フェニキア人とは?地中海交易を支配した一大勢力の歴史的重要性と功績
更新日:2023.04.05
投稿日:2022.08.30
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フェニキアは、現在のレバノンを中心にした古代都市で、海上貿易により一時は栄華を極めました。
- 紀元前にアフリカの喜望峰に到達するほどすぐれた航海術を有していた
- 高度な技術によりさまざまな工芸品を作った
- アルファベットの原型となったフェニキア文字を生み出した
など繁栄を支えたフェニキアのエピソードを断片的に聞くことはありますが、彼らが一体何者だったのか知っている方は少ないのではないでしょうか。
そこでこの記事では、10分程度で読める分量で、フェニキアについて網羅的に解説します。「古代史における重要な地」であるフェニキアについて知識を得たい方は、最後までお付き合いください。
フェニキアとは
フェニキアとは、現在のレバノンやシリアのあたりを中心とした東地中海沿岸地域の古代名です。フェニキアに居住していたセム族(西アジア・アラビア半島・アフリカ北東部に住み、セム語系の言語を用いる民族)に属する民族をフェニキア人と呼びます。
フェニキアは、クレタ文明(前2000〜前1400年頃)とミケーネ文明(前1600〜前1200年頃)が後退した後に、地中海交易で栄えました。これをきっかけに、各地に植民市(貿易の基地として資源を確保して本国に送るために作られた都市)を建設していきます。
彼らの栄華を支えたのが、きわめてすぐれた航海術でした。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの『歴史』によると、フェニキア人は1488年(大航海時代)のバルトロメウ・ディアスよりもずっと前に、アフリカ大陸の周回を果たすという偉業を成し遂げています。
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また、フェニキア人は交易活動を円滑に行うために、現在のアルファベットのもとになったフェニキア文字を作り出しました。前身となる文字は紀元前2000年ごろにはすでに存在しましたが、紀元前11世紀の中頃、より体系立てられたものとして完成させました。
フェニキアの場所
フェニキアの場所は、現在のシリア・レバノン沿岸の一帯です。ティルス(現在のスール)、シドン(現在のサイダー)などが、フェニキア人が建設した主要都市として有名です。
また、地中海沿岸にもたくさんの植民都市を作っていました。
中でも、現在のチュニジアの首都・チュニス近辺にあたる植民都市・カルタゴは、のちにポエニ戦争の舞台となるなど、歴史上も重要な位置を占める都市として知られています。
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フェニキアの歴史
フェニキアという言葉の由来は、エジプト語の「フェンクー(「アジアの人」という意味)」に由来します。北はエレウテロス川、南はカルメル山あたりまでを指すのが一般的です。
フェニキア人は、早くから海上貿易を活発に行ったことでも知られています。海上貿易をきっかけに各地に商業基地=植民都市を作りました。中でも、紀元前814年頃に作られたといわれるカルタゴ(現在のチュニジアの首都・チュニス近郊)は一大都市として繁栄を極めます。
フェニキアが特徴的なのは、土地を奪いはしなかったことです。土地の住民に土地使用料を払うなど、きわめて平和的な発展を遂げていきます。
しかし、フェニキア本土の繁栄はいつまでも続きません。最古の都市、シドンが紀元前680年にアッシリア王エサルハッドンにより滅ぼされたのを皮切りに、フェニキアの勢力には陰りが見えはじめます。最終的にはアレクサンドロス3世により制圧され、フェニキアはその歴史に幕を閉じます。
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フェニキア人の特徴
