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シュリーマンがトロイ遺跡を発掘した軌跡とは?生涯や人物像を徹底解説!

更新日:2023.02.27

投稿日:2022.08.31

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トロイ博物館 トルコ

世界史の授業に出てくる人物にハインリヒ・シュリーマンという考古学者がいます。シュリーマンは、北ドイツで生まれ幼少期から貧しい生活を送りながらも商人として独立、その後は複数の事業で成功した実業家です。その後、どのような経緯でトロイ遺跡を発見し、どのような功績を遺したのでしょうか。

この記事では、2022年に生誕200周年を迎えるシュリーマンの生涯や功績、その人物像などについて紹介します。

ハインリヒ・シュリーマンはどのような人物?

シュリーマン トロイ遺跡 発掘

ハインリヒ・シュリーマン(1822年1月6日~1890年12月26日)は、ドイツ人の実業家であり、事業に成功をした後に考古学者となった人物です。シュリーマンは、ホメロスの叙事詩『イーリアス』に登場するトロイア王国の遺跡や、ミケーネ文明が栄えたミケーネ遺跡、ティリンス遺跡の発見に成功しました。これまで痕跡が見つからず謎に包まれていた時代の遺跡を発見し、古代ギリシャ文明の解析に大きく貢献したことで有名です。

シュリーマンは、幼少期に本で読んだ神話の舞台となった都市の発見を夢見ており、大人になってもその情熱を持ち続け、40代から考古学の勉強を始めたということを自伝『古代への情熱』の中で語っています。ついにトロイ遺跡を発掘し、子供の時からの夢を叶え、彼が成し遂げた功績を考えるとシュリーマンはサクセスストーリーを成し遂げた人物と言えるでしょう。しかし一方で、シュリーマンは功名心が強く虚言癖があり、考古学の知識や技術も未熟であったと言われています。遺跡発見の偉大な功績と共に、批判される面も持っているのです。

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シュリーマンの生涯

シュリーマン

40代から考古学の勉強を始めたシュリーマン。どのような経歴をたどってトロイ遺跡を発見したのでしょうか。シュリーマンの誕生からトロイ遺跡の発見までの生涯を解説します。

シュリーマンの誕生

ハインリヒ・シュリーマンは、1822年1月6日にメクレンブルク・シュヴェリーン公国(現在のドイツ北部のメクレンブルク=フォアポンメルン州)のノイブコーという小さな村で生まれました。父親は牧師をしており、母親の他に9人の兄弟がいる大家族です。裕福な家庭で生まれ育ったわけではありません。

生まれた翌年にノイブコーの近くのアンカースハーゲンに家族で引越し、現在ではこの村が彼の故郷として知られています。アンカースハーゲンにはシュリーマンの博物館が建てられています。

古代ギリシャの物語に出会った幼少期

トロイ 戦争 絵画

シュリーマンは、幼少期に父親が読んでくれたホメロスのオデュッセイアやイーリアスなどの物語に心を躍らせ、7歳のクリスマスには世界史の絵本をプレゼントされました。それからというもの、アキレスやオデュッセウスなどの英雄が活躍する話に夢中になり、舞台となったトロイア王国を見つけ出したいと強く思ったと自伝で語っています。

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しかし、シュリーマンが9歳の時に母親が亡くなり、一家は貧しかったためシュリーマンは叔父の家に預けられました。11歳で中等学校に入学したものの、仕送りをしていた父親が学費を支払うことが出来なくなり、14歳で退学することになります。若い時期に専門的な教育を受けられなかったことが、後に考古学者や歴史家との間で軋轢が生まれることになるのです。

語学習得方法と事業を学んだ青年期

学校を1836年に退学した後、食料品店で見習いとして働きましたが、病気により辞職し、1841年に19歳でベネズエラ行きの汽船の船員となりました。しかし航海12日目に船が難破し、他の生存者と共にオランダの海岸に流れ着きます。そして、そのままオランダのアムステルダムで暮らすこととなり、配達員や事務員、簿記係として働きました。

