エルトゥールル号遭難事件から始まったトルコと日本の深い関係とは?
更新日:2023.04.04
投稿日:2022.04.21
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トルコは世界有数の親日国として有名です。トルコに旅行をしたら、みんな親切でフレンドリーに接してくれ、日本語を話せるトルコ人も多い、という評判もよく耳にします。実は、トルコと日本の交流の歴史はとても長く深いのです。
本記事では、日本とトルコが深い関係になった出来事や日本とトルコの交流のきっかけとなった歴史的エピソードなどについてご紹介します。
Contents
トルコと日本の交流のはじまりは?絆が深まった理由
トルコと日本の最初の交流は1873年にまで遡ります。当時、フランスに滞在していた岩倉具視率いる総勢107名の使節団「岩倉使節団」が、立会裁判諸制度の視察にイスタンブールに訪問したのが最初の交流です。岩倉使節団には、かの有名な大久保利通や伊藤博文も参加していました。
その後も日本は度々トルコを訪問し、当時の外相や皇帝スルタン・アブデュルハミト2世に面会するなどの交流を図ってきました。トルコと日本の交流が更に深まったきっかけは、1890年に起きたトルコ船の日本での遭難事件です。この時の日本人の行動によりトルコとの絆が一層高まったといわれています。
現在、日本には数多くのトルコ友好協会が存在しています。トルコ友好協会は日本とトルコの芸術や文化、スポーツなどを取り入れたイベントを開催するなど、日本とトルコの親睦を深めることを主とした団体です。
エルトゥールル号遭難事件とは?
日本とトルコの深い交流の端緒となった1890年に起きたトルコ船の遭難事件をエルトゥールル号遭難事件といいます。エルトゥールル号は、1887年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問への返礼などの目的で、オスマン帝国から日本に派遣された船です。
エルトゥールル号は親善使節団を乗せて1889年7月にイスタンブールを出港しました。数々の困難に遭いながらも航海の途中に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、日本に到着したのは、11ヶ月の時を経た1890年6月です。
使節団は東京に3ヶ月滞在したのち、1890年9月に横浜港を出港し帰国の途につきました。しかし、帰国途中の台風接近に伴う暴風雨により和歌山県串本町紀伊大島沖の樫野埼付近で岩礁に座礁し、沈没してしまったのです。
オスマン帝国はなぜ600年以上も続いたのか?栄光と滅亡の歴史と強さの秘密
日本人による献身的な救助活動
エルトゥールル号の沈没によって、多くの乗員は海に投げ出されたため、死亡者と行方不明者の数は500名を超えました。
この時、大島の人々は協力して献身的に救助活動を行い、乗船していた656人のうち69人の救出に成功したのです。この遭難に際して、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助と救護や遺体の捜索、引き上げにあたったといわれています。
島民による救助活動は子供から大人までが協力して行いました。生存者を探すために海に飛び込んだり、生存者の息が絶えないように必死の手当てをしたりする人もいたほどです。また、日本全国から多くの義援金や物資も寄せられました。
これに対し、オスマン帝国は日本人による必死の救助活動に大きな感銘を受たといわれています。
救助された69人の生存者は神戸で治療を受けてそれぞれ快方に向かいました。そして、同年10月に比叡、金剛2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌年1月に無事イスタンブールに無事入港したのです。
エルトゥールル号遭難事件の慰霊碑とトルコ記念館
和歌山県串本町沖の海底には、未だエルトゥールル号の残骸が海底に沈んでおり、現在も引き上げ作業や調査は続けられています。串本町には、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者を弔うために建てられた慰霊碑があり、5年ごとに追悼式典が行われているのです。
また、エルトゥールル号遭難事件の遺品や写真を展示したトルコ記念館が建てられています。
トルコ記念館(串本町)が伝えるエルトゥールル号事故と日土友好の歴史
エルトゥールル号遭難事件の慰霊碑
