ヒュッレムとは何者か?オスマン帝国ハレムにおける功績と激動の生涯
更新日:2023.02.28
投稿日:2022.06.30
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本名 | アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ |
---|---|
通称 | ロクセラーナ(「ロシア女」の意味) |
オスマン帝国での名前 | ヒュッレム・ハセキ・スルタン(Hürrem Haseki Sultan) ヒュッレム・シャー |
出身地 | 当時はポーランドの統治下にあったルテニア地方ロハティン(現在のウクライナ) |
生年 | 1505年頃?(1500年~1505年頃) |
没年 | 1558年4月15日(享年50~56歳、イスタンブールのトプカプ宮殿にて) |
ヒュッレムとは?
ヒュッレムは、オスマン帝国で最も有名な女性の一人です。トルコ人ではなく、ルテニア地方ロハティン(現在のウクライナ)出身で、捕虜(奴隷)としてイスタンブールのハレムに連れて来られました。
ハレムの中でライバルを失脚させながら権力を強め、前例を破って正式に皇帝と結婚し、奴隷から正妃にまで上り詰めたオスマン帝国史上初めての女性です。
絶世の美女というわけではなかったようですが、愛想が良く、快活な性格で、人心を巧みにとらえて皇帝スレイマン1世の寵をほしいままにしました。
ヒュッレムの名前の意味・由来
もともとは貧しいキリスト教司祭の娘でしたが、攫われて宮殿に入った後にイスラム教に改宗し、 “快活”や“喜ばしい”を意味する「ヒュッレム(Hürrem)」の名を授かりました。なお、ヨーロッパでは“ロシア女”を意味する「ロクセラーナ」という呼び名で有名です。
トプカプ宮殿のハレムでオスマン帝国史上初めてスルタンと法的に婚姻関係を結んでからは「ヒュッレム・ハセキ・スルタン」となりました。
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さらに、正妃となってからは君主・王の意味をもつ「シャー」を名乗り、署名には「ヒュッレム・シャー」と記しています。
ヒュッレムは本当に美人だった?
当時の記録によると、ヒュッレムは「赤い毛」「緑色の眼」「白い肌」であったとされています。ただ、どの文献を見ても彼女が美人だったという記述よりも「彼女は才気にあふれ、愛想のよい、陽気な性格だった」という記述の方が目につきます。例えば、ベネチアの大使は、「優雅で小柄、若くはあるが美しくはない」と評していたとか。
スレイマン1世はヒュッレムの見た目の美しさではなく、音楽などの才能、快活さを好ましく思っていたようです。
ヒュッレムが魔性の女と呼ばれた理由
皇帝スレイマン1世がハレムの慣習を破棄するほど彼女を深く愛し、またヒュッレムがさまざまな手管を使ってハレムの女性を蹴落として権力の頂点を極め、更には皇帝と正式に結婚までしたことから、彼女が魔術を使ったという噂まで流れ、ヒュッレムは国内外で「ロシアの魔女」と呼ばれていたと言われています。
皇帝を篭絡させ、ライバルたちを退けていったやり方、その後の帝国への影響力に対してはさまざまな意見はありますが、故国から無理やり攫われてき少女が皇帝への愛にすがり、その愛に皇帝が応え、二人の揺ぎ無い結びつきの根底に愛があったことは間違いないでしょう。
ヒュッレムのハレムにおける活躍と功績
慣習を打破して権力の頂点に君臨
奴隷の身でハレムに連れて来られた女性は整然とした序列のもと教育を受けました。彼女たちは皇帝の寵愛を受ける以外にハレムで出世する道はなく、運よく寵愛を受けて男子をもうけ、その子を皇帝に就けるとハレムの頂点である母后にさえなることができました。
ヒュッレムがハレムに入った当時は、
- 母后ハフサ・ハトゥン
- 第一夫人であったマヒデヴラン
- マヒデヴランの息子ムスタファを支持する大宰相イブラヒム・パシャ
といった実力者がいましたが、彼女は権謀術数を駆使して自分の地位を脅かし、邪魔となるこのようなライバルや敵たちを次々と失脚させながら、後継者争いに勝ち、ついに帝国内の女性の頂点に立ったのです。
それまでのオスマン皇帝家の慣習では、ひとたび皇子を産んだ女性はスルタンの寵から離れるのが一般的でしたが、ヒュッレムは男の子を産んだ後も皇帝スレイマン1世の寵愛を受け続け、ミフリマー皇女、アブドゥッラー皇子(幼くして夭折)、バヤズィト皇子、セリム皇子、ジハンギル皇子と、五男一女の子をもうけます。
