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ガリポリの戦いとは?オスマン帝国軍が死守したダーダネルス海峡の歴史

更新日:2022.11.29

投稿日:2022.11.11

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ガリポリ

エーゲ海とマルマラ海を繋ぎ、さらにヨーロッパとアジアの境となっているダーダネルス海峡は古来より重要な交通の要衝とされ、その支配権が争われてきました。その中で最大の戦いが第一次世界大戦中に起きたガリポリの戦いです。現在は、多くの兵士たちが美しい海を見ながら安らかに眠る平和の地となっています。

ガリポリの戦いとは?

ガリポリの戦い

ガリポリの戦いとは、第一次世界大戦が行われている1915年に、トルコのダーダネルス海峡にあるガリポリ半島で行われた戦いのことです。侵攻して来たイギリス・フランスの連合軍と、オスマン帝国軍が祖国の領土を守るために戦いました。上陸作戦を行う英仏連合軍とオスマン帝国軍の間で激しい戦闘が行われ、8カ月の戦闘の間に両軍それぞれに約25万人の戦死者が出ました。

当初は短期間で、英仏連合軍がダーダネルス海峡の支配権を手に入れると考えられていましたが、オスマン帝国軍による予想以上の反撃を受けます。そして最終的には英仏連合軍が撤退をし、オスマン帝国軍が勝利しました。オスマン帝国軍を勝利に導いたのは、後にトルコ共和国初代大統領となるムスタファ・ケマルです。

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トルコでは、ダーダネルス海峡はガリポリ半島の対岸にある街の名前からチャナッカレ海峡と呼ばれています。そのためトルコではガリポリの戦いはチャナッカレの戦いと呼ぶのが一般的となっています。

ガリポリの戦いの発生から終結までの流れ

ガリポリの戦い チャナッカレ

ガリポリの戦い発生から終結までの流れを解説します。

戦いが起こった背景

第一次世界大戦の開戦後、ドイツは西部地域の制圧を試みますが、イギリスとフランスの反撃を受け、塹壕戦となり西部戦線は膠着状態となりました。ドイツとオーストリアは、東に位置しているロシアとの東部戦線に英仏からの援軍輸送を阻止するために陸上交通路を封鎖します。

オスマン帝国が中立を保っていた時は、物資を地中海からマルマラ海を抜け、黒海のロシアまで送ることができましたが、オスマン帝国が1914年10月にドイツの同盟国に参加してからはダーダネルス海峡が封鎖されました。そのためロシア海軍は地中海に出られず、イギリス・フランスとロシアが連絡を取ることや物資を送れなくなってしまいました。

そこでフランスの法務大臣が11月にオスマン帝国への攻撃を求めますが、この作戦は連合国軍内で拒否されます。イギリスはオスマン帝国に連合国側に加わるように工作を行いましたが、これも失敗に終わりました。

イギリス・フランス海軍によるダーダネルス海峡への攻撃

ガリポリの戦い

イギリス海軍大臣のウィンストン・チャーチルは、オスマン帝国の軍事力が低下しているという報告を受けます。そこで海軍力を使いダーダネルス海峡を制圧し、海峡を通りイスタンブールを占領する作戦の提案をおこないます。イギリスの同盟国ロシアがオスマン帝国と戦っているコーカサス戦線で、ロシアから支援の依頼がイギリスに届いたことでダーダネルス海峡への攻撃計画が具体的に進められることになりました。

1915年2月19日に英仏の艦隊が、ダーダネルス海峡沿岸に設置された砲台に向けて、砲撃を行いました。英仏艦隊は、この攻撃で砲台の一部を破壊し海峡入り口に設置された機雷を取り除くことに成功しました。また、オスマン帝国の守備隊が弾薬を使い果たしているという情報を掴んだ英仏艦隊は、近いうちにダーダネルス海峡を制圧できるという確信を持ちます。

3月18日の朝に18隻からなる連合艦隊がダーダネルス海峡に入ります。しかしオスマン帝国守備隊の砲撃を受け、掃海艇が撤退をする事態になってしまいます。そのため海峡の機雷が無傷のまま残されており、英仏の戦艦は機雷によって次々と損害を受けることになります。

機雷と砲撃により多くの戦艦が損傷したため、海軍力によるダーダネルス海峡の制圧作戦は失敗に終わりました。悪天候のため航空機による偵察を行うことができず、海峡の防衛隊の正確な戦力を見極められなかったことが敗因となりました。

