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山田寅次郎の生涯と功績とは?日本とトルコの架け橋となった日本人

更新日:2023.02.28

投稿日:2022.06.23

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山田寅次郎 トルコ 日本

トルコは親日家が多い国と言われています。トルコの人たちが日本人に対して親しみを持つようになったのは、1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件での日本人による献身的な救助活動がきっかけであると言われています。そしてこの事件を受けて一人の日本人がトルコに渡ることになります。その人物こそが、今回ご紹介する山田寅次郎です。

山田寅次郎はどのような人物?

山田寅次郎 トルコ 日本

日本とトルコとの間に正式な国交がない時代に、トルコに渡り日本との架け橋になったのが山田寅次郎です。彼は民間人ですが、オスマン帝国の皇帝アブドゥルハミド2世と友好関係を築き、彼の存在が両国間の距離を縮めることとなりました。山田寅次郎は、現在の外務大臣や大使館のような役割を担ったため、民間大使と呼ばれることもあります。

彼はまた、茶道宗徧流家元の8世家元の山田宗有としても知られており、日本文化の紹介の一環でスルタンの前で茶道を披露したこともありました。

山田寅次郎は成功した実業家としての一面も持っています。イスタンブールに店を構え、日本とトルコの間で貿易事業を行いました。帰国後は国産のシガレットペーパーの製造に関わり、日本の製紙産業の発展に大きく貢献をしました。

日本とトルコの国交が樹立された後も、日土貿易協会を立ち上げるなどして、生涯を通じて日本とトルコの橋渡しを行いました。

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山田寅次郎の生涯

幕末に生まれ、昭和の時代まで駆け抜けた山田寅次郎の生涯をご紹介します。

誕生と幼少期

寅次郎は、1866年に沼田藩の家老職を務める中村雄左衛門の次男として生まれました。沼田藩が江戸に持つ屋敷で誕生をしましたが、すぐに沼田(現在の群馬県沼田市)に行き、8歳になるまでこの場所で育ちました。寅次郎が15歳の1881年に、子供がいなかった茶道宗徧流家元の山田家の養子となり、山田家の跡取りとして東京で生活を送るようになります。

青年期

茶道宗徧流6世家元の宗学は、寅次郎が生まれる前に死去しており、7世家元となった養母の宗寿によって茶道の手ほどきを受けます。

しかし、茶道の家元を継ぐ意思が弱かった寅次郎は、書生として勉学に励み、また、外国への興味から英語やドイツ語などの外国語を積極的に学びました。そして、勉学で得た知識を生かして政治活動や出版界に関わるようになります。

養母の宗寿は1883年に亡くなってしまいますが、寅次郎が宗徧流の家元を襲名することはなく、茶道の全てを高弟に任せっきりとなっていました。

人生の転機 エルトゥールル号遭難事件

エルトゥールル号遭難事件 トルコ 日本

1890年、寅次郎が24歳の時に、オスマン帝国軍艦エルトゥールル号が帰国途中に現在の和歌山県串本町の沖で沈没するという大事件が起こります。トルコから親善訪日使節団としてやってきた多くの人たちは、この出来事により亡くなってしまいます。この遭難事件は日本中で大きなニュースとなり、義援金を集め遺族に渡そうという動きが起こります。

寅次郎は、出版社や新聞社につながりがあったため、これらのメディアの協力を得て義援金募集の広告を出します。また、日本中を周って演説会を開き、約1年間をかけて集めた義援金は5,000円となりました。この金額は現在の価値で約1億円と言われています。

日本中から善意で集まったお金をどのようにして現地の遺族に届けるかを、外務大臣の青木周蔵に相談したところ、寅次郎自身が直接渡すことを提案されます。また、オスマン帝国の国情を見てきてほしいと依頼を受けます。この提案に対して異論はありませんでした。

そして、1892年1月に日本政府が手配したイギリスの船で横浜港を出港し、エジプトなどを経由して4月にオスマン帝国の首都イスタンブールに到着しました。寅次郎26歳のことです。