遭難現場である船甲羅岩礁の真上にある樫野埼の丘にエルトゥールル号が遭難した際、引き揚げられた遺体が埋葬されています。遺体はエルトゥールル号遭難事件の際に救出されて一命を取り留めたハイダール士官立ち合いのもと埋葬されたといわれています。
遭難事件の翌年、和歌山県知事や有志の義金により墓碑と追悼碑が建立され、追悼祭が行われました。
その後、トルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが昭和天皇の樫野埼を訪問されるのを聞き、新しい慰霊碑を建立することを決定しました。委託を受けた和歌山県が、現在の立派な慰霊碑に改修したのです。
トルコの初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生い立ちと偉業
慰霊碑は、天皇行幸8周年記念日の1937年6月3日に除幕の日を迎えてから、今も樫野の丘にそびえ立っています。
名称 | トルコ軍艦遭難慰霊碑 |
---|---|
所在地 | 和歌山県東牟婁郡串本町樫野 |
アクセス | JR紀勢本線串本駅よりバスで37分、またはタクシーで20分 |
駐車場 | あり84台(無料) |
営業時間 | 9:00~17:00 年中無休 |
入場料 | 無料 |
ウェブサイト | https://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/oshima/torucogunkan.html |
トルコ記念館
トルコ記念館は、トルコと日本の友好の証として開館されました。
館内には、エルトゥールル号の模型や事故の記録、引き上げ調査で発見された遺品、映画「海難1890」の小道具などの展示の他、日土関係の歴史を学べる資料も展示されています。
館内やテラスからはエルトゥールル号が座礁した「船甲羅」も見えます。
名称 | トルコ記念館 |
---|---|
所在地 | 和歌山県東牟婁郡串本町樫野1025-26 |
アクセス | JR紀勢本線串本駅よりバスで37分、またはタクシーで20分 |
駐車場 | 84台(無料) |
営業時間 | 9:00~17:00 年中無休 |
入場料 | 大人500円、小・中学生および高校生250円 |
ウェブサイト | https://kankou-kushimoto.jp/spots/%e3%83%88%e3%83%ab%e3%82%b3%e8%a8%98%e5%bf%b5%e9%a4%a8 |
日本人の危機を救ったトルコのエピソード
エルトゥールル号遭難事件では、日本人がトルコ船の遭難者を助けるために尽力しましたが、反対にトルコの人々が日本人の危機を救ってくれたというエピソードもあります。ここでは、その時の出来事について解説します。
トルコによるイラクでの日本人救出劇
エルトゥールル号遭難事件の後、イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日の出来事です。イラクのサダム・フセイン大統領が「これより48時間後にイラン上空を飛行する航空機を無差別に攻撃する」という恐ろしい声明を発表しました。
イラクに住んでいた日本人は一斉にテヘランの空港に急ぎましたが、どの便も満席で搭乗できずに困っていました。当時イラクにいた外国人は自力では脱出できなかったため、世界各国は救援機を派遣して自国民の救出にあたっていました。
しかし、日本政府は憲法違反を危惧したために自衛隊機での救出ができず、日本人だけがテヘラン空港に取り残されてしまったのです。
トルコからの恩返し
帰国へのタイムリミットが近づく中、テヘラン空港にトルコ航空の救援機が着陸しました。トルコ航空の救助機はイラクに残っている自国民ではなく日本人を優先的に救助したのです。イラク国内に残っていたトルコ人は500名でこの時、この救援機に同乗することは不可能でした。
そこで、残されたトルコ人は陸路でイラクを脱出しました。日本人を優先的に救援し、自国民を残すことは非難の対象になることも通常考えられます。しかし、エルトゥールル号遭難事件の恩返しの行動ということで、避難した人はいなかったそうです。
トルコ航空機が日本人を救出に来てくれた理由について、当時の駐日トルコ大使だったネジアティ・ウトカン氏は次のように語ったそうです。
