コンスタンティノープルとは?世界最大のメトロポリスだったビザンツ帝国の首都を大紹介!
更新日:2023.04.05
投稿日:2022.10.07
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コンスタンティノープルは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都。330年にコンスタンティヌス帝によって建設されてから、1453年にオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅ぼされるまで、帝都として大きな役割を果たしてきました。東西貿易の要所であり、ギリシャ正教会の総本山であり、ビザンツ文化が花開いた都でもあったコンスタンティノープルは、当時世界最大のメトロポリスだったのです。
現在はイスタンブールと名前を変えた、コンスタンティノープルの歴史や町の特徴、名前の変遷などを大紹介します。
Contents
コンスタンティノープルとは?
ここでは、コンスタンティノープルという町についてその概要や地理的位置などを解説します。
コンスタンティノープルの概要
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により建設されました。コンスタンティノープルは、ローマ帝国に始まり、ビザンツ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国と約1,600年に渡り4つの帝国の首都となった世界最大のメトロポリスでした。
紀元前6600年頃からこの場所には集落が作られ、古代より東西貿易の要所として都市が建設されてきました。北は金角湾、東はボスポラス海峡、南はマルマラ海と三方を海に面し、都市を囲んで城塞化するには西方に城壁を築くだけでよいという恵まれた立地条件と、海上交易路、西方とアジアを結ぶ陸上貿易路が確保できるという経済的利点をあわせもった唯一無二の場所として、当地に作られた都市は古代から現在まで長きにわたり繁栄します。
コンスタンティノープルは、コンスタンティヌス1世によって建設されてから、ビザンツ帝国の首都として発展し、宮殿やハギア・ソフィアなどの建造物が建設されました。五大総主教座のひとつコンスタンティノープル総主教座がおかれ、ギリシャ正教の筆頭ともなりました。また、ビザンツ文化が花開き、10~11世紀にはキリスト教世界最大の都市となり、最盛期をむかえます。
その後イスラム勢力やアラブ勢力、十字軍などによる侵攻が相次ぎ、ビザンツ帝国が衰退するとコンスタンティノープルも荒廃していきます。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落したことによってビザンツ帝国は滅亡。その後はオスマン帝国の首都コンスタンティニイェとして繁栄しました。1922年にオスマン帝国が滅亡しトルコ共和国となるとイスタンブールとなり、現在もトルコ最大の都市として繁栄しています。
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コンスタンティノープルの場所は今のどこにあたる?
コンスタンティノープルは、現在のトルコ共和国のイスタンブールのヨーロッパ側旧市街地の半島部分にありました。現在のイスタンブールでは、スルタンアフメット歴史地区がある場所からテオドシウスの城壁までが、ユネスコの世界遺産になっています。
Historic Areas of Istanbul – UNESCO World Heritage Centre
トルコ共和国になってから首都はアンカラとなりましたが、イスタンブールはトルコ最大の都市として現在も繁栄しています。
ビザンツ帝国の繁栄においてコンスタンティノープルが重要だった4つのポイント
ここでは、コンスタンティノープルがビザンツ帝国の繁栄の大きな要因となったポイントを4つに絞って解説していきます。
難攻不落とうたわれる城塞都市だった
コンスタンティノープルは、北は金角湾、東はボスポラス海峡、南はマルマラ海と三方を海に面し、西の陸にはテオドシウスの城壁があるという鉄壁の防御が実現できる都市でした。これによって1,000年以上コンスタンティノープルは守り続けられ、ビザンツ帝国に安定をもたらします。
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東西貿易の要所となっていた
