トルコの初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生い立ちと偉業
更新日:2023.04.05
投稿日:2022.08.16
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ムスタファ・ケマル・アタテュルクの名前を聞いても、どのような功績を成し遂げたのか、日本人ではあまりピンとこない人が多いのではないでしょうか?しかし、トルコ人でその名前を知らない人はいません。この記事では、愛国心に溢れ、トルコの発展に人生をささげたムスタファ・ケマル・アタテュルクをご紹介します。
Contents
ムスタファ・ケマル・アタテュルクとはどのような人物?
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、トルコ共和国の初代大統領です。1923年にトルコ共和国が建国されてから、アタテュルクが亡くなる1938年までの間、4期にわたり大統領を務めました。
衰退し続けていたオスマン帝国に代わり、国のかじ取りをして近代化と発展を成し遂げたことから、「トルコ建国の父」と呼ばれています。
一党独裁政権で国を治めたため、独裁者に分類されますが、トルコを民主主義共和国に導き、近代化への改革を素早く実現したことはアタテュルクの偉大な功績です。
第一次世界大戦におけるアタテュルクの功績
もともと軍人だったアタテュルクは、第一次世界大戦中におけるガリポリの戦いで、英仏軍とオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)を退け、国土の防衛に成功したことで有名になりました。
オスマン帝国は第一次世界大戦で敗れてしまいますが、アタテュルクは戦勝国から国土を取り戻すために、トルコ独立戦争でも活躍しました。
アタテュルクは現在でもトルコ国民から敬愛されており、彼が亡くなった11月10日の午前9時5分には、トルコ全土で1分間の黙とうが捧げられます。ほとんどのトルコ国民が足を止め、車や電車から降り、直立して黙とうを行う光景は、アタテュルクがトルコの人々から深く敬愛されている証拠です。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクの略年表
1881年 | オスマン帝国領だった現ギリシャのテッサロニキで誕生 |
---|---|
1888年 | 父親のアリ・リザ死去 |
1893年 | セロニカ軍事中等学校の入学試験に合格 |
1896年 | セロニカ軍事中等学校の卒業後、マナストゥル軍事高等学校に進学 |
1899年 | マナストゥル軍事高等学校を卒業後、陸軍士官学校に入学 |
1902年 | 陸軍士官学校を少尉の階級で卒業後、オスマン帝国陸軍大学に進学 |
1905年1月11日 | オスマン帝国陸軍大学を参謀大尉の階級で卒業 |
1907年 | 上級大尉に昇進 |
1908年 | 「統一と進歩協会」による「青年トルコ人革命」の発端により、立憲君主制が復活 |
1911年~1912年 | 伊土戦争に参加 |
1912年~1913年 | バルカン戦争に参加 |
1914年~1918年 | 第一次世界大戦に参加 |
1918年10月30日 | 第一次世界大戦に敗戦し、連合国軍とオスマン帝国の間で「ムドロス休戦協定」が結ばれる |
1919年 | サムスンに上陸後、占領軍に反対する国民運動を先導 |
1920年4月23日 | アンカラ大国民議会を発足 |
1921年 | サカリヤ川の戦いで侵攻してきたギリシャ軍を討伐 |
1922年 | イズミールを占領していたギリシャ軍を撤退させる |
1922年10月 | ローザンヌ条約の締結後、トルコ独立戦争が終結 |
1923年1月29日 | 結婚 |
1923年10月29日 | トルコ共和国の建国とともに、初代大統領に就任 |
1925年 | 離婚 |
1926年 | イズミールでのアタテュルク暗殺未遂事件が発覚し、一党独裁体制をとる |
1937年 | 健康状態の悪化 |
1938年 | 肝硬変と診断される |
1938年11月10日午前9時5分 | ドルマバフチェ宮殿で57歳という若さで死去 |
アタテュルクが残した功績
- 第一次世界大戦「ガリポリの戦い」を勝利に導く
- トルコ共和国の近代化を進める
- カリフ制の廃止(1924年3月3日)
- 教育改革(1924年3月3日)
- 帽子改革(1925年11月25日)
- 服装改革(1934年12月3日)
- 近代的な刑法の導入(1926年3月1日)
- 男女平等権の導入(1926年10月4日)
