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プロレスの歴史や有名選手、主要団体を一挙紹介!その発展に貢献したユセフ・トルコとは?

更新日:2023.04.05

投稿日:2022.08.31

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プロレス

プロレスは、スポーツかつエンターテイメントとして長く親しまれてきました。熱狂的なファンでなくても、聞いたことのあるスター選手や技の名前があるのも珍しくありません。

紀元前3000年には生まれていたとされるレスリングを起源とし、19世紀ごろから独自の発展を遂げてきました。

今回の記事では、プロレスおよびレスリングの歴史をひも解きながら、魅力を余すところなく伝えます。有名選手や技、主要団体、タイトルなどプロレスの基礎知識も網羅していますので、「プロレスについて知りたい!」方はぜひ最後までお読みください。

プロレスとは

プロレス

プロレスとは、プロが行うレスリングのことです。現在は、スポーツかつエンターテイメントとして、多くの人に親しまれています。エンターテイメント性の高さゆえ「やらせ」と言われることもありますが、鍛え上げた肉体で技をぶつけ合うのは、まさにプロの仕事でしょう。リングでの事故が原因で急逝したり、脊椎損傷などの大けがを負ったりする選手もいるのが現実。気の抜けない真剣勝負が日々繰り広げられています。

プロレスはプロレスリングという通り、レスリングから派生したスポーツです。元となったレスリングの起源は非常に古く、世界最古の文明・メソポタミア文明を築き上げたシュメール人がレスリングをしていた、という記録が残っています。また、古代ギリシャにおいてもレスリングは行われていました。「科学と神の芸術」として、レスラーには体力・知力の両方が求められていたのです。

なお当時は、対戦相手を投げ飛ばすか、押し倒して相手の背中、お尻、胸、膝、肘が地面に着けば勝ちとされる、どちらかといえば相撲に近いルールでした。

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古代のレスリング

オイルレスリング トルコ相撲 ヤールギュレシ

古代ギリシャでは、選手同士が体中にオリーブオイルを塗ってレスリングを行っていました。トルコにはヤールギュレシ(オイルレスリング)という格闘技があります。始まったのが14世紀ごろと650年以上の歴史を持つ、世界でも非常に古いスポーツの1つと言ってよいでしょう。今でもトルコの国技として行われており、定期的に開催される全国大会「クルクプナルオイルレスリングフェスティバル」はユネスコの無形文化遺産に登録されています。

トルコ相撲(ヤールギュレシ)とは?無形文化遺産のオイルレスリング

プロレスの歴史

プロレス

古くから行われていたレスリングは、その後プロによる興行としてのプロレスに発展していきます。さらに歴史を詳しくみていきましょう。

興行として確立される以前のプロレス

プロレス巡業の原型が始まったのは、1830年ごろのフランスと言われています。動物の曲芸ショーや見世物小屋などの巡業について回り、賞金マッチを行っていたそうです。ただしルールは整備されておらず、観客にも選手にも格闘技の技術・知識はありませんでした。そのため、観客が飛び入り参加するなど、今では考えられない展開もありました。

一方、19世紀後半になるとやや事情が異なってきます。1867年1月、アメリカ・ニュージャージー州ニューアークで、アメリカン・カラー・アンド・エルボー王座戦が行われました。この大会では、ジェームス・H・マクラフリンがルイズ・アインズワースを倒し、タイトルを獲得。これが、プロレス史上最古のタイトルマッチといわれています。

興行としてのプロレスの誕生

プロレス

その後、プロレスを取り巻く環境は思わぬところに進んでいきます。きっかけとなったのは、1890年代のアメリカで起きた暴力反対運動です。大学のアメフトチームに対する「けが人が多くて暴力的極まりない」という批判が発端となり、アメフト同様、体同士がぶつかり合うプロレスにも矛先が向きました。

また、プロレス独特の解決すべき問題もありました。関節技や締め技を選手が用いると、膠着状態となって試合の展開が止まるため、観客が退屈してしまうのです。加えて、巡業範囲が広がり、さまざまな立場の客が来るようになったため、なじみ客以外も楽しめるようにする必要がありました。

これらの背景もあり、プロレスは真剣勝負を見せるものから、観客を楽しませるためのショーへと変貌を遂げていきます。また、レスラー、プロモーター、マネージャーなどがトラストを結成することで関係が緊密になり、リアルでない試合を仕組めるようになったのも興行化を後押ししました。

日本のプロレスの歴史

プロレス

日本にもプロレスは早い段階で入ってきました。その後、さまざまな変化を経て今の形に至ります。どのような変化を経てきたのか、詳しく説明しましょう。

外国人レスラーと力士による異種格闘技戦

日本のプロレスの歴史は、実は意外に古いです。1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが開国を求めて来航(黒船来航)しました。その後、1860年に横浜が開港されると、多くの外国人が日本を訪れるようになります。これに伴い、大相撲の力士は横浜巡業に訪れるたびに、外国人レスラー・ボクサーの挑戦を受けていたのです。今でいう異種格闘技戦といったところでしょう。

日本人初のプロレスラーの誕生

さらに時は流れ、1883年に日本人初のプロレスラーが現れます。ソラキチ・マツダです。力士だった彼は従業中の横浜から脱走し、アメリカに渡ってプロレスラーになりました。1884年にはデビュー戦を行い、アメリカの最初の職業レスラーで“プロレスの父”として知られるウィリアム・マルドゥーンとも対戦しています。

同時に脱走した同じく力士の浜田庄吉も、日本におけるプロレスの歴史上、欠かすことができない人物です。彼は英語を身に付け、渡米から4年後の1887年(明治20年)春、「欧米大相撲」「西洋角觝」のプロモーターとして外国人のレスラー、ボクサーの一団を率いて日本に戻ってきました。これが日本初のプロレス興行とされています。

力道山の登場

力道山

しかし、浜田庄吉による興行以降はプロレスがなかなか発展しない時期でした。1929年には大日本レスリング普及会が発足したものの、わずか3か月程度で解散しています。

潮目が変わるきっかけになったのは、やはり力道山の登場でしょう。1954年2月19日、蔵前国技館で力道山&木村政彦対シャープ兄弟のタッグマッチが行われました。前年の1953年から日本で始まったばかりのテレビ放送で中継が行われ、人々を熱狂させたのです。

力道山はこのタッグマッチに先立ち、1952年にはアメリカへの長期遠征も経験しています。この頃にはすでに、プロレスはスポーツというよりはショーになっていました。力道山がアメリカで学んだことを活かしショーとしての面白さを引き出す工夫をしたからこそ、日本にプロレスが根付いたといっても過言ではありません。

なお戦後まもなくの女子プロレスは、キャバレーやストリップ劇場を中心として行われる、キャットファイトのようなお色気要素の強いものであったようです。そのため、力道山から好ましく思われず、彼の働きかけにより1950年に警視庁から禁止令が出されます。一旦、女子プロレスは消滅したのです。しかし、4年後の1994年に在日米軍慰問に訪れた当時のアメリカ女子プロレストップ選手の興行が満員の大盛況だったことを受け、1995年に再び女子プロレスの興行がはじまります。これをきっかけに、多くの女子プロレス団体が誕生しました。

力道山の死後も発展を続けた

力道山 プロレス

力道山は日本のプロレス界において一時代を作り上げたものの、1963年12月に暴力団員に刺されたのが原因で急逝してしまいます。しかし、その後もプロレスの発展は止まりませんでした。

主な担い手となったのがジャイアント馬場とアントニオ猪木です。2人はともに、力道山が立ち上げた団体・日本プロレスに所属するレスラーでした。

しかし、1971年にアントニオ猪木は会社乗っ取りを画策したとして除名処分を受けます。翌1972年には自身の団体・新日本プロレスを旗揚げし、自らも試合に出る傍ら、後進の育成に当たってきました。また、ジャイアント馬場も日本プロレスを離れ、1972年に全日本プロレスを旗揚げしています。