コンスタンティノープルは、アジアとヨーロッパの中間地点に位置し、東西貿易の重要な中継地でした。世界中から商人が集いさまざまな商品が行き交い経済が活性。それによって富を得ることができ、ビザンツ帝国に繁栄をもたらしました。また、物や人が集まることで、情報も集まってくるという利点もありました。
ビザンツ文化の中心地となった
世界中の富が集まる場所だったコンスタンティノープルでは文化も発展しました。古代ギリシャやローマ、ヘレニズム文化とキリスト教が融合した独自のビザンツ文化が誕生し、アヤソフィア(ハギア・ソフィア)などのビザンチン建築や、モザイク画やイコンといったビザンチン美術も開花。イスラム世界やルネッサンスにも大きな影響を与えました。
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ギリシャ正教の筆頭を担い宗教的にも重要地だったこと
コンスタンティノープルは、五大総主教座のひとつとなりギリシャ正教会の筆頭を担いました。これによって、アヤソフィア(ハギア・ソフィア)にはコンスタンティノープル総主教座がおかれました。
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380年テオドシウス1世によりキリスト教が国教となると、コンスタンティノープル公会議で三位一体が採択され、コンスタンティノープル司教はローマ司教に次ぐ地位を得ます。しかしその後対立が生じ、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門し、東西協会が分裂。これ以降、コンスタンティノープルはギリシャ正教の中心として重要な役割を果たします。
コンスタンティノープルの略年表
紀元前667年 | 現在のイスタンブール旧市街地の最東部に、メガラ人によってビザンティオンという都市国家が開かれる |
---|---|
330年 | ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって遷都。コンスタンティノープルという呼び名が定着 |
380年 | コンスタンティノープル公会議で三位一体が採択され、コンスタンティノープル司教がローマ司教に次ぐ地位を得る |
395年 | 皇帝テオドシウス1世の死後ローマ帝国が東西に分裂。コンスタンティノープルはビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都となる |
413年 | テオドシウス2世によってテオドシウスの城壁が完成。ローマに倣って7つの丘を設置 |
537年 | ハギア・ソフィアが再建され、コンスタンティノープル総主教座がおかれる |
674~678年 | ウマイヤ朝の海軍により海上を封鎖される |
717~718年 | ウマイヤ朝の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲するが、レオン3世が撃退 |
1054年 | ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が対立。相互に破門し東西教会が分裂 |
1204年 | 第4回十字軍によってコンスタンティノープルが征服される。ビザンツ帝国は一時滅亡しラテン帝国が建国され、コンスタンティノープルはその首都となる |
1261年 | 東ローマ亡命政権によりコンスタンティノープル奪回。ビザンツ帝国が復活 |
1453年 | オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落によってビザンツ帝国が滅亡。コンスタンティノープルはコンスタンティニイェとなる |
1923年 | オスマン帝国の滅亡によりトルコ共和国が成立。町の呼び名がイスタンブールとなる |
コンスタンティノープルの歴史
ここでは、コンスタンティノープルの歴史を誕生から陥落まで年代を追いながら解説していきます。
コンスタンティノープルの誕生
コンスタンティノープル以前、この場所はビザンティオンと呼ばれるギリシャの植民地でした。ビザンティオンは紀元前7世紀に造られたと伝えられる場所で、黒海とマルマラ海を結ぶ水路を支配しているがゆえに繁栄し続けてきました。ビザンティオンは小高い丘になっていて、北は金角湾、東はボスポラス海峡、南はマルマラ海と三方を海に面し、都市を囲んで城塞化するには西方に城壁を築くだけでよいという好条件の場所にある都市でした。当時、海上交易路を支配することで大きな収益を得ていただけでなく、西方とアジアを結ぶ陸上貿易路も支配していたのです。
コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国最大の敵だったペルシャに近い場所に首都を置くべきだと決断。魅力的な利点と立地条件を満たすこの場所を新しい首都に造りかえました。6年間におよぶ建設事業を経て、330年にコンスタンティノープルは落成されます。
コンスタンティノープルはローマをお手本に14の地区と7つの丘に区画され、各地区は中央から西部城壁の門へと続く広い道路で結ばれていました。広場は古代彫刻で飾られ、新しい公共浴場のゼウクシッポスが開業し、ヒッポドロームではローマ人が好む戦車競技が開催されました。
コンスタンティヌス1世は、コンスタンティノープルで以前から導入していたソリドゥス(ノミスマ)金貨も鋳造しました。さらに、東方への移住を承認した元老院身分の家族に土地と特権を与え、コンスタンティノープルに新たな元老院を設置。すべての帝国行政もコンスタンティノープルに集中させます。こうして、コンスタンティヌス1世は、その後ビザンツ帝国の重要な都市となるコンスタンティノープルの礎を築いていきました。
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第2のローマへと発展し繁栄期を迎える
395年、テオドシウス1世の死後ローマ帝国の分裂が深刻化します。コンスタンティノープルはビザンツ帝国の皇帝府の所在地として定着し、宮殿やアヤソフィア大聖堂などの教会、浴場や劇場などの公共施設も数多く建設され、アヤソフィア大聖堂にはコンスタンティノープル総主教座がおかれました。381年には公会議がコンスタンティノープルで開催され、コンスタンティノープル教会の地位がローマ教会に次ぐものとされるようになります。
410年、西ローマ帝国が滅亡すると、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルが第2のローマだという認識が広まっていくこととなります。西ゴート人によりローマが襲撃されると、413年に防衛体制強化のため、テオドシウス2世によりテオドシウスの城壁が完成。ローマに倣って7つの丘も設定されます。6世紀に入り、ユスティニアヌス1世の時代にビザンツ帝国が最初の繁栄期を迎えると、コンスタンティノープルも世界的に最大級の帝都に成長します。
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相次ぐ戦争で次第に衰退
7世紀に入ると、コンスタンティノープルはイスラム勢力の侵攻の危機にさらされるようになります。
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674~678年の4年間、ウマイヤ朝の海軍により海上を封鎖されますが、この時は「ギリシャの火」という秘密兵器を駆使して撃退。717年~718年には、再びウマイヤ朝の大遠征軍によりコンスタンティノープルを包囲されますが、この時はレオン3世によって撃退に成功します。
これによって相次ぐ戦争で激減していた人口も回復し、コンスタンティノープルも徐々に再生していきます。再生したコンスタンティノープルには、絹織物や貴金属工芸の職人、東西貿易をおこなう商人などが移住してきたため、商工業都市へと変容していきます。
地中海の大帝国の首都として復活。最盛期へ
9世紀に入ると、ビザンツ帝国の復活とともにコンスタンティノープルも復活。東地中海の政治・経済・宗教の中心地となりました。ビザンツ文化の振興も進み、各都市の商人が訪れ交易都市としても繁栄していきます。コンスタンティノープルは、10~11世紀に最盛期をむかえ、人口40万ともいわれるキリスト教世界最大の都市となりました。
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他勢力の侵入で帝都が荒廃
11世紀には、セルジューク朝が小アジアに進出。大きな危機に直面したビザンツ帝国は、キリスト教世界に十字軍の派遣を要請します。しかし、第4回十字軍の中心だったヴェネツィア商人がコンスタンティノープルの商業権を狙って攻撃。ビザンツ帝国は、彼らが建国したラテン帝国に一時支配されることとなり、コンスタンティノープルはその首都となります。町は略奪や破壊で荒廃し、建造物も廃墟と化してしまいました。
