スレイマン1世とは?オスマン帝国で最も有名なスルタンの生涯と功績
更新日:2023.02.28
投稿日:2022.10.11
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アナトリア(現在のトルコ)を中心とした東地中海周辺で強大な力を持っていたオスマン帝国。そのオスマン帝国の第10代スルタンとして、圧倒的な支配力を持ち歴史に名を馳せたのがスレイマン1世です。スレイマン1世とはどのような人物だったのでしょうか?
今回はトルコの歴史を語る上で欠かせない、スレイマン1世の生涯や彼を取り巻いた女性たち、功績や子孫・後継者などを詳しく解説します。
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スレイマン1世はオスマン帝国で最も有名なスルタン
オスマン帝国の第10代スルタン・スレイマン1世(現代トルコ語:Süleyman)。スルタン(Sultan)とはイスラム系王国の君主のことです。スレイマン1世は、26歳だった1520年に即位し、その生涯を終えた1566年まで46年間在位しています。
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かつて強大な力を持ったオスマン帝国の歴史の中で、スレイマン1世は最も名が知られているスルタンです。彼の圧倒的な指導力によってベオグラード、ロードス島、ハンガリーの大部分を征服し、北アフリカ北部や中東の大部分まで領土を拡大。地中海・紅海・ペルシャ湾の制海権を獲得したオスマン帝国は、16世紀に最盛期を迎えました。イスラム系王国であるオスマン帝国の躍進は、イスラム世界だけでなく西欧の国々にも脅威を与えたと言われています。
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ムハンマドの没後、ムハンマドの後継者が「カリフ」と呼ばれましたが、スレイマン1世はスルタンでありながら、カリフでもありました。これはスレイマン1世の父であるセリム1世が、スルタンがカリフを兼任する「スルタン・カリフ制」を敷いたからです。
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オスマン帝国の租税制度や州制度などの行政制度を整備した功績を持つスレイマン1世は、「立法帝」「法の番人」を意味する「カーヌーニー・スルタン・スレイマン(Ḳānūnī Sulṭan Süleyman)」とも呼ばれています。
スレイマン1世の生い立ち
スレイマン1世は、現在のトルコ・トラブゾンで1494年11月6日に生まれました。父はオスマン帝国の第9代スルタン・セリム1世、母はハフサ・スルタンです。
7歳の時に教育のためイスタンブールのトプカプ宮殿のエルデルン学校に送られ、科学・歴史・文学・神学・軍事技術などを学びました。14歳に現在のギレスン県にあたるシャルクカラヒサルの州知事に着任し、その後もボル・クリミアなどの州知事として行政を経験。19歳でマニサの軍事長官として赴任した際、のちに最も信頼できる顧問の一人になるパルガル・イブラヒム・パシャと出会います。
父であるセリム1世がスルタンだった時代、オスマン帝国はマムルーク朝を滅亡させ、シリア・パレスチナ・エジプトを併合して、聖地メッカとメディナを征服することに成功。しかし、1520年9月22日にセリム1世は即位からたった8年でこの世を去ります。その知らせを受けたスルタンはイスタンブールに赴き、1520年9月30日に若干26歳でオスマン帝国第10代スルタンに即位しました。
スレイマン1世が最も愛した女性・ヒュッレムとは?
