トプカプ宮殿はオスマン帝国皇帝達380年の居城!見逃せない観光ポイント!
更新日:2023.02.28
投稿日:2022.07.21
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トプカプ宮殿があるのは、ボスポラス海峡と金閣湾とマルマラ海が展望できるイスタンブール旧市街の半島の先端に位置する丘の上です。トプカプ宮殿は大帝国を築いたオスマン帝国の皇帝であるスルタンたちの格式高い居住地で帝国の行政の場として知られています。
オスマン帝国の繁栄の象徴とも言えるトプカプ宮殿。現在もそのまま博物館として一般公開されており、訪れることで当時の華麗なる暮らしぶりを目にすることができるでしょう。
トプカプ宮殿は、1985年にアヤソフィアやブルーモスクと共にイスタンブール歴史地区の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されています。この記事では、トプカプ宮殿の魅力や見どころについて詳しく解説します。
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Contents
トプカプ宮殿とは?
トプカプ宮殿はイスタンブールの歴史地区に存在するトルコの世界遺産です。北は金角湾、東はボスポラス海峡、南はマルマラ海に囲まれた小高い丘にあります。
トプカプ宮殿の敷地面積は広大で約70万㎡を有するとされています。オスマン帝国600年の歴史の内約380年間、スルタン達の居城および大陸にまたがる大帝国の最高行政機関の場であった宮殿です。また、帝国の教育の中心地でもありました。
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創設者はコンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世
トプカプ宮殿は1453年にコンスタンティノープルを陥落してビザンツ帝国を滅亡させ、イスタンブールをオスマン帝国の首都とした第7代皇帝メフメット2世(ファティ・スルタン・メフメット)によって創設されました。1460年代頃から造営が開始され、1478年までに完成したのです。
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宮殿の名「トプカプ」の由来
トプカプ宮殿は最初から、トプカプという名ではありませんでした。ファティ・スルタン・メフメットはイスタンブールを征服後、ベヤズット地区の現在イスタンブール大学がある場所に宮殿を建てます。しかしその後、大宮殿を半島の先に建て始めそれが完成すると、この新しい宮殿に居住したのです。
ファティ・スルタン・メフメットは、この宮殿にオスマン語で“新宮殿”を意味する「サラユ・ジェディード(Saray-ı Cedid)」と名付けました。これがトプカプ宮殿の最初の名前です。
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新宮殿より後、ビザンツ城壁の近くの海辺に24代皇帝マフムト1世により造られた大きな木製の宮殿がありました。その宮殿は、前に礼砲の球(トプ)が置いてあったことから“トプカプス海岸宮殿(Topkapusu Sahil Sarayı)”という名前が付けられていました。
しかし、1862年この宮殿が火事で焼失してしまったため、この宮殿の名を“新宮殿”に付け、これ以降トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)の名になったと言われています。
いつまで宮殿だった?
トプカプ宮殿は、第31代皇帝アブドゥルメジドが1856年にドルマバフチェ宮殿を完成させるまで、378年間スルタンの宮殿として使われました。アブドゥルメジド以降の皇帝たちは、トプカプ宮殿ではなく、ボスポラス海峡沿いのドルマバフチェ宮殿やユルドゥズ宮殿に居住してしまいます。しかしその後も宮廷従事者などはトプカプ宮殿に残っていました。
また、トプカプ宮殿にはスルタンの財宝、聖遺物、皇帝の記録などが所蔵されており、過去のスルタンより代々残されて来た宮殿であったことから、スルタンが引っ越した後も引き続き国家儀式はここで行われていたのです。
宮殿から博物館へ
1922年にオスマン帝国のスルタン制が廃止され1923年にトルコ共和国が建国すると、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの意向により、トプカプ宮殿は1924年4月3日から博物館として一般公開されました。
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歴代のスルタンは様々な建築物を建設しては増やしてきたため、宮殿は異なった建築様式が混在しているなど煩雑な造りをしています。例えば、16世紀の建物の壁に18世紀に流行した壁画が描かれていることも珍しくありません。
トプカプ宮殿のみどころは?