さらに、皇子が赴任する際はスルタンに即位するまで同行しなければならないルールがある中でヒュッレム自身はトプカプ宮殿にとどまったり、ハレムをトプカプ宮殿に移してスルタンの側に住んだりと、型破りな行動は枚挙にいとまがありません。
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国政や外交にまで関与
ハレムで権力を持ったヒュッレムは政治的な影響力も強め、オスマン帝国史上初めて国政や、さらには外交にまで関与した女性となりました。
帝国内での閣僚会議を小窓から密かにのぞいてスルタンに陳述したり、個人的に印章を作って直接他国の王と手紙で連絡を取り合ったりといったことまでしています。
オスマン帝国は当時絶頂期にあったため、彼女はおそらく世界で最も影響力のある女性の一人だったと言っても過言ではないでしょう。
母后(ヴァリデ・スルタン)や皇帝の第一夫人(カドゥン)としてハレムの住人である女性が権力を持ち、国政や後継者争いに関わる「女人政治」の時代をヒュッレム・スルタンが切り開いたのです。
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芸術・文化の発展に貢献
ヒュッレム・スルタンは、イスタンブールやその他の場所に、オスマン帝国の皇帝の妃たちの中で最も多くの開発事業を行った女性です。
特に有名なのが、イスタンブールの旧市街にある1538~1551年に建築家シナンに造らせたモスク、ハマム、マドラサ、病院、救貧院等のあるハセキ複合施設群です。
ここの病院は世界で初めて市民や宮殿で働く女性たちのために作らせた女性専用病院で、現在でも国立総合病院として機能しており、トルコで最も長く運営されている病院です。
また、イスタンブール歴史地域の観光名所であるアヤソフィアとブルーモスクの間には、同じくミマール・シナンに造らせた立派なハマムもあります。またエルサレム、メッカ、メディナにも同様に慈善目的でヒュッレムが作らせた施設があります。
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なお、このヒュッレムの波乱万丈な人生はヨーロッパやロシアにも影響し、彼女の生前にも死後にもこぞって絵画、詩、小説、オペラ、演劇など多くの芸術作品が生み出されました。
アヤソフィア・ヒュッレム・スルタン・ハマム
ヒュッレムの寄進によって造られた『アヤソフィア・ヒュッレム・スルタン・ハマム』は現在でも営業しており、観光客にも人気のスポットになっています。
ハマムとは、蒸気で満たされた部屋の中で大理石の上に寝そべって全身を温めるトルコ式の伝統的な公衆浴場です。垢すり師に体を洗ってもらえるサービスもあり、歴史ある建築や高級感のある雰囲気を楽しみながら、旅の疲れを癒すことができます。
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名称 | アヤソフィア・ヒュッレム・スルタン・ハマム(Ayasofya Hürrem Sultan Hamami) |
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住所 | Cankurtaran Mah. Bab-I Humayun Cad. No.1, Sultanahmet, Istanbul |
公式サイト | https://hurremsultanhamami.com/ |
魔性の女ヒュッレムの生涯・史実
故郷のルテニアからある日突然奴隷として攫われてきた少女がオスマン帝国皇帝のハレムに入り、帝国の、ひいては世界の女性の頂点に立つことになったのでしょうか。ハレムでの厳しい戦いを勝ち抜いて下剋上を成し遂げた彼女の波乱万丈な人生をご紹介いたします。
生い立ち
依然わからない部分は多くあるものの、ヒュッレムは当時ポーランド管轄下にあったルテニア地方ロハティン(現ウクライナ)の貧しい正教会司祭の娘として1500~1506年頃に生まれ、もともとの名はアレクサンドラ・リソフスカ(Alexandra Lisowska)だとされています。
奴隷としてオスマン帝国のハレムに
1510年代後半、アレクサンドラが14~17歳くらいの時、故郷の村がクリミア・ハン国の襲撃にあいます。彼女は奴隷としてオスマン帝国のイスタンブールに連れて行かれ、スレイマン1世のハレムに入れられて教育を受けた言われています。
