トルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが昭和天皇の樫野埼を訪問されるのを聞き、新しい慰霊碑を建立することを決定しました。委託を受けた和歌山県が、現在の立派な慰霊碑に改修したのです。
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慰霊碑は、天皇行幸8周年記念日の1937年6月3日に除幕の日を迎えてから、今も樫野の丘にそびえ立っています。
名称 | トルコ軍艦遭難慰霊碑 |
---|---|
所在地 | 和歌山県東牟婁郡串本町樫野 |
アクセス | JR紀勢本線串本駅よりバスで37分、またはタクシーで20分 |
駐車場 | あり84台(無料) |
営業時間 | 9:00~17:00 年中無休 |
入場料 | 無料 |
ウェブサイト | https://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/oshima/torucogunkan.html |
トルコ記念館
トルコ記念館は、トルコと日本の友好の証として開館されました。
館内には、エルトゥールル号の模型や事故の記録、引き上げ調査で発見された遺品、映画「海難1890」の小道具などの展示の他、日土関係の歴史を学べる資料も展示されています。
館内やテラスからはエルトゥールル号が座礁した「船甲羅」も見えます。
名称 | トルコ記念館 |
---|---|
所在地 | 和歌山県東牟婁郡串本町樫野1025-26 |
アクセス | JR紀勢本線串本駅よりバスで37分、またはタクシーで20分 |
駐車場 | 84台(無料) |
営業時間 | 9:00~17:00 年中無休 |
入場料 | 大人500円、小・中学生および高校生250円 |
ウェブサイト | https://kankou-kushimoto.jp/spots/%e3%83%88%e3%83%ab%e3%82%b3%e8%a8%98%e5%bf%b5%e9%a4%a8 |
トルコ記念館(串本町)が伝えるエルトゥールル号事故と日土友好の歴史
ディヤーナト・トルコ文化センター
日本最大のモスクである「東京ジャーミィ」に隣接する「ディヤーナト・トルコ文化センター」の2階には、エルトゥールル号の模型や当時の写真、資料、映画「海難1890」で使用された衣装などが展示されています。
トルコの文化や日本との関係を知ることができるおすすめのスポットですので、ぜひ東京ジャーミィと併せて訪れてみてください。
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