22歳の時に貿易会社の職につき、2年後の1846年にロシアのサンクトペテルブルクに駐在することになります。そして、貿易商の仕事で必要なロシア語とギリシャ語を習得しました。なんとシュリーマンは、13カ国語(一説には15カ国語とも)を習得したと言われており、貿易商の仕事の中で効率的な言語習得の方法を習得したそうです。

アメリカとロシアの事業で大成功を収める

シュリーマン

当時ロシアにいたシュリーマンは、1850年、ゴールドラッシュの恩恵を受けてアメリカで裕福になっていた兄弟が亡くなったという連絡を受けました。翌年の1851年、シュリーマンはアメリカに行き、カリフォルニアのサクラメントで銀行業を始めたのです。そして、金の売買によってわずか半年で巨額の利益を上げることができました。1852年にアメリカでの事業を売却しロシアに戻り、同年にロシア人のエカテリーナと結婚。3人の子宝にも恵まれました。

ロシアでは藍染めのビジネスを行い成功、1854年に始まったクリミア戦争で必要な弾薬の需要が高まり、その原料となる鉛や硫黄などをロシア政府に売ることによって、さらに多くの利益を上げることが出来ました。

考古学者としての始まり

1858年に36歳になったころには、仕事をしなくても暮らしていけるほどの十分なお金を得ていたシュリーマンは、これまで事業に使っていた時間を考古学に使うようになります。

1866年にパリの大学で約1カ月、1869年にはドイツの大学で学んでトロイ遺跡に関する論文で博士号を取得したのです。この時期、研究などで家を空けることが多くなり、自分と一緒に外国に行くことを拒んだ妻とは1869年に離婚しました。しかし、ギリシャに移住して出会った17歳の若いギリシャ人女性ソフィアと再婚します。

トロイ遺跡とミケーネ文明の発見

トロイ遺跡 トルコ 世界遺産

ギリシャのイタキ島での初めての発掘作業を経て、妻のソフィアとトルコに遺跡発掘調査の旅に出ました。そして1870年にトルコのヒサルルクの丘の発掘を開始し、1871年に何層からにもなる都市遺構を発見したのです。これこそが探し求めていたトロイ遺跡でした。トロイ遺跡の発掘を継続しながら、ギリシャにあるミケーネ遺跡とティリンス遺跡の発掘を行い、考古学史に残る大きな功績を挙げることに成功します。

1890年に居住していたアテネからドイツとフランスへの旅に出かけましたが、以前より患っていた耳の炎症が悪化し、アテネまでの帰路の乗船地であるイタリアのナポリのホテルで1890年12月26日に急死してしまうのです。

シュリーマンの遺体はギリシャに帰り、アテネの第一墓地に埋葬されました。また、改装されたシュリーマンの邸宅は現在、アテネ造幣博物館となっています。

シュリーマンの偉大な功績!発見した3つの遺跡

トロイ遺跡 トルコ 世界遺産

実在が疑われていた神話上の都市トロイアと、ギリシャ文明の歴史上で空白となっていたミケーネ文明の遺跡を発見したことで、シュリーマンはギリシャ考古学に大きく貢献しました。

このように、シュリーマンが発見した遺跡はトロイ遺跡の他にも、ミケーネ遺跡、ティリンス遺跡があります。ここでは、シュリーマンが発見した遺跡の詳細について解説します。

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世界を驚かせたトロイ遺跡の発見

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トロイアが伝説上の都市ではなく、実在した都市であると信じていたシュリーマンは、事業の成功で蓄えた資金を元に、現在のトルコであるオスマン帝国で本格的な発掘作業を始めます。現在のトロイ遺跡の南にあるピナルバシュという地域がトロイ遺跡であるという噂を信じて、まずはこの地域を発掘しましたが不発に終わりました。

その後、トロイ遺跡を探していたフランク・カルヴァートというイギリスのアマチュア考古学者と出会います。彼のアドバイスで次の発掘場所はエーゲ海沿岸地方のヒサルルクの丘に決めたのです。