- アルファベット表記の導入(1928年11月1日)
- 文化や芸術の普及(1932年~)
- 創姓法の導入(1934年6月21日)
- 女性参政権の導入(1934年12月5日)
アタテュルクの名前の由来
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、生まれた時に両親から「選ばれし者」という意味を持つ「ムスタファ」と名付けられました。当時のトルコでは姓(名字)がなかったため、名前はムスタファだけでした。
その後、軍事中等学校に入学したムスタファは数学が得意であったため、数学教師ムスタファ・サブリ大尉が、完璧や成熟の意味を持つ「ケマル」の名をつけ、「ムスタファ・ケマル」となりました。
アタテュルクが「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」となるのは、彼が大統領に就任してからです。彼はトルコ共和国の建国後、欧米化政策を進めて行く中で、1934年に全国民が姓を持つことを義務付ける法律を制定しました。その際にトルコ大国民議会から、父なるトルコ人を意味する「アタテュルク」の姓を与えられ、「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」となったのです。
ちなみに、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、「ケマル・パシャ」と呼ばれることがあります。パシャとは、オスマン帝国時代に高級官僚や軍司令官などの高官に与えられた称号です。今までの戦いの功績と、第一次世界大戦のガリポリの戦いの功績から、パシャの称号が1916年にムスタファ・ケマルに送られました。
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ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯
アタテュルクはどのような生い立ちだったのでしょうか?ここでは、アタテュルクの祖国トルコの発展に捧げた人生をご紹介します。
出生&幼少期
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは1881年に、当時のオスマン帝国領だった現ギリシャのテッサロニキで生まれました。父親のアリ・リザは製材業を営んでおり、母親のズベイド・ハムニとの間に6人の子供がいました。しかし、アタテュルクと妹のマクブレ以外は幼い時に亡くなってしまっています。
アタテュルクが就学する年齢になると、敬虔なイスラム教の母親は息子に伝統的な宗教学校に通うことを勧めます。しかし、父親は世俗的なカリキュラムを持つ私立学校へ行くことを強く望み、父親に従い私立学校に入学しました。
しかし、入学して間もない7歳の時に、父親が亡くなってしまい、叔父の農場に引越した後、母親の再婚を機に叔母の家に身を寄せることになります。
小学校卒業後、母親は貿易を学んで欲しいと考えていましたが、ムスタファ・ケマルは幼い頃より軍人になることを夢見ていたため、母親に内緒で、1893年にセロニカ軍事中等学校の入学試験を受け、見事合格しました。
軍事学校での学生時代
1896年にセロニカ軍事中等学校の卒業後は、マナストゥル軍事高等学校に進学し、優秀な学業成績で1899年に卒業します。卒業後すぐに、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)にある陸軍士官学校に入学しました。
軍での階級は軍曹となり、1902年に卒業する時は少尉となっていました。同年にオスマン帝国陸軍大学に進学し、1905年1月11日に参謀大尉の階級で卒業します。
ちなみに、陸軍大学時代に、オスマン帝国の君主制に対して反対活動を行っていたため、卒業後すぐに警察に逮捕され、拘留されたエピソードもあります。ただし、勾留期間は数カ月のみで、その後無事に釈放されました。
オスマン帝国陸軍時代
アタテュルクは、ダマスカス(現在のシリアの首都)に本拠地を置く、第5軍に配属されました。そこで、君主スルタンによる専制政治への不満を持っていた軍の同志たちと、「祖国と自由」という組織を結成しますが、「祖国と自由」は後に「統一と進歩協会」という組織に吸収されることになります。
その後、1907年に上級大尉に昇進し、マナスティル(現在の北マケドニア)の第3軍の本部に配属されました。翌年の1908年に東ルメリア(現在の南バルカン地域)の帝国鉄道の検査官に任命されました。
