アヤソフィアとは?世界遺産イスタンブール歴史地域を代表するモスクの特徴と歴史
更新日:2023.02.28
投稿日:2022.11.14
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アヤソフィアは世界遺産のイスタンブール歴史地域にある、古代ローマ時代に建てられた大聖堂で、トルコを代表する観光スポットの1つです。もともとキリスト教会だったアヤソフィアですが、オスマン帝国の時代にモスクへと変更されており、キリスト、イスラム両方の建築や芸術が残されているのが特徴です。
この記事では、教会やモスクとしての建物の特徴、観光のポイントや見どころ、これまでの複雑な歴史など、アヤソフィアについて紹介していきます。
アヤソフィアとは?
アヤソフィアは、イスタンブールにある大聖堂で、1985年に世界遺産登録された「イスタンブール歴史地域」を構成する主要名所の1つです。ハギアソフィアや聖ソフィア大聖堂とも呼ばれ、トルコを代表する観光スポットとしてブルーモスクと並び、イスタンブールのなかでも高い人気を誇っています。
アヤソフィアの歴史は古く、建造はローマ帝国時代の360年まで遡ります。キリスト教の大聖堂として建てられたアヤソフィアには、ローマ時代に大司教が置かれた5つの教会である5本山の1つ、コンスタンティノープル教会の総主教座がありました。
建造後、幾度か火災によって焼失しているアヤソフィアですが、そのたびに再建されており、現在の建物は537年に完成した3代目に当たります。1054年に起きたキリスト教会の東西分裂以降は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配下でギリシャ正教の総本山として、式典や戴冠、教会会議など重要な役割を果たしてきました。
1453年、オスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落すると、イスラム教のモスクへと改修され、以後、長らくモスクとして利用されてきました。やがて、20世紀に入るとオスマン帝国が滅亡。新しく成立したトルコ共和国では、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクが政教分離を推進していた関係から、アヤソフィアは宗教性の薄い博物館へと転換し、一般に公開されるようになりました。
しかし、2020年7月24日、イスラム教への回帰を進めるトルコのエルドアン大統領により、再びモスクへと戻されます。ただ、大統領は今後もアヤソフィアの文化的価値は尊重するとしており、イスラム教徒以外でも今まで通り観光客の訪問も認められています。
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キリスト教の教会とイスラム教のモスクの特徴が共存
長い歴史の中で、教会とモスクの両方を経験してきたアヤソフィアは、キリスト教の教会とイスラム教のモスク、それぞれの特徴が共存しており、高い歴史的・芸術的価値をもった貴重な歴史遺産です。
当初はキリスト教の大聖堂として建造されたため、内部には現在も初期キリスト教やビザンツ芸術の貴重な遺産といえる、ローマ帝国の皇帝やキリスト教の聖母子、聖人などを描いた見事なモザイク画が多数残されています。
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オスマン帝国時代にはモスクへと改修されたため、内部にはメッカの方向を示す壁の窪みである「ミフラーブ」や金曜礼拝に使われる説教壇「ミンバル」、朗詠者用の壇である「ミュエッズィン・マフフィリ」が設けられるとともに、アッラーや予言者ムハンマド、ムハンマドの後継者である正統カリフなどの名が刻まれた円盤が置かれるようになります。また、外部には、モスクに付随するミナレット(尖塔)や内庭、神学校などが増築されました。モスクへの転換に伴い、キリスト教の十字架が外されたり、一部のモザイク画が壊されたりしたものの、大きな破壊行為は起こらずにアヤソフィアは教会からモスクへと役割を変えたのです。
キリスト教時代のモザイク画は、イスラム教では偶像崇拝が禁じられていたために薄い漆喰で上塗りされ、隠されてしまいます。しかし、トルコ共和国成立後の1931年から、元の作品が見えるようにする修復作業がはじめられました。今ではキリスト教時代のモザイク画も見学可能になっていますが、全てが復元されているわけではなく、現在も作業は継続中です。
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アヤソフィアの意味
聖堂の名前になっているアヤソフィアとは、「聖なる叡智」を意味する言葉です。もともとはギリシャ語の「ハギアソフィア」に由来し、中世の発音であったアヤソフィアがトルコ語名になりました。
実は、アヤソフィアの名前をもつ教会があるのは、イスタンブールだけではありません。かつてビザンツ帝国(東ローマ帝国)に支配されていた地域には、アヤソフィアやハギアソフィアと呼ばれる教会が多く残されており、トルコのトラブゾンやウクライナのキーウなど複数見られます。
ただ、なかでも一番有名なのはイスタンブールのアヤソフィアで、現在では、単に「アヤソフィア」と言えば、イスタンブールのものを指すのが一般的です。
現在のアヤソフィアは見学できる?