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トルコでの生活

イスタンブール トルコ

イスタンブールに到着した寅次郎は、オスマン帝国の外務大臣サイド・パシャに面会し、日本からの義援金を手渡しました。遠く離れた日本から義援金を持参してわざわざやって来た寅次郎は、オスマン帝国で歓迎を受けます。そして皇帝アブドゥルハミド2世に謁見を許されるようになります。

皇帝から寅次郎へ軍の士官学校で日本語を教えてほしいと依頼され、また、宮殿に所蔵をされていた東洋の美術品の整理も頼まれることになります。そのためすぐには帰国をせず、しばらくイスタンブールに滞在をすることにしました。

オスマン帝国で生活を送るうちに、日本との間で貿易事業を行うことを考えます。寅次郎は政府から優遇を受け、長期の滞在許可とイスタンブールで商売をする権利を手に入れ、個人商店を開きました。

数年後には大阪にある中村商店の出資を受け、イスタンブールの新市街地に中村商店を開店します。中村商店では日本から運ばれたシルク、陶磁器や工芸品を販売し、現地からはタバコ、塩、羊毛、革製品などを日本へ輸出していました。

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商品の仕入れなどで何度か日本に帰国を行いましたが、トルコでの生活は10年以上の長期にわたり続きました。皇帝と友好関係を築いていた寅次郎は、日本から政府関係者などが来た際に、仲介役や通訳を請け負う様になっていました。

私生活では1899年の一時帰国の際に中村商店の経営者の娘と結婚をし、子供も生まれました。しかし妻子は大阪に置いたままで、寅次郎は多くの時間をトルコで過ごしました。

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日本帰国と事業の成功

シガレットペーパー タバコ

1905年に寅次郎はトルコでの生活に終止符を打ち、日本に帰国します。そして中村商店の拠点である大阪で生活を始めます。日本とオスマン帝国には未だ正式な国交がなく、両国間の貿易事業の拡大が難しいと判断をした寅次郎ですが、日本でのタバコ事業に将来性を見出します。

オスマン帝国ではタバコ産業が拡大しており、国内のみならず多くの国に輸出していました。そこで、トルコから紙巻きタバコを巻くのに必要なシガレットペーパーの製造技術を日本に持ち込みます。

実業家の井上氏や中村商店が共同で東洋製紙株式会社を設立し、日本でシガレットペーパーの製造を手掛けるようになります。当時は大蔵省がタバコの専売を行っており、東洋製紙株式会社が作るシガレットペーパーは、ほぼ独占的に大蔵省に納品できました。

製紙事業が軌道に乗り実業家として成功を収めた寅次郎は、長期間にわたり家元が不在だった茶道宗徧流の弟子たちから依頼を受け、1923年、57歳の時に8世の家元山田宗有を襲名することになります。そして、宗有は全国で宗徧流の茶道を広める活動を行います。

一方で事業への情熱も失っておらず、1927年には吹田製紙(後に三島製紙と合併)を創業し、製紙業界で活躍を続けます。

晩年

トルコ大使館

1924年にオスマン帝国が滅びトルコ共和国が誕生し、日本とトルコの国交が結ばれます。そして1925年に駐日トルコ共和国大使館が開設されます。寅次郎はトルコ大使館と大阪の財界の間を取り持ち、日土貿易協会を設立し理事長に就任します。

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しかし、誕生して間もないトルコ共和国は国内産業の保護を掲げ、外国の製品が国内に入ることを制限しました。そのため日本とトルコの貿易は拡大しませんでした。また、第二次世界大戦が起きたことで1939年には日本とトルコの通商関係はなくなります。そして、1945年、トルコは日本に宣戦布告を行い国交が閉ざされてしまいます。

1948年、寅次郎82歳の時に、三島製紙の会長を辞任し事業から離れます。そして茶道宗徧流家元として茶道の普及に注力をします。1957年に山田寅次郎は日本とトルコに捧げた生涯を90歳で閉じました。