1261年、東ローマ帝国の亡命政権だったニカイア帝国によってコンスタンティノープルが奪還されます。ビザンツ帝国は再興しましたが、かつての輝きや権力は以後取り戻せませんでした。
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コンスタンティノープル陥落とビザンツ帝国の滅亡
ここでは、コンスタティノープル陥落までの道のりを詳しく解説していきます。
コンスタンティノープル陥落の概要
1453年、オスマン帝国スルタン・メフメト2世が10万の軍を率いてコンスタンティノープルを包囲。オスマン軍はウルバン砲での砲撃や、艦隊を陸越えして金角湾へ侵入するなど、圧倒的で斬新な作戦で攻撃しますが、コンスタンティノープルの難攻不落の城壁にてこずります。
ビザンツ帝国軍は2ヶ月にわたる抵抗を続けますが、最後は鍵の閉め忘れによって、オスマン軍が城門より侵入。コンスタンティノープルは陥落しビザンツ帝国は滅亡します。オスマン帝国の首都がコンスタンティノープルに遷都されると、コンスタンティノープルの名前はコンスタンティニイェに変更されます。
その後も名前を変えながら、1922年のオスマン帝国の滅亡までこの町は首都として繁栄します。
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コンスタンティノープル陥落前のビザンツ帝国の状況
ビザンツ帝国の皇帝コンスタンティヌス11世の時代になると、ビザンツ帝国の領土は首都コンスタンティノープルとその周辺のわずかな土地のみとなっていました。
コンスタンティヌス11世はオスマン帝国メフメト2世を牽制するため、当時コンスタンティノープルに亡命していたオスマン家のオルハン王子をスルタンに擁立すると警告。これにメフメト2世が激怒したことで戦争に突入していったといわれています。コンスタンティヌス11世はこれに驚き、和平交渉を試みますが不成功に終わったため、オスマン帝国の襲来を予期します。
当時、ビザンツ帝国に軍隊はあまり残っていなかったため、東西教会合同を条件にローマ教皇に援軍要請をしましたが、その反応は鈍く、実質的にはほとんど意味を成しませんでした。コンスタンティノープル市民も、当初から援軍が来ることは期待していなかったようです。しかしながら、コンスタンティノープルを商業地として重要な拠点としていたヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送ったため、東ローマ軍は外国人傭兵などを含めて7,000人ほどとなりました。
コンスタンティノープル包囲戦の状況
1452年、メフメト2世はコンスタンティノープルの城壁の外側に城を築きます。ローマの城という意味の「ルーメリ・ヒサル」と呼ばれたこの城は、コンスタンティノープル攻防戦の足がかりとなります。
オスマン帝国はスルタン直属の最精鋭部隊イェニチェリ軍団2万を中心に10万人とも言われる大軍勢に加え、戦艦を建造して海と陸からコンスタンティノープルを包囲しました。
オスマン帝国の最新兵器と戦い方
コンスタンティノープルの戦いでオスマン帝国軍が、難攻不落のコンスタンティノープルの城壁に挑むために用いた最新兵器のひとつがウルバン砲です。ウルバン砲は長さ8m以上、直径は約75cmという巨大大砲で、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができたといわれています。
1453年4月、オスマン帝国軍はコンスタンティノープル郊外に軍隊を配備し、7週間にわたり城壁を攻撃しましたが、十分に崩すことができませんでした。また、海側ではビザンツ帝国軍が金角湾の入り口に渡した太い鎖によって侵入できませんでした。戦いが膠着する中、オスマン帝国軍は油を塗った木の道を造り、それを使って70隻もの船を陸超えさせて金角湾に侵入。この奇策によってジェノヴァ船による援助物資の供給を阻止しました。
コンスタンティヌス11世の演説と最終決戦
コンスタンティヌス11世とメフメト2世の間で和平交渉が形式的に行われますが決裂。コンスタンティノープルの戦いは最終決戦に突入します。終焉を察知したコンスタンティヌス11世は最後の演説を行い、アヤソフィア大聖堂で皇帝から市民まで多くの人々が最後の祈りを捧げます。その時、コンステンティヌス11世は臣下の一人ひとりに自らの不徳をわびて許しを乞うたと伝えられています。