どちらの団体も精力的に活動していましたが、試合の見せ方という点ではかなり特徴が異なります。新日本プロレスが電流爆破などのショーアップ、軍団抗争などを強めに見せるスタイルだったのに対し、全日本プロレスは試合そのものを前面に打ち出すスタイルをとっていました。中継を受け持つテレビ局も、新日本プロレスはテレビ朝日系列、全日本プロレスは日本テレビ系列という明らかな差があります。

多様化と人気の低迷

プロレス

1980年代に入ると、ジャイアント馬場の弟子であるジャンボ鶴田や天龍源一郎、アントニオ猪木の弟子である藤波辰巳、長州力などが台頭してきます。その後、1988年に大仁田厚がFMWを旗揚げしたのをきっかけに、1990年代には比較的小規模なプロレス団体(インディー団体)が次々と現れます。しかし、1990年代後半にはK-1やPRIDEなどの総合格闘技が人気を博し、プロレス人気には陰りが見えてきました。

女子プロレスも、長与千種、ライオネス飛鳥やダンプ松本などのスター選手が出て人気となりますが、1990年代の女子プロレスはとても危険な上に、興行数が多く非常に過酷。その上、不況によりチケットの売上も減少の一途をたどり、現在では多くの選手がプロレス1本では食べていくのがむずかしいといいます。

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プロレスの歴史(海外)

プロレス ゴージャス・ジョージ

世界のプロレスの歴史(主にアメリカ)にも目を向けてみましょう。プロレス史上最古のタイトルマッチが行われたアメリカでは、第二次世界大戦前まではプロレスが娯楽の1つとして親しまれていました。

1911年9月、フランク・ゴッチ対ジョージ・ハッケンシュミット戦で八百長疑惑が発生したのをきっかけに、一時的に人気が急落します。しかし、その後人気が回復し、定期的に興行が行われるようになりました。1933年2月に世界王者となったレスラーのジム・ブローニンは、全米各都市を回ったという記録が残っています。

第二次世界大戦の影響もあり興行が振るわない時期もありましたが、1948年頃から家庭にテレビが急速に普及しだしたのを機に、状況は一変。大スターレスラーであるゴージャス・ジョージとルー・テーズが繰り広げる試合に人々は魅了されました。その後、世界王者認定団体であるNWA、AWA、WWWF、WWAが出現するなど、現在のプロレスに近い形になっていきます。

有名なプロレス技

ここで、有名なプロレス技を紹介します。案外テレビなどで触れる機会も多く、特段プロレスファンではないという人でも、聞いたことのあるものが多いはずです。

ドロップキック

ドロップキック プロレス

その場でジャンプして相手に両足の裏で蹴りを放つ技のことです。メキシコではパターダ・ボラドーラと呼ばれます。プロレスにおける基本技とされ、新人からベテランまで、ほぼすべての選手が試合で用いる技の1つです。それだけに、個々の選手の技量の違いが打点、高さ、美しさの面ではっきりと分かれます。

オカダ・カズチカやジャイアント馬場などがドロップキックを得意としている選手として有名です。

足4の字固め

相手の右膝のあたりに取った左脚の脛を上に乗せ、その上から自分の左脚をかぶせるようにロックする技を言います。足が太いほど締まりも強くなるため、容易には外れません。

往年の名選手、ザ・デストロイヤーが必殺技として用いたことでも有名です。

なお、技がかかったときに、相手の両足の形が数字の4に見えるためこの名前がつきました。英語ではフィギュア・フォー・レッグロックもしくはスピニング・レッグロックと呼ばれます。

ヘッドロック

ヘッドロック プロレス

首を絞めて相手の動きを止める技のことです。ヘッド・チャンスリーや頭蓋骨固めともいいます。さまざまな選手が試合で用いる、プロレスにおいてはごく基本的な技です。自分の手首の突き出ている部分を相手の頬骨にこすりつける、左腕でほお骨を締め上げつつ右腕であごを締め上げる、左で頬を攻め右で鼻を攻めるなど、選手によってやり方は異なります。

ベテランレスラーの藤原喜明が、ヘッドロックを得意とするレスラーとしても有名です。

チョップ

平手で切るようにして鋭く相手を打つ打撃技の1つです。プロレスでは拳を固めての打撃技(パンチ)は反則になるためできません。そこで、代わりになる打撃技として、張り手(ビンタ)や肘打ち(エルボー)などとともに、広く用いられてきました。

チョップを試合で用いた有名な選手と言えば、小橋健太と佐々木健介でしょう。2005年7月19日に東京ドームで行われた試合では、両者が互いに200発を超えるチョップを放ちました。

エルボーバット

折りたたんだ腕を水平にして肘を打ち付ける打撃技の一種です。力の入れ方、タイミング、相手への当て方によって威力が大きく変わるのが特徴です。また、相手に馬乗りになり、相手の頭部を片手で抱えて叩き込む「マウント・エルボー」などの派生技も数多くあります。

プロレスリング・ノアの創始者として知られ、2009年6月に事故で夭逝した名レスラー・三沢光晴が好んで使ったことで非常に有名です。杉浦貴など生前の三沢光晴と縁が深かった選手も好んで使います。

バックドロップ

バックドロップ

プロレスで使われる投げ技の1つで、ベリー・トゥー・バック・スープレックスとも呼ばれます。日本語では岩石落としです。

相手の背後に回ってへその位置に腕を回し、ブリッジをきかせて後ろに投げるのが基本となります。ひねりを加えたり、持ち上げていったん静止したのちに背中から落としたりなど、アレンジを加える選手もいる技です。「鉄人」と呼ばれ親しまれた名レスラー、ルー・テーズの必殺技としても知られています。

スリーパーホールド

柔道でいうところの裸締めです。背後から相手の首に自分の腕を絡ませ、締め上げてギブアップさせる技を指します。頸動脈をふさぐことになるため、技をかけられた側の選手が失神するのも珍しくありません。

毒蛇という物騒なニックネームで知られたプロレスラー、マーク・ルーインが必殺技として用いていました。アントニオ猪木も、1986年2月の藤原喜明との一戦でスリーパーホールドを用いて、同選手を失神させています。

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ラリアット

自分の腕を相手の首元や胸に打ち付ける打撃技の1つです。アメリカではクローズライン、メキシコではアンティプラソと呼ばれます。

ごく一般的な技ですが、どのタイミングで使うかは選手によってまちまちです。つなぎとして使う場合もあれば、一撃必殺の技として試合終盤に持ってくる選手もいます。アメリカ人レスラー、スタン・ハンセンが必殺技として使ったことで有名です。近年はバラエティ番組でもおなじみの長州力も、得意技として試合で用いています。

ボディプレス

マット上で倒れている相手に向かって飛び込み、寝ている相手を腹部から圧殺する技のことです。コーナー最上段から飛び込む「ダイビング・ボディープレス」など、さまざまな派生形があります。

自らの巨体を利用して相手を圧倒するために使う重量級レスラーもいれば、動きが機敏で跳躍力に優れている軽量級のレスラーが相手の動きを封じるために使う場合もある技です。

外国人初の横綱として知られ、その後プロレスラーに転向した曙が、その巨体を活かし、得意技としています。

日本のプロレスのメジャー団体

リング 格闘技

日本には、地域密着型の小規模なものから、多数の選手を抱え大規模なイベントを打つ団体まで、さまざまなプロレス団体があります。比較的知名度が高いメジャー団体を紹介しましょう。

男子プロレス

まず、男子プロレスのメジャー団体から紹介していきます。

新日本プロレスリング

日本で現存する最古のプロレス団体です。全日本プロレスやプロレスリング・ノアなど他団体とも積極的に交流を行っています。1972年1月にアントニオ猪木が創業者となり旗揚げしました。同年3月には大田区体育館で旗揚げ戦が行われています。

かつては自分の感情をレスリングの中で表現する「ストロングスタイル」で有名でした。しかし、現在は「脱・ストロングスタイル」を選手たち自ら提唱しているため、従来ほど激しくはありません。