上陸作戦までの準備

ガリポリの戦い

Nvanbourgondien21, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

海軍力によるダーダネルス海峡の制圧に失敗した英仏軍は、ガリポリ半島に上陸を行い、海峡沿岸の砲台を無力化させる作戦を発案します。初めての大規模な遠征となるオーストラリアとニュージーランド軍は、エジプトで訓練を受けた後にフランスに送られ、英仏の連合軍に組み込まれました。総勢7万8,000人からなる連合軍はハミルトン将軍が指揮を執り、ガリポリ半島の南部にあるヘレス岬を中心に上陸作戦を決行することにしました。

英仏連合軍は、ダーダネルス海峡近くのギリシャのリムノス島に集結をします。しかし、大人数の部隊を編成し、上陸船に装備や兵士を積み込むのに時間がかかり、全ての準備が整うのは5週間後の4月下旬となってしまいました。また、この時期は海峡の天候が安定せず飛行機による偵察ができなかったため、十分な情報を得られませんでした。

一方オスマン帝国軍は、ドイツ人司令官サンダースが防衛の指揮を執り、上陸作戦阻止のための会議が行われます。敵の上陸場所を分析して防衛部隊を配置し、高台から上陸部隊に素早く攻撃を加える必要がありました。

オスマン帝国軍のムスタファ・ケマル中佐は、ガリポリ半島南端のヘレス岬が上陸地点であると予測をし、彼の率いる第19師団はヘレス岬に配置されます。サンダースはアジア側のベシカ湾が、上陸地点と考え防衛隊の3分の1の勢力を配置しました。

オスマン帝国の防衛には、4月上旬にイスタンブールから増援が到着し、防衛隊の人数は6万人以上となりました。また、準備期間が約1カ月あったことで、半島に道路を建設し、海峡を渡るための小型船が造られ、海岸線沿いにはバリケードや塹壕や砲台が設置されました。

ガリポリ半島上陸作戦と戦闘

ガリポリの戦い

英仏連合軍の上陸作戦の決行は4月23日の予定でしたが、悪天候のため延期となりました。そして4月25日に上陸作戦が決行されます。主力部隊の第29師団が、ガリポリ半島南端のヘレス岬の5か所に上陸し、ダーダネルス海峡の最も狭い場所にあるキリトバヒル砦の攻略を目指します。オーストラリア・ニュージーランド連合軍(アンザック)は、ヘレス岬の北のカバテペビーチに上陸し、オスマン帝国の援軍がヘレス岬に向かうのを阻止する役割を任されました。

オスマン帝国軍を欺くために、いくつかの部隊はアジア側の海岸に上陸しました。第29師団は攻撃を受けながらも、ヘレス岬の3か所に上陸をしました。アンザック部隊は上陸場所を間違え、上陸予定のカバテペビーチより1.5kmほど北にあるビーチに上陸を行いました。現在はこの場所はアンザック湾と呼ばれています。

海上からの援護射撃が、兵士の上陸中に海岸と内陸への進路に対して行われる予定でしたが、実際は上陸前のみしか行われず上陸した兵士に多くの犠牲が出ました。そして高台を確保したオスマン帝国軍の猛攻を受け、連合軍は内陸に入ることができませんでした。一方オスマン帝国軍も海上からの砲撃を受け多くの犠牲者を出しながら、何とか反撃を続けます。やがてイスタンブールからオスマン帝国の援軍が到着すると、連合軍の迅速な勝利の可能性はなくなり、戦いは長期にわたる消耗戦へとシフトしていきます。

海から砲撃で支援を行っていたイギリスの戦艦が、5月中旬から下旬にかけて、オスマン帝国の戦艦とドイツの潜水艦により撃沈され、連合軍の海軍力が低下します。ガリポリ半島では、内陸に陣地を広げようとする連合軍と、ビーチに押し戻そうとするオスマン帝国軍の間で戦いが続きますが、双方大きな決め手がなく死傷者数が増えていきます。5月24日に戦場に残されている死者を埋葬するために1日の停戦が行われましたが、塹壕戦を主体とした戦いは7月まで続きます。

8月になると連合軍がアンザック湾の北8kmにあるスヴラ湾に増援を送ります。アナファタラル丘陵にある高台を占領し、そこから南に向かいヘレン岬の部隊が前進できるようにする作戦です。しかし、ムスタファ・ケマル率いる防衛隊が高台を確保し反撃したため、内陸に進むことができずに、ここでも塹壕戦となります。8月21日にはアンザック湾とスヴラ湾の前線を繋ぐための攻撃が行われますが、この作戦もオスマン帝国軍によって防がれてしまいます。