1908年に「統一と進歩協会」が反乱を起こし、オスマン帝国に専制政治を放棄させる「青年トルコ人革命」が起こります。革命は成功し、専制政治はなくなり立憲君主制が復活したのでした。
しかし翌年、新体制に反対する人々が「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターを起こしたため、アタテュルクは参謀として鎮圧部隊に参加し、クーデターを鎮圧します。
1911~12年の伊土戦争、1912~13年のバルカン戦争、1914~18年の第一次世界大戦にて軍務を行いました。特に、第一次世界大戦のガリポリの戦いではアタテュルクが活躍し、その名が世界中に知られるようになります。
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祖国解放活動時代
第一次世界大戦はオスマン帝国の敗戦で終わり、1918年10月30日に連合国軍とオスマン帝国の間でムドロス休戦協定が結ばれました。戦勝国の欧米各国によってトルコの領土が分割され、英仏伊軍がイスタンブールに押し寄せる光景を見て、アタテュルクはショックを受けます。そして祖国を解放するために、徹底抗戦を行うことを決意しました。
オスマン帝国軍は、領土と国内の治安を守るために軍の監察官を各地に派遣することにします。アタテュルクは、第9軍の監察官に任命され、トルコ東部のエルズルムに派遣されることになりました。
国民運動の先導
その後、1919年5月16日にアタテュルクは貨客船でイスタンブールを出発し、5月19日に東部の黒海沿いの街サムスンに上陸します。
ムスタファ・ケマルは、サムスンやエルズルムで演説を行い、占領軍に反対する国民運動を先導しますが、弱体化したオスマン帝国軍に見切りをつけ軍を辞め、自ら軍人たちを集めて組織していきました。
占領軍による国土分割に反対するムスタファ・ケマルは、国民や愛国心の強い軍人たちから強い支持を集め、「アナトリアとルメリの権利防衛委員会」を結成します。抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合国軍はイスタンブールを占領し、オスマン帝国の議員や有力者たちは内陸地のアンカラに脱出しました。
アンカラ大国民議会の誕生
1920年4月23日、アンカラにてトルコ大国民議会が開かれ、アタテュルクは投票により議会と政府の議長に選出され、アンカラ大国民議会を発足します。
よって、オスマン帝国政府と、アンカラ大国民議会の2頭政治が生み出されますが、ほとんどの国民はアタテュルクのアンカラ大国民議会を支持しました。
しかしアタテュルクの想いとは裏腹に、1920年8月にオスマン帝国政府は、自分たち政府高官やスルタンの財産を保障する代わりに、国土の多くを明け渡すことに合意する「セーヴル条約」を連合国と結んでしまいます。
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サカリヤ川の戦い
アタテュルクや国民の多くはこの条約に反対し、軍事力で占領軍を追い出すことにします。1921年にアンカラに侵攻をしてきたギリシャ軍を、サカリヤ川の戦いで破りました。
サカリヤ川の戦いでは、アタテュルクが最高司令官として自ら軍を率い、1922年にイズミールを占領していたギリシャ軍を撤退させます。このことにより各国はアンカラ政府の力を認識するのでした。そして、1922年10月に各国との新たな停戦協定である「ローザンヌ条約」を締結し、トルコ独立戦争は幕を閉じました。
トルコ共和国大統領時代
1922年11月1日、トルコ大国民議会はメフメト6世を退位させ、オスマン帝国の君主制を廃止します。アタテュルクは1923年1月29日に結婚しますが、1925年には離婚してしまい、妻との間には子供はいませんでした。
1923年10月29日にトルコ共和国の建国が宣言され、アンカラが首都に定められました。そしてアタテュルクは選挙により初代大統領に就任します。
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トルコの近代化
大統領への就任後、アタテュルクは欧米諸国に大きく後塵を拝していたトルコを近代化させる政策を考えます。フランスやイタリアなどの憲法や制度を分析し、トルコ国民に適合するように改良を加え、政治的・経済的・社会的改革を行いました。そして、アタテュルクはトルコをイスラム社会の国家から、世俗的で民主的な近代国家へと生まれ変わらせます。
しかし、急激な近代化や世俗主義を歓迎しない人たちから、アタテュルクは暗殺の標的とされることになりました。1926年にはイズミールでの暗殺未遂事件が発覚し、アタテュルクは反対派を一斉に逮捕・処刑します。その事件に野党が関与していることが判明したため、野党を排除して一党独裁体制を取り、国の改革を進めていくのでした。