スレイマン1世を語る上で欠かすことのできない人物の一人が、皇后であるヒュッレム・ハセキ・スルタン。ヨーロッパではロクセラーナというニックネームで知られ、スレイマンが最も寵愛した女性です。
のちにヒュッレムとして歴史に名を残すこの女性は、本名をアナスタシア・リソヴスカといい、1504年にウクライナ西部ロハティンで正教会司祭の娘として誕生しました。15歳前後だった1520年にタタール人の襲撃により奴隷として捕らえられ、オスマン帝国のトプカプ宮殿に売られたと言われています。赤毛に緑色の目をしており、白い肌だったという記録も残っているようです。
スレイマン1世が即位する前後に献上されたと言われるヒュッレム。由緒正しい家柄出身の最初の寵妃・マヒデヴランとの女の戦いを繰り広げながらも、スレイマン1世の寵愛を勝ち取ります。
オスマン帝国ではスルタンが正妃を持たないのが伝統でしたが、スレイマン1世は300年の伝統を破ってヒュッレムと結婚。ヒュッレムは正式に婚姻関係を交わしたオスマン帝国唯一の妃であり、奴隷として初めてスルタンの正妃になった女性です。
スレイマン1世とヒュッレムの間には5男1女が生まれ、その中にのちの皇帝・セリム2世もいます。正妃としてオスマン帝国の女性の頂点に立ったヒュッレムは、女人政治を始め強大な権力を持つようになりました。
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スレイマン1世とヒュッレムが眠る世界遺産・スレイマニエ・モスク
トルコの観光地としても人気が高い世界遺産のスレイマニエ・モスクは、ヒュッレムが眠る場所です。スレイマン1世の命により、トルコ史上最高の建築家として知られるミマール・シナンによって1557年に建築されました。トルコ語ではスレイマニエ・ジャーミィ(Süleymaniye Camii)という名称です。
1558年に亡くなったヒュッレムは、このスレイマニエ・モスクのドーム型霊廟に埋葬されています。スレイマン1世の霊廟も、このモスクの境内に建てられました。
スレイマニエ・モスクは、シナン自身が「この世の終わりが来るまで壊れることのない私の職人時代の傑作」と評している渾身のモスクで、イスタンブール歴史地区にあります。イスタンブール観光の際にはぜひ立ち寄ってみたいですね!
名称 | スレイマニエ・ジャーミー(Süleymaniye Camii) |
---|---|
住所 | Süleymaniye, Prof. Sıddık Sami Onar Cd. No:1, Fatih/İstanbul -Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | 09:00~18:00 (礼拝の時間を除く) |
入場料 | 無料 |
ユネスコ世界遺産ページ | https://whc.unesco.org/en/list/356 |
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スレイマン1世とイブラヒム・パシャとの関係
19歳のスレイマン1世がマニサの軍事長官だった時に出会ったのが、のちに大宰相として活躍し、スレイマン1世を支えたパルガル・イブラヒム・パシャです。
イブラヒム・パシャはギリシャの漁村・バガルで漁師の息子として生まれました。海賊に誘拐されて奴隷としてマニサ宮殿に売られ、そこで同年代のスレイマン1世と出会います。
スレイマン1世の即位とともにさまざまな地位を得たイブラヒム・バシャは、側近としてスレイマン一生を支え続ける一方で、彼の友人でもありました。大宰相まで登り詰め、全軍の総司令官としても活躍。オスマン帝国最盛期の立役者の一人でもあるのですが、力を持ち過ぎてしまったことが仇となり、最後はスレイマン1世に処刑されてしまいました。
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イブラヒム・パシャの邸宅は現在トルコ・イスラム美術博物館となっており、観光スポットとしても人気です。イスタンブールのヒッポドロームの西側にあります。
スレイマン1世の軍事的遠征
在任中に計13回、期間にして10年1ヶ月もの遠征を行なったスレイマン1世。その軌跡を辿ってみましょう。
ベオグラードの占領
父・セリム1世の後を継いでスルタンに即位したスレイマン1世は、即位の翌年である1521年にオスマン帝国が任命したダマスカス総督の反乱を鎮圧したことをきっかけに、軍事的制圧に着手し始めます。これまでオスマン帝国が攻略できなかったベオグラードをこの年に占領し、中欧の中心部までその勢力を拡大しました。