攻撃が失敗に終わった連合軍は、現在の兵力で自軍の防衛に徹するようになります。長期間の塹壕戦と夏の暑さにより、兵士たちの衛生状態が悪化します。赤痢が両軍の間に広がり、病気により多くの死者が出ました。連合軍を率いるハミルトン将軍は引き続き戦い続けることを主張しましたが、連合軍内ではガリポリから撤退をして新しい戦線へ兵力を送ることが議論されます。

連合国軍の撤退

ガリポリの戦い

8月に行われた作戦が失敗に終わり、イギリスでは撤退を支持する世論が大きくなります。1915年10月にそれまで中立を保っていたブルガリアが、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国の同盟国に参加することを表明します。そのためイギリスとフランスは軍隊の一部をガリポリから撤退させ、ギリシャのテッサロニキに新しい戦線を作ることになりました。

ガリポリは秋から冬になり、大雨で塹壕に水がたまり衛生環境が悪化し、気温が下がる冬には多くの兵士が凍傷を負いました。そして12月に連合国軍のセルビアが同盟国軍のオーストリアに敗れたことにより、ドイツから陸路でオスマン帝国に物資を送ることができるようになり、連合国軍の状況が不利となります。

そして、ついに連合軍はダーダネルス海峡の制圧とイスタンブール攻略を諦め、ガリポリ半島から撤退をすることを決めます。スヴラ湾とアンザック湾に駐留していた部隊は、12月7日から撤退を開始し、12月20日までにすべての部隊が撤退をしました。

12月28日に、ヘレス岬に駐留をしていたイギリス軍の撤退が決定します。イギリス軍の多くの部隊は、1月7日と8日の夜にビーチまで後退し、船に乗り撤退を行いました。最後の部隊も1月9日までにガリポリ半島を離れ、撤収できなかった大量の物資が残されました。弾薬など使える物もありましたが、多くの武器や車両は撤退前に破壊をされて置き去りにされました。

連合軍の全ての部隊がガリポリ半島から撤退したことで、ガリポリの戦いはオスマン帝国軍の勝利に終わりました。そして、負けると思われていたオスマン帝国軍が連合軍を退けたことは、諸外国に大きな驚きを与えました。

ガリポリの戦いにまつわる逸話と後世に与えた影響

ガリポリの戦いにまつわる話の一部をご紹介します。

  • イギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルは、自らが提案をしたガリポリの戦いで大きな損失を出し撤退をしたことで、海軍大臣の座を退くことになりました。
  • アンザックの衛生兵であるオーストラリア人のジョン・シンプソン・カークパトリックは、ダフィーと言う名のロバを使って、負傷した兵士を戦場から自軍まで搬送を行いました。毎日何時間にもわたり負傷兵を搬送しましたが、彼は撃たれて亡くなってしまいます。残されたダフィーは主人がいなくなった後でも、負傷兵を運び続けたと言われています。ジョン・シンプソン・カークパトリックは、ダフィーと共にオーストラリアの英雄となっています。
  • アンザック部隊が撤退する際に、オスマン帝国軍に追撃されて被害を出さないために、撤退を偽装する必要がありました。そこでライフルの引き金に鍋を取り付け、水滴の重みで自動的に発砲する手段が考え出されました。アンザック部隊の塹壕から発砲があるためオスマン帝国軍は攻め込むことが出来ず、多くの兵士が攻撃を受けずに無事に撤退できました。
  • ガリポリの戦いでは、飛行機による空からの偵察、潜水艦や戦艦による海からの攻撃、そして大規模な上陸作戦が行われました。陸海空軍が同じ作戦で行動をした最初の戦いとなり、各国でガリポリの戦いを参考にして軍事研究が進められることとなりました。1944年のノルマンディー上陸作戦にも大きな影響を与えています。
  • トルコでは最初に連合艦隊を退けた3月18日がガリポリの戦いの記念日となっており、式典が行われます。オーストラリアとニュージーランドでは、ガリポリに上陸した4月25日がアンザックデーと呼ばれる祝日となっています。

ガリポリの戦いで有名な狙撃手「ビリー・シン」とは?