「エルトゥールル号の事故での日本人の献身的な救助活動を、現在もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでさえ、エルトゥールル号の事件を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
東日本大震災でのトルコからの支援
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、被災した東日本のために多くの国々からたくさんの救援物資が届けられました。
トルコからも32名の救助隊に18.5トンの飲料水に豆やツナなどの缶詰が約6万8800個、約5,000枚の毛布が届けられるほどの手厚い支援を受けました。更に義援金として1,600万リラとニューヨークのトルココミュニティから3万ドルが寄付されたのです。
反対に2011年10月にトルコ東部でマグニチュード7.2の大きな地震が発生した際には、日本からテントなど緊急支援物資を提供し、トルコ政府が計画した仮設住宅を支援するための緊急無償資金協力を行いました。
また、トルコで支援を行っていた国際NGO「難民を助ける会」に所属する日本人が余震により死傷した際にはトルコ政府から手厚い対応を受けました。このようにエルトゥールル号遭難事件をきっかけとした日本とトルコの友好関係は今もなお続いています。
トルコとの交友を更に深めた山田寅次郎
トルコと日本の関係を築く架け橋として活躍した人物として山田寅次郎が挙げられます。
エルトゥールル号遭難事件に感銘を受けた茶道家で実業家の山田寅次郎は、エルトゥールル号犠牲者の遺族に対する義援金を寄付することを思い立ちました。日本各地で演説会をしてまわり、2年間かけて5,000円(現在の貨幣価値で3,000万円から1億円相当)の寄付が集まったのです。
そして、寅次郎は義援金を当時のオスマン帝国であるトルコへ持参し、熱烈な歓迎を受けて首都イスタンブールで皇帝アブデュルハミト2世に拝謁しました。
その後、寅次郎は皇帝から軍の士官学校での日本語指導を依頼され快諾し、日本との貿易事業を現地で開始するなどして長期に渡り滞在したといわれています。
正式な国交がなかった当時の日本とトルコの間で、寅次郎は民間大使のような役割を果たしたのです。当時、イスタンブールを訪れた日本人は皇帝・政府との交渉から観光案内まで寅次郎を頼っていました。
その後、第一次世界大戦の勃発により帰国した寅次郎は、大阪に製紙会社を立ち上げ、会社の役員として事業展開をしながら、帰国後もトルコとの交流に尽力し続けたのです。
寅次郎は、1925年に大阪商工会議所が中心となって設立した日土貿易協会の初代理事長に就任し、トルコと日本の交友を更に深めた人物としても知られています。
山田寅次郎の生涯と功績とは?日本とトルコの架け橋となった日本人
エルトゥールル号遭難事件を描いた日本の作品
エルトゥールル号遭難事件は、映画や歌など日本の作品としても残されています。ここでは、エルトゥールル号遭難事件を題材にした映画や歌をご紹介します。とても感銘を受ける内容なので、ぜひ作品にも触れてみてください。
遭難事件を映画化「海難1890」
トルコと日本の交流が深まるきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件は、事故発生から長い年月をかけて2015年に映画化、公開されました。
完成した作品名は、邦題で「海難1890」(英題:125 Years Memory)です。映画製作のきっかけは、事件当時、乗員たちの治療にあたった医師の手紙が発見されたことでした。
エルトゥールル号遭難事件で救出された後、トルコは自国の乗員が治療してもらった治療費を払おうと医師に請求書を求めました。しかし、医師はトルコからの要求に対して「お金は被害者のために使って欲しい」という内容の返事を出して治療費が支払われることを拒否したのです。
その後、串本町(事故当時の大島)の町長が医師からの手紙を発見し、映画化することを決めました。映画監督の田中光敏監督と大学の同期だった町長は、監督に手紙を送り、映画製作が実現したのです。
撮影はトルコ国内でもありましたが、主に事故現場となった串本町にセットを組んで行われました。通常は撮影できない場所で撮ったシーンなどもあり、とても貴重な映像が見られる作品となっています。
内野聖陽、ケナン・エジェ、忽那汐里、アリジャン・ユジェソイなど、両国で活躍する豪華キャストが勢揃いしたことも話題になり、映画の中でも両国の交流が実現したのです。
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日本・トルコ友好ソング