1870年に無許可でヒサルルクの丘の発掘を開始し、翌年に許可を取得し私財を投じて大規模な発掘を行いました。そして深く掘り進むと、青銅器時代からローマ時代までの9層からなる都市遺構を発見しました。姿を現した城壁や出土品などから、シュリーマンはここが伝説の都市トロイアであると考え、トロイア王国はおとぎ話などではなく実在したと公表します。

シュリーマンは、数多くの財宝が出てきた最下層から2番目にある第2都市をトロイアであると発表しました。しかし、実際には第2都市は紀元前2600年~2250年の都市となり、トロイア王国の時代よりはるかに古い時代の都市だったのです。後年の研究で、第7層Aから出てきた大火災の跡や戦争による虐殺の痕跡から、紀元前1300年~1190年の第7都市がトロイア王国であることが分かっています。

名称 トロイ遺跡(Archaeological Site of Troy)
住所 17100 Kalafat/Çanakkale Merkez/Çanakkale
休館日 無し ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館
営業時間 8:00~19:00(4月から10月)、8:30~17:30(11月から3月)
入場料 60 TL(約740円)、8歳未満の子供は無料。
トロイ博物館とのセット券:100 TL(約1,240円)
ウェブサイト https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=TRV01&DistId=TRV

プリアモスの財宝の発見

トロイ遺跡の発掘を進めていた1873年に、シュリーマンは最下層から2番目地層で多くの黄金の装飾品を発見しました。これらはトロイア王国時代の財宝であるとシュリーマンが主張し、トロイア王の名前からプリアモスの財宝と名付けられたのです。発掘された銅の盾、銀の壺、金の指輪、金のカップなどの財宝はオスマン帝国に無断でシュリーマンによってギリシャに運ばれます。

ギリシャに持ち出された財宝は、ヨーロッパ各国を渡り、第二次世界大戦末期にソ連軍が手に入れました。そして現在ではモスクワにあるプーシキン美術館でプリアモスの財宝は展示されています。

アガメムノーンが統治したミケーネ遺跡の発見

アガメムノンのマスク

トルコでトロイ遺跡の発見をし、トロイア戦争が実際にあったと確信をしたシュリーマンは、トロイア戦争でギリシャ軍の総大将を務めたアガメムノーンの墓の発掘を次の目標としま1876年にギリシャのペネポネソス半島の北部で発掘を行い、巨大な石で作られた都市の遺跡を発見しました。2頭の獅子が向き合っている獅子門や2重の壁で囲まれた円形墳墓Aなどが見つかり、アガメムノーンが治めたミケーネ王国の遺跡であると確信したのです。

円形墳墓Aからは合計14キロの黄金の副葬品が出土し、ホメロスが「黄金に富むミケーネ」と表現をしていたことの裏付けとなりました。その副葬品の中には、黄金で作られた葬儀用の仮面も含まれていたのです。

シュリーマンはこの円形墳墓Aが、アガメムノーンの墓で間違いないと考え、黄金のマスクはアガメムノーンのマスクと名付けます。しかし、最新の研究で、仮面は紀元前1500年頃のものとされ、アガメムノーンの時代から300年ほど前のものであることが分かっています。アガメムノーンのマスクを含むミケーネ遺跡の副葬品は、アテネにある考古学博物館に展示されています。

名称 アテネ国立考古学博物館(National Archaeological Museum of Athens)
所在地 44 Patission St., Athens
アクセス 地下鉄M1・M2線のオモニア(Omonia)駅から徒歩10分程度
定休日 なし
休業日 1/1、3/25、イースター日曜、5/1、12/25、26

巨石に囲まれたティリンス遺跡の発見

シュリーマンは62歳になり、1884年にミケーネ遺跡の南に15㎞ほど行った場所で発掘を行いました。その場所こそがホメロスが「強力な壁に囲まれたティリンス」と語っていたティリンスの遺跡でした。ティリンスは英雄ペルセウスが統治した町と言われ、ペルセウスのひ孫のヘラクレスの生誕の地であると言われています。