団体名 新日本プロレスリング(NJPW)
設立年 1972年
特徴 トルコ系レスラー、ユセフ・トルコも旗揚げ時にレフェリーとして参加
公式サイト https://www.njpw.co.jp/

全日本プロレス

1972年に、ジャイアント馬場により設立されました。現存するプロレス団体としては、新日本プロレスに次ぐ歴史を誇ります。2代目タイガーマスクとして知られ、プロレスリング・ノアの旗揚げにも携わった名プロレスラー・三沢光晴や、2023年春までの引退を表明している闘魂三銃士の一人・武藤敬司もかつて社長を務めました。2022年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催する予定です。

団体名 全日本プロレス(AJPW)
設立年 1972年
特徴 現石川県知事・馳浩もかつてレスラーとして所属
公式サイト http://www.all-japan.co.jp/

プロレスリング・ノア

全日本プロレスの代表取締役だった名レスラー・三沢光晴が解任後に設立した団体です。同じく全日本プロレスを退団した25名の選手とレフェリーのマイティ井上とともに、2000年7月に設立、同年8月に旗揚げ戦をしました。現在の所属選手として、グレート・ムタや拳王、船木誠勝などが知られています。試合開始前、休憩中、終了後には所属選手によるサイン会、撮影会を行うなど、ファンサービスの良さにも定評がある団体です。

団体名 プロレスリング・ノア
設立年 2000年
特徴 主要株主は大手インターネット企業のサイバーエージェント
公式サイト https://www.noah.co.jp/

DDTプロレス

1997年に旗揚げされた団体です。DDTは旧称の「ドラマチック・ドリーム・チーム」の略とのこと。プロレスリング・ノアと同様、大手インターネット企業のサイバーエージェントが主要株主となっています。「文化系プロレス」ともよばれるエンターテイメント性の高いユニークな興行を行っているのが大きな特徴でしょう。

バラエティ番組でもおなじみのタレント・ゴージャス松野や、元プロボクサーで俳優・赤井英和の実娘であるモデル・赤井沙希もレスラーとして所属しています。

団体名 DDTプロレスリング
設立年 1997年
特徴 エンターテイメント性の高いユニークな興行
公式サイト https://www.ddtpro.com/ddt

大日本プロレス

1994年12月に小鹿信也(グレート小鹿)が主体となって設立した団体です。1995年3月には旗揚げ戦を横浜文化体育館で行いました。デスマッチ団体を掲げている通り、派手なデスマッチ形式の試合を多く行うのが特徴です。リングの周囲に300本の蛍光灯を立てて行う「蛍光灯300本デスマッチ」はこの団体の名物とも言えます。

団体名 大日本プロレス
設立年 1995年
特徴 2017年に他社と共同で「VRプロレス」の収録試合を実施するなど、先進的な取り組みを実施
公式サイト https://bjw.co.jp/

プロレスリング ZERO1

かつて存在したプロレス団体「プロレスリングZERO-ONE」が2004年に活動停止したことに伴い設立された後継団体「プロレスリングZERO1-MAX(プロレスリング・ゼロワンマックス)」が前身。2009年1月1日に現在の「プロレスリングZERO1(プロレスリング・ゼロワン)」になりました。靖国神社への奉納プロレスを主催したり、いじめ撲滅チャリティープロレスを日本各地で開催したりなど、社会貢献にも力を入れている団体の1つです。

団体名 プロレスリング ZERO1
設立年 2004年 ※前身の「プロレスリングZERO-ONE」は2001年
特徴 公式ファンクラブ「ZERO1 BASE」にて選手とオンラインで直接コミュニケーションが取れるなど、充実したファンサービスを提供
公式サイト https://www.z-1.co.jp/index.html

FREEDOMS

2009年8月佐々木貴により設立。団体名のFREEDOMSは「立場に関係なく、各自が自由にアピールしたいことを行う」という狙いでつけられたとのこと。そのため、統一的なファイトスタイルではなく、メキシコスタイルやお笑いプロレス、デスマッチなどさまざまなスタイルの試合が楽しめます。

団体名 プロレスリングFREEDOMS
設立年 2009年
特徴 蛍光灯、画びょう、ガラス、カミソリ、有刺鉄線、剣山、竹串などさまざまなものを使う、かなり過酷なデスマッチを行う団体として有名
公式サイト http://pw-freedoms.co.jp/

みちのくプロレス

1992年にザ・グレート・サスケが岩手県の地域密着型プロレス団体として立ち上げました。
一度、本社機能を岩手県から宮城県に移しましたが、その後再び岩手県に戻しています。

飛び技を主体としたルチャリブレスタイルの試合を行うため、リング周辺に衝撃吸収用のマットを敷かないなど、独特のスタイルを持つ団体です。

団体名 みちのくプロレス
設立年 1992年
特徴 冬期は本拠地である東北地方での巡業が難しいため、東京、名古屋など他エリアへの巡業を「出稼ぎシリーズ」として行っている。
公式サイト http://www.michipro.jp/

九州プロレス

筑前りょう太が2007年10月に設立した団体です。福岡市東区社領にある本部道場は自動車工場の一角を間借りして活動しています。一般的なプロレス団体の場合、運営元は株式会社であることがほとんどですが、九州プロレスはNPO法人。フリースクールと提携した不登校の中高生支援や高齢者施設、障がい者施設、児童養護施設、幼保園への慰問など、社会貢献にも積極的に取り組んでいるのも大きな特徴です。

団体名 九州プロレス
設立年 2007年
特徴 不登校支援や各種施設への慰問など社会貢献に力を入れている
公式サイト https://www.kyushu-pro-wrestling.com/

大阪ブロレス

1999年にスペル・デルフィンにより設立されました。2001年3月には日本初のリング常設会場「デルフィンアリーナ」をオープン。以降、定期的に試合を開催しています。

七福神の一柱「えびす」をモチーフにした覆面レスラー「えべっさん」も在籍するなど、随所に大阪らしさが盛り込まれた団体です。2022年7月現在の代表取締役は生え抜きレスラー・ゼウスこと大林賢将。ロゴマークデザインは俳優の石坂浩二が担当しています。

団体名 大阪プロレス
設立年 1999年
特徴 「えびす」モチーフの覆面レスラーなど大阪らしさのある団体
公式サイト https://www.osakaprowres.com/home

DRAGON GATE

兵庫県神戸市を本拠地として活動する団体です。前身は、覆面レスラーのウルティモ・ドラゴンが1999年に設立した闘龍門JAPAN(とうりゅうもんジャパン)です。その後、2004年7月4日、団体名をDRAGONGATEに変更し、リスタートしました。

ウルティモ・ドラゴンがメキシコで日本人ルチャドール育成学校「闘龍門(とうりゅうもん)」を主宰していることもあり、ルチャリブレをベースとした試合が特徴的な団体です。当初は他団体との交流に慎重でしたが、現在では提供試合や選手派遣を中心に交流を行っています。

団体名 DRAGON GATE
設立年 2004年
特徴 メキシコのルチャリブレをベースとした試合が特徴的な団体
公式サイト https://www.gaora.co.jp/dragongate/

女子プロレス

次に、女子プロレス団体を紹介します。

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スターダム

元女子プロレスラーの風香と、全日本女子プロレスの広報担当者も務めた実業家・イベントプロデューサーのロッシー小川が立ち上げた団体です。現在はゲームをはじめとしたコンテンツ開発を手掛ける企業グループ・ブシロードの傘下にあります。なお、名前の由来は「スターダムにあがる選手をどんどん輩出したい」という願いから、とのことです。

団体名 スターダム
設立年 2010年
特徴 タレントのビッグダディ(林下清志)の三女・林下詩美が看板選手
公式サイト https://wwr-stardom.com/