ロードス島への侵攻
セリム1世は生前、スレイマン1世の曽祖父・メフメト2世が制圧できなかったヨハネ騎士団がいるキリスト教の拠点・ロードス島への攻撃を計画していました。父の意思を継いだスレイマン1世は、1522年に20万人の兵士をロードス島に送り込みます。ヨハネ騎士団は7,000人の兵士と城壁で対抗し、包囲は6ヶ月間にも及びましたが、最終的にロードス島は陥落しました。
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ヨーロッパを震撼させたウィーン包囲
1526年8月29日にドナウ川沿岸で起こった「モハーチの戦い」でハンガリーのルイ2世を破ったスレイマン1世。ハンガリー王国の大部分を占領し、新国王としてトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュを任命しますが、それにハプスブルク家のフェルナンド1世が対立。オスマン帝国とハプスブルク家の戦いが始まりますが、これにも勝利を収めました。
そのまま北上して1529年9月27日にオーストラリアに侵攻してウィーンを包囲しますが、悪天候のため撃退されてしまいます。しかし、この遠征でオスマン帝国の強大な力をヨーロッパ全土に知らしめることに成功しました。1532年に2度目のウィーンへの侵攻を行いますが、この際も失敗し、1533年にオーストリア公国と「コンスタンティノープル条約」を締結して停戦しています。
コンスタンティノープル条約締結によって、トランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュが正式なハンガリー国王として認められ、フェルナンド1世は西ハンガリー地域を領地として併合しました。
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ペルシャ遠征
ヨーロッパ国境での戦いが激化する一方で、当時のペルシャ(イラン)のシーア派サファヴィー朝がオスマン帝国の脅威であり、長年の対立関係がありました。1531年にはオスマン帝国領であったヴァン湖北部のビトリスが、サファヴィー朝シャー・タフマースブ1世への従属を宣言。
これを受けたスレイマン1世は、先陣として1533年にイブラヒム・パシャをアゼルバイジャンに送って制圧に成功し、翌年1534年11月にバグダッドを陥落させます。しかし、逃げ腰のサファヴィー朝とは正式な交戦ができないまま、イスタンブールに帰還しました。
1548年から1549年にかけて2回目の遠征を行いますが思うような成果は上げられず、1555年の3回目の遠征ではアマスィヤで条約を締結。これによりサファヴィー朝との国境が決定しますが、サファヴィー朝の完全征服には失敗しています。
地中海の支配
オスマン帝国のオーストリア遠征中、神聖ローマ帝国艦隊の襲撃を受け、オスマン帝国の戦況は悪化してしまいます。それを受けたスレイマン1世は、アルジェリアを支配していたバルバロイ海賊の王・バルバロッサとして知られていたカイル・アド・ディンをオスマン帝国の提督に任命。西地中海地方への足掛かりを手に入れます。
1535年にスペインのシャルル1世がオスマン帝国に大勝を収めますが、1536年にフランスのフランシス1世がオスマン帝国と同盟を結び、シャルル1世に対抗。バルバロッサ率いるオスマン帝国艦隊は、イタリアの海岸を襲撃してヴェネツィア領の島を次々と獲得し、オスマン帝国の領土に併合しました。
1538年にはジェノバ提督のアンドレア・ドーリス率いる十字艦隊と「プレヴィザの海戦」で交戦し、オスマン帝国が勝利して地中海の制海権を獲得。これにより地中海を支配していきます。
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マルタ島・ハンガリーへの侵攻
1530年にヨハネ騎士団はマルタ騎士団として再興し、オスマン帝国大軍に対する行動を始めます。これに怒ったオスマン帝国は、大軍を編成し1565年にマルタ島への侵攻を開始。5月18日から9月8日までマルタ島包囲戦が続きます。オスマン帝国の圧勝かと思われましたが、スペインから来た救援軍がマルタ騎士団を援護し、オスマン帝国は3万人もの兵士を失ってしまいました。
その後、スレイマン1世は1566年にハンガリー遠征に向かいますが、攻略を開始する前日に持病が悪化したため72歳でこの世を去り、これが最後の軍事遠征となりました。
スレイマン1世の功績
軍事的遠征で次々と功績をあげ、オスマン帝国を最盛期に導いたスレイマン1世。彼はそれ以外にも様々な功績を残しています。