オスマン帝国のスルタン達は元々遊牧民族であったトルコ人です。国の統率者は通常威厳を示すために高層で華やかな城を建設するものですが、トプカプ宮殿は簡素ながらもどっしりと威厳のある平屋の宮殿となっているのが特徴です。増築しながらスルタン達は代々ここに住み続けました。
控えめな造りなのは帝国の費用の多くをトプカプ宮殿ではなく、帝国内のモスクや橋や兵舎や隊商宿や宿泊などのインフラ整備に使われたためでもあります。しかし、そうは言っても内装はやはり世界に大帝国を造ったオスマン帝国らしく豪華絢爛です。その優雅さは帝国の栄華そのものと言えるでしょう。
また、70万㎡の面積を持つトプカプ宮殿の陸側には1,400mの長さの城壁があります。宮殿側には、オリエント急行の駅や兵舎を有しています。海側をビザンツ城壁で囲まれたトプカプ宮殿はチューリップが咲き誇る現在のギュルハーネ公園にあたる広大な庭園、行政の場である外廷とスルタンのプライベートの内廷を含んだ4つの中庭、3つの門、大小の庭園で構成されています。1700~1730年は、トルコ国内でチューリップの栽培が普及したこともあり、トプカプ宮殿は別名“チューリップの宮殿”とも言われています。
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また、宮殿の内廷にはあのスルタンの後宮ハレムもあり、女性達の権力闘争や後継者闘争が繰り広げられてきました。
トプカプ宮殿の場所と詳細
トプカプ宮殿の場所と詳細を解説します。トプカプ宮殿がある場所はイスタンブールの旧市街エリアにあります。ブルーモスクからは10分程度、アヤソフィアからはすぐの場所です。なお、入場料の変更は不定期で行われますので随時ウェブサイトなどでご確認ください。
住所 | Cankurtaran, 34122 Fatih-İstanbul ※アヤソフィア裏(北側) |
---|---|
最寄駅 | トラムT1線「スルタンアフメット駅」徒歩8分 |
開館時間 | 9:00~18:00 ※チケット販売は17:00まで ※ハレム開館時間09:00~17:00 |
入場料 | 320TL(+ハレム:420TL) |
定休日 | 火曜日 |
休館日 | 元旦、砂糖祭の初日、犠牲祭の初日 |
ウェブサイト | https://www.millisaraylar.gov.tr/en/ziyaret-bilgileri |
※最寄り駅で下車後、モスクがある方の出口を利用してください。アヤソフィアを左手にして前を通り過ぎ、左へ曲がると正面にトプカプ宮殿外門の“皇帝の門”が見えます。
見学の所要時間と注意点
トプカプ宮殿の敷地は広大で4つの庭園に17ヵ所もの見学場所があり、人気の見学場所は混雑している可能性があります。見学の所要時間は、速足で2時間、じっくりゆっくり見たい方は3時間以上を目安にしてください。
敷地内の建物などは基本的に写真撮影できますが、一部撮影が禁止されている場所もあります。事前に確認しておきましょう。
なお、トプカプ宮殿には多くの建物が連なっているため、見どころを見逃さないように見取り図を見ながら効率よく見学するのがおすすめです。トプカプ宮殿で見逃せない観光ポイントは以下で詳しく解説します。
見逃せない!トプカプ宮殿観光ポイント
4つの庭園の中にハレムや宝物館や議事堂など沢山の見どころを持つトプカプ宮殿を効率よく見学するために見逃せない観光ポイントを入り口から順に紹介します。
第一庭園「軍隊の広場」
総門を抜けた先にある第一庭園は宮殿の前庭であり、軍隊の広場であった中庭です。即位式、スルタン達が遠征に行く際や凱旋した際、金曜参賀などに使われた場所であったといわれています。特別な日には一般市民も入ることができた唯一の場だったそうです。
この中庭を通る真ん中の道は、皇帝の門から第二庭園に入る儀礼の門まで300mあり、帝国上層部が唯一馬で入れた場所でもあります。ここでは入場料がかかりませんが、第二庭園に入る前に入場券を購入する必要があります。
死刑執行人の泉
皇帝の門の右側、スズカケの木の後方には、“死刑執行人の泉”があります。役人がスルタンの機嫌を損ねた際に首を切られてこの泉で洗われたと言われています。しかし、ドイツのウィリアムⅡ世が19世紀後半に来訪した時に印象が悪くなることを懸念してスルタンが泉を壁から離しました。その後、1924年に宮殿が博物館になってから再び元の所に戻されて今に至るのです。