フェニキア人とは、フェニキアに暮らした人々のことです。考古学上は、セム族に属する一民族、カナーン人のギリシア名とされています。
フェニキア人は卓越した航海術と特産品の輸出を強みとし、海洋貿易を礎にした商業国家として繁栄していきました。同じセム語族の民族であるアラム人が、内陸の中継貿易を得意としていたのとは対照的です。特産品として有名なのは、レバノン杉やティリアンパープル(巻貝から採取される貴重な染料)。そのほか、塩を生産していたことでも知られています。フェニキア人の入植拠点の周辺には、現在でも塩田が多く、塩の生産が盛んです。
フェニキア文字とフェニキアの言語
フェニキア人は、交易をより便利にするために、シナイ文字を元にフェニキア文字を生み出しました。全部で22の文字がありますが、すべて子音を表す文字で、母音を表す文字はありません。そのため、母音は文脈から判断せざるを得なかったようです。文字を書く際は右から左へというルールが定着していました。
のちにローマで現在のアルファベット表記体系へと作り替えられ、現在のアルファベットのルーツとなっています。
フェニキア人は海上貿易を生業としていたため、キプロス島やクレタ島、スペイン南部など、地中海沿岸のさまざまな地域にフェニキア文字が広がりました。特に有名なのがギリシアでしょう。
ギリシアでは、子音を表す文字しかなかったフェニキア文字に母音を表す文字が加えられ、ギリシア文字として発展していきました。なお、フランスの考古学者であるジャン=ジャック・バルテルミが、1758年に世界で初めてフェニキア文字の解読に成功しています。
フェニキア人の経済、文化、工芸品
フェニキア人は海上貿易により栄えた民族です。豊富な名産品や質の高い工芸品を周囲の地域に積極的に輸出し富を築いただけでなく、後世の文化にも大きな影響を与えました。
頻繁に取引されていたものの1つが、レバノン杉です。現在のレバノンの国旗にも描かれているのを見たことがある人も多いでしょう。エジプトなどの中東地域では木材が手に入りづらく、レバノン杉は貴重なものとしてさかんに取引されていました。
また、赤紫色の染料「ティリアンパープル」もフェニキアの特産品として知られています。何万個もの貝殻からほんの少ししか作れない希少性と、一度染めれば色が落ちたりあせたりすることがない品質が評判でした。そのため、非常に高価であったことから、特権階級にふさわしいものとしてもてはやされたのです。欲しがる人が多い以上、入ってくる収入も多くなるため、フェニキアの経済が潤ったのは想像に難くないでしょう。
他にも、職人が作り出す象牙や貴金属、ガラス細工、織物などの工芸品も、その繊細さで地中海各地の貴族階級から愛されていたようです。
日本でも風鈴などを作る際に用いられる吹きガラスという技法が、紀元前1世紀頃にフェニキア人によって開発されたという説もあります。
また、地中海の料理には欠かせないオリーブ、サフランなどもフェニキアの名産品として知られています。オリーブやサフランはトルコにも伝わり、今でも名産品として親しまれていることを知っている人も少なくないでしょう。
フェニキア人の経済は、特産品を生み出せる力、それを売る力によって支えられていたといっても過言ではありません。
フェニキア人の末裔
世界各国で発行されている科学雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」によれば、地中海周辺地域に住む男性17人のうち1人が、フェニキア人のDNAを持っているとのことです。
調査は、フェニキア人の交易の中心であった地中海諸国(シリア、パレスチナ、チュニジア、モロッコ、キプロス、マルタ)の男性1,330人を対象に行われました。
採取したサンプルのうち、男性にしかないY染色体を分析したところ、該当地域の6%の人がフェニキア人の遺伝子を継承している可能性が高い、と判明したそうです。
フェニキアの美術
フェニキア人の美術に関してわかる遺物は、ほとんど残っていません。サイダ、ティルスをはじめとした遺跡はローマ時代に再建されたものが多く、美術品をはじめとしたフェニキア時代の遺物はあまり発見されていないのが実情です。