「飛んでイスタンブール」で一躍有名になった女性シンガーの庄野真代さんが、エルトゥールル号遭難事件120周年を記念した曲「誓い エルトゥールル号遭難120周年記念/日本・トルコ友好のテーマ」を2007年11月に発表しました。
この曲は、日本とトルコの友好ソングとされており、和歌山県出身で夫はトルコ人の及川眠子さんが作詞し、作曲は同じく和歌山県出身の蝦乃木ユウイチさんです。
両国の繋がりに想いをはせるような「愛は時を越えて駆けてゆく、波のように何度もよみがえる…」という歌詞が繰り返されます。日本・和歌山・串本町・トルコがこの曲でまた新しく繋がりました。
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トルコと交流の深い日本の姉妹都市
交流の深いトルコと日本は、各地で姉妹都市提携を結んでいます。ここでは、代表的な姉妹都市と両市の関係施設をご紹介します。
ヤカケント町と和歌山県串本町
エルトゥールル号が串本町大島樫野崎沖で遭難し、その救助をした串本町を1963年8月にトルコ日本友好議員連盟の議員が訪れ、串本町樫野の漁村風景がヤカケント町と似ていることから1964年11月11日に姉妹都市関係が決議されました。
決議された1964年11月11日には公式調印をしておらず、当時の町長であったイブラヒム・バトゥ氏が来町された1997年5月14日に正式な調印文書を取り交わして両国の姉妹都市縁組が宣言されたのです。
メルシン市と和歌山県串本町
メルシン市と和歌山県串本町の姉妹都市関係は、1975年10月8日に締結されました。メルシン市内には和歌山県串本町との友好関係を示す「串本姉妹都市通り」があります。
また、ジエラル・エイジオール海軍総司令官(後の駐日大使)が1971年に串本町を訪れた際、トルコには慰霊碑がないことを遺憾に思い、慰霊碑の建立を計画しました。
第2次世界大戦中に地中海メルシン沖で遭難したトルコ軍艦レファ号のものとあわせて、1972年に樫野の慰霊碑と同一の碑がメルシン市に建立されたという経緯もあります。
イスタンブール市と山口県下関市
イスタンブールと山口県下関市は1972年5月16日に姉妹都市関係を締結しました。
姉妹都市関係締結の経緯は、イスタンブール市長から日本の都市との姉妹都市提携の要望があり、外務省と国際親善都市連盟は、都市的性格、機能の類似性から下関市を候補に選定したことです。
その後、イスタンブール領事を通じて文書、資料の交換等を行うなどで気運が高まります。1971年には児童画の交換、翌年にはイスタンブール市に日本庭園が造られ、下関市からは桜の苗木100本が贈られるなど両市の親交が深まりました。
火の山トルコチューリップ園
火の山トルコチューリップ園は、姉妹都市のイスタンブール市からチューリップ球根を寄贈され、2009年4月に開園したチューリップ園で、通称「オルハン・スヨルジュ記念園」とも呼ばれています。
通称の由来は、2014年のイラン・イラク戦争時にテヘランで日本人を救出したイスタンブール市出身のオルハン・スヨルジュ元トルコ航空機長です。
絨毯のように敷き詰められた斜面の植栽は、トルコのボスポラス海峡と下関の関門海峡をイメージしたものです。また、4月上旬はチューリップの見頃で、桜が満開になるのとちょうど同じ時期となっています。トルコの国花であるチューリップと日本人が愛する桜が一緒に見られる景色は、まるで両国の絆を表しているようです。
チューリップはトルコ原産!品種改良の歴史やトルコにおける深い意味
名称 | 火の山公園トルコチューリップ園 |
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所在地 | 山口県下関市みもすそ川町3-31 |
アクセス | ・JR下関駅から国民宿舎前行きバス15分「火の山ロープウェイ」下車すぐ ・JR下関駅からバス12分「御裳川(みもすそがわ)」下車徒歩5分 ・下関ICから車で10分 |
駐車場 | あり(無料) |
定休日 | 年中無休 |
料金 | 無料 |
ウェブサイト | https://www.city.shimonoseki.lg.jp/soshiki/76/3905.html |
バルタリマヌ日本庭園
バルタリマヌ日本庭園は、日本とトルコの協力で2003年に作られたイスタンブールにある日本庭園で、イスタンブール市庭園局が管理しています。