皇帝の門
トプカプ宮殿で最初に目にする宮殿と市中を隔てる大きな主要門が皇帝の門です。トプカプ宮殿を建設したメフメット2世により建設されました。門の上部のアラビア語碑文には下記の文章が書かれています。
アヤ・イリニ
皇帝の門をくぐって左に見える古い教会が、ビザンツ帝国時代の4世紀に作られ、6世紀にユスティニアヌス帝が再建した、アヤ・イリニです。オスマン帝国がイスタンブールを支配した後はトプカプ宮殿の敷地内に残ったため、モスクに変えられずに武器庫として使用されていました。
第一庭園では、アヤソフィアを後ろにして、アヤ・イリニをメインに2つのビザンツ帝国の聖堂を写真撮影できます。
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第二庭園「外廷:議会の広場」
ここからが宮廷内の始まりで博物館となります。チケット売り場でチケットを購入し改札を過ぎて、挨拶の門を通り抜けます。中に入ると目の前に広がるのが外廷である第二の庭園と言われる議会の広場です。ここで政務や公的行事が行われていました。
挨拶の門
博物館である宮廷内への入場口となっているのが挨拶の門です。1468年にファティ・スルタン・メフメットによって造られました。2つの塔が印象的で、写真や映像で良く見る門です。
正義の塔
第二庭園に入り左側にあるトプカプ宮殿で一番高い尖がり屋根の塔が、正義の塔です。ファティ・スルタン・メフメットによって造られた当初はこれほど高くなく、スレイマン大帝の治世下で再建され、1820年にマフムット2世によって今の5階建ての高さに増設されました。中の5階まで続く階段は、19世紀に造られたものです。
唯一の高層建築のこの塔は、宮殿内および市内の動きを監視するために使われ、またイスタンブールの町中より見えることから帝国の威厳と、この下の御前会議場での公正と正義を象徴する塔でもありました。
帝国御前会議場(ディヴァーヌ・ヒュマーユーン)
かつて三大陸にまたがる広大な領地を統治していたオスマン帝国の評議と決定はここで行われていました。内部上階には格子状の窓部屋があり、スルタンは直接会議に参加をせずこの格子越しから大宰相たちの会議を覗いていたと言います。
最初にファティ・スルタン・メフメットによって建てられた際は木製の建物でしたが、その後スレイマン大帝によって1527~1529年に造られたのが現在の建物です。
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ハレム
帝国御前会議場の手前奥には、車の門というハレム入口があります。ハレムは後宮のことで、スルタンの私的生活の場でした。このハレムには、スルタンとその母の皇太后・母后(ヴァリデ・スルタン)、未婚の妹、正妃、側室、皇子たち(シェフザーデ)、皇女たちなどのスルタンの家族、そして侍女、宦官たちが住んでいました。
ハレムには400にも及ぶ部屋があり、オスマン帝国時代を通して平均400人の女性が住んでいたと言われ、多い時には1,600人にもなったそうです。下剋上のハレムの世界では、オスマン帝国の女たちの権力闘争と後継者闘争が繰り広げられていました。
ハレムは女性奴隷の教育の場でもありました。スルタン、皇子、帝国の高官たちには、このハレムから教育された女奴隷や夫人が送られ、またハレムで教育を受けた女奴隷と宮殿学校で教育を受けたデヴシルメの若者を結婚させることで、オスマン帝国に直結する貴族を作り出していたのです。
ハレムには宦官がいましたが、黒人からなる 、黒宦官と白人からなる白宦官の二通りありました。ちなみに、宦官とは去勢された男性で、この時代の後宮で執務を担った人々です。宦官たちはそれぞれ、バラやカーネーションなどの花の名前が付けられ、ハレムの家事雑事などに携わるなどの役割を果たしていました。
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ハレム~女性たちの住居
ハレムの二番目の建物には女性たちの住居があります。イスタンブールの市場で買われたり、外国からスルタンに贈られたりした女性たちです。スルタンが女性たちを外国の皇帝に贈ったこともありました。女性たちは、親に手紙を出したり親戚に会ったりすることはできましたが、スルタンが死ぬまで外出することは許されなかったようです。