特に、フェニキアの二大産品とされる布地と木彫品は時間の経過に耐えられないため、現代まで残っているものはほとんどありません。しかし、数少ないながらも当時のフェニキア人の美術センスをうかがい知れる資料が発見されています。
現在のシリア西部の都市であるラス・シャムラで発見された古代都市・ウガリトの遺跡からは、青銅器時代後期の遺物が発見されました。発見された金属細工と象牙彫刻は、紀元前一千年紀初めのフェニキア人の作品と極めて似通った部分が多数あると言われています。
また、聖書や中アッシリア王国時代のアッシリア王、ティグラト・ピレセル1世が著した年代記も、フェニキア人の美術を知る上で重要な資料です。ソロモン王は自身の宮殿と神殿を建設するにあたり、ティルス王ヒラムに援助を要請しました。ヒラムは要請に応え職人を派遣します。送られた職人たちは金、銀、青銅などさまざまな素材の扱いに精通し、思い通りかつ計画的に作業を進める技術力があったと伝えられています。
フェニキアの宗教習慣
フェニキアには、独特の宗教習慣もありました。とりわけ特徴的なものとして知られているのが、農業をベースとした暦と、葬式をはじめとした死に対する思想です。この2つについて、詳しく解説します。
農業をベースとした暦
フェニキアの暦は、新月の日を基準とし、農業の周期と連携していたのが大きな特徴です。フェニキアでは新年や鍬入れ、刈入れなど農業上重要な季節の行事は、生贄を捧げて盛大に祝いました。
最大の年中行事とされていたのが、テュロスのメルカルトやシドンのエシュムンのような、農業神の復活祭です。テュロスのメルカルト祭では、「メルカルトの人型を儀式用の薪で焼いた後、アシュタルテとの儀式的な結婚の上で復活を表す」という流れで執り行われます。
フェニキア人の葬式
実際のところ、フェニキア人の葬式について伝える文献はほとんどありません。しかし、王の石棺に残されていた碑文を解析した結果、死者は「レバイム」と呼ばれていたようです。青銅器時代後期のウガリトで、神である祖先、あるいは神となった死者を指します。
「レバイム」の語源は「癒す、回復する」であるため、死を否定的なものではなく、肯定的なものとして見ていたと考えられるでしょう。
フェニキアの神話と神々
フェニキアの神々にまつわる伝説・伝承のたぐいはほとんど知られていません。数少ない判明している事実から、フェニキアの神話においては、それぞれの都市が男性と女性の最高神に支配されていたという考え方が有力とされています。
また、信仰の対象となる神が都市によって違っていたのも特徴的です。たとえば、都市・ビュブロスでは男性の最高神としてバアル・シャメムが、女性の最高神としてバアラト・ゲバルが信仰されていました。一方、同じくフェニキアの都市であるシドンでは、アシュタルテとエシュムンが信仰されていたようです。
また、神話つながりで1つ興味深い話をしましょう。ギリシア神話にもフェニキア人が登場します。たとえば、海神ポセイドーンとリビュエ(リビア)の子とされるアゲーノールはフェニキア王でした。
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フェニキアの神話に関する体系だった資料が極めて少ないため断言はできませんが、フェニキア神話がなんらかの形でギリシア神話に影響を及ぼした可能性は否定できないでしょう。
フェニキアの遺跡・出土品
実際のところ、現在のレバノンに残る遺跡でも、在りし日のフェニキアの様子がわかるものは決して多くありません。
その中でフェニキア時代のオベリスク神殿が発見されたビブロスは、当時のフェニキアが伺い知れる数少ない遺跡です。発見された多数のフェニキア青銅人形は現在、ベイルート国立博物館に所蔵されています。たくさんの人形が並ぶ姿は圧巻の一言です。
ベイルートの南側にあるスール(ティルス)、サイダ(シドン)にも遺構は残っていますが、ほとんどがローマ時代に再建されたものです。しかし、地中海ならではの空と海が調和した美しい景色は、それだけでも足を運ぶ価値があるでしょう。