現在は再びモスクへと転換したアヤソフィアですが、かつて博物館として公開されていた時代と同じく、ブルーモスクなど他の観光スポットのように一般の観光客も入場を認められており、今でも自由に内部を見学可能です。しかし、現在はモスクとしての機能もあるため、礼拝時間など一部の時間帯は入場が認められていません。礼拝時間は日によって変わる場合もあるため、事前にホームページで確認しておくと良いでしょう。
代わりに、博物館時代は30トルコリラほどだった入場料が、現在は無料になっているのは嬉しいポイントです。見学者にはモスクへの寄付が奨励されています。
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内部はイスラム教の主教施設のため、見学の際は服装や写真撮影などマナーを守るようにしましょう。現在のアヤソフィアは博物館時代と異なり土足厳禁になっています。また、露出の多い服装は控え、女性の方はスカーフなどで髪を隠すようにしてください。
名称 | アヤソフィア(Ayasofya Camii) |
---|---|
住所 | Sultan Ahmet, Ayasofya Meydanı No:1, 34122 Fatih/İstanbul, Turkey |
入場料 | 無料 |
公式サイト | https://muze.gen.tr/muze-detay/ayasofya |
アヤソフィアの特徴と観光のポイント
アヤソフィアはビザンツ建築の最高傑作と呼ばれる歴史的に貴重な建造物であり、内部ではキリスト教、イスラム教、それぞれの芸術的な作品が数多く見られます。
ここからは、アヤソフィアの建物の特徴と、実際に見学する際、ぜひ見ておきたいおすすめのポイントを見ていきましょう。
当時の最高技術を使って作られた巨大なドーム
アヤソフィアは古代ローマで多くの公共建築に用いられたバシリカ式の聖堂です。シンボルといえる巨大ドームは、6世紀当時の技術の粋を集めて建てられたもので、初期ビザンツ建築の最高傑作と評価されています。楕円形のドームは約55.6mと世界有数の高さを誇り、直径は最大約33m。敷地面積は7,570㎡で、本堂の広さは75m×70mの5,250㎡におよび、三つの身廊をもつ長方形の礼拝堂をドーム状の屋根で覆った世界初の建物です。
集中方式の教会建築としては最大規模で、ビザンツ帝国では、アヤソフィア以上の聖堂はもちろん、一回り小規模なものすら建造されていません。
しかし、巨大なドームを支えるには強度不足という構造上の問題を抱えており、過去に3度崩落を起こしています。現在のドームが完全な円形ではなく楕円形になっているのは、崩落の過程で修復を繰り返してきた結果です。
40もの窓があるため、その巨大さにもかかわらずドーム内部は明るい光に満ちており、美しい装飾と相まって荘厳な雰囲気を演出しています。ビザンツ帝国時代には、ドームの天井部分にキリストのフレスコ画が描かれていたといいますが、オスマン帝国征服後には上塗りされ、代わってコーランの光の章の一節が書かれました。
入口・拝廊
アヤソフィアへは建物の南にある門から入場し、外廊と内廊からなる拝廊を通って内陣(本堂)へと向かいます。かつてアヤソフィアがキリスト教の聖堂であった時代には、洗礼を受けていない人は拝廊までしか入場を許されていませんでした。拝廊では、モザイク板や石棺、洗礼盤などの展示を見学できます。内廊の天井は金色のモザイクに覆われ、壁がさまざまな色の大理石で装飾された美しい内装も楽しめます。
内陣への扉は9つに分かれており、オスマン帝国時代には、左右にある外側3枚ずつが市民用、内側の2つが帝国上層部用、真ん中の扉が皇帝の典礼用に使用されていました。現在は、かつて皇帝が使用していた中央の「皇帝の門」を通って入場します。皇帝の門は高さ7mとアヤソフィアで最も大きな扉で、上部には中央にキリストと皇帝レオン6世、両側に聖母マリアと大天使ガブリエルが描かれたモザイク画が描かれています。