ホメロスの言葉通り、巨石が積み上げられた城壁や巨石を組み合わせたトンネルが発掘されました。王宮の跡地からは、猟犬による猪狩りを描いたフレスコ画や、馬が引く戦車に乗った人物の壁画が出ています。ティリンス遺跡の発見によりミケーネ文明の存在が明らかとなり、その後、ミケーネ文明の前に栄えたクレタ文明の解明に繋がったのです。

シュリーマンの功績に影を落とした功名心と虚言癖

シュリーマンは自伝で多くのエピソードを語っていますが、実はそこで書かれたいくつかの話は捏造や誇張され、事実に基づいていないことが分かっています。シュリーマンが批判の対象となっているいくつかの話を紹介します。

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幼少期に夢見たトロイ遺跡の発掘

自伝『古代への情熱』の中で、幼いころに読んだ本に心を奪われ、トロイア王国発見の資金確保のために事業を行ったと書いています。しかし、実際には幼少期の貧困の経験から、ビジネスでの成功を目標としていたと言われています。ビジネスで成功をした後に世界旅行に出かけ、そこで様々な話を聞き遺跡発掘を思いついたのが事実のようです。自分の人生をよりドラマチックに演出するためにこのように語ったと推測されています。

多言語を完璧に習得?

シュリーマンは13~15カ国語を話せると語っています。語学に堪能であったのは間違いない事実ですが、実際に話せた言語はもっと少なかったと言われています。このことは、家庭の事情で勉強を続けられなかった自分が、努力で多言語をマスターしたことを誇示したかったのかもしれません。なお、語学習得の勉強方法としてシュリーマンは、音読が一番大切であると言っています。教会の説教を暗記し真似て音読することや、文章を大きな声で読むことを毎日行っていたと自伝に書いています。

自分の主張を貫き通す性格

シュリーマンはトロイ遺跡発掘の際に多くの財宝が出た層をトロイア王国で間違いないと主張し、他の考古学者から間違えを指摘されても、自分の主張を決して曲げることはありませんでした。また、ミケーネ遺跡から出土した黄金のマスクをアガメムノーンのものであると確信しましたが、実際はより古い時代のものであることが判明しています。このように出土品を客観的に分析せず、自分が強い興味を持っているトロイア王国時代のものと主張することが少なくありませんでした。考古学研究が進んだ現代、実はシュリーマンが主張した説の多くが否定されているのです。

事業成功の裏でアメリカでの嘘や虚言

ハインリヒ・シュリーマン

シュリーマンのアメリカでの事業成功の裏には、数々の嘘があると言われています。どのような嘘があったのでしょうか。

  • アメリカで金の売買で事業を成功させましたが、実際は金の重さを騙していたため、より多くの利益を上げることができたと言われています。なお、その不正を指摘されそうになると、病気と偽りロシアに戻ってしまいました。
  • アメリカで銀行事業を開始した1850年に、滞在していたカリフォルニアが31番目の州となったためアメリカの市民権を獲得したと言っていました。しかし実際は1869年に妻と離婚をするために市民権を獲得したことが分かっています。
  • 第13代のアメリカ大統領ミラード・フィルモアとワシントンで食事をしたと言っていましたが、その事実はなく、新聞などで見た情報をあたかも自分もその場にいたように話したようです。
  • 1851年のサンフランシスコ大火事を目撃したと報告をしていますが、火事が起こった時はサクラメントに滞在していました。新聞で読んだ大火災の情報を自分の目で見たかのように報告したようです。

離婚のための強引な行動

1860年代になると考古学の勉強のために家族を残して海外に行くことが多くなり、自分の考えに協力的でない妻エカテリーナに離婚を迫りました。しかし離婚を拒否されると、アメリカのインディアナ州の自由な離婚法を使い強引に離婚を成立させたのです。そのためにインディアナポリスに家を購入して3カ月程度住みましたが、離婚法適応の条件であるアメリカでの恒久的な居住について嘘をつきました。そしてインディアナ州から離婚が認められた後すぐにギリシャに行き、そこで出会った17歳の女性ソフィアと結婚したのです。

考古学の知識不足

ハインリヒ・シュリーマン

シュリーマンがトロイ遺跡を発掘した時は、考古学はまだ発展途上の学問でした。そして出土品を無断で海外に持ち出すことが難しくなかったため、価値のありそうな金銀の財宝以外は目をくれずに掘り進むことが様々な発掘現場で行われていたのです。