ちなみに、ハレムはアラビア語で“禁じられた”という意味があります。女性たちの住居にはスルタンとその家族以外の者が立ち入ることができませんでした。
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スルタンの謁見室
宮殿で最大のドームを持つ壮麗な部屋は、スルタンの謁見室です。この場所は、スルタンの王座とお気に入りの女性が据わる場所、大時計やロッキングチェア、大きな花瓶などがあります。ロココ調の部屋の白と青のタイルはオランダから持ち込まれたもので、この部屋に置かれている時計は英ヴィクトリア女王から送られたものです。
なお、アンティーク時計と大時計は、トルコ共和国建国の父、将軍ケマル・パシャ(アタチュルク)が亡くなった9時5分で止まっています。1938年11月10日の午前9時5分に亡くなったからです。
スルタンのハマム
ハマムとは、ローマ時代からオスマン帝国時代にかけて発祥したトルコ式の伝統的な浴場です。スルタン専用のハマムには、安全のために金色のブロンズの手すり代わりの仕切りが付けられています。
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ムラト3世の部屋
1579年に建築家ミマール・シナンが建てた豪華絢爛なこの部屋は、スルタンの私室と謁見室からなります。壁はイズニックタイルで覆われており、オスマン建築の中で最も壮大なものの一つです。ムラトⅢ世は、スルタン・スレイマンの孫息子で、トルコの黄金期を担った人物です。
部屋の中には、夏の間、空気を爽やかに保つために、沢山の小さい噴水があります。オスマントルコの生活様式にベッドが取り入れられたのは19世紀のことです。したがって、ムラト3世の室内にはベッドはなく、床の上に布団を敷いて寝ていたと言われています。
ムラトⅢ世の部屋には素晴らしい景色を見渡せるモスクがあります。なお、ハレムの建物には、宮殿側に窓は一つもありません。女性たちが男性の姿を見ないように、窓は町側だけに設置されています。
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ハレム病院
博物館となってすぐは宮殿の倉庫として使われていたため見ることができませんでした。しかし、修復が終了した後は一般公開される予定です。ここは、薬剤室、病室、医療者室、厨房、ハマム、薪庫、遺体湯灌室、洗濯室などの総合施設で、皇妃から女奴隷までハレムの住人全員に医療が行き渡るほどの大規模な病院だったと言います。
国庫・財務省
御前会議場の奥の8つのドームからなる場所が、帝国の財宝が収められ19世紀まで公的な財務管理がなされていた国庫です。宰相(パシャ)、大使、宮殿の住人たちに与えられる貴重なカフタン(トルコ民族衣装ガウン)や宝石など様々な贈り物がここに収められていました。イェニチェリへの給与もここで管理されていたと言います。
現在ここは武器展示室となっています。明治時代に和歌山県沖エルトゥールル号事件の後にイスタンブールに義援金を持って渡った山田寅次郎が時の皇帝アブデュルハミト2世に贈呈したと言う日本製の甲冑はここで展示されています。
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宮殿厨房
第二庭園の右側、国庫の向かい側にあるのが150mの長さの厨房複合施設です。最初ファティ・スルタン・メフメットにより造られましたが、1574年の火事で焼失した後、建築家ミマール・シナンによって再建されたのが現在の建物です。
ここで約800人の料理人が4,000人分ほどの料理を作っていたそうです。第一番目の建物は、料理人の宿舎だったところで、当時、1,200人程度の料理人が住んでいたと言われています。実際に調理をしていたのは、第二番目の建物です。
現在は、宮殿の文献室、布生地倉庫、修理工房、オスマン帝国厨房コレクション展示室として使われています。
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第三庭園「内廷:エンデルンの広場」
宮殿の内延である第三庭園はいわゆる私的空間で、100×90mの敷地内にはスルタンやその従事者たちの部屋や、宮殿教育がなされたりする学校や小部屋がありました。