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山田寅次郎の子孫

山田寅次郎の息子である山田宗囲はのちに宗徧流10世家元となりましたが、1975年にトルコを訪れた際には、寅次郎の息子として歓待されたそうです。

また、この山田宗囲の娘(寅次郎の孫)である和多利月子は、ワタリウム美術館のディレクターを務めながら、祖父・寅次郎の生涯を研究しており、その成果をまとめた著書『明治の男子は、星の数ほど夢を見た。-オスマン帝国皇帝のアートディレクター山田寅次郎』を出版しています。

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山田寅次郎の功績とエピソード

民間大使、実業家、茶道宗徧流家元など多くの活躍をした山田寅次郎は、様々な功績を成し遂げています。

日本初の国際救護活動と民間大使としての活躍

イスタンブール トルコ

エルトゥールル号の遺族のために山田寅次郎が中心となり、募金活動を行いました。日本赤十字社では、この活動は日本が行った初めての国際救援活動とみなされています。

また、寅次郎がイスタンブールのガラタ橋近くで開店をした中村商店は、この地を訪れる日本人にとって重要な場所でした。中村商店は貿易だけでなく、オスマン帝国の要人への仲介を行い大使館のような役割も担っていました。

1892年にイスタンブールを訪問した際に、皇帝アブドゥルハミド2世から士官学校での日本語教育を依頼されます。その生徒の中に、後のトルコ共和国初代大統領になるムスタファ・ケマル・アタテュルクがいました。1931年に寅次郎がイスタンブールを再訪した際に、大統領のムスタファ・ケマルと会い、このことを伝えられて驚いたと言われています。

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山田寅次郎は日本人ムスリムの草分け的存在

寅次郎は皇帝アブドゥルハミド2世より「アブデュルハリル」というムスリム名を授けられました。トルコ人の友人たちからは、寅次郎はアブデュルハリル山田パシャと呼ばれていました (パシャは高官などに付けられる称号です)。

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彼が正式にイスラム教に改宗をしたかは分かっていませんが、当時の日本になじみが薄かったイスラム教徒の心情を理解していました。そのため寅次郎は日本人ムスリムの草分けの一人と呼ばれています

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トルコと日本の文化交流の促進

エルトゥールル号遭難事件 串本町 慰霊碑

1911年に出版した「土耳古畫観(トルコがかん)」では、イスタンブールの庶民の暮らしぶりや服装などがスケッチと共に書かれています。この本は末期のオスマン帝国の生活を知ることができる貴重な史料となっています。

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また、茶道宗徧流家元の8世家元として、日本全国で茶道を広める活動を行い、トルコでも茶道を披露し日本文化を伝えました。

さらにシガレットペーパーの製造技術を日本にもたらし、国産のシガレットペーパーの製造に成功。この事により日本の製紙業が発展しました。

1929年には、エルトゥールル号乗員の慰霊碑を串本町の樫野崎に建立しました。建設費は、日土貿易協会の理事長を務めていた山田寅次郎が中心となり集めました。当時の慰霊碑は人の身長ほどの大きさであったため、後にトルコ大統領のアタテュルクが改修を指示し、トルコ政府の資金で現在の慰霊碑が建てられています。

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トルコや海外の情勢を日本に伝えた

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1904年の日露戦争の際にトルコに滞在をしていた寅次郎は、ボスポラス海峡を通過するロシアの黒海艦隊の動きを日本政府に報告し、スパイ活動のようなことをしていました。他にトルコで黒海艦隊の動きを監視出来た日本人はいなかったため、彼の報告は貴重な情報となりました。

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また、1896年に起きたアルメニア人過激派によるオスマン銀行占拠事件を目撃したと言われ、このニュースを日本に伝えました。海外の情報がなかなか日本に入ってこなかった時代に、世界情勢がわかるニュースとなりました。

エルトゥールル号遭難事件とは

エルトゥールル号遭難事件 トルコ 日本

山田寅次郎がトルコに渡るきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件を解説します。

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エルトゥールル号の日本訪問

1886年に小松宮彰仁親王が国際親善のためにヨーロッパ諸国訪問を行い、オスマン帝国にも訪問をおこないました。小松宮彰仁親王の訪問に応えるために、オスマン帝国は日本に特使団を派遣することにします。そして1889年7月14日に、600人を超える特使が乗るエルトゥールル号が日本へ向けて出港をしました。1890年6月7日に横浜港に到着した特使団は、皇帝アブドゥルハミド2世からの親書を届け日本で歓迎を受けます。

