楔形文字の歴史や特徴など徹底解説!あいうえおや数字の書き方は?
更新日:2023.04.05
投稿日:2022.08.16
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メソポタミア文明で使用されていた古代文字の一種に楔形文字があります。粘土書板に葦(あし)などでつくった筆記具の尖端を押し付けて書くのが大きな特徴の文字です。もともとはシュメール人が発明しましたが、その後さまざまな場所で使われるようになりました。
一見、絵なのか文字なのかわかりにくいですが、実は文法や表記法が日本語に近く、親しみやすいという特徴があります。今回の記事では、楔形文字の歴史や特徴を詳しく解説していきます。
楔形文字とは
楔形文字は、現存する最古の文字と言われています。南メソポタミアで都市文明を築いたシュメール人が発明し、その後周辺地域に広がりました。
加えて、アッカド人が自らの言語を記すのに楔形文字を使い改良を重ねたことから、基本的にどんな言語でも表記できる汎用性の高い文字となっています。
3,000年以上にわたり使われたものの、アケメネス朝ペルシアが古代オリエント世界を統一し、行政をアラム語によって行ったのを機に、次第に姿を消しました。
なお、楔形文字はさまざまな地域、時代、言語で使われたため、どれを標準的なものとして扱うのかが問題です。しかし、専門家の間では最も字画が整ったアッシリア時代の字体を標準とみなすのが通例となっています。
楔形文字の特徴
楔形文字は、日本人にとってなじみやすいものと言われています。その理由として挙げられるのは、表意文字と音節文字を併用するという特徴です。
日本語では漢字・かな交じり文を使うのは珍しくありません。楔形文字にも漢字のように単語に置き換えて読む文字と、かなのように音に置き換えて読む文字があります。字の読み方にも音読み、訓読みがあったり、送り仮名を振ったりするなど、日本語と共通する部分が多いのです。
書き方も似ています。楔形文字は横書きの場合は左から右へ、縦書きの場合は右から左へ書きますが、これも日本語の場合とほぼ同じです。ちなみに、楔形文字は横書きをすることが圧倒的に多くなっています。
楔形文字の一覧
楔形文字は、基本的にどんな言語でも表記できる汎用性の高い文字としても知られています。文字の総数は約500といわれていますが、子音と母音を組み合わせて使うのが一般的です。このあたりは日本語に非常によく似ていますが、「オ」という母音が存在しないのが、大きく違う点でしょう。
50音を楔形文字に変換できるWebサイトもあります。
たとえば「トルコ旅行(とるこりょこう)」を楔形文字に変換した場合、表記は以下の通りです。
楔形文字の起源と歴史
楔形文字は、南メソポタミアで最初に都市文明を築いたシュメール人が発明したものと言われています。漢字などを見ればわかるように、一般的に文字は絵文字が発展したものと考えられていますが、楔形文字は少々事情が違うようです。
楔形文字の由来となったものに、トークンと呼ばれる粘土片があります。これは、粘土を小さくちぎって手のひらで球体や円錐、円盤の形にしたものです。当時は文字がなかったため、トークンを使って計算したり、税・商取引の記録をつけたりしていました。つまり、文字がいきなり発明されたわけではなく、最初はトークンを使って記録を行い、何千年もかけて進化させた結果として文字が生まれたと考えられます。
ウルク古拙文字
紀元前3300年~3100年頃になると、より記録性を高めるためにトークンの代わりに線画のような絵文字がシュメール南部の都市国家ウルクで使われるようになります(ウルク古拙文字)。ウルクの遺跡からは文字を刻んだ粘土板が発掘されていますが、その大部分は、物とその数量を記録した会計記録だったとのことです。
この絵文字が近隣に普及するにつれて、楔形文字に変化したわけですが、背景には独特の事情がありました。その当時、文字は紙ではなく、先を尖らせた葦を使って粘土に書くものだったため、絵文字だと時間がかかる上に、力も必要になるという問題がありました。
より簡単に文字を書けるようにしようと、葦の茎を切って、切り口を粘土に押し付けるようにして書くやり方が用いられるようになります。このやり方で文字を書くと、端は太く、次第に細くなる楔のような跡が粘土に残ります。その後、文法や文字の書き方が体系づけられ、楔形文字として発展していきました。