内陣(本堂)
アヤソフィアのメインとなるドーム屋根の聖堂です。入口の左右には、16世紀にペルガマ(ペルガモン)の古代都市から搬入された容量1,250Lにおよぶ巨大な大理石の水瓶が置かれています。ドーム下にある有色の大理石で囲まれた四角いスペースはオルファリオンと呼ばれ、ビザンツ帝国時代に世界の中心と考えられていた場所で、中央の円には玉座が据えられて歴代皇帝の戴冠式が執り行われていました。
聖堂内にはドームを支えるいくつもの柱があり、なかでも左奥の角にある大理石の柱は「嘆きの柱」もしくは「湿った柱」と呼ばれ、親指を入れて願い事をすれば必ず叶うといわれています。
また、短い柱の並ぶギャラリー(回廊)の角、高さ7.5mの位置に設置されているのは、アラビア語でイスラム教の指導者達の名前が書かれた巨大な円形パネルです。ミフラーブを挟んで右にアッラー、左にムハンマド、4人のカリフであるエブ・ベキル、オメル、オスマン、アリ、さらに入口上のパネルには、ムハンマドの孫ハサンとフセインの名前も見られ、パネルに書かれた名前はイスラム世界に現存する最も大きな文字とされています。
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後陣
内陣を抜けると、アヤソフィアの最奥にあたる後陣と呼ばれるエリアに入ります。後陣は美しい大理石で装飾され、オスマン帝国時代にはメッカにあるカーバ神殿の位置を示すミフラーブが置かれました。キリスト教会時代、後陣は東を向いていましたが、イスタンブールからメッカは南東にあるため、ミフラーブの位置は本堂の中心線から多少右手にずれているのが特徴です。
後陣の左手には、19世紀のスルタンの玉座が置かれてます。右手にある階段が金曜日の礼拝の際に僧侶が使用したミンバルと呼ばれる説教壇です。後陣はスルタン専用の礼拝所としての役割をもっており、ミンバルの手前には、16世紀に造られたコーラン詠唱用のムエッズィンの間があります。
また、向かって右手には、18世紀、スルタン・マフメット1世時代に宮殿から移された図書館があります。現在、蔵書は別の博物館で保管されているものの、見事なイズニックタイルの装飾が見学可能です。
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2階のギャラリー
かつては皇后や女官など、女性用礼拝場として使用されていた場所で、内廊の左手にある石畳の回り通路を上がって入場します。正面左側の北ギャラリーには何もありませんが、数々のモザイク画が飾られている南ギャラリーは必見です。コーナーから南ギャラリーに入る際にくぐる美しい彫刻が施された大理石の入口は「天国と地獄の門」と呼ばれ、後ろには2本の十字架のモチーフが残されています。
入って左側の大理石パネルには、イスタンブールにやってきた海賊達が残したといわれる文字があり、右側にイスタンブールで最も美しく印象的とされるキリストを中心にして、左右にマリアと洗礼者ヨハネを描いた「デイシス」と呼ばれるモザイクが見られます。
デイシスの向かいには、1204年にラテン軍とともにこの地を征服したベニスの司令官ダンドーニの墓石も置かれており、さらに、ギャラリー突き当たりの壁面にある、皇帝や皇后、聖母子などのモザイクが隣同士に並んでいるエリアも大きな見どころです。
ただ、アヤソフィアがモスクに回帰した現在、観光客の2階への立ち入りはできなくなっています。
最大の見どころ!美しいモザイク画の数々
アヤソフィア観光の一番の見どころといえるのが、聖堂内にある、いくつもの美しいモザイク画です。ここからは、特に有名な6つの作品についてみていきましょう。
「聖母子」