ハレムに入った後、慣習によってイスラム教に改宗し、“喜ばしい”や“快活”を意味する「ヒュッレム」に改名しました。
ヒュッレムはスレイマン1世が1520年に皇帝に即位した直後に皇帝のハレムに献上され、次第に知性と才能で頭角を現しました。
ハレムのライバルたちの排除
彼女がハレムに入った時には、スレイマンの母のハフサ・ハトゥンが実質的にハレムを支配しており、第一夫人のマヒデヴランとの間には皇子ムスタファがおり、後継者とその母として不動の地位を確立していました。しかし、ヒュッレムはスレイマンの寵愛を得るために策を弄します。
ハレムの女官長に夜伽を命じられた時、ヒュッレムはマヒデヴランとの諍いで顔に傷をつけられた(自分で引っ掻いて傷をつけたという説もあります)ために、そんな状態を皇帝にみせるわけにはいかないと申し立てて夜伽のお召しを拒みます。
その事件からスレイマン皇帝は彼女に注目するようになり、彼女は皇帝の寵を得ることに成功します。一方この事件をきっかけにマヒデヴランの方は遠ざけられることになったのです。
さて1521年にヒュッレムは皇子メフメットを産みます。
それまでは皇子を産んだ寵妃は皇帝から隔てられたため、二人目の皇子をつくるという機会は失われていたのですが、ヒュッレムを深く愛したスレイマンはその慣習を破って彼女との間に続けて皇女ミフリマー、皇子アブドゥラー、皇子セリム2世、皇子バヤズィト、皇子ジハンギルという5男1女をもうけます。
これはそれまでのオスマン皇帝家の慣習にはなかったことでした。
ヒュッレムはこうして、それまで皇帝の唯一の皇子の母という不動の地位を持っていた第一夫人マヒデヴランの座を奪うことに成功したのです。
ヒュッレムとの戦いに敗れた第一夫人マヒデヴランはその後、息子のムスタファがマニサ県に太守として赴任すると、彼女も息子と共にハレムを去りました。その裏にはヒュッレムの画策があったとも言われていますが、あくまでも推測の域を出ていません。マヒデヴランとムスタファを支持していた皇帝の母(母后)ハフサが1534年に亡くなったことで、宮廷内のパワー・バランスが崩れたせいだとも考えられます。
史上初めてスルタン(皇帝)と正式に婚姻
ハフサ・スルタンが死亡した後、ヒュッレムのハレムでの影響力は増し、さらに権勢を強めます。また、彼女はスレイマン1世の信頼できる相談相手としての地位を築くことにも成功します。
そして母后が死亡した年に、スレイマン1世はヒュッレムを奴隷身分から解放し自由人とした上で、帝国史上初めて彼女と法的に婚姻を結びました。当時オスマン帝国を訪問したハプスブルク帝国の大使ビュスベクによると、ヒュッレムは「結婚しなければ、褥をともにしない」とスレイマン1世に迫ったということですが、真相は不明です。
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大宰相イブラヒム・パシャの処刑
帝国の女性の中で最も権力を持ったヒュッレムにとって次に目障りな存在は、イブラヒム大宰相でした。
イブラヒム大宰相は彼女のライバルであるマヒデヴランの息子ムスタファを支持しており、またムスタファは有能で国民や高官たちからも人気があったのです。このままムスタファが後継者として皇帝の座に就けば、せっかく排除したマヒデヴランが母后となり、ヒュッレムの息子たちは当時の慣習として処刑されてしまいます。
そういう事態をどうしても避けたいヒュッレムはまずイブラヒム大宰相の排除に動きます。
イブラヒムはデウシルメというキリスト教徒の青少年の「徴収」制度によりオスマン帝国に連れて来られ、やがてスレイマンの側近となり、1523年から13年間に亘って大宰相の地位に就いていた人物です。
一説によるとスレイマンの妹を妻としていたという話もありますが、そういう資料は見つかっていないそうですので、事実だったかどうか定かではありません。
しかし彼が若いころからスレイマンの寵愛を得ていたことは確かで(スレイマンと恋愛関係にあったという話もあります)、ヒュッレムはそのことにも嫉妬していたとも言われています。
そのイブラヒムは1536年3月15日朝、トプカプ宮殿の皇帝の居室に近い彼の寝室で、突然遺体となって発見されます。
その死の原因は宮殿の唖者たちによる絞首刑でしたが、処刑の理由として考えられたことはイブラヒムが自らの称号に「スルタン」という言葉を付けたり、ハプスブルク王朝の使節に対して「この大帝国を管理しているのは自分だ」と豪語したと伝えられているほど増長したせいだと言われています。