楔形文字の発展
その後、アッカド人がシュメール人の都市国家を征服し、メソポタミア統一に動きますが、アッカド人はアッカド語を用いていたものの、文字を知らなかったため、シュメール語で用いられていた楔形文字を使うようになりました。
さらに時は流れ、紀元前14世紀のエジプトで、アメンホテブ4世がアマルナ革命を強行しましたが、1887年に発見されたアマルナ文書から、この時代にはオリエント世界でアッカド語と楔形文字が国際共通語、共通文字として使われていたことが判明したのです。
一方、小アジア(現トルコ)を建国したヒッタイト人も、楔形文字を使っていました。彼らが使っていたインド・ヨーロッパ語をうつすために楔形文字をあてていたのです。メソポタミアの表意文字をそのまま用いつつ、自国語の音を楔形文字で表すという方法を用いています。このあたりの事情は、ボアズキョイ文書の解読により明らかになりました。
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楔形文字の発見
楔形文字の発見は、17世紀にまでさかのぼります。1621年にアケメネス朝ペルシャのペルセポリス遺跡から、ベヒストゥン碑文が出土しました。アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世によりつくられたもので、現在のイラン・ケルマーンシャー州にあります。
自らの正当性をアピールする文章とレリーフが刻まれていますが、この中ではじめて楔形文字も確認されました。長い間解読はされてきませんでしたが、1802年にドイツの言語学者・グローテフェントが解読に成功したのです。
さらに1835年には、イギリスの軍人・ローリンソンがグローテフェントの解読を一歩進め、文字はもちろん、文法の解明までこぎつけました。なお、解読にあたっては、ローリンソンがみずから1835年から2年間、険しい絶壁に何度もよじ登って楔形文字を観察し、書き写す作業を行っていたそうです。
楔形文字で書かれた代表的な言語
楔形文字はもともとシュメール語を書くためのものでしたが、その後周辺に広がり、さまざまな言語における文字として使われるようになります。ここでは、楔形文字で書かれた代表的な言語を紹介しましょう。
シュメール語
シュメール語とは、シュメール人によって発明された言語です。紀元前2000年にはアッカド語に取って代られたものの、書き言葉としては紀元前後まで用いられたと言われています。
楔形文字ができるきっかけとなった言語でもあり、歴史上重要な意味を有しているものの、どの語族に属する言語なのか分かっていません。典型的な膠着語(助辞が幾重にも単語に付着して文法関係を表す言語で、日本語もこの一つ)の性質を持つ言葉であるとされています。
アッカド語
アッカド語は、アッカド人の使うセム語系の言語です。アッカド人により建国されたアッカド王国は、紀元前2300年にメソポタミア全域の都市国家の統一を果たします。それに伴い、アッカド語がメソポタミアにおける公用語となりました。
しかし、アッカド語には文字がなかったため、表記するための文字としてシュメール人の楔形文字が用いられました。なお、楔形文字が発見されるきっかけになったベヒストゥン碑文にも、アッカド語の表記があることで有名です。
ヒッタイト語
名前の通り、ヒッタイト帝国で使われていた言葉です。ヒッタイト帝国の首都・ハットゥシャ(現在のトルコ・ボアズキョイ)の遺構から発見された粘土板に、楔形文字で記録されていました。
チェコの言語学者・フロズニーが解読に成功し、インド・ヨーロッパ語族の言語の一種であることが判明しています。
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エラム語
エラム語とは、イラン南西部(現在のフーゼスターン州、ファールス州)にあったエラム王国で、エラム人が使っていた言葉です。当初は絵文字、線文字で書かれていたものの、次第に進化して楔形文字が使われるようになりました。アケメネス朝下で紀元前6世紀から前4世紀にわたって広く使用されていた言語です。
また、イランには世界文化遺産に登録されている有名な史跡・ベヒストゥンがあります。