1453年5月、ついにオスマン帝国軍が総攻撃を開始。大砲による城壁攻撃が始まるが、ビザンツ帝国軍は応戦。しかしながら不幸なことにケルコポルタ門の通用口が施錠されていなかったため、オスマン軍が一気に城内に侵入し、コンスタンティノープルは陥落しました。
陥落後のコンスタンティノープル
当時の戦争での慣例として、メフメト2世は兵士に3日間の略奪を許しますが、数時間後に軍の行動を阻止するように命じます。これは長きにわたって繁栄してきたビザンツ帝国やコンスタンティノープルに敬意を払ったからともいわれていますが、その後の帝都造りのために町や建物を破壊されたくなかったとも考えられています。
コンスタンティノープルに入ったメフメト2世は、アヤソフィアをイスラム教のモスクに改修させます。
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また、都市名をコンスタンティニイェとしてオスマン帝国の新たな首都としました。
コンスタンティノープルの名前の変遷
コンスタンティノープルは、時代や支配者によって名前が変遷しています。ここでは、その名前の変遷について順を追ってみていきましょう。
リゴス
現在のトルコのサライブルにあったトラキアの集落の名前だった可能性が高いといわれています。リゴスは紀元前13~11世紀にトラキア人によって造られたといわれています。
ビザンティオン(ラテン語:ビザンティウム)
ビザンティオンは、メガラ人によって紀元前667年に造られた植民地です。メガラ人の入植者を率いた伝説の王ビザスからこの名前がついたともいわれています。都市として初めてつけられた名前でもあります。
アウグスタ・アントニーナ
アウグスタ・アントニーナは、セウェルス朝ローマ帝国初代皇帝のセプティミウス・セウェルスが3世紀初頭につけた名前です。セプティミウス・セウェルス帝の息子でカラカラ帝の名でも知られる、マルクス・アウレリクス・アントニヌス・カエサルを称しているといわれてます。
ノヴァ・ローマ
ノヴァ・ローマはラテン語で「新ローマ」の意味。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が330年に遷都したときにこの名前がつけられましたが、一般的には普及しませんでした。
コンスタンティノープル
337年に町を造ったコンスタンティヌス1世が死去すると、「コンスタンティヌスの町」という意味のコンスタンティノープルと呼ばれるようになります。以後、ビザンツ帝国の首都の時代は、この呼び名で呼ばれることとなります。
コンスタンティニイェ
コンスタンティニイェは、コンスタンティノープルのアラビア語読みです。1453年~1922年のオスマン帝国時代に使われていた呼び名です。
イスラムボル
1453年のオスマン帝国による征服後、イスラムの都市を意味する、イスラムボルという名前が登場しました。17世紀後半~18世紀後半には、公式にも使用されていたといわれています。
イスタンブール
1923年にムスタファケマルがトルコ共和国を建国した後につけられた名前が、イスタンブールです。10世紀頃からアルメニア語とアラビア語、その後はオスマン語にもこの呼び方が見受けられますが、イスタンブールはギリシャ語で都市へという意味です。「都市で」を意味する「イスティムポリン」が1つの単語になって変形したものだといわれています。
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トルコ共和国建国でイスタンブール以外の呼び名は廃止されましたが、当時は公式な文書などでオスマン語の文字を使用していたため、ラテン文字で都市名を書く場合は便宜上コンスタンティノープルが使われていました。1928年の文字改革でトルコ語にラテン文字が採用され、1930年からはトルコ語の都市名を使用。イスタンブールを使用するようにトルコ政府が正式に他国へ要求し、この呼び名が現在も使用されています。
コンスタンティノープルの七つの丘
コンスタンティノープルには、ローマを模した七つの丘が設置されました。初期ビザンツ帝国時代には、各丘の上に建物が建てられました。ここでは7つの丘について紹介します。
第一の丘
第一の丘は、現在のイスタンブールのスルタンアフメット地区一帯にあたります。ビザンティオンのアクロポリスや、ビザンツ帝国の大宮殿がありました。
第二の丘