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死去
大統領に就任してから14年後の1937年、アタテュルクの健康状態が悪くなり始めました。彼は軍人時代から、アルコール度数の高いトルコの蒸留酒ラクを好んで飲んでおり、タバコも頻繁に吸っていたそうです。
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1938年になると体調は深刻な状態になり、イスタンブールの病院で肝硬変と診断されます。国の内外から医者が来て治療を行いましたが、病気が良くなることはなく、1938年11月10日の午前9時5分に、ドルマバフチェ宮殿で亡くなりました。57歳でした。
アタテュルクの名が広まった「ガリポリの戦い」
ガリポリの戦いとは第一次世界大戦中の1915年~1916年にかけて、トルコのガリポリ半島を舞台とした戦いのことです。英仏軍とオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)が、ダーダネルス海峡とイスタンブールの征服を目的として、ガリポリ半島に侵攻し、ドイツ軍に指揮を受けたオスマン帝国軍が侵攻を防ぐために戦いました。
当時のオスマン帝国は敗戦続きで、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれており、英仏連合軍が確実にこの戦いで勝利すると思われていました。しかし、アタテュルクの活躍により、オスマン帝国軍は英仏連合軍を撤退させるまでに至ったのです。
ガリポリの戦いによって、アタテュルクの名前は世界各国に広まります。ここでは、アタテュルクがガリポリの戦いでどのような活躍を遂げたのかを解説します。
ガリポリの戦いにおけるアタテュルクの功績
ガリポリの戦いでアタテュルクは、第19師団長に任命されガリポリ半島に配置されました。1915年4月25日に行われた上陸作戦で、オーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)がアルブルヌ地区(現在のアンザック湾)に上陸します。
アタテュルクは敵の上陸地点がアルブルヌ地区であると的確に予測し、英仏連合軍が前進できないよう徹底的に抗戦しました。このアルブルヌ地区での膠着状態を打破するために、8月6日にアルブルヌ地区の北にあるアナファルタラル地区のスブラ湾に、イギリス軍の増援が来ます。
この地区を守備する司令官が迅速に反撃できなかったことから、アタテュルクがアナファルタラル地区の司令官に任命されます。アタテュルクの指示で素早く高台を確保したオスマン帝国軍は、ここでもイギリス軍に前進をさせずに食い止めました。
侵攻を防いだ34歳のアタテュルクを「アナファルタラルの英雄」としてメディアが紹介し、トルコ国内に彼の名声が知れ渡るのでした。
内陸に侵攻ができず、海岸線で塹壕戦を行うしかなくなった英仏連合軍は、長期間の戦いで疲弊し、この作戦からの撤退を決定します。12月7日から撤退を開始し、1916年1月9日までにすべての部隊が引き上げました。この戦いにより、オスマン帝国軍にも多くの死傷者が出ましたが、英仏連合軍を撤退に追い込んだことは、諸外国に大きな驚きを与えました。
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トルコ共和国大統領就任後の功績
アタテュルクがトルコ共和国初代大統領に就任してから、トルコに近代的な民主主義を導入します。彼が行った改革がなければ、現在のトルコは全く別の国になっていたかもしれません。ここでは、そんなアタテュルクの功績を紹介します。
カリフ制の廃止(1924年3月3日)
オスマン帝国は君主であるスルタンが政治や軍事の権力をもっており、さらにスルタンがイスラム世界の最高指導者カリフを兼任していました。1922年のトルコ大国民議会で、スルタンとカリフが分けられ、最後のスルタンを担っていたメフメト6世はマルタに亡命します。
しかし、カリフの宗教的権力はまだ残っていました。そこで世俗主義を進めるための最初の一歩として、アタテュルクはカリフ制を廃止し、最後のカリフのアブドゥルメジト2世は国外追放されたのでした。
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教育改革(1924年3月3日)