アイスリボン

2006年3月に、さくらえみ(プロレスリング我闘雲舞代表)が当時人気を博していたSNS・mixi上のプロジェクトを通じて結成したユニットが前身。かつて存在した全日本女子プロレスやジャパン女子プロレスなど、メジャーなプロレス団体とは違った独自の路線で人気を博してきた団体です。女子プロレスの他団体はもちろん、DDTプロレスリングなど男子プロレス団体とも積極的に交流しています。

団体名 アイスリボン
設立年 2006年
特徴 学生やOLなど、他に職業を持ちながらでも参加し、デビューを目指せるプロレスサークルを運営
公式サイト https://iceribbon.com/

プロレスリングWAVE

ジャパン女子プロレスをはじめさまざまな団体で活動してきた女子プロレスラー・GAMI(二上 美紀子)のプロデュースにより設立された団体。女子プロレス団体として活動していますが、レフェリー候補生に関しては男子も募集しています。「本当に観客に喜んでもらえる波を集め、新たな波を起こすこと」という願いが、団体の名前の由来になっているそうです。看板選手の桜花由美は吉本興業に所属し女優としても活動中です。

団体名 プロレスリングWAVE
設立年 2007年
特徴 「基本的に張り手禁止」という独特のルールがある
公式サイト https://pro-w-wave.com/

東京女子プロレス

2012年に設立、2013年に旗揚げイベントを行った女子プロレス団体です。男子プロレス団体・DDTプロレスリングと同じく、株式会社CyberFight(サイバーエージェント傘下)が運営しています。SKE48に所属する現役アイドルの荒井優希や元アイドル(九州発アイドルLinQ)の伊藤麻希など、タレント性の高い女子プロレスラーが在籍しているのも大きな特徴です。

団体名 東京女子プロレス(TJPW)
設立年 2012年
特徴 プロレス試合と選手によるライブを組み合わせた独自の興行
公式サイト https://www.ddtpro.com/tjpw

Marvelous

女子プロレス界きっての名選手・長与千種が2014年に設立した女子プロレス団体です。

現在はかつてスターダムに所属していたプロレスラーの彩羽匠が代表取締役を務めています。プロレスラーの佐々木健介・北斗晶夫妻の義娘(長男の妻)である門倉凛も、この団体の所属レスラーです。

団体名 Marvelous
設立年 2014年
特徴 代表の長与千種が主となり、社会貢献活動の一環として、道場の敷地内で犬の譲渡会を定期的に開催
公式サイト http://www.marvelcompany.co.jp/marvelous/

グランドスラムとは

プロレス

グランドスラムとは、本来はスポーツにおいて主な試合にすべて勝つことを指します。転じて、プロスポーツ業界において、主要なタイトルを制覇することを指す言葉としても使われるのが実情です。

なお、アメリカにおけるWWEグランドスラムとは、一般的には以下のタイトルをすべて手に入れることを言います。

[男子]

  • WWEヘビー級王座または、WWEユニバーサル王座
  • IC(インターコンチネンタル)王座
  • US王座
  • SmackDown(スマックダウン)またはRAW(ロウ)のタッグ王座

[女子]

  • NXT女子王座
  • 女子タッグ王座
  • SmackDown(スマックダウン)またはRAW(ロウ)女子王座

ただし、あくまで俗称であり、厳密な基準・ルールがあるわけではありません。条件も一定ではなく、王座の吸収などにより変わることがあります。正式な称号や報奨制度もありませんが、容易に達成できることではない以上、それなりの名選手でないと難しいのも事実でしょう。

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日本のグランドスラム

グランドスラムとは、日本のプロレスにおける3大メジャー団体(新日本・全日本・ノア)のタイトルを制覇することです。団体名とタイトル名は以下のように対応しています。

  • 新日本プロレス:IWGPヘビー・ジュニアヘビー級ベルト
  • 全日本プロレス:三冠ヘビー・ジュニアヘビー級ベルト
  • プロレスリングノア:GHCヘビー・ジュニアヘビー級ベルト

歴代達成者(男子)

2022年現在、ヘビー級でのグランドスラムを達成しているのは、佐々木健介、高山善廣、武藤敬司、小島聡の4人のみです。また、ジュニアヘビー級では丸藤正道1人となっています。

名前 達成年 タイトル詳細
佐々木健介 2008年 004年10月IWGPヘビー級ベルト獲得
2007年8月三冠ヘビー級ベルト獲得
2008年9月GHCヘビー級ベルト獲得
高山善廣 2009年 2003年5月IWGPヘビー級ベルト獲得
2009年3月三冠ヘビー級ベルト獲得
2002年9月GHCヘビー級ベルト獲得
武藤敬司 2021年 2008年4月IWGPヘビー級ベルト獲得
2008年9月三冠ヘビー級ベルト獲得
2021年2月GHCヘビー級ベルト獲得
小島聡 2022年 2010年10月IWGPヘビー級ベルト獲得
2009年9月三冠ヘビー級ベルト獲得
2022年6月GHCヘビー級ベルト獲得
丸藤正道 2021年 2010年1月IWGPジュニアヘビー級ベルト獲得
2008年9月世界ジュニアヘビー級王座
2021年6月GHCヘビー級ベルト獲得

プロレス選手

ゴージャス・ジョージ プロレス

日本だけみても、さまざまなバックボーンを持ったプロレス選手が日々活躍しています。また、すでに引退した選手でも、現役時のファイトスタイルが語り草になるのは珍しくありません。そこで、これ以降では主要なプロレス選手を紹介しましょう。

男子プロレス選手(現役)

まずは男子の現役選手から紹介します。

国内

2022年7月現在、日本国内で活躍するプロレスラーを一部紹介します。なお、将来的に引退予定のプロレスラーや正式な引退表明をしていないものの、実質引退状態の選手も含まれる点にご注意ください。