Bisotun – UNESCO World Heritage Centre
ここにはアケメネス朝のダレイオス1世が自己の業績を記録した碑文がありますが、そこで用いられている言語の1つがエラム語です(他2つはペルシア語、バビロニア語)。
楔形文字が使われた地域・国
実は、楔形文字はいろいろな地域・国で使われていました。使われていたことが確認できている地域・国をいくつか紹介します。
シュメール
メソポタミア南部を占めるバビロニアの南半分の地域です。現在のイラク・クウェート南部にあたります。紀元前3000年頃、シュメール人がこのあたりで都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築きました。
また、シュメール人は世界最古の物語「ギルガメシュ叙事詩」や、ハンムラビ法典より古い世界最古の法典「シュメール法典」も残しています。もちろん、これらを記録するための文字としても、楔形文字は使われていました。
フェニキア
フェニキアは、現在のレバノン一帯を中心とした地中海東岸を指す歴史的地域名です。フェニキア人は海上貿易を盛んに行っていた民族で、北アフリカのカルタゴをはじめ、さまざまな場所に植民都市を建設しました。
彼らの交易活動の一助となるよう考案されたのがフェニキア文字です。これは、のちのアルファベットのもとになる線状文字でした。そして、フェニキア文字の配列順は、先にできていたアッカド楔形文字の配列順序に影響されたとする説も出ています。
フェニキア人とは?地中海交易を支配した一大勢力の歴史的重要性と功績
アッシリア
アッシリアとは、現在のイラク北部にあった王国を指します。最初の首都であり、同名の天神アッシュルが、名前の由来です。
当初の国力はそう強くなかったものの、紀元前9世紀ごろに、鉄製の戦車と騎兵隊を採用したことで、次第に国力を強めていきます。紀元前745年から727年に在位した国王・ティグラトピレセル3世は領土の拡大を推し進め、紀元前729年にはメソポタミア地方の統一を成し遂げました。
ヒッタイト
ヒッタイトとは、アナトリア(現在のトルコ)に高度な文明を築いた古代民族の1つです。彼らが建国した帝国を指す名称としても使われます。紀元前1650年~紀元前1200年頃にアナトリアの地で栄え、さらに西アジアのメソポタミア地方にも進出するなど、一時は隆盛を極めました。オリエント世界で初めて鉄器を使用したと考えられているなど、文明水準が高かったことでも有名です。
現在のトルコの首都・アンカラから東に145キロほどの場所にある都市・ポアズカレ近郊には、ヒッタイトの首都であったハットゥシャ遺跡があります。ハットゥシャ遺跡からは、楔形文字が刻まれた粘土板(ヒッタイト文書)が複数発見されました。粘土板には、ヒッタイト王が諸外国とかわした条約、書簡が記録されています。
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バビロニア
バビロニアは、メソポタミア南部を占める地域のことで、現在のイラクに当たります。この地で、アムル人は同名の王国を建国し、首都をバビロンに置きました。紀元前1792年にはバビロニア帝国(メソポタミア統一)の初代王にハンムラビ法典を制定・編纂したハンムラビが就いています。
ハンムラビ法典は、「目には目を」という復讐法で有名ですが、現在の被害者救済法や製造物責任法にあたる規定があるなど、非常に先進的な思想が盛り込まれた法典と言われています。
ペルシア
ペルシアとは、現在のイランにあたる地域です。厳密にいうと、アケメネス朝の創始者アケメネスの出身地ペールス地方(現在のイランのペルシア湾に面したファールス地方)を指します。アケメネス朝でも、古代ペルシア語を記すために楔形文字が使われました。
首都・ペルセポリスにも古代ペルシア語の楔形文字碑文が数多くみられます。ダリウス1世(在位前521~前486)およびクセルクセス1世(在位前486~前465)の時代に、もっとも頻繁に用いられたとのことです。
エジプト
メソポタミアと並んで古代文明発祥の地とされる、中東と北東アフリカの接点にある地域を指します。
エジプトと楔形文字の関連で見逃せないのが、アマルナ文書です。これは、楔形文字が刻まれた粘土板で、1887年にナイル川中流域で発見されました。