幸福の門
第三庭園への入口で、宮殿のシンボルともなっている重要な門です。ちなみに、“幸福の門”という名前は、神の使いであり臣民に幸福をもたらすと考えられていたスルタンにちなんで付けられたと言われています。
幸福の門の天井からは約束飾りがおりていますが、この約束飾りは世界を表しており上にある石はスルタンの力を表しているそうです。オスマン帝国の旗を立てる床の穴には、大きな儀式がある際に旗が立てられました。
エンデルン(内廷)との結び目となるこの門は、即位やバイラムなどの儀式の際にスルタンが前に座ったり、また遠征に向かう際はここで帝国軍旗が大宰相に託されたりしました。そのためこの門は宮殿で最重要とされ、スルタンの存在と権力の象徴でもあったのです。
謁見の間
第三庭園の真ん中には大きな2つの建物があり、そのうちの一つが謁見の間です。幸福の門から内廷に入って目の前にあります。大宰相や御前会議メンバー、帝国高官、外国人大使などがここでスルタンに謁見できました。
御前会議後にここで大宰相がその日の議題などをスルタンに報告したことから、報告の間とも言われています。現在、宝物殿として4つの部屋がありますが、詳しくは次で紹介します。
宝物殿
トプカプ宮殿を訪れたならば絶対に見逃せないのが宝物殿です。オスマン帝国の壮大さがわかる華麗で豪華そのものの宝物が沢山展示されています。宝物殿には、4つの部屋があることを前述しましたが、それぞれ以下のような部屋になっています。
第一の部屋
鎧兜、王座、香水瓶、鉄砲、ローソク台、オルゴール、金のコーヒーカップ、琥珀の水タバコの吸い口が収められている部屋です。なお、トルコ人の中にはコーヒーショップで水タバコを吸うために自分の吸い口を携帯している人もいます。
第二の部屋
世界一のエメラルドコレクションが置いています。エメラルドの緑色は、イスラム教で天国を表わす神聖な色とされていました。したがって、スルタンが好んだ宝石はエメラルドや金鉱石、かんらん石や翡翠などの緑色の石と言われています。なお、この部屋で一番大きなエメラルドの重量は、15kgほどです。
第三の部屋
この部屋には86カラットもの大きなダイヤモンドがあり、スプーンのダイヤモンドと呼ばれています。古い言い伝えによるとこのダイヤモンドは、大バザールで2つのスプーンとごみの山を交換した漁師に見つけられたとされています。なお、詳しい逸話は後述しています。
第四の部屋
蒙古人の支配者の王座があり、ペルシャからの贈り物としてこの宮殿に来たものとされています。数珠と140kgの巨漢で知られていたスルタンのアブドル・アジズのスプーンコレクションも同じ部屋にあります。また、16世紀のキリスト教世界の偉人である学者ヨハネの手やイスラム教の預言者ムハンマドの遺品なども興味深いものです。
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展示物の代表でもある、スプーン職人のダイヤモンドやトプカプの短剣は、トプカプ宮殿の目玉です。ここは残念ながら写真撮影が禁止されているため、しっかりと目に焼き付けるしかありません。
アフメット3世の図書館
謁見の間の裏にあるのが、1719年にアフメット3世が造らせた図書館です。元々はセリム3世がミマール・シナンに造らせた、池のある庭の邸宅がありましたが、“チューリップ時代”と呼ばれる改革の時代に、アフメット3世が宮殿に散乱していた書物を収集するためにこの図書館を造りました。
聖遺物館
聖遺物館は第三庭園の左側にあります。元々はスルタンのプライベートの部屋でしたが、現在その一部は展示場です。ここにはムハンマドやその知人たち、イスラム教の預言者達に関する遺物などの驚くべき貴重な聖遺物が展示されています。
第四庭園「邸宅の庭」
ここは宮廷一番奥、半島の先端に位置したキョシュクと呼ばれる邸宅が点在している、とっても眺めが良い庭園です。
バーダット・キョシュク
左奥の金閣湾に面した建物が“バグダッド邸宅”を意味する、バーダット・キョシュクです。ムラット4世がバグダッド遠征の戦勝記念として1639年に造らせたもので、内部の華麗なタイルやドームの装飾の素晴らしさは圧巻です。ここからの景色は絶景で、人気の写真スポットとなっています。
見逃せないトプカプ宮殿の至宝!