アタテュルクは、政教分離を行うためには、教育が非常に重要だと考えました。そのため、アラビア語やコーランを学ぶイスラム神学校(マドラサ)を廃止し、代わりに男女共学の公立学校を多数設立します。
男女平等に義務教育を行い、共通のカリュキュラムによってトルコ全土で統一された教育を行うことを目指しました。
帽子改革(1925年11月25日)と服装改革(1934年12月3日)
アタテュルクは伝統的な衣装に代わり、ヨーロッパ風の服を着ることを推奨しました。トルコ帽の着用は禁止され、代わりに洋風の帽子をかぶるようにしました。
帽子改革は公務員を筆頭に義務付けられ、ムスタファ・ケマルは西洋の帽子をかぶって保守的な地域に行き、自ら現地の人々に説明したと言われています。
また、最終的には、宗教施設以外の街中で、ターバンやブルカなど宗教的な服装を着用することが禁止されました。
近代的な刑法の導入(1926年3月1日)
アタテュルクはイタリアの刑法をモデルとした近代的な刑法を制定しました。それに伴い、それまで使われていたイスラム法廷は閉鎖されました。
男女平等権の導入(1926年10月4日)
アタテュルクはスイスの民法をモデルとして、男女平等権をトルコの法律に組み込みました。これにより一夫多妻制が禁止され、相続や離婚の場合でも男女が平等の権利を持つように変わりました。
アルファベット表記の導入(1928年11月1日)
オスマン帝国では、トルコ語はアラビア文字によって書かれていました。しかし、アラビア文字は習得が難しく、読み書きができるのは人口の約10%でした。
そこで、アタテュルクはより習得が簡単なアルファベットを導入します。アタテュルクがアルファベットを導入してから10年後には、識字率は20%以上まで上がりました。
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文化や芸術の普及(1932年~)
トルコ各地に公共施設が作られ、そこで文化的イベント、演劇、スポーツが盛んに行われるようになりました。また、偶像崇拝を禁止していたイスラム主義から離れ、美術館やオペラ劇場なども建設されました。これに伴い、雑誌などのメディアや映画産業も発展していきます。
創姓法の導入(1934年6月21日)
アタテュルクが創姓法を導入したことで、全国民が姓を持つよう義務付けられました。それまで名前に付けられていた「スルタン」や「パシャ」などの継承や称号が廃止されました。
女性参政権の導入(1934年12月5日)
アタテュルクが女性の参政権を確立したことで、主要主権国家と比べても早い時期に、女性の選挙権と被選挙権が実現しました。翌年に行われたトルコ大国民議会の総選挙には、18名の女性が立候補したことからも、形式上の権利ではなかったことがわかります。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクの名言
ムスタファ・ケマルには数々の名言がありますので、ここではその一部をご紹介します。
- 「防衛線はないが、防衛する領土がある。その領土は祖国全体だ」(アンカラに侵攻してきたギリシャ軍とサカリヤ川で戦うときの言葉)
- 「私はトルコ人だ!と言える人は、なんて幸せなのだろう」(共和国建国10周年の講演での言葉)
- 「イスラム教が政治手段ではなくなると、イスラム教はより高められるだろう」(イスラム世界の最高指導者カリフによる権力を廃止した時の言葉)
- 「トルコ国民は、共和制、文明、進歩の道を恐れることなく進むことを決心した」(急速な政教分離政策により不信任決議が行われ、不信任案が否決された時の言葉)
- 「私を殺すことはトルコを殺すことと同じである。現時点においては私がトルコだ」(イズミールでの暗殺未遂事件の首謀者が処刑された時の演説)
- 「今後、女性が国の社会生活を分かち合わなければ、私たちは発展を遂げることは出来ません。それどころか西欧諸国から、取り返しのつかないほど後退するでしょう」(男女平等権を導入するための会議での発言)
- 「私たちは家庭での平和、世界での平和のために働きます」(内政と外交の基本原則を表す言葉として演説中に発言)
ムスタファ・ケマル・アタテュルクにゆかりのある場所
トルコのほとんどの都市にはアタテュルクの銅像や肖像画があり、通貨トルコリラの紙幣の表面はアタテュルクが描かれています。ここでは、そんなトルコと縁深いアタテュルクにゆかりがある場所をご紹介します。
アタテュルク廟
アタテュルク廟は、アタテュルクのために首都アンカラに建設された霊廟です。彼が亡くなってから15年後に完成しました。政教分離を推し進めたアタテュルクの考えを尊重し、イスラムや他の宗教の様式は排除され、アナトリア建築のデザインで作られているのが特徴です。