しかしヒュッレムの陰謀説もまことしやかに囁かれています。
イブラヒムが生きている限り、完全にスレイマンの心を支配できないと感じたヒュッレムが、イブラヒムに関する中傷や、世の中で取りざたされていた彼に対する噂を吹き込んで、徐々に皇帝の心に毒を注ぎ込んだせいだという可能性があるというのです。
ただ、この説には明確な証拠があるわけではありません。いずれにしても、イブラヒムは処刑され、残りは皇子ムスタファだけでした。
そしてイブラヒムという最大の庇護者を失ったムスタファも遂に1554年イラン遠征の行軍中に、父スレイマンの天幕に呼び出され、そこで処刑されてしまいます。
五十代も半ばを過ぎ老境に入ったスレイマンには、有能で軍や民たちからの信頼も厚いムスタファに対する恐怖がありました。ヒュッレムがそこにつけこんで、スレイマンにムスタファを煙たく思わせるよう仕向けて行ったせいだと言われています。そしてヒュッレムの娘婿で側近のリュステム・パシャを使って、ムスタファがイラン側と通じてスレイマンに反乱を企てているという疑惑を彼に植え付け、処刑に至らしめたのです。
ヒュッレム陰謀説の真偽はともかく、こうしてヒュッレムは全ての敵たちを排除することに成功しました。
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実権を掌握したハレムでの活躍
スレイマン1世が即位した当時のハレムはトプカプ宮殿にではなく、グランド・バザールに近い場所にある旧宮殿(エスキ・サライ)にありました。皇帝たちはトプカプ宮殿の外廷で政務を行い、内廷で生活し、必要な時に家族の住む旧宮殿に足を運んでいました。
しかし、旧宮殿で火災が起きると、ヒュッレムの意向によりスレイマン1世は1541年1月25日の夜にトプカプ宮殿(新宮殿)を増築させてハレムを移し、ヒュッレムと自身の家族を住まわせるべくハレム議定書に署名しました。これにより新たなハレムの慣習が始まったのです。
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ヒュッレムは、スレイマン1世が遠征中にたくさんの書簡をやり取りして帝国内や町の状況を知らせたりしています。また皇位継承、皇子達の赴任地、宰相など高官の任命に関与したり、イラン遠征を支持したり、ポーランドやハンガリーの王族の女性たちとネットワークを持つなどしたりした、帝国史上最初のハセキ・スルタンであり、とても革新的な女性でした。
また、イスタンブール、エディルネ、アナトリア各地、メッカ、メディナからエルサレムまで、モスクや病院、学院など一連の複合施設群キュリイェ(külliye)などの公共施設を建設し、自身の名で炊き出しや配給などの慈善事業も数多く行っています。またアヤソフィアとブルーモスクの間に造られた大きな公衆浴場(ハマム)も彼女の寄進によるものです
ヒュッレムの最期と死因
ヒュッレムは、スレイマン1世よりも8年早い1558年4月に、息子のセリムが玉座に就くのを見ることなくトプカプ宮殿で息を引き取りました。その遺体はスレイマニエ・モスクの中庭に建築家シナンによって建てられたヒュッレム・スルタン廟(その廟の内壁は、天国の楽園を描いたイズニックタイルで覆われています)に埋葬されました。
後にスレイマンもその側に埋葬されています。現在は一般参拝もできます。
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名称 | ヒュッレム・スルタンの霊廟(Hürrem Sultan Türbesi) |
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住所 | Süleymaniye, Prof. Sıddık Sami Onar Cd. No:1, 34116 Fatih/İstanbul |
※イスラムの霊廟ですので、露出の多い服装は避け、静かに見学してください。内部は土足禁止。写真撮影は可能ですが、フラッシュは禁止です。
ヒュッレムの死因については、
- マラリア
- 高熱
- 女性特有の病気
- 心臓病
- 慢性的な筋膜性疼痛症候群、
- ガン
- 毒殺
などさまざまな説がありますが、明確にはわかっていません。
ヒュッレムの子孫
ヒュッレムには5男1女の子どもがいました。しかし残念ながら、
- 長男メフメットは1543年天然痘で夭折
- 次男アブドゥッラ―は1524年に僅か2歳で夭折