都市遺跡
フェニキアは海上貿易の拠点とするため、各地に植民都市を建設しました。植民都市であった場所にも都市遺跡が残っていて、当時のフェニキア人の暮らしぶりがうかがえます。
特に有名な遺跡として、現在のチュニジアにあるカルタゴとケルクアン、レバノンにあるビブロスを紹介しましょう。
カルタゴ(チュニジア)
チュニジアの首都・チュニス北部にある遺跡で、世界遺産にも指定されています。フェニキア人の植民都市として繁栄しましたが、ローマ帝国との3度にわたる戦争(ポエニ戦争)により、壊滅的な被害を受けました。
のちに再建を果たしましたが、現在残っているのはアントニウスの共同浴場、円形闘技場などローマ時代になってからのものがほとんどです。しかし、フェニキア人の最高神を祀ったトフェの墓地や住居跡のポエニ街など、カルタゴの痕跡も一部に伺えます。
ケルクアン(チュニジア)
同じくチュニジアにある遺跡で、カルタゴ時代の都市遺跡群の1つとして知られるのがケルクアンです。カルタゴのようにローマ人によって再建されなかったため、今でもフェニキア人の暮らしぶりをうかがえる状態が保たれています。
ケルクアンでは貝の染料「ティリアンパープル」の生産が盛んに行われていました。ケルクアンの遺跡の中には、貝を腐らせるための穴や、浴室つきの住居も遺っています。貝は腐ると強烈なにおいを放つため、家のお風呂で体を洗わないといけなかったようです。
ビブロス(レバノン)
レバノンの首都・ベイルートの北から約30キロのところにある世界遺産・ビブロスも、古くはフェニキア人の都市として栄えました。アルファベットの元になったフェニキア文字も、もともとはビブロスで生まれたものです。
この地に、紀元前3000年頃からフェニキア人が移住しはじめたと言われています。彼らはレバノン杉を伐採し、船の材料にしたり、採れる油をエジプトに輸出したりなどしました。
地中海貿易の要として発展しましたが、ローマ帝国の支配下だった12世紀、十字軍を迎え撃つために要塞化されます。
出土品(博物館)
フェニキアはのちにローマ帝国の支配を受けた上に、レバノンで長期間にわたる内戦が行われたため、フェニキア関連の出土品は決して多くありません。数少ない貴重な出土品を所蔵する博物館を紹介します。
ベイルート国立博物館(レバノン)
レバノンの首都・ベイルートにある同国でも最大の博物館です。開館は1942年とかなりの歴史を誇りますが、レバノン内戦により閉鎖されていた時期があります。
フェニキアが現在のレバノンにあたる地域にあった都市でもあるため、関連する所蔵品も数多く展示されています。エシュムンから出土されたフェニキア碑文のある子どもの像や、エシュムンの神殿から出土した紀元前350年の祭壇は、一見の価値があるでしょう。
イスタンブール考古学博物館(トルコ)
トルコの首都・イスタンブールにある博物館です。ヒッタイト、古代エジプト、バビロニア、シュメールなど古代王国文明の出土品が約2万点収蔵されています。
みどころの1つが、「シドン王タブニトの石棺」です。この石棺にはフェニキア文字で「王の眠りを妨げるものはみな呪われる。彼らとその血族はこの世界や別の世界において平和に暮らすことはできないであろう」と書かれています。
イスタンブール考古学博物館については、こちらの記事でも詳しく紹介しています。
東西文明の歴史が集合!イスタンブール考古学博物館の見どころを紹介
カディス博物館(スペイン)
スペイン・アンダルシア地方の都市・カディスにある博物館です。考古学、絵画を中心とした中世~近現代の美術、民俗学に関する展示が行われています。フェニキアに関する展示がなされているのは、考古学のエリアです。紀元前5世紀に作られたフェニキア人の石棺など、貴重な出土品が見られます。
なお、カディスはセビーリャから100キロほど南にある街ですが、もともとは紀元前10世紀頃にフェニキア人が築いた街でした。
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