名前 デビュー年 所属団体(※2022年7月現在) 主要タイトル
小島聡 1991年 新日本プロレス WGPヘビー級王座、IWGPヘビー級タッグ王座、NEVER無差別級6人タッグ王座、G1 CLIMAX20優勝、G1 TAG LEAGUE3優勝、G1 TAG LEAGUE7優勝
秋山準 1992年 DDT KO-D無差別、三冠ヘビー、世界タッグ、GHCヘビー、GHCタッグ
丸藤正道 1998年 プロレスリング・ノア GHCヘビー級、GHCタッグ、GHCジュニア・ヘビー級、GHCジュニア・ヘビー級タッグ、グローバル・ハードコア・クラウン無差別級、世界ジュニア、IWGPジュニア、WEWタッグ、KO-Dタッグ
清宮海斗 2015年 プロレスリング・ノア GHCヘビー、GHCタッグ
金丸義信 1996年 新日本プロレス IWGPジュニアヘビー級タッグ王座、世界ジュニアヘビー級王座、GHCジュニアヘビー級王座、GHCジュニアヘビー級タッグ王者
男色“ダンディ”ディーノ 2002年 DDT KO-D無差別級、KO-Dタッグ、KO-D6人タッグ、アイアンマンヘビーメタル級、GAY世界アナル級、IMGP世界ヘビー級、DDT EXTREME級、大森夢フェア認定世界大森級、梅村パソコン塾認定世界コピー&ペースト級、大中華統一四川流無差別級、DJニラ認定世界および史上最高級、DJニラ認定世界および史上最強級、世界JET級、ミッドブレス認定世界ミッドブレス級、UWA世界6人タッグ
マスター・ワト 2020年
(本名および旧リングネームの川人 拓来としては2016年)
新日本プロレス CMLL世界スーパーライト級王座、IWGPジュニアタッグ王座
海野翔太 2017年 新日本プロレス レボリューションランボー優勝
大谷晋二郎 1992年 プロレスリングゼロワン IWGPジュニアヘビー級王座、インターナショナルジュニアヘビー級王座、NWA世界ジュニアヘビー級王座、NWA世界ウェルター級王座、WWF世界ライトヘビー級王座、UWA世界ジュニアライトヘビー級王座、WWA世界ジュニアライトヘビー級王座、英連邦ジュニアヘビー級王座
高山善廣 1992年 高山堂(個人事務所) GHCヘビー級、IWGPヘビー級、三冠ヘビー級 その他多数
武藤敬司 1984年 WRESTLE-1 三冠ヘビー級王座、IWGPヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座  その他多数
内藤哲也 2006年 新日本プロレス IWGPヘビー級王座、IWGPインターコンチネンタル王座、NEVER無差別級王座、IWGPヘビー級タッグ王座、IWGPジュニアヘビー級タッグ王座、G1 CLIMAX 23、G1 CLIMAX 27優勝、NEW JAPAN CUP 2016優勝
蝶野正洋 1984年 フリーランス IWGPヘビー級王座、IWGPタッグ王座、NWAセントラル・ステーツTV王座、WWA世界ヘビー級王座、AGPW北米タッグ王座 その他多数
天山広吉 1991年 新日本プロレス IWGPヘビー級王座、IWGPヘビー級タッグ王座、G1 CLIMAX13優勝、G1 CLIMAX14優勝、G1 CLIMAX16優勝、G1 TAG LEAGUE3優勝、G1 TAG LEAGUE4優勝、G1 TAG LEAGUE7優勝、CWA世界Jr.ヘビー級王座
力道山 1954年 日本プロレス アジアヘビー級王座、インターナショナル・ヘビー級王座、WWA世界ヘビー級王者
大仁田厚 1974年 FMWE(FMW-explosion) NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座、AWA南部タッグ王座、WWA世界ブラスナックル王座、WFDA世界マーシャルアーツ王座、WFDA世界マーシャルアーツタッグ王座
グレート-O-カーン 2017年(本名および旧リングネームの岡倫之として) 新日本プロレス IWGPタッグ王座 、MEMヘビー級王座、SWEタッグ王座、RPWブリティッシュ・タッグ王座
※レスリングオリンピック強化指定選手指定歴あり
※日本格闘技連盟年間最優秀賞選手を2014年に受賞
ロッキー・ロメロ 1997年 新日本プロレス IWGPジュニアヘビー級タッグ王座
鈴木みのる 1988年 新日本プロレス IWGPヘビー級タッグ王座、G1 TAG LEAGUE10優勝、IWGPインターコンチネンタル王座、NEVER無差別級王座

海外

同様に、海外のリングで活躍するプロレスラーのうち、日本でも比較的知名度の高い選手をまとめました。

名前 デビュー年 所属団体 タイトル
リック・フレアー 1972年 NWA殿堂、WCW世界ヘビー級王座、WWF世界ヘビー級王座 その他多数
ジェフ・コブ 2009年 新日本プロレス IWGPタッグ王座、AZWヘビー級王座、APWユニバーサルヘビー級王座 その他多数
クリス・ジェリコ 1990年 新日本プロレス IWGPインターコンチネンタル王座
ブロック・レスナー 2002年 WWE WWEユニバーサル王座、IWGPヘビー級王座、第14代UFC世界ヘビー級王座 その他多数
マーティ・スカル 2005年 新日本プロレス ROH世界TV王座

引退した国内の男子プロレス選手

すでに引退したものの、その戦いぶりが今でも語り継がれるプロレスラーはたくさんいます。主要な選手を紹介しましょう。

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10th year

アントニオ猪木

1943年神奈川県生まれ。1960年に移住先のブラジルで力道山からスカウトされたのをきっかけにプロレスデビュー。新日本プロレスの旗揚げなど功績多数。2010年には日本人初のWWE殿堂入りを果たす。

ジャイアント馬場

ジャイアント馬場

1938年新潟県生まれ。プロ野球選手として活躍していたものの、ケガで断念。1972年に新日本プロレスを旗揚げ。1993年には国内通算5,000試合出場を果たしたものの、1999年1月31日に61歳で他界。2016年には出身地の新潟県三条市から名誉市民の称号を贈られている。

長州力

専修大学在学中からレスリングの選手として活躍し、1972年にはミュンヘンオリンピックに韓国代表として出場(後に日本に帰化)。1974年にデビュー後は、新日本プロレス、全日本プロレスなど多数の団体を舞台に活躍。

2019年6月の引退後はTwitter、YouTube、TikTokなどのSNSでの発信にも力を入れている。

橋本真也

1965年岐阜県生まれ。1984年に新日本プロレスに入門、デビュー。対戦相手をリング上で叩き潰す姿から「破壊王」の異名で呼ばれる。IWGPヘビー級王座を通算20回防衛するなど輝かしい活躍で知られたが、新日本プロレスを解雇されたり、自身が立ち上げたプロレスリングZERO-ONEが活動停止に追い込まれたりなど晩年は不遇を経験。2005年7月11日に脳幹出血により他界。長男の橋本大地も大日本プロレス所属のプロレスラーとして活躍中。

天龍源一郎

1950年福井県生まれ。1963年に大相撲二所ノ関部屋に入門するが、1976年9月に廃業。同年10月にプロレスに転向すべく全日本プロレスに入団し、11月にはデビュー戦に臨む。その後、SWS、WAR、NOAHなど数多くの団体に参戦し、数々の名勝負を繰り広げた。2015年11月15日、両国国技館で引退試合としてオカダ・カズチカとのシングルマッチを行う。現役引退後はタレントとして、数々のテレビ番組にも出演。

藤浪辰爾

1953年大分県生まれ。1971年5月に日本プロレスからデビュー。1978年1月にWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得するなど輝かしい実績を持ち、長年新日本プロレスのエースとして活躍。1999年6月からは5年間にわたり新日本プロレスの代表取締役社長も務めた。2015年3月には日本人選手2人目となるアメリカ・WWEの殿堂入りを果たしている。

高田延彦

1980年新日本プロレス入門後、翌年1981年にデビュー。その後はUWFインターナショナルを経て、総合格闘技イベントのPRIDEへ参戦。無敵を誇ったヒクソン・グレイシーとの激闘など、歴史に残る名勝負を繰り広げる。2002年「PRIDE23」対・田村潔司戦を最後に現役を引退。引退後は格闘技道場の高田道場を運営する傍ら、タレント、コメンテーターとして数多くのテレビ番組に出演。

中西学

1992年開催のバルセロナオリンピックにレスリング日本代表として出場後、同年8月に新日本プロレスに入門。同年10月13日、スコット・ノートン&S・S・マシン戦でデビューする。2009年5月にはデビュー17年にして悲願のIWGP王座初戴冠(第51第王座)。2022年2月22日に東京・後楽園ホールで「中西学引退記念大会」を開催し、27年間のプロレス人生に幕を閉じた。

小橋建太

1967年京都府生まれ。1988年に全日本プロレスからデビューしたが、2000年にプロレスリング・ノアの創設を機に移籍。2001年1月には膝の手術による欠場をしたものの、同年2月には復帰。加えて、2006年6月には腎臓がんが発覚したものの、2007年10月に戦線復帰を果たす。病気やケガを乗り越え活躍を続けたものの、2013年5月に現役を引退。現在は自身が主催する格闘技イベント「Fortune Dream」の収益の一部を公益財団法人「がんの子どもを守る会」に寄付するなど、社会貢献活動も精力的に行う。

飯塚高史

1966年北海道室蘭市生まれ。1985年5月に新日本プロレスに入門。1989年6月には馳浩(現石川県知事)とともに旧ソ連(現在のジョージア)へサンボ留学を経験。同年7月には長州力と組み、第10代IWGPタッグ王者となる。その後もコンスタントに活躍を続けたものの、2001年に試合で首を負傷し長期欠場を余儀なくされる。2008年に復帰後はヒール(悪役)に転向。2019年2月21日に東京・後楽園ホールで引退興行を行った。引退後はアイドルグループ・ももいろクローバーZのイベントに出演するなど各方面で活動。