ビリー・シン

ウィリアム・エドワード・シン(通称:ビリー・シン)は、ガリポリの戦いで活躍した最も有名な狙撃手です。オーストラリア軍の兵士として第一次世界大戦に参戦したビリー・シンは、ガリポリの戦いで300名近くもの敵兵を射殺したといわれており、“暗殺者”の異名をとっていました。

第一次世界大戦を生き抜き、英雄としてオーストラリアに帰還したビリー・シンでしたが、その後は労働者として貧困に苦しみ、第二次世界大戦中の1943年に自室で息を引き取りました。

ビリー・シンが亡くなったサウス・ブリスベンには彼の功績を称える記念プレートが設置されているほか、オーストラリア戦争記念館には軍人としてのビリー・シンに授与されたメダルが展示されています。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクのガリポリの戦いでの活躍

ムスタファ・ケマル・アタテュルク ガリポリの戦い

オスマン帝国の軍人だったムスタファ・ケマルは、第19師団長としてガリポリ半島の防衛任務に就きました。ガリポリの戦いの最初に起きたヘレス岬での戦いでは、高台を守る兵士の弾薬が尽きてしまいました。そこでムスタファ・ケマルは兵士たちに、「私はあなたたちに戦うことを命じない、死ぬことを命じる。我々が死ぬまでの間に、他の部隊がやってきてこの場所を守ることができる」と言いました。その言葉の通り部隊の兵士は全員死傷しましたが、高台を守ることに成功しました。

8月6日に行われた連合軍の大攻勢の際に、連合軍の増援が上陸したスヴラ湾近くのアナファタラル丘陵の司令官に任命されます。増援のニュージーランド歩兵部隊が、アナファタラルにあるチュヌクベアの丘を占領します。しかし、その2日後の8月10日にムスタファ・ケマル率いる部隊が反撃を行い、チュヌクベアを奪い返すことに成功をしました。

アナファタラル丘陵を攻略できなかった連合軍は、他に打つ手がなくなり勝利の可能性が小さくなりました。この活躍によりムスタファ・ケマルは「アナファルタラルの英雄」として新聞に紹介され、トルコ中に彼の名声が知れ渡りました。

トルコの初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生い立ちと偉業

当時、弱冠34歳だったムスタファ・ケマルは、ガリポリの戦いでの活躍により、やがてトルコ独立戦争の中心人物となります。第一次世界大戦の後、オスマン帝国の衰退に伴い祖国防衛の重要性が叫ばれるようになり、その活動を率いていくことになります。

ガリポリの戦い当時のオスマン帝国の状況

オスマン帝国 国旗

オスマン帝国は17世紀以降、広大な土地を持つ大帝国の維持に苦しむことになります。トルコ民族以外の民族が中心となり独立運動が展開されます。また、。産業革命で力をつけたヨーロッパの列強が、オスマン帝国領土に介入をするようになり、ハンガリー、エジプト、ギリシャなどが次々と独立をし、独立戦争で敗北をしたオスマン帝国の国力は急速に衰えていきます。

19世紀に起きた露土戦争、20世紀に入ると伊土戦争やバルカン戦争に敗れ黒海の制海権やバルカン半島の領土の大部分を失いました。戦争に負け領土を減らし続けるオスマン帝国は、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれていました。また、スルタンによる専制政治も、近代化したヨーロッパ諸国より国力が劣る原因となっていました。

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第一次世界大戦への参戦

ガリポリの戦いに深く関わってくるのが第一次世界大戦です。ヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商の対立が起こっていました。1914年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、その事件の犯人はオーストリアからの解放を目指すセルビア人青年でした。オーストリアはドイツの援助を受けて7月28日にセルビアに宣戦布告し、これが第一次世界大戦の発端となりました。

セルビアを支援するためにロシアが参戦し、三国協商によりイギリスとフランスもドイツとオーストリアに宣戦布告をしました。オスマン帝国は、ドイツ・オーストリアの同盟軍に参加し、後にブルガリアを加えた4か国による同盟国を結成しました。そして、イギリス・フランス・ロシアなどの27か国の連合軍と4年にわたる大戦争に発展します。日本は日英同盟に基づき、連合軍の一員として参戦をしています。

1918年11月にドイツが降伏したことで、第一次世界大戦は終結します。ヨーロッパ諸国を巻き込んだ戦争の死者数は900万人近くになりました。敗れたオスマン帝国はムドロス休戦協定を結び、連合国軍による支配を受けることになります。支配を受け入れたオスマン帝国に対してトルコ国内で反発の声があがり、ムスタファ・ケマルが中心となったアンカラ政府によるトルコ独立戦争へと発展をしていきます。

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ガリポリの戦いを描いた映画

誓い(原題:Gallipoli)

1981年公開、メル・ギブソン主演のオーストラリア映画です。イギリスへの援軍としてガリポリの戦いに参戦した二人の青年を描いた作品で、公開された年のオーストラリア・アカデミー賞を総なめにしました。

バトル・オブ・オーシャン(原題:Çanakkale: Yolun Sonu)

2013年に製作されたトルコ映画。ガリポリの戦いに参戦した二人の兄弟の物語で、過酷な塹壕戦に直面する兄と、経験豊富な狙撃手である弟の活躍を描いた戦争映画です。

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