第三庭園にある宝物館には、オスマン帝国のすごさを実感できる豪華絢爛な眩い宝物コレクションが展示してあります。その正にお宝と言える数々の展示品の中でも特に有名な至宝をいくつかピックアップしてご紹介します。
トルコの至宝「エメラルドの短剣」
エメラルドの短剣は、トプカプの短剣とも言われています。世界一美しく最も価値があるとされるこの短剣は、トルコ系のアフシャール朝イランの初代シャー(君主)であるナーディル・シャーにプレゼントするために、マフムット1世の命で1741年に造り始められました。
しかし、完成した短剣を届けるためにオスマン帝国の使節がイランに向かっている途中、ナーディル・シャーが反乱により死去してしまったため、トプカプ宮殿に戻され保管されたそうです。
たった35cmほどの大きさの短剣ですが、柄と鞘は全て金でできており、3~4cmの特大エメラルドが柄に3つ、柄の先には1つはめ込まれています。そして、加えてこれでもかと言う程ふんだんにダイヤモンドが装飾されています。
それだけでなく、柄の先を開けると中にはイギリス製の時計もあるのです。息をのむほどの豪華さのこの短剣は、オスマン帝国の装飾技術の傑作とも言える作品です。
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スプーン職人のダイヤ
86カラット(17.5g)の涙型の大粒ダイヤの回りを49個の小粒のダイヤが飾る世界でも有名なダイヤモンドです。このダイヤがいつどうやってトプカプ宮殿にもたらされたのかは不明ですが、2つの逸話が残っています。
スプーン職人とメフメット4世の逸話
17世紀後半にイスタンブールで紙拾いをしていた貧しい男がごみの中から変わった丸い石を見つけ、この石をスプーン職人に見せて3本の木製スプーンと交換します。そしてスプーン職人はある宝石店に持ち込み銀貨10枚で石を売るのです。
その後この宝石屋はこれを友達に見せたことでこの石が大変貴重なダイヤの原石であることがわかるのですが、この友達は黙秘料を欲しがり喧嘩が起こります。
これを聞いた宝石管理長がこの二人に銀貨一袋ずつを渡してこの石を手に入れます。そして話を聞きつけた大宰相がこれを買い取ろうとしていた時、スルタンのアフメット4世の耳に入り、通達を出してこの石を宮殿に持ってこさせます。
宮殿の宝石職人にこの石をカットさせると、86カラットのダイヤが生まれました。これが本日まで宮殿に保管されているスプーン職人のダイヤとのことです。
ナポレオンの母親とテペデレンリ・アリ・パシャの逸話
1774年にピゴットと言う名のフランス人将校が、インドでこのダイヤを購入してフランスに持ち帰ります。その後、ナポレオンの母がこれを購入するのですが、ナポレオンが亡命すると、母はこのダイヤを売りに出すのです。
その頃、フランスにいたテペデレンリ・アリ・パシャの部下がこのダイヤを購入して彼の元に持ってきます。しかしその後、テペデレンリ・アリ・パシャは皇帝マフムット2世の治世に政府に対して反乱を起こして殺されると、彼の財産は没収されました。こうして、このダイヤは宮殿の国庫に持ち込まれたと言います。
訪れる前に必見!観ると観光が数倍楽しくなるトルコ大河ドラマ
近年日本でも放送されて密かにオスマン帝国ブームを巻き起こしているのが『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』と言う、トルコを始め世界でしたトルコ大河ドラマです。
このドラマで、オスマン帝国最盛期を築いたスレイマン大帝と帝国史に一躍を投じた妃ヒュッレム・スルタンをメインに、女性達の愛と憎しみと欲望の戦い、それに後継者争いなどの人間ドラマが繰り広げられている舞台がトプカプ宮殿のハレムなのです。
このドラマでトプカプ宮殿やハレム、そしてオスマン帝国の歴史の魅力にどっぷりハマってからトプカプ宮殿を訪れると、ドラマのワンシーンが出てくるようで、宮殿観光の楽しさが数倍楽しくなること間違いありません!
トプカプ宮殿でオスマントルコ時代を肌で感じよう
トプカプ宮殿には、今でもオスマントルコ時代の名残が多く残っています。宮殿内には、宮廷の女性たちが生活していたハレムや煌びやかな宝石をあしらった豪華な装飾品や美術工芸品を目にすることができるため、当時の神秘的な雰囲気に思いを巡らせることができるでしょう。ぜひ一度トルコのイスタンブールを訪れ、トプカプ宮殿観光を楽しんでください。
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