オスマン帝国の最盛期の立役者
スレイマン1世の没後も約100年に渡ってオスマン帝国の勢力は拡大し、最盛期を迎えるまで遠征を繰り返して領土を広げていきました。1683年のピーク時には、イスラムの主要都市・バルカン半島の多くの地方・北アフリカの大部分を支配下に置いています。
オスマン帝国がこれほどまでに勢力を拡大し続けられたのは、スレイマン1世の最大の功績と言えるでしょう。
オスマン帝国の法律の整備
「立法帝」「法の番人」を意味する「カーヌーニー・スルタン・スレイマン(Ḳānūnī Sulṭan Süleyman)」とも呼ばれているスレイマン1世。側近であったイブラヒム・パシャを処刑して以降、遠征を控えて租税制度や州制度の導入や、検地の実施、行政機関の設立、軍事組織の編成などを行い、オスマン帝国の法律を整備。これによって、中央政権体制を強化していきました。
ただ、イブラヒム・パシャ亡き後、ヒュッレムが権力を強め、女人政治を始めたことが、のちのオスマン帝国衰退のきっかけになったとも言われています。
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公平な実力主義による人材登用
奴隷だったイブラヒム・パシャを大宰相として登用したことからもわかるように、スレイマン1世は社会的地位や人気よりも、実力で臣下を選んできた公正公平な支配者としても知られています。イブラヒム・パシャ以外にも、何人かのキリスト教徒の奴隷を要職につけました。
オーストリア大使であったスラン・ド・ブシュベックは、スレイマン1世を「スルタンは任命を行うにあたり、富や地位の点での見栄、推薦や人気を一切考慮せず、昇進の対象となる人物の性格、能力、性質を慎重に検討する」と評価しています。
宗教的な寛容さ
オスマン家の民族はもともとイスラム教徒ですが、オスマン帝国第8代スルタン・バヤジット2世は、スペインから追放されたユダヤ人を受け入れました。スレイマン1世はこれを受け継ぎ、宗教的寛容政策を継続。また、専属医師としてユダヤ人のモシェ・ハモンを雇っていました。
スレイマン1世の命で建設されたシナゴーグも、他の宗教への寛容さの象徴です。当時のオスマン帝国内にはキリスト教・ユダヤ教・コプト教など異なる宗教が存在しており、多様な宗教を受け入れる体制が整っていました。
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文化的な成果
スレイマン1世は芸術や文化の保護、発展にも力を入れていたことで知られています。当時何百もの芸術団体がトプカプ宮殿で管理されており、芸術家や職人は見習いを経て、その分野で昇進していきました。現存する給与台帳により、四半期ごとにその実力に見合った賃金も支払われていたことがわかっています。
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これらの芸術家や職人の手によってモスクや橋、要塞など現在も残る建造物の建設や、当時の公共事業が実施され、オスマン帝国発展の一翼を担いました。
詩人としての顔
芸術や文化の発展に注力していたスレイマン1世は、詩も奨励しており、彼自身も優れた詩人として知られています。ムヒビ(Muhibbi)という名でトルコ語、ペルシャ語、アラビア語を用いて詩を詠みました。スレイマン1世の詩からは、「この世では健康の呪文が最高の言葉である」など、トルコのことわざになっているものもあります。
スレイマン1世の子孫・後継者
スレイマンには最初の寵妃マヒデヴランとの間に第一子となる皇子ムスタファが生まれています。また彼が最も愛したヒュッレムとの間には4人の皇子と娘・ミフリマーが生まれましたが、皇子のうち2人は幼い頃に亡くなっています。
有能で人望の厚かったムスタファはヒュッレムが産んだ皇子よりも先に継承権を獲得し、イブラヒム・パシャがムスタファを支持していました。一説によればイブラヒム・パシャの処刑は、自らの息子を後継者にしたいヒュッレムが裏で糸を引いていたとも言われています。
当時オスマン帝国では、後継者以外の兄弟は処刑されるという習慣がありました。1553年ムスタファは反逆罪で処刑され、後継者争いはスレイマンのヒュッレムの間に生まれたセリムとバヤジッドの一騎打ちとなります。胸を痛めていたスレイマン1世ですが、最終的には1561年9月25日にスレイマンがバヤジッドの処刑を決定。スレイマン1世亡き後、セリムはセリム2世を名乗って第11代スルタンに即位しました。
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