第二の丘は、現在のイスタンブールのグランドバザールのあるチェンベルリタシュの辺り一帯にあたります。
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328年、コンスタンティヌス1世がローマのアポロン神殿の高さ57mの柱を引き抜かせてここに建てました。この柱はコンスタンティヌスの柱と呼ばれていますコンスタンティノープルの公共の広場であるコンスタンティヌスのフォルムもここに造られました。
第三の丘
第三の丘は、現在のイスタンブールのスレイマニエ・モスクのあるベヤズット広場とイスタンブール大学がある一帯にあたります。372~373年、ヴァレンス帝によりここに泉が造られました。テオドシウス1世の時代には、公共広場のテオドシウスのフォルムが造られた場所でもあります。
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第四の丘
第四の丘は、現在のイスタンブールのファティ・モスクがある一帯にあたります。聖使徒大聖堂が建てられていた場所です。
第五の丘
第五の丘は、現在のイスタンブールのヤヴス・セリム・ジャーミィのある場所一帯にあたります。5世紀に、将軍アスパルが作らせた巨大なアスパルの貯水池があり、この貯水池は現在も残っています。
第六の丘
第六の丘はテオドシウスの城壁の北部で、エディルネ・カプがある一帯にあたります。金角湾へ向かう丘腹に、コーラ修道院や皇帝たちの住まいだったポルフュロゲネトスの宮殿がありました。また、第五と第六の丘の間には金角湾に下る丘肌にパラティオンとペトリオンという地区がありました。ここには教会がたくさんあって、正教会にとって重要な場所だったようです。
第七の丘
第七の丘は、テオドシウスの城壁の真ん中あたり、現在のイスタンブールのトプカプ地区一帯にあたります。
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当時はギリシャ語でクセロロフォスと呼ばれていました。南のマルマラ海にかけて多くの教会が点在していたようです。
トルコ・イスタンブールに現存するコンスタンティノープルの遺跡を訪れてみよう
ここでは、トルコのイスタンブールに今も残っている、コンスタンティノープル時代の遺跡を紹介していきます。次回のイスタンブールの旅で、ぜひ訪れてみてください。
大宮殿
ビザンツ帝国の歴代皇帝が居住していた大宮殿は、世界遺産にも登録されているイスタンブール歴史地区にあるブルーモスクと、その南東にあるアラスタバザールの辺りにあったといわれています。現在、大宮殿の跡はありませんが、アラスタバザールの横にある元大宮殿の内庭だった場所で、450~550年頃のモザイク画が発見されました。現在は「大宮殿モザイク博物館」として、このモザイク画が公開されています。
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アヤソフィア
アヤソフィアは、ビザンツ帝国においてはキリスト教正教会として建設され、後にコンスタンティノープル総主教座が置かれました。ビザンツ美術を代表する見事なモザイク画がほどこされ、まさにビザンツ帝国を代表する大聖堂でした。コンスタンティノープル陥落後にオスマン帝国によってモスクに改修されてからも、オスマン帝国においてはスルタンが毎週金曜日の礼拝に訪れる最も格式の高いモスクでした。
オスマン帝国が滅亡しトルコ共和国となると博物館として存続することとなりますが、2020年からは再びモスクとなります。アヤソフィアは、その時代の主権国家により変容され、歴史に翻弄されてきました。
現在も礼拝のないときは一部見学できますが、モスクであるため、男女ともに露出の多い服装では入場ができません。また、女性はスカーフをかぶらなければなりませんので、見学希望者は用意していきましょう。持参していない場合は、入り口そばの売店でスカーフや全身マントを購入してください。モスク内は土足厳禁です。また写真撮影はできますがフラッシュは禁止されています。宗教施設ですので、お祈りしている人やイスラム教徒の女性を被写体とすることは避けましょう。
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ヒッポドローム(コンスタンティノープル競馬場)