2015年11月には、トルコと日本の協力によって改修を終えて、より魅力的な庭園に生まれ変わり、新たに「陽月庵」と命名された茶室も作られました。「陽月庵」という名前は、日本国旗には太陽、トルコ国旗には月がデザインされていることから名付けられました。
ボスポラス海峡を臨む素晴らしい景観の地に位置するこの庭園は、両市の象徴であるボスポラス海峡と関門海峡をイメージした正門をはじめ、滝、池、東屋などが配置されています。心ゆくまでゆったりと散策を楽しめるでしょう。
ボスポラス海峡とは?クルーズの見どころと夢のトンネル、日本との関係
また、日本のシンボルである桜をはじめ、四季折々の美しさを堪能できる憩いの場として多くのイスタンブール市民に愛されている場所でもあります。
名称 | バルタリマヌ日本庭園 |
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住所 | イスタンブール大市サルエル市バルタリマヌ地区 |
営業時間 | ・夏季7:00~19:30 ・冬季7:00~17:00 |
料金 | 無料 |
ウェブサイト | https://www.istanbul.tr.emb-japan.go.jp/japonbahcesi/jp/index.html |
ギレスン市と山形県寒河江市
寒河江市は日本一のサクランボの里として知られています。寒河江市がサクランボのルーツを探し求めていたところ、トルコのアンカラで日本人学校をしていた教師からサクランボの原産地がトルコのギレスン市であることを教えられました。
その後、1987年にギレスン市との友好親善と姉妹都市締結促進に関して、市議会全員協議会で全員一致の賛同を得ました。そして、市長や議長、議会の各常任委員長が大使館を訪問し、姉妹都市締結促進への働きかけをしたのです。
寒河江市がギレスン市長に姉妹都市締結を希望する旨の文書を送ると、1988年にギレスン市長より承諾する旨の回答があり、1988年6月25日に姉妹都市関係が締結されました。
サクランボの旬や食べ方、品種を徹底解説!発祥地トルコと山形の友好関係も
トルコ館
寒河江市にある道の駅・チェリーランドさがえは、山形県内の名産品や工芸品を販売し、郷土料理を提供するレストラン等を含む大観光物産センターです。その一角に「トルコ館」があります。トルコ館はオスマン帝国時代の建築物をイメージして設計された建物です。
トルコ館は、サクランボの原産地ギレスン市と姉妹都市である縁から造られました。トルコ在住の建築家による設計で、トルコ館に使用されている大理石やタイル、金具類の装飾品などは全てトルコのものが使用されています。
また、施設内はトルコの陶器やガラス、銅製の工芸品などの他、織物や写真が展示されています。2階の「トルコ喫茶ギレスンカフェ」では、トルココーヒーや水タバコを、カフェレストラン「ボンジュック」では、トルコ人シェフが作る本場トルコの食を楽しめます。
トルコ料理は世界三大料理!ケバブなど定番有名メニューを徹底紹介
人気メニューは、大きなお肉の塊を回転させながら焼き、削ぎ切りにしたお肉を野菜と一緒にパンにはさんで食べるドネルケバブサンドや串刺しにしてグリルしたシシケバブです。
また、新鮮な素材を使った自家製スイーツ、のび~るアイス「ドンドルマン」も味わえます。トルコ人のアイス職人によるパフォーマンスも楽しめ、トルコの街角にいるような気分になるでしょう。トルコ館限定の甘酸っぱいサクランボのフレーバーもおすすめです。
名称 | トルコ館 |
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所在地 | 山形県寒河江市鋤川原919-6 |
営業時間 | 9:00~18:00(冬期間は時間変更あり) |
入場料 | 無料 |
ウェブサイト | https://www.city.sagae.yamagata.jp/kurashi/shisetsu/leisureshisetsu/turkey.html |
イスタンブール市ウスキュダル区と東京都渋谷区
渋谷区とトルコは古くから関わりが深く、1937年には渋谷区大山町にトルコ児童のための小学校が建設されました。現在は、イスラム礼拝場である東京ジャーミイが建設され、日本最大級のイスラム寺院として親しまれている場所です。
日本最大のモスク「東京ジャーミイ」とは?日本でトルコの雰囲気を味わおう
1978年には、トルコ共和国大使館が渋谷区神宮前に移設され、渋谷区と長く交流を行ってきました。そして、2003年の「日本におけるトルコ年」をきっかけに、渋谷区民の間でトルコに対して急速に友好的なムードが高まりました。