後の調査で、紀元前14世紀後半のエジプト新王国と諸外国の間でかわされた外交文書であることが判明しています。
楔形文字で書かれた有名な文書
古来たくさんの文書が楔形文字によって書かれてきました。その中には、現在でも世界の歴史を理解する上で非常に重要な文書も存在します。ここでは、楔形文字で書かれた代表的な文書を紹介します。
メソポタミア伝説の王の英雄譚『ギルガメッシュ叙事詩』
ギルガメッシュ叙事詩とは、シュメール人により著された世界最古の物語と言われる作品の1つです。ウルクという都市国家の第一王朝時代に実在した伝説的な王の名前「ギルガメッシュ」が登場します。
物語の中でギルガメッシュは英雄である反面、暴君として民衆に恐れられていました。この状況を案じた天神アヌが、女神アルルに命じて作らせたのが怪人・エンキドゥです。
エンキドゥはギルガメッシュを倒すために戦いますが、決着はつかず、それどころか友情が芽生えました。しかしその後、エンキドゥは死を宣告されてしまい、ギルガメッシュは失意のどん底に落とされます。ギルガメッシュは永遠の命を求めるものの、うまくいかずにウルクに戻っていくのです。
なお、ギルガメッシュ叙事詩はアッシリア帝国の紀元前7世紀頃のものと思われる図書館から出土した粘土板に書かれていました。これらの粘土板のうちの1枚に、旧約聖書の「ノアの方舟」とよく似た物語が書かれていたそうです。このことから、ギルガメッシュ叙事詩は旧約聖書になんらかの影響を与えたと言われています。
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「目には目を」で有名な『ハンムラビ法典』
紀元前18世紀頃,バビロン第1王朝の王ハンムラビによって制定された法典です。楔形文字を用いてアッカド語で記され、バビロンのマルドゥク神殿、もしくはシッパルのシャマシュ神殿内に置かれたと言われています。
復讐法の条文「目には目を、歯には歯を」で有名ですが、内容はそれだけにとどまりません。裁判組織および手続き、刑罰、行政区画ならびに行政制度、契約上の諸原則、親族、相続などに関する規定が盛り込まれた、非常に体系的なものです。
当時のヒッタイトの様子が記された『ボアズキョイ文書』
ボアズキョイとは、トルコの首都アンカラから東に200キロのところにある遺跡です。ヒッタイト王国の首都・ハットゥシャの城壁、城門、王宮、神殿などの遺構が現存します。
そこから発見された楔形文字、象形文字を記した粘土板がボアズキョイ文書です。ドイツの考古学者・ヴィンクラーによって発見されました。内容の解読を進めたところ、ヒッタイト帝国とエジプト新王国との書簡であることが判明し、その後の古代オリエント史の研究にも大きく寄与しています。
当時の商取引の様子を知れる『カッパドキア文書』
カッパドキアとは、トルコ中央部の半乾燥地帯に位置する地域のことです。奇岩群を空から眺められる気球ツアーが人気のエリアですが、古代オリエント史の研究においても重要な地です。
カッパドキアはトルコの人気世界遺産!観光名所と旅行ツアーの楽しみ方
注目すべき発掘品の1つが、カッパドキア文書。これは土でできた平板に、税法、利息、婚約、通商紛争などに関するさまざまな内容を楔形文字で刻んだもので、当時の商取引を含めた人々の生活を知る上で重要な資料となります。
中でも、紀元前1270年頃ヒッタイト王のハットゥシリ3世と、エジプトのラムセス2世との間で取り交わされた平和条約の粘土板文書は、世界最初の平和条約として有名です。トルコの首都・アンカラにあるアナトリア文明博物館に展示されているので、ぜひ足を運んでみてください。
トルコで楔形文字の歴史を辿ってみて
楔形文字は、世界最古の文字であるものの、その汎用性の高さから南メソポタミアにとどまらず、さまざまな場所で使われました。楔形文字が刻まれた粘土板もたくさん発見され、世界各地の博物館で展示されています。
トルコでも、アナトリア文明博物館に所蔵されているカッパドキア文書の粘土板や、多くの当時の遺跡が見られます。最近ではインターネット上でも写真を見れますが、やはり本物を目の前にするのにはかないません。ぜひトルコに行って、壮大な歴史のロマンを肌で感じてみてください。
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