シルクロードの歴史や由来、日本との関わり、世界遺産まで徹底紹介!
更新日:2023.03.31
投稿日:2022.02.17
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「シルクロード」と聞くとどのようなイメージが浮かびますか?ラクダに乗った商人や、広大な砂漠とオアシスを思い浮かべるかもしれません。歴史番組にて取り上げられることも多く、悠久の時を経てもなお私たちを惹きつけ続けるシルクロード。この記事では実際のシルクロードがどのようなものか、そして世界にどんな影響をもたらしたのかを紹介します。
シルクロードとは
シルクロードとは、中央アジアを東西に横断して東洋と西洋をつなぐ古代の交易路のことです。まずはシルクロードの由来や歴史などの基礎知識をチェックしておきましょう。
シルクロードの由来
「シルクロード」という呼び名を作ったのは、19世紀のドイツ人地理学者リヒトホーフェンです。シルクロードの主な交易品が絹であったことから名付けられました。その後シルクロードという概念は、リヒトホーフェンの弟子である地理学者・ヘディンが書いた本によって世界中に知れ渡り、現代に至っています。
なお、2014年にはシルクロードの一部が「長安-天山回廊の交易路網」として世界遺産に登録され、ますます注目を浴びるようになりました。
シルクロードの歴史・時代
シルクロードが交易路として使われるようになったのは、漢王朝の皇帝・武帝が中央アジアまで支配を広げた紀元前2世紀。今から2000年以上も昔のことです。その後16世紀までは中国とヨーロッパをつなぐ主要ルートとして使われ、多くの交易品や宗教、芸術、文化などがシルクロードを通じて行き来しました。
シルクロードというと1本の道をイメージするかもしれませんが、実は陸路と海路があります。陸路も一つだけではなく、険しい山脈や砂漠を避けた複数のルートが存在していました。
シルクロードの起点と終点
シルクロードの終着地点は正確にはわかっていません。一般的には、中国の長安(現在の西安)からローマを結ぶ交易路をシルクロードと呼んでいます。
ただしシルクロードの東洋における終着点を日本とする説もあります。奈良時代の日本が唐の都・長安に遣唐使を派遣し、文化とともに国際色豊かな品物を持ち帰っていたためです。また日本は朝鮮半島の国々と交流があったので、朝鮮半島からもシルクロード経由の文化や交易品が入ってきていました。
シルクロードで運ばれたもの
シルクロードを通じてどんなものが運ばれたのかを見ていきましょう。なお、日本でシルクロードに関する交易品のことを知りたい場合は、「平山郁夫シルクロード美術館」に足を運ぶのがおすすめです。
おもな交易品はシルク
シルクロードのおもな交易品といえばシルク(絹)です。中国での絹の歴史は古く、約4700年前の遺跡からも絹織物が出土しています。今から2000年以上も昔、前漢の時代には養蚕や絹織物業が盛んになり、中国の絹織物はシルクロードを通じて中近東やローマまで広まりました。
なお中国では、絹の生産方法を国外に漏らさないようにしていたため、絹はとても高価なものでした。例えばローマ帝国では、絹が同じ重さの金と交換されていたそうです。
絹のほかにも、
- 金や宝石といった貴金属
- 絨毯などの毛織物
- 陶磁器
- 火薬
- 製紙
- 金属加工の技術
- 香辛料
- 野菜や果物
などがシルクロードを介して東西を行き交いました。
小麦は東西を行き来し現代に
小麦の栽培はメソポタミアで始まりました。メソポタミアとは現在のイラクを中心に、シリア北東部やトルコ南東を含む地域のことです。小麦の製粉技術はシルクロードを通じて中国に伝わったため、漢代以降の中国ではさまざまな小麦料理が食べられるようになりました。
なかでも麺は中国で生まれたあと、再びシルクロードを通じて