世界遺産にも登録されているイスタンブールの歴史地区にあるブルーモスクと、トラムのスルタンアフメット駅の間にある広場がヒッポドロームです。ヒッポドロームは古代競馬場の跡で、ローマ帝国やビザンツ帝国の時代には競馬だけでなく、皇帝の即位式や公開処刑、凱旋式や政治的会議などと多目的に使われ、市民生活の中心の場でもありました。
当時は10万人を収容できる観客席があり、現在広場となっている場所には3つの柱のモニュメントがあります。
テオドシウス1世のオベリスク(北)
357年にコンスタンティヌス2世が在位20年を記念して建てさせたオベリスク。紀元前1940年頃造られたといわれているトトメス3世時代のオベリスクをエジプトからアレクサンドリアまで運ばせ、その後390年にテオドシウス1世が戦勝記念としてコンスタンティノープル競馬場に3つに分割して運ばせ建てさせました。白い大理石の台座はテオドシウス1世が作らせたものです。
蛇の柱(中央)
蛇の柱はもともとギリシャにありました。紀元前479年のプラテイアの戦いで、ペルシャに勝利したギリシャの31都市連合軍が手に入れた青銅を溶かして作り、ギリシャのアポロン神殿の前に建てさせたのがこの柱です。コンスタンティヌス1世は324年に新首都であるコンスタンティノープルにこの柱をもってこさせました。柱の頭についていた3匹の蛇の頭のうちひとつは発見されていて、イスタンブール考古学博物館に所蔵されています。
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コンスタンティヌス7世のオベリスク(南)
10世紀にコンスタンティヌス7世が造らせた32mの高さのモニュメント。当時はコンスタンティヌス7世の祖父、バシレイオス1世の勝利を描いた緊迫加工の青銅プレートで覆われていて、上に地球儀がのっていたといわれていますが、現在は残っていません。
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地下宮殿
ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝によって造られた地下貯水池。水の中から大理石の柱が無数にそびえ立つさまから地下宮殿と呼ばれています。また、この場所の上にバシリカがあるため、バシリカ地下貯水池とも呼ばれています。
ビザンツ帝国時代、現在のスルタンアフメット地区全体のコンスタンティノープルの広範囲の居住者に水を供給していました。オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服してからも、トプカプ宮殿の庭園などに水を供給していたといわれています。その後16世紀中頃まで発見されず、イスタンブールの地下に眠っていました。現在は一般公開されています。
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ヴァレンス水道橋
コンスタンティヌス1世の命で306年頃から工事が始まり、373年にヴァレンス帝のもとで完成した水道橋。コンスタンティノープルの急速な人口増加による水不足を補うために建設されました。水源からコンスタンティノープル中心地まで、水をひいた橋と水路の全長は約250km。ヴァレンス水道橋は、その最後の部分にあたる水道橋で、この橋を通ってコンスタンティノープルの地下貯水池などに水が貯められていました。
現在のイスタンブールの旧市街地のほぼ中央に位置していて、いくつもある橋脚の間を普通に車が行き来しています。特に、夜のライトアップが幻想的で見学におすすめです。
コンスタンティヌスの城壁
コンスタンティノープルの町を建設する時に、コンスタンティヌス1世が造らせた城壁。現在の旧市街金角湾側のフェネル辺りから、南のマルマラ海サマティヤにかけて建設された城壁で、5つの門がありました。5世紀初頭にテオドシウスの城壁ができてからは、内側の城壁として使用していました。現在は城壁の姿は残っていませんが、近年一部が発掘されました。
テオドシウスの城壁
コンスタンティノープルの人口増加にともなって、コンスタンティヌスの城壁より約2km町を西に拡大し造った城壁で、テオドシウス2世によって造られました。現在もイスタンブールの旧市街地を取り囲むように残っています。外壁・内壁・堀の三段構造で全長は5,632m。城壁の上には守備塔が96棟ある強固な城壁で、1,000年以上コンスタンティノープルを守り続けました。
ポルフェロゲネトス宮殿