アヤソフィア後陣のドームに描かれた聖母マリアと幼いキリスト、天使ミカエル、ガブリエルの壮大なモザイク画です。ビザンツ帝国における聖像破壊運動(イコノクラスム)が終了した後の867年頃の作品で、アヤソフィアで最も古く、格式高いモザイク画とされています。保存状態も非常に良く、現在も美しい姿で残されているものの、アヤソフィアがモスクに回帰してからは白い布で覆われ、見られなくなってしまいました。
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「デイシス」
デイシス(請願図)は2階南ギャラリーの中央格間にあるモザイク画で、キリストを挟んで左に聖母マリア、右に巡礼者の聖ヨハネを描いたものです。
聖母とヨハネは許しを請う姿で、深い悲しみに満ちた2人の表情からは、罪深い人々が無事天国に導かれるようキリストに哀願する様子が伝わってきます。1261年頃の作品とされ、世界的にも知られた、アヤソフィアで最も有名なモザイクの1つです。
もともとは壁面一杯に描かれていたとされますが、ラテン帝国時代、下部に大きなダメージを受けたため、現在はほとんど上半身しか見られません。しかし、それでも精巧なモザイクと色彩の豊富さにより、非常に価値の高い作品とされています。
「キリストと許しを請うレオン6世」
内廊と内陣をつなぐ皇帝の門の上を飾るモザイク画で910年頃の作品です。中央には玉座に座るキリストが、足元には平服するビザンツ皇帝レオン6世が描かれ、キリストの左右には、聖母マリアと大天使ガブリエルの姿もあります。キリストは片方の手で人々に祝福を与え、もう一方の手で携えた本には「我はこの世の光なり」の文字が書かれているのが見られます。
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「贈呈」
ビザンツ時代には皇族用入口とされた内廊の横口にあたる南門上部の壁に描かれたモザイク画で、アヤソフィアでも最も良好な保存状態で残されています。
幼少のキリストを抱いた聖母マリアを中央に、右にはコンスタンティノープルの模型を手にしたローマ皇帝コンスタンティヌス、左にはアヤソフィアの模型をもった皇帝ユスティニアヌスが描かれており、それぞれの皇帝が聖母子に捧げているのは、自身の統治時代に築かれた作品というべき都市と教会です。
4世紀と6世紀の全く異なる時代を生きた2人の皇帝がモザイクの中で巡り合う、非常に感慨深い作品といえるでしょう。
「キリストと皇帝コンスタンティノス9世と皇后ゾエ」
2階の南ギャラリー奥、東の壁にある11世紀中頃のモザイク画で、玉座に腰掛けるキリストを中心に、両側には3人の皇帝と結婚した皇后ゾエと彼女の3番目の夫にあたる皇帝コンスタンチン9世モノマコスを描いた作品です。
しかし、実はもともと、コンスタンチン9世の場所には、ゾエの最初の夫である皇帝ロマヌス3世が描かれていたとされており、ゾエが結婚を繰り返すごとにモザイクの首から上の部分のみを剥がして作り替えていったといわれます。
「聖母子と皇帝コムネノスと皇后イレーネ」
2階の南ギャラリー奥、東の壁にある1122年頃の貴重なモザイク画。幼いキリストを膝に抱き、濃紺の衣装を纏った聖母マリアと共に、皇帝ヨハネス2世コムネノスとハンガリー出身の皇后イレーネ、息子のアレクシオスが描かれた作品です。コムネノス帝は名君として知られ、イレーネも東方正教会では聖人の1人に数えられており、2人の後ろにはそれぞれを称える文字が書かれています。
アヤソフィアの歴史
今ではイスタンブールを代表する観光スポットになっているアヤソフィアですが、建造から現在に至る歴史の中では、さまざまな出来事が起きています。キリスト教会からイスラム教のモスクへと姿を変えただけでなく、現在のものは3代目にあたり、これまでに火災などの災難で2度失われました。ここでは、アヤソフィアの誕生から現在までの歴史をみていきましょう。