- 四男バヤズットは三男セリムと後継者争いの末に1561年処刑される
- 五男ジハンギルはとても繊細な性格だったため1553年異母兄のムスタファの処刑に衝撃を受けて死去
といったように、息子たちが次々と亡くなりました。
セリム2世
最終的に後継者として残ったのが、三男のセリムです。
彼は1566年に父・皇帝スレイマン1世が72歳で死去すると、セリム2世として第11代皇帝および第90代カリフに即位しました。42歳でした。
まず後継者になることはないだろうと周囲も最初は本人すらそう思っていたであろう三男(異母兄ムスタファを入れると四男)だったセリムは、父スレイマンが存命のうちに他の男兄弟がみんな処刑・死去したため、棚ぼた式に玉座が降ってきた…と思われるかもしれません。
彼はサルホシュ(酔っぱらい)とあだ名されるほど酒好きで、人気もなく、政務のほとんどを娘婿で大宰相のソコルル・メフメット・パシャに任せて、皇帝になってからはただの一度も親征しなかった不肖の継嗣だったと考えられています。
ただ彼が皇帝になったのは運だけではありませんでした。ソコルル・パシャや野心家のララ・メフメット・パシャという臣下たちの支えもあって、後継者争いに勝ったのです。それに父であるスレイマンがセリムを後継者にと考えていたことが最大の要因だったと思われます。
スレイマンにとって自分を脅かす存在となった長子ムスタファ皇子や、自分に対して反抗的だった四男バヤズィト皇子よりも、凡庸なセリムの方が後継者として都合がよかったのかもしれません。
1574年にセリム2世は酒好きが災いし、ワインを一瓶飲んだ後に宮殿に新築されたハマムの濡れたタイルの上で滑って転倒し、11日後に死亡したと言われています。羊の腸詰の食べ過ぎだったという説もあります。いずれにせよ、突然の死だったようです。
セリム2世の霊廟はアヤソフィア・モスクの敷地内にあります。
また、エディルネの町にはセリム2世の名を冠したセリミエ・モスクも建てられています。壮麗なこのモスクは建築家シナンの最高傑作で、2011年にユネスコ世界文化遺産にも登録されました。
セリミエ・モスク|トルコ・エディルネにあるオスマン建築最高傑作の世界遺産
ミフリマー・スルタン
スレイマン1世とヒュッレムの長女として生まれたミフリマー皇女は、母ヒュッレムに劣らない政治への発言力や財力の大きさでも知られています。
彼女は母ヒュッレムの命令で嫌々ながらも1539年17歳の時に親子ほども年の離れたリュステム・パシャと結婚しました。リュステム・パシャには理財の才があり、狡猾な人物でした。ミフリマーは、結婚後そんな夫を出世させるために母ヒュッレムと共に尽力します。そのお陰もあってリュステム・パシャは15年間大宰相の地位につき帝国に財をもたらすことに成功します。
ミフリマーはまた、弟たちが父の後皇帝の座に就けるため、母や夫と共に陰謀をめぐらすこともありました。ただ彼女が推していた四男のバヤズィト皇子は残念ながら皇帝になることはなく、三男セリムが皇帝の座に就きました。
ミフリマーの影響力は母ヒュッレムの死後一層増し、父スレイマン1世は彼女を常に傍に置き、ことあるごとに相談をしていたといいます。1566年にスレイマン1世が死去すると、今度は弟セリム2世の相談役となりました。
ポーランド王に手紙を書くなど母ヒュッレムと同様、積極的に政務に関与していたようです。彼女は1561年に夫リュステム・パシャが亡くなった後は二度と結婚することはありませんでした。
ミフリマー皇女は1578年1月にセリムの息子ムラット3世の治世に亡くなりました。亡骸は、スレイマン霊廟内の父スレイマンのすぐ横に埋葬されています。
【ネタバレ注意】ドラマ『オスマン帝国外伝』のヒュッレム
全4シーズン310話という『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』は、オスマン帝国隆盛の立役者である皇帝スレイマン1世とヒュッレムに焦点を当て、オスマン帝国の歴史や伏魔殿たるトプカプ宮殿のハレムでの出来事を描いたトルコ版大河ドラマです。
トルコでは番組が始まる時間は女性たちが家事を放ったらかしにしてテレビの前に釘付けになったというほど大人気で、日本でも大ヒットしました。
ドラマでは、奴隷であったヒュッレムがハレムでの地位を築いて遂には正妃になり、権力を手にする様子が描かれていますが、シーズン4の79話で彼女は病死します。
ヒュッレム役の女優メルイェム・ウゼルリとは?