トルコ語で「ビザンツ皇帝の宮殿」を意味する「テクフル・サラユ」とも呼ばれる宮殿遺跡で、現存する唯一の宮殿跡でもあります。ビザンツ帝国の末期に皇帝たちが住んだ宮殿で、コンスタンティノープル陥落の際に大損害を被りました。その後オスマン帝国でもさまざまな用途で使用され、現在は博物館として公開されてます。
カンル・キリセ
カンル・キリセは、オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服した後も一度もモスクに改修されることのなかった正教会で、ビザンツ時代から現存するギリシャ正教会でもあります。
コンスタンティノープル陥落時に教会付近で殺された正教会教徒の血が流れ、金角湾を赤く染めたという言い伝えから「血の教会」と呼ばれています。この呼び名は、教会の外壁が血のように赤いことからという説もあるようです。
13世紀後半、ミカエル8世の娘マリア・パレオロギナがモンゴルのイルハーン王朝の君主と政略結婚しアバカの皇后となりますが、アバカの死後コンスタンティノープルに戻り1281年に今の形の修道院を造らせ、本人も修道女としてこの教会に生涯を捧げました。このような背景から「モンゴルの聖マリア教会」とも呼ばれています。
コンスタンティノープル総主教庁
正式には「イスタンブールギリシャ正教会総主教座」という名前で、正教会の筆頭の角を有する総主教庁。ビザンツ帝国時代、総主教座はアヤソフィアに置かれていましたが、コンスタンティノープル陥落後は場所を移し、1600年頃から現在の聖ゲオルギオス教会に置かれています。
ミリオン
コンスタンティノープルがビザンツ帝国の帝都となったときに、ヨーロッパ領にのびるすべての道の起点となる道路元標として造られたのがミリオンです。当時は4つのアーチで2つの凱旋門を支える立派な建物で、ビザンツ帝国皇帝の威光を示すモニュメントでしたが、16世紀の水道橋の拡張工事で壊され、現在は発掘された柱が1本建っています。
カーリエ博物館(コーラ修道院)
カーリエ博物館は、もともとはコーラ修道院と呼ばれる正教会の聖堂だった場所です。6~7世紀に建てられ、オスマン帝国時代にはイスラム教のモスクに改修されました。20世紀に入り、カーリエ博物館として存続していましたが、2020年に再びモスクとなるという大統領令が発表されました。
ビザンツ美術を代表する見事なフレスコ画が描かれていて、聖書の世界が壁一面に広がっています。
カーリエ(コーラ)博物館とは?美しいモザイク画とフレスコ画が魅力
ルーメリ・ヒサル
1452年にオスマン帝国のメフメト2世が造らせた要塞で、コンスタンティノープル包囲の足がかりとなった場所でもあります。この要塞城で、コンスタンティノープルがジェノヴァ貿易の中心地であるクリミアから援助を受けられないように海峡を監視していました。
3つの塔と13の小さい塔からなる要塞で、かつてイェニチェリのモスクがあった場所に現在は野外ステージが設けられています。
コンスタンティノープルの面影が今も息づくイスタンブールを訪れよう
今回は、コンスタンティノープルについて紹介してきました。コンスタンティノープルは330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により建設された都市で、ローマ帝国に始まり、ビザンツ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国と約1600年に渡り4つの帝国の首都となった世界最大のメトロポリスでした。
北は金角湾、東はボスポラス海峡、南はマルマラ海と三方を海に面し、都市を囲んで城塞化するには西方に城壁を築くだけでよいという恵まれた立地条件と海上交易路、西方とアジアを結ぶ陸上貿易路が確保できるという好立地で、ビザンツ帝国の繁栄を支えた都市でもあります。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落しビザンツ帝国が滅亡するまで、帝都として栄えました。また、その後も時代や支配者によって名前を変えながら、帝都として繁栄し続け、現在もトルコ最大の都市イスタンブールとして存在し続けています。
イスタンブールにはコンスタンティノープルの時代を今に伝える遺跡がたくさん残っています。実際に訪れれば、当時の帝都の雰囲気が生き生きと伝わってくるようで、歴史マニアならずとも満足できるでしょう。ぜひイスタンブールを訪れて、雄大な歴史ロマンを感じる旅を満喫してくださいね。
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