アヤソフィアの起源
最初のアヤソフィアが建てられたのは、イスタンブールがまだ東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルだった360年です。皇帝コンスタンティヌス1世の命によって現在のアヤソフィアと同じ場所に建造されたもので、当時は単に「大寺院(メガロ・エックレスィア)」と呼ばれていました。
初代アヤソフィアは息子のコンスタンティウス2世時代に完成したとみられますが、404年6月20日に大主教ヨハネス追放の争乱に伴う大火で全焼。跡地にはすぐに、皇帝テオドシウス2世の命で2代目の再建が行われ、416年10月10日、建築家ルッフィノスの手による、さらに頑丈で大きな聖堂が完成しています。
しかし、532年1月13日、首都でニカ(勝利)の乱と呼ばれる市民の反乱が起こった際、反皇帝勢力により2代目アヤソフィアも修復不可能なまでに破壊されてしまいました。ただ、全てが失われたわけではなく、階段や羊が浮き彫りされた正面壁の装飾など、2代目教会の一部は現在もアヤソフィアの入口付近に残されています。
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現在のアヤソフィアは3代目
ニカの乱終結後、皇帝ユスティニアヌス1世によって再建された3代目の聖堂が現在のアヤソフィアです。建築を担当したのは、当時、小アジアのアナトリア(現在のトルコ)で最も有名だった学者アンテミオスと、同じくアナトリアのミレトス出身の建築家イシドロスの2人でした。彼らはたった4ヶ月で建物の図面を完成させると、532年2月23日に着工。5年10ヶ月の短期間で大事業を成し遂げます。
建造には木材を全く使用せず、延べ100人の監督と10,000人の大工や土木工が働いたとされます。使用された大理石は、アナトリアはもちろんローマ帝国各地から集められたものです。本堂にある緑色の花崗岩はエフェソスから、コーナーに使う紅色の柱は現在のレバノンにあるバールベックのアポロ神殿から運ばせたといわれ、遠くフランスの大西洋岸からもってきた石材もあります。
アヤソフィアに使用された円柱は全部107本。そのうち、40本が本堂、67本が上段のギャラリーに用いられました。また、巨大なドームには特別にロードス島で焼かれた軽量なレンガが使用されており、レンガ同士には後で聖物を入れるため、わざと隙間を残したともいわれます。
537年のクリスマスに一般公開されたアヤソフィアは、ソロモン王がエルサレムに築いた神殿を凌駕する規模と壮麗さを誇っており、完成式典では感極まった皇帝が「おお、ソロモンよ。余はそなたを越えたり」と叫んだと伝えられています。
イコノクラスム(聖像破壊運動)やラテン帝国による破壊
初代や2代目のように火災等はなかった3代目アヤソフィアですが、何の災難にも遭わなかったわけではありません。726年、レオン3世の命で始まった聖像破壊運動(イコノクラスム)では、ローマ帝国の他の都市にあった教会と同じく、聖人や宗教的な場面を描いたモザイクが壊され、簡素な十字架などに取って替えられました。しかし、843年に破壊期が終わると、皇帝の意向により、再び宗教シーンなどがテーマにしたモザイクで壁や天井が美しく飾られるようになります。
アヤソフィアを襲う災難は1204年にも起きており、第4回十字軍のコンスタンティノープル征服とビザンツ帝国の一時滅亡に伴い、ラテン帝国に支配された際には、十字軍による財宝の略奪が行われ、金色の地の上に描かれたモザイク画の多くも損傷を受けました。奪われた財宝は、結局返っておらず、現在、多くがヴェネツィアのサンマルコ聖堂宝物庫に収蔵されています。