ヒュッレム役に大抜擢され一躍有名になったモデルで女優のメルイェム・ウゼルリ(Meryem Uzerli)は、トルコ人の父とドイツ人の母を持つ1983年8月12日生まれのトルコ系ドイツ人です。
母国語はドイツ語で流暢な英語を話します。トルコ語はヒュッレム・スルタンの役を演じるうちに上達しました。
2008年から役者活動を始めた彼女は既にドイツでもテレビドラマや映画で活躍していましたが、2011年に『オスマン帝国外伝』の主役ヒュッレム役に最も適しているとして大抜擢されました。
彼女はこのヒュッレムの演技が評価され、2011年、2012年には主演女優賞を受賞しています。
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メルイェム・ウゼルリが降板したのはなぜ?
ドラマ『オスマン帝国外伝』では、2013年のシーズン3の途中でヒュッレムは一時行方不明になります。そして、最終回でヒュッレムが帰ってきたとき、ヒュッレム役の女優が代わっていたことに驚いた方も多いでしょう。
実は、これはメルイェム・ウゼルリの降板によるものなのですが、その理由は彼女が燃え尽き症候群だったからだそうです。
降板後ドイツに帰った彼女は、妊娠がきっかけで交際していたトルコ人男性と破局したことを公表。この彼氏には既に子供が2人いたため彼女との子供を望まなかったようです。そのためメルイェムは2014年に未婚のシングルマザーとして女の子を出産しました。
メルイェム・ウゼルリは2021年にも未婚・父親非公表のまま第二子である女の子を出産。今はベルリンでシングルマザーとして二児を育てているそうで、自身が演じたヒュッレムに負けず劣らずパワフルな女性だといえるでしょう。
代役としてヒュッレムを演じた女優は誰?
シーズン4でメルイェム・ウゼルリに代わって晩年のヒュッレム役を務めたヴァヒデ・ペルチンは、トルコでは知らない人はいないほど有名なベテラン女優です。日本のドラマ「マザー」をトルコでリメイクした際、ヒロインの母親役を演じているので、日本でも知っている人がいるかもしれません。
彼女は1965年6月13日にイズミールでギリシャからの移民の両親の間に生まれました。メルイェムよりも18歳年上ですが、見た目も華やかさもメルイェムに引けを取らず、晩年のヒュッレムを見事に演じ、視聴者を惹きつけました。
日本ではヒュッレムを描いた漫画も
ところで、日本ではヒュッレムを描いた漫画も出版されています。
ヒッタイト時代を描いた『天は赤い河のほとり』で第46回小学館漫画賞少女部門を受賞した篠原千絵さんの『夢の雫、黄金の鳥籠』では、スレイマン1世の寵妃となったヒュッレムとイブラヒム・パシャとの恋愛が描かれています。
「ヒッタイト帝国と首都ハットゥシャ」王国滅亡の理由と遺跡の見どころ
史実やドラマでは敵であった二人が恋愛関係になるなんてあり得ない、と思われるかもしれませんが、史実に忠実に描かれている部分もあって、ヒュッレムやオスマン帝国を手軽に知るのにはいいかもしれません。
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