佐々木健介

1966年福岡県生まれ。長州力に憧れ1985年にジャパンプロレスに入門し、翌1986年2月にデビュー。長州力が新日本プロレスに移籍したのに伴い、1987年6月に移籍。その後、2002年には会社への不信感から新日本プロレスを退団し、フリーランスとなる。2004年度プロレス大賞 MVP、2005年度年間最優秀ベストバウト賞を受賞するなど、輝かしい活躍を見せたが、2014年2月に引退。プライベートでは女子プロレスの名選手・北斗晶の間に2児をもうけ、タレントとしても活躍中。義娘(長男の妻)は女子プロレスラーの門倉凛。

ユセフ・トルコ

1931年にトルコ人の両親の間に樺太で生まれる。樺太が日本統治下にあったときに育ったため、日本語が堪能。1954年に日本プロレスで往路レスラーとしてデビュー後は、数々の名試合を繰り広げる。

日本プロレス末期において、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が対立したときは猪木側につき、1972年3月の新日本プロレス設立にあたってもレフェリーとして参加。しかし、数々のトラブルが原因で1年で辞め、その後はプロレス業界と疎遠になった。晩年は、佐山聡(初代タイガーマスク)が主宰するリアルジャパンプロレスで、時折レフェリーを務めたが、2013年10月に他界。

前田日明

1954年大阪府出身。もともと在日韓国人であったものの、1983年には日本に帰化している。1977年に佐山聡の目に留まったことがきっかけで新日本プロレスに入門し、翌1978年にデビュー。その後はUWFへの移籍を経て、業務提携の形で新日本プロレスに復帰したり、自らが主導してリングスを設立したりと精力的に活動。1999年2月には引退試合としてロシアのレスリング選手であるアレクサンダー・カレリンと対戦。引退後は、「不良」を対象にしたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」を立ち上げたりしている。

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10th year

引退した海外のプロレス選手

プロレス

日本でも活動し、観客を魅了した外国人プロレスラーを紹介します。

カール・ゴッチ

1924年ベルギー生まれ。1961年に日本プロレスの第3回ワールドリーグに参加するために初来日。1968年には日本に移住し、日本プロレスにコーチとして参画した。1972年1月の新日本プロレス設立の際も、選手兼ブッカーとして参画。その後、アメリカに帰国し、フロリダ州タンパ市に自身の道場「ゴッチ道場」を開き、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明など後輩レスラーの育成にあたった。

ハルク・ホーガン

1953年アメリカ・ジョージア州生まれ。1977年に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーとしてデビュー。1980年から1983年には当時の所属団体、WWFと提携していた新日本プロレスの試合にも登場。その後、1993年にも再来日を果たしている。得意技がアックスボンバーだったことから、日米レスリングサミットでスタン・ハンセンと対戦が決まった時は「アックスボンバー一番、ウエスタン・ラリアット二番」とアピールした。

※スタン・ハンセンの得意技がウエスタン・ラリアット。

アンドレ・ザ・ジャイアント

1946年フランス生まれ。18歳の時にパリでアンドレ “ザ・ブッチャー” ロシモフとしてデビュー。1970年2月には国際プロレスの試合のため初来日を果たす。

そのとき知り合ったバーン・ガニアに見込まれ北米にも進出。1973年にはアンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、世界中のさまざまな団体を定期的に短期参戦して回る。これは契約していたピンス・マクマホン・シニアの考えによるもの。1980年代中期頃から膝や腰を痛め、全盛期ほどの活躍はできなくなる。1990年にWWFを退団後は試合の機会が減少したが、全日本プロレスではジャイアント馬場とタッグを組み「大巨人コンビ」として活動した。父親の葬儀への出席のためにフランスを訪れていた1993年1月、フランス・パリで死去。死後、功績によりWWF(現:WWE)殿堂入りを果たした。

ブルーザー・ブロディ

1946年アメリカ生まれ。もともとはフットボール選手として、NFLチーム(ワシントン・レッドスキンズ)で活動していたが、膝を痛め引退。その後プロレスに転向し、1974年に本名のフランク・グーディッシュとしてデビュー。1976年にはリングネームをブルーザー・ブロディに改名した。全日本プロレス、新日本プロレスなど、日本のプロレス団体の試合にも多数出場。1988年7月16日、プエルトリコへの遠征中に、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスと口論になり、腹部をナイフで刺される。その時の傷が原因で、翌7月17日に死去。死後、2019年にはWWE殿堂(レガシー部門)入りを果たしている。

アブドーラ・ザ・ブッチャー

1941年カナダ生まれ。1960年代はカナダ各地を主戦場として活動していたが、1970年代には日本に主戦場を移す。初来日は日本プロレスの8月興行「サマーシリーズ」。1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを立ち上げると、悪役として活躍した。1984年5月8日、川崎市体育館で行われていた新日本プロレス「第4回MSGシリーズ」にユセフ・トルコと一緒に現れ、そのまま新日本プロレスに移籍。しかし、1987年11月には全日本プロレスに復帰している。一時、ベビーフェイスに転向したものの、1996年に東京プロレスに突如移籍して以来はかつての悪役路線に戻った。2012年1月2日、全日本プロレス「新春シャイニング・シリーズ」開幕戦において現役引退を表明。

テリー・ファンク

1944年、プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男としてアメリカに生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共にレスリングの薫陶を受ける。1970年初来日。1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加して以降、看板外国人選手として活躍。1983年8月31日に全日本プロレスのリングで現役を引退後、翌1984年8月に復帰。1985年にはWWFと契約してプロレスラーとして活動したが、膝を壊して再び引退し、以降は俳優活動をメインに行っていた。2009年には兄のドリー・ファンクとともにWWE殿堂入りを果たしている。

ドリー・ファンク・ジュニア

1941年アメリカ生まれ。弟のテリー・ファンクとタッグチーム「ザ・ファンクス」を組んで活躍。

1969年2月11日にジン・キニスキーを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得、アメリカを代表するレスラーとなる。1974年にジャイアント馬場の団体である全日本プロレスに参戦。その後、常連選手としてアブドーラ・ザ・ブッチャーやブルーザー・ブロディなどの多数の外国人名選手とも対戦。選手として活動する傍ら、全日本プロレスへの外国人レスラーのブッカーとして活動したり、指導者として数多くの後進の育成に当たったりもした。2008年3月1日、全日本プロレス両国国技館大会で引退試合を実施。2009年4月には弟のテリー・ファンクとともにWWE殿堂入りを果たしている。

女子プロレス選手(現役)

男子だけでなく、女子にも魅力的な選手が多数存在しています。ここでは、比較的知名度が高かったり、独特のファイトスタイルで人気を博していたりする現役の女性選手を紹介しましょう。

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10th year

国内

現役で活躍する女子プロレス選手の一部を紹介します。

名前 デビュー年 所属団体 タイトル
桃野美桜 2016年 Marverous 第22&24代WAVE認定タッグ王座、第11代センダイガールズワールドタッグチームチャンピオンシップ
朱崇花 2015年 フリーランス 第31代インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座、第12代W.W.W.D認定世界シングル王座、第5代BEYOND THE SEA SINGLE王座
赤井沙希 2013年 DDT 2014年度プロレス対象新人賞、東京女子プロレスTOKYOプリンセスタッグ王座、DDTプロレスリングKO-D6人タッグ王座
門倉凛 2016年 Marverous 第17代AAAWタッグ王座、第20代WAVE認定タッグ王座、第25代WAVE認定タッグ王座、第11代センダイガールズワールドタッグチームチャンピオンシップ
林下詩美 2018年 スターダム 第13代ワールド・オブ・スターダム、第15代&18代ゴッデス・オブ・スターダム、第8回GODDESS OF STARDOM~タッグリーグ戦~優勝