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オスマン帝国のコンスタンティノープル陥落によるモスク化
1453年、オスマン帝国のコンスタンティノープル占領によりビザンツ帝国が滅亡すると、6月3日、オスマン皇帝の征服王スルタン・メフメト2世はアヤソフィアをモスクに変える命令を下します。
モスク化に伴い、メッカにあるカーバ神殿の方向を示すミフラーブやモスクに付随する煉瓦造りの尖塔ミナレット、中庭、150人が学べる神学校などを増築。キリスト教の十字架が壁から外されて、代わりに高名な書道家のアラビア文字によるムハンマドの言行が掲げられるとともに、偶像崇拝が禁じるイスラムの教義に従い、モザイク画は薄い漆喰で塗り固められてしまいました。
しかし、オスマン帝国による改築は重大な破壊を伴うものではなく、アヤソフィアは大きなダメージを受けずに、イスラム教のモスクとして機能しはじめたのです。モスクとなったアヤソフィアは、15世紀に高名な建築家ミマール・スィナン作のミナレット(尖塔)が増築され、16世紀には新たに3本目、4本目のミナレットも加わるなど、さらに規模を拡大していきました。
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トルコ共和国の成立後は博物館として公開
第一次大戦後にオスマン帝国が滅亡し、1923年、トルコ共和国が成立してからも、しばらくの間、アヤソフィアはモスクとして使用されていました。
しかし、1934年10月24日、初代大統領アタテュルクによる世俗化の要請と議会の決定を受けて一旦閉鎖されます。この間、アメリカのビザンチン研究所により、ビザンツ時代のモザイクを覆っていた漆喰を取り除く作業と劣化して剥がれ落ちた欠片を注意深く元の位置へと埋め込む作業が行われ、モザイク画の復旧が実施されました。
そして、1935年2月1日、新たに博物館へと生まれ変わったアヤソフィアが一般に公開されたのです。
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2020年7月からは再びモスクに回帰
長きにわたり博物館として公開を続けてきたアヤソフィアに再び転機が訪れたのは、2020年7月10日でした。イスラム系団体から提訴を受けたトルコの最高裁判所が、アタテュルクが行った変更を無効とする判決を下したのです。
判決を受け、トルコのエルドアン大統領は従来の方針を撤回し、アヤソフィアをイスラム教のモスクへ戻すと発表しました。7月24日、アヤソフィアは新たに「アヤソフィア・ジャーミー」としてモスクへ回帰。86年ぶりとなる金曜礼拝が行われました。
ただ、一部立ち入れないエリアができたりはしたものの、モスクになってからもアヤソフィアでは引き続き多くの観光客を受け入れており、現在のところ観光に大きな影響は出ていません。
アヤソフィアのアイドル猫「グリ」とは?
アヤソフィアには複数の猫が住み着いており、アヤソフィア猫と呼ばれています。なかでも、看板猫として高い人気をもっていたのが、ヨーロピアンショートヘアの「グリ」です。人懐っこい性格でイスタンブール市民や観光客から愛されたグリはやがて「アヤソフィアの守り神」と呼ばれるようになります。名前もトルコ語で「灰色、グレー」を意味する「Gri」から「愛をつなぐもの」を意味する「Gli」へと改められました。
2020年11月にグリが16歳で亡くなってからは、ターキッシュアンゴラのクルチュ(トルコ語で「剣」の意味)が2代目看板猫を継いでおり、アヤソフィア猫は、現在のInstagramフォロワー数11万3,000人(2022年11月現在)とイスタンブールにとどまらず世界中で大人気になっています。
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