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遭難事故

親善訪日使節団の役目を果たしたエルトゥールル号は、帰国の準備を行います。しかし、長期間に渡る航海で資金や物資が不足し、乗員がコレラに感染したことで、帰国の準備に予定より日にちがかかってしまいます。1890年9月15日にようやく出港が整いましたが、日本は台風の時期になっていました。時期を遅らせるように日本からアドバイスを受けますが、エルトゥールル号は出発をしてしまいました。

横浜を出港したエルトゥールル号が和歌山県の串本町の沖合に差し掛かった時、近づいていた台風の影響による強風を受けて、岩礁に衝突をしてしまいます。浸水が機関部に及び、船は爆発を起こしてほとんどの乗員は海に投げ出され、1890年9月16日の22時ごろに船は沈没をしてしまいます。

救助活動

エルトゥールル号遭難事件 トルコ 日本

事故の知らせを受け大島村(現在の串本町)の住民たちは、乗員たちの探索や救助を行います。艦長を含む587名が犠牲となってしまいましたが、村民全員での夜を徹しての救助の結果69名を救助することが出来ました。生存者には食料や衣類を提供し出来る限りの看護を行い、亡くなってしまった人は手厚く葬られました。この時の献身的な救助活動を聞いたオスマン帝国の官民は、日本人に対して大きな感銘を受け、親日家になるきっかけとなります。

生存者の帰国

病院で治療を受け回復した69名の生存者は、比叡と金剛の軍艦によって神戸港からトルコに無事送り届けられました。日本の同行者の中には時事新報社の新聞記者だった野田正太郎がおり、彼は山田寅次郎がイスタンブールに着いた際にオスマン帝国の外務大臣サイド・パシャとの面会の仲介を行った人物です。寅次郎と共に、士官学校で日本語教師も務めました。また、後に日露戦争の日本海海戦での勝利に貢献をする海軍軍人、秋山真之も乗船をしていました。

トルコ・イスタンブールに残る山田寅次郎の足跡

ドルマバフチェ宮殿 イスタンブール

イスタンブールにあるドルマバフチェ宮殿やトプカプ宮殿には、中村商店を通じて日本からもたらされた陶磁器や工芸品などが所蔵されています。貿易を通じて、日本製品をトルコで広めることに貢献しました。

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また、トプカプ宮殿には、寅次郎の実家の中村屋に伝わる戦国時代の鎧兜と太刀が展示されています。これはアブドゥルハミド2世に初めて謁見をした1892年に献上されたものです。

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トプカプ宮殿の観光情報

イスタンブール トプカプ宮殿

名称 トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)
住所 Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, Turkey
営業時間 9:00~16:45、チケット売り場は16:00まで(冬季:10月30日~4月15日)
9:00~18:45、チケット売り場は18:00まで(夏季:4月15日~10月30日)
定休日 火曜日
入場料 72TL
ハレム入場の追加料金:42TL
ハギアアイリーン教会入場の追加料金:36TL
オーディオガイド:20~30TL
公式サイト https://muze.gen.tr/muze-detay/topkapi

トプカプ宮殿はオスマン帝国皇帝達380年の居城!見逃せない観光ポイント!

ちなみに、イスタンブールで開店した中村商店の最大の顧客は、皇帝アブドゥルハミド2世であったと言われています。東洋から持ち込まれた珍しい品々は、ユルドゥズ宮殿の王族や官僚たちがこぞって買い求めました。意外にも日用品などの人気が高かったと言われています。

皇帝からの依頼を受け、日本の植物もイスタンブールに運ばれユルドゥズ宮殿の庭に植えられました。

イスタンブールのアジア側にある2005年に開園した庭園には、山田寅次郎広場が作られ、日本から送られた500本余りの桜が植えられています。春になると桜が満開となり、日本の雰囲気を感じることが出来ます。

トルコ旅行でイスタンブールを訪れた際には、ぜひ山田寅次郎の足跡をたどってみてください。

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