海外

海外の女子プロレスラーのうち、日本でも比較的知名度の高い選手をまとめました。

名前 デビュー年 所属団体 タイトル
ビアンカ・ベレアー 2016年 WWE WWEロウ女子選手権、WWEスマックダウン女子選手権
デオナ・パラッツォ 2012年 Impact Wrestling DCW女子選手権、ECWA女子選手権、GCW女子選手権、インパクトノックアウト選手権
シャーロット・フレアー 2013年 WWE WWEスマックダウン女子王座、WWE女子王座 / WWEロウ女子王座、グランドスラム(女子)達成

引退した国内の女子プロレス選手

すでに引退したものの、さまざまな人の記憶に残る名勝負を繰り広げた女子プロレスラーの一部を紹介します。

ダンプ松本

1960年埼玉県生まれ。1980年に本名の松本香で全日本女子プロレスからデビュー。1984年にリングネームをダンプ松本に変更し、クレーン・ユウと共にヒール軍団『極悪同盟』を結成。竹刀などの凶器を振り回す過激なファイトスタイルで人気を博す。引退後は格闘技イベントへの出演・開催を行う傍ら、タレントとしても活動。彼女の半生を描いたドラマ「極悪女王」が、2023年より動画配信サービス「Netflix」で配信されることが決定している。

プラム麻里子

1967年東京都生まれ。本名は梅田麻里子。1986年にジャパン女子プロレスの第一期生として入門、デビュー。その後、1992年にはJWP女子プロレスの旗揚げに参加した。1997年8月15日、広島県広島市で行われたタッグマッチで、対戦相手OZアカデミーの尾崎魔弓からのライガーボムによる攻撃を受け負傷。意識不明の重体となり、翌日、急性硬膜下出血並びに脳挫傷により急逝した。

豊田真奈美

1971年島根県生まれ。1987年8月に全日本女子プロレスからプロデビュー。試合ではプランチャなどの華麗な飛び技を得意としたことから「飛翔天女」と呼ばれた。JWP女子プロレス、GAEA JAPAN、OZアカデミー女子プロレス、ワールド女子プロレス・ディアナ、アイスリボンなど、各団体すべてで王座獲得。輝かしい戦績と華やかなルックスで人気を博したものの、首と肩の不安から2017年11月3日の引退興行「プロレス・豊田真奈美30周年記念興行~飛翔天女引退~」をもって現役を引退。

ブル中野

1968年埼玉県生まれ。1983年に全日本女子プロレスに入門し、同年9月23日に本名の中野恵子でプロデビュー。1985年にダンプ松本率いるヒール軍団「極悪同盟」に加入し、リング名をブル中野に改名した。1988年にダンプ松本が引退した際は自身をリーダーとした「獄門党」を結成し、ヒールとして活動。1990年1月4日にはWWWA世界シングル王座決定トーナメントで西脇充子を下して優勝し、第37代王者に輝く。その後3年間にわたりチャンピオンとして全日本女子プロレスの屋台骨を支えた活躍が評価され「女帝」と呼ばれるようになった。1997年に左ひざ靱帯断裂の大けがが原因で引退。引退後はプロゴルファーを目指すも断念。以降、バーを経営したり、タレントとして芸能・公演活動を行ったりなど、多方面で活躍中。

アジャコング

1970年東京都生まれ。中学校卒業後全日本女子プロレスへ入門し、1986年9月にデビュー。

その後、1997年に全日本女子プロレスを退団後は、フリーランスを経て、OZアカデミーやプロレスリングWAVE、DDTプロレスリングなど多数の団体に参戦。2020年にはプロレス団体・超花火プロレスの代表取締役にも就任している。プロレスラーとしての活動の傍ら、芸能事務所・WAHAHA本舗に所属し、タレント、女優としての活動も精力的に行っている。

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10th year

北斗晶

1967年埼玉県生まれ。1985年6月に結婚前の本名・宇野久子として全日本女子プロレスからデビュー。デビュー当時から連戦連勝、デビュー翌年の1986年には全日本ジュニア王座を奪取する。1987年には首の骨を折る重傷を負い長期欠場の憂き目にあうが、その後見事復帰を果たす。1988年にはリングネームを北斗晶に変更。1992年からはヒールに転身し、LLPWの神取忍と抗争を繰り広げたことから、デンジャラスクイーンと称された。2002年4月7日、横浜文化体育館での試合をもって現役を引退。その後はタレントとして数多くの番組に出演。プライベートでは1995年にプロレスラーの佐々木健介と結婚し、2児をもうけている。

義娘(長男の妻)は女子プロレスラーの門倉凛。

長与千種

1964年長崎県生まれ。中学卒業後に全日本女子プロレスに入門し、1980年8月にデビュー。デビュー後も選手が多く試合に出してもらえなかったり、家賃を滞納してアパートを退去させられたりなど苦難が続く。その後、1984年8月にライオネス飛鳥と組んだタッグチーム「クラッシュギャルズ」が女性ファンの人気を博し、一大ブームとなる。しかし、会社側との方針の違いから、1989年に突如一時引退。タレント活動を経て1993年11月に現役に一時復帰。1995年にはGAEA JAPANを設立。2000年にはライオネス飛鳥とコンビを再結成するなど精力的に活動するが、2005年4月10日にGAEA解散と共に再び引退した。

神取忍

1964年神奈川県生まれ。中学時代からはじめた柔道で才能を発揮し、全日本選抜柔道体重別選手権3連覇など輝かしい戦歴を残す。その後、1986年にジャパン女子プロレスに入団、プロレスに転向する。看板レスラーとしてジャッキー佐藤や北斗晶、ブル中野らと激闘を繰り広げ、日本の女子プロレス界を支えた。現在は風間ルミが設立した女子プロレス団体・LLPW-Xで代表取締役を務める。

ジャガー横田

1961年東京都生まれ。中学卒業後全日本女子プロレス入りし、1977年デビュー。身長160センチとプロレスラーとしては小柄であるものの、ストロングスタイルの戦いぶりで観客を魅了。第29代・31代WWWA世界シングル王者など数々のタイトルを獲得。1986年2月15日に引退試合を行い一度引退したものの、1995年に正式復帰する。その後、1998年12月26日に2度目の現役引退。引退後はワールド女子プロレス・ディアナをはじめとした各女子プロレス団体のリングに上がるとともに、フリーランスの立場で後進の指導にもあたる。タレントとしても、夫である開業医・木下博勝医師とともに活躍中。

海外

海外にも、『史上最高齢の現役女子レスラー』と呼ばれWWE殿堂入りも果たしたファビュラス・ムーラや、同じく殿堂入りのメイ・ヤング、女子ながら男子の試合で活躍したチャイナ、引退して時間が経っても人々の記憶に残る女子プロレスラーがたくさんいます。

覆面レスラー

プロレス

覆面レスラーとは、覆面=マスクで頭部や顔などの一部またはすべてを覆って活動するレスラーを指します。名前に関しても、本名ではなくリングネームを使って正体も隠すのも珍しくありません。マスクマンと呼ばれる場合もあります。

タイガーマスク

名前の通り、トラをモチーフにした覆面をつけたレスラー。

もともとは梶原一騎原作の漫画「タイガーマスク二世」とのタイアップ企画として誕生したが、独立したプロレスラーとして人気を博した。2022年7月現在のタイガーマスクは4代目。過去には佐山聡(初代)、三沢光晴(2代目)などの名選手もタイガーマスクに扮している。

ウルティモ・ドラゴン

本名は浅井嘉浩。名前の通り、龍をモチーフにしたマスクをかぶっている、ルチャリブレ殺法を得意とするレスラー。1987年にメキシコに渡り、同年プロデビュー。その後、ユニバーサル・プロレスリングやSWS、WARなど多数の団体でレスラーとして活躍。1997年には後進を育てるべく、メキシコ・ナウカルパン市にルチャドール養成学校「ウルティモ・ドラゴン・ジム」を設立し、自身の団体・闘龍門の旗揚げ戦を行った。1999年には兵庫県神戸市に闘龍門JAPANを設立したが、その後DRAGON GATEに改称して闘龍門から独立したため、ウルティモ・ドラゴンは別個に活動を行う。しかし、2019年にはDRAGON GATEに初参戦し、その後最高顧問および特別契約選手として入団を果たした。

獣神サンダー・ライガー

永井豪原作のアニメ「獣神ライガー」をモチーフにした覆面をかぶっているレスラー。新日本プロレス所属のレスラー・山田恵一が扮している。もともとはアニメ「獣神ライガー」とのタイアップ企画として始まったが、好評だったためその後も覆面レスラーとして活動を継続。IWGPジュニアヘビー級王座、IWGPジュニアヘビー級タッグ王座など数々のタイトルも手にする。2006年11月からは、DRAGON GATEにも定期参戦。2020年1月4日、5日の東京ドーム大会、1月6日の大田区総合体育館でのセレモニーをもって現役引退。現役引退後も、プロレス解説者、タレントとして覆面をかぶり続けて活動している。

コマンド・ポリショイ

覆面女子プロレスラー。2019年の引退時はPURE-J女子プロレスに所属していた。1991年11月にジャパン女子プロレスからボリジョイ・キッドとしてデビュー。1997年に試合中の事故で急逝したプラム麻里子の試合では、タッグパートナーを務めていた。そのため、対戦相手だった尾崎魔弓・天野理恵子が属するOZアカデミーが主催する追悼興行「プラムの花咲くOZの国」には毎年参戦。現在もPURE-Jの運営会社、株式会社PURE DREAM代表取締役社長を務める。大阪市淀川区の児童養護施設「博愛社」出身という来歴を持ち、全国の児童養護施設、障害者施設、高齢者施設への慰問活動なども積極的に行っている。

ザ・グレート・サスケ

歌舞伎の隈取をモチーフにしたマスクを使う覆面レスラー。

1990年に本名の村川正徳でユニバーサル・プロレスリングからデビュー。その後、メキシコに遠征したのを機に覆面レスラーとなり、1992年8月からはザ・グレート・サスケを名乗る。1992年10月に地域密着型プロレス団体・みちのくプロレスを設立し、翌1993年3月には旗揚げ戦を行った。みちのくプロレスの代表取締役社長を2003年まで務める。岩手県議会議員に当選し一時退くが、2009年8月には復帰した(現在の代表取締役社長はレスラーの新崎人生)。

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スーパーストロングマシーン

新日本プロレスに登場した覆面レスラー。1984年に平田淳嗣が扮したのがはじまり。のちに、同じ覆面・コスチュームに身を包んだ2号、3号、4号が登場し、軍団を結成した。2019年には別団体であるDRAGON GATEで「ストロングマシーン・J(平田淳嗣の実子)」がデビュー、さらに「ストロングマシーン軍団」が登場した。

トルコに縁深い日本のプロレス選手「ユセフ・トルコ」

トルコ 日本 旗

名前 ユセフ・トルコ(本名:ユセフ・オマー)
生没年 1931年5月23日〜2013年10月18日(82歳)
出身 樺太豊原市(現ユジノサハリンスク)
プロレスデビュー 1954年
著名な家族 兄:オスマン・ユセフ(俳優)

実は、日本のプロレス界でも、かつてトルコにルーツを持つ選手が活躍していました。

それがユセフ・トルコ(本名:ユセフ・オマー)です。オスマン朝の崩壊に伴い、トルコから亡命してきた両親のもと、樺太豊原市(現在のロシア・ユジノサハリンスク)に生まれました。その後、東京(代々木上原)や長野(軽井沢)で生活します。

プロレス以外のところでは、コメディアンの由利徹に弟子入りし、喜劇俳優としても活動していました。自身のルーツであるトルコに関する活動も精力的に行っていたのも特筆すべき点でしょう。在日トルコ人組織や在日イスラーム教徒組織においても要職を担っていたとのことです。

また、ユセフ・トルコを語る上で欠かせないエピソードが1つあります。1990年12月、イラク大統領のサダム・フセイン(当時)は在留日本人を人質に取るという大事件が起きました。

当時、国会議員をつとめていたレスラー・アントニオ猪木は人質の解放を求めて、単身でイラクに渡航。交渉の結果、人質が帰国できる見込みが立ったものの、日本の航空会社はチャーター便の派遣を拒否したのです。そこで、ユセフ・トルコが現地の航空会社・トルコ航空(現:ターキッシュエアラインズ)と交渉し、チャーター便の手配にこぎつけました。

エルトゥールル号遭難事件から始まったトルコと日本の深い関係とは?

柔拳で格闘技デビュー

いわば、ユセフ・トルコは日本とトルコの架け橋としても活躍した人物と言っても過言ではありません。そんな彼が、どのようにしてプロレスと関わるようになったのかについても、触れておきましょう。

1949年に、東京の小学校時代の同級生から柔道とボクシングの異種格闘技(柔拳)興行への参加を持ち掛けられたのをきっかけに、格闘家としてデビュー。1950年にはトルコ人やトルコ系タタール人の友人たちと「トルコ軍団」を組織し、外国人格闘家として日本各地での興行に参加しています。その時は、ダイナマイト・ジョージというリングネームを使っていました。

力道山と出会いプロレスの道へ

1951年に日本プロレス史における重要人物でもあるレスラー・力道山と知り合い、翌1952年には自身もプロレスに転向します。1954年8月には日本プロレスのレスラーとなり、「ユセフ・トルコ」というリングネームで活動するようになりました。柔拳時代は自身のことをアメリカ人と自称していましたが、レスラーになってからはトルコ人として活動しています。

その後、アントニオ猪木が新日本プロレスを立ち上げた際、レフェリーとして参加します。アントニオ猪木が「熊殺し」とも呼ばれた格闘家・ウイリー・ウイリアムスとの一戦に臨んだときも、レフェリーとして立ち会いました。晩年には対談集「プロレスへの遺言状」も出版しています。

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プロレス関連の著名人

プロレスの試合を盛り上げるのは、何も選手ばかりではありません。その場の熱狂を自身の言葉で伝えるリングアナも欠かせない存在です。

ニュースキャスターとしても有名な古舘伊知郎は、かつてはテレビ朝日の社員として新日本プロレスの実況を担当していたアナウンサーでした。彼と組んで実況をしていたのが、かつて新日本プロレスの現場責任者・コーチも務めた山本小鉄です。2人の実況解説が、新日本プロレスの全盛期を支えていました。

一方、日本テレビのアナウンサーだった倉持隆夫も、全日本プロレスの実況を担当し、独特の「倉持節」でファンを熱狂させていました。彼と組んで実況をしていたのが、東京スポーツ新聞社の記者であった山田隆です。

また、新日本プロレスの正社員という来歴を持つリングアナとして田中ケロがいます。彼の試合前の前口上は、試合を盛り上げる要素の1つとして数多くのファンに愛されてきました。新日本プロレス退団後も、プロレスの試合はもちろん、さまざまなイベントを司会として盛り上げています。

プロレス雑誌の編集者も、プロレスファンに情報を提供する存在として欠かせません。有名な編集者の一人に、ターザン山本がいます。かつてはベースボール・マガジン社の社員として「週刊プロレス」の編集長を務めましたが、退社後はフリーランスライターとして複数のプロレス・格闘技雑誌に関わっています。

主要なプロレスメディア

他のスポーツと同じように、プロレスにも専門メディアが存在します。特に、以下の4つのメディアがプロレスファンの間では有名です。

名称 概要
青空プロレスNEWS ネットメディア。新日本プロレス・AEWなどのプロレス最新速報ニュースを紹介。
伊賀プロレス通信24時 新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリングノア、DDTなどさまざまな団体の試合をはじめとした情報を紹介するWebメディア。
週間プロレス(週プロ) ベースボール・マガジン社発行する週刊のプロレス雑誌。電子版は「週刊プロレスmobileプレミアム」でも読める。
ワールドプロレスリング テレビ朝日系で毎週土曜(一部地域を除く)に放送されているプロレス情報番組。
主に新日本プロレスの試合の模様を紹介。
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