シュリーマンも例外ではなく、自分がトロイア王国のものと決めつけた財宝を手に入れるために、上層にある貴重な遺跡を乱暴に掘り進めていたそうです。このように無計画に掘られたトロイ遺跡の箇所は「シュリーマンの穴」と呼ばれています。発掘記録を取っていないことや大部分の層が削り取られてしまったため、現在の考古学によるトロイ遺跡の各年代の都市検証を行うことが困難となっています。

また、トロイ遺跡から発掘された装飾品を妻に着けさせて撮った有名な写真があります。しかし、この行為は出土品を貴重な史料としてではなく、私物化しており非難の対象となっているのです。

シュリーマンの名言

数々の嘘の事実はあるものの、シュリーマンが数々の偉業を成し遂げたことは事実です。ここでは、シュリーマンが語ったとされる有名な言葉を紹介します。

  • 過去の遺物を掘り起こしながら人生を過ごすことより他に楽しいことを想像できない。
  • 才能とはエネルギーと粘り強さのことであり、それ以上のものはない。
  • 私はアガメムノーンの顔を見つめた。
  • その瞬間から、神の恩恵によりいつかギリシャ文明を学ぶことが許されるかもしれないと、私は神に祈ることをやめませんでした。

シュリーマンの日本旅行 『シュリーマン旅行記 清国 日本』

日本地図

シュリーマンは事業で成功後、1865年に43歳で世界周遊旅行に出発しました。そしてインド洋を渡り、現在の中国である清国を訪れた後、幕末の日本にやってきたそうです。その2カ国をまとめて旅行記にしています。

シュリーマンは、1865年4月下旬から清国の香港、上海、北京を旅して、慶応元年6月4日に横浜へ上陸しました。日本滞在中は横浜、江戸、町田、八王子などを見学して回り、当時の日本人の生活様式を記載しています。

江戸では江戸城を一周し、浅草の浅草寺などを見たことが記載されており、幕末の当時は攘夷派による外国人襲撃が発生していたため、江戸見学の際は5人の侍が護衛についていたと語っています。約1カ月間日本に滞在し、横浜港からアメリカのサンフランシスコに向けて出港したそうです。

また、清国については、万里の長城が素晴らしいと書いていますが、北京の街は清潔ではなかったと感想を述べています。一方、日本人は毎日公衆浴場に入り清潔で、園芸を行って家の庭もきれいにしていると書いてあります。また、6月10日に江戸幕府将軍の徳川家茂が京都へ向かう大名行列を東海道の保土ヶ谷宿で見学をしたと語っています。シュリーマンは客観的な視点で旅行記を書いており、当時の日本人の生活様式を知ることが出来る貴重な史料となっています。

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シュリーマンが発見したトロイ遺跡の魅力

トロイの木馬 チャナッカレ トルコ

シュリーマンが発見したトロイ遺跡がある場所はトルコの北西部です。トロイ遺跡はシュリーマンを魅了したギリシャの叙事詩の舞台となっています。また、トロイ遺跡の隣にあるトロイ博物館では、トロイア遺跡から発掘された5500年の歴史を物語る2,000点もの貴重な出土品を見ることも可能です。トルコを訪れた際は、深い歴史や魅力的な出土品・遺物に触れ合えるトロイ博物館にも足を運んでみてはいかがでしょうか。

トロイ遺跡は歴史ロマンあふれるトルコの世界遺産!観光のポイントは?

名称 トロイ博物館(Troya Museum)
所在地 Truva Altı sokak No:12 Tevfikiye Köyü, 17100 Merkez/ Çanakkale
休館日 なし※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館
営業時間 8:00~19:00(4月から10月)、8:30~17:30(11月から3月)
入場料 60 TL(約740円)、8歳未満の子供は無料
トロイ博物館とのセット券:100 TL(約1,240円)
ウェブサイト https://turkishmuseums.com/museum/detail/2021-canakkale-museum-of-troy/2021/4

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