翌2004年には、トルコ大使から訪問要請を受けて区議会議員を中心とする都市提携調査訪問を行いました。その一方で、民間でも町会連合会の会長をはじめとする区民が「渋谷区・トルコ友好協会」を創立し、トルコへ友好訪問したのです。
このような友好的環境の中で、2005年にウスキュダル区長が渋谷区を訪問し、ウスキュダル区への訪問を強く申し入れました。そして、2005年9月5日に姉妹都市関係が締結したという経緯があります。
ブルサ県ニルフェル市と愛知県東海市
ブルサ県ニルフェル市と愛知県東海市は、2005年の日本国際博覧会「愛・地球博」においてトルコがフレンドシップ・パートナーシップ都市になったことがきっかけで2007年5月10日に姉妹都市となりました。
それ以来、ニルフェル市で開催されるニルフェルスポーツフェスティバルに参加するなど、周年記念の年に合わせてスポーツによる交流を実施しています。
ニルフェルの泉
東海市の姉妹都市であるトルコ共和国ブルサ市“ニルフェル”区との友好を記念した庭園「ニルフェルの泉」で咲いているチューリップがとってもキレイ✨🌷
名鉄太田川駅前 どんでん広場の横です!#東海市 #東海市観光協会 pic.twitter.com/JL5zpbIMDJ
— 東海市観光協会【公式】 (@tokai_kanko) April 10, 2022
東海市の太田川駅前にあるニルフェルの泉は、トルコ共和国のニルフェル区との友好を記念した庭園広場です。「ニルフェル」はトルコ語で睡蓮を意味し、図柄のデザインをしたトルコのイズニック財団が制作しました。
庭園広場で使用されている大理石はブルサ産の「ブルサ・ローズ」で、トルコのイズニック・タイルに絵が描かれています。設置されているタイル壁画は、ニルフェル区から寄贈されたものです。
また、施設の説明としてニルフェル区の位置と東海市の位置を示す壁画や、ニルフェル区長からのメッセージが書かれた説明板も見どころです。
名称 | ニルフェルの泉 |
---|---|
住所 | 愛知県東海市大田町後田 |
駐車場 | なし(近くに市営駐車場あり) |
ウェブサイト | https://www.tokaikanko.com/study/nilufer/ |
ニルフェル市の日本庭園
ブルサ大市ニルフェル市にある日本庭園は、2010年の「トルコにおける日本年」が開催された年に完成しました。現地で集めた木材や石、瓦などの資材を使用して建設されたもので、閑静な住宅街に囲まれた一角に存在します。
5,000平方メートルを超える大きな敷地内には、茶室(睡蓮亭)や東屋、池、遊歩道が整備されており、ニルフェル市民や訪れた観光客などの憩いの場になっています。
また、庭園にはトルコにおける日本年事業の一つである「さくらプロジェクト」の一環として、両市の友好を記念し、桜(神代曙桜50本、花笠桜20本)の植樹が行われています。
世界遺産の街・ブルサのおすすめ観光スポット紹介!歴史の深い自然豊かな古都
ヤロヴァ市と富山県砺波市
ヤロヴァ市と富山県砺波市は、両市の議会の賛同を得て1989年10月3日砺波市において姉妹都市締結をしました。姉妹都市締結となったのは、1988年7月に砺波市長が日本トルコ友好親善使節団の一員としてチューリップの原産地であるトルコを訪問したことがきっかけです。
砺波市が「花と緑のまちづくり」を推進していることを紹介したところ、1989年5月に花栽培が盛んなヤロヴァ市から友好親善交流の熱烈な申込みがあったということです。また、2019年には、砺波市で姉妹友好都市締結30周年記念イベントも開催されています。
日本と絆の深いトルコを訪れて素敵な旅を
1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件をきっかけに、日本とトルコは絆の深い関係となりました。今もなお、トルコと日本の間にはお互いに助け合う友好的な関係が続いており、姉妹都市を締結している地域もあります。
そのような背景もあり、トルコの人は日本人に対して好意的であるといわれています。また、比較的治安が良い国なので日本人が訪れやすい国といえるでしょう。
ターキッシュエアラインズなら日本からの直行便も出ているのでアクセスも良好です。トルコで素敵な旅をしてみませんか。
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