ライオンの道と呼ばれる参道を進むと平和広場に入り、その左手に霊廟ホールがあります。ホールには石棺が置かれており、その下の墓室にアタテュルクが埋葬されています。
ドルマバフチェ宮殿
イスタンブールの新市街地区にあるドルマバフチェ宮殿は、アタテュルクがイスタンブールを訪れた際に官邸として使われていました。また、晩年に体調を崩した際にも、ドルマバフチェ宮殿で療養しており、彼はドルマバフチェ宮殿の執政室の隣にある部屋で息を引き取っています。
アタテュルクが息を引き取った部屋にある時計は、彼が亡くなった9時5分を指したまま止まっており、ベッドはトルコ国旗で包まれています。ドルマバフチェ宮殿は現在博物館となり、豪華な宮殿内を見学することが可能です。
アタテュルクの生家
ギリシャのテッサロニキは、ムスタファ・ケマルが生まれた場所です。彼が生まれた3階建ての家は、現在博物館として公開されています。
テッサロニキにある生家で7歳まで過ごした後、1907年にマケドニアに赴任した際は、この家でオスマン帝国打倒の計画を立てました。北部ギリシャに観光目的で訪れる多くのトルコ人にとって、大人気の観光場所となっています。
アンカラ民族博物館
アタテュルク廟が完成するまでの間、アタテュルクは一時的にアンカラ民族博物館の墓に埋葬されていました。博物館にはアタテュルクの銅像があり、「私の遺体はいつか土にかえりなくなるが、トルコ共和国は永遠に続く」の碑文があります。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクの騎馬像
日本の和歌山県串本町にアタテュルクの騎馬像があります。この銅像はもともとトルコ政府から新潟県に寄贈されたものでしたが、エルトゥールル号遭難120年の年に、トルコ大使館から串本町に寄贈・移設されました。
エルトゥールル号遭難事件から始まったトルコと日本の深い関係とは?
なお、串本町にあるエルトゥールル号の慰霊碑は、遭難50年の慰霊祭に合わせて、アタテュルクの協力により大改修が行われました。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクに関する豆知識
ここでは、ムスタファ・ケマル・アタテュルクに関する面白い豆知識をご紹介します。
アタテュルクはトルコに一人もいない!?
ムスタファ・ケマルは養子以外の実子がいなかったため、「アタテュルク」の姓は彼だけが持つ特別な姓となりました。現在でも「アタテュルク」の姓を持つ人は、トルコに存在しません。
アタテュルクは飛行機が苦手?
1910年、オスマン帝国軍の参謀大尉時代に軍事演習が行われた際、アタテュルクは飛行機への搭乗を勧められましたが、ある将校が飛行機に乗ることに対して警告したため、搭乗をやめたというエピソードがあります。
その後、搭乗予定の飛行機が墜落してしまい、乗員全員が亡くなってしまいました。その出来事以降、アタテュルクは生涯飛行機には乗りませんでした。
トルコ祖国解放戦争開始の記念日
第一次世界大戦の敗戦後、1919年5月19日にアタテュルクがイスタンブールからトルコ東部の黒海沿いにある街サムスンに上陸しました。この日から祖国解放の演説活動を始めたことから、5月19日はトルコ祖国解放戦争開始の記念日となっています。
アタテュルクが酒豪の理由
第一次世界大戦のガリポリの戦いは激闘となり、部隊を率いたアタテュルクはストレスや不眠に悩まされました。それらを紛らわすために薬やお酒を飲む量が増えたと言われています。このことが早くに亡くなってしまった原因の一つと考えられています。
気になるトルコのお酒事情!イスラムでも飲酒はOK?ラクってどんな味?
世界中に存在する「アタテュルク」という名の道路
アタテュルクは徹底した政教分離を行い、国からイスラム世界の最高指導者カリフを追放するなど、強硬な改革を行いました。しかし、イスラム教国を近代化させ発展させたことから、他のイスラム教国からも尊敬や敬愛を受けており、世界中に彼の名がつけられた道路などがあります。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ国民から敬愛される人物!
トルコ国民なら知らない人はいないムスタファ・ケマル・アタテュルク。彼の命日にはトルコ全土が止まり黙祷を捧げることからも、今もなお彼が国民から敬愛されていることがわかります。ぜひトルコを訪れた際には、アタテュルクの銅像やドルマバフチェ宮殿の止まった時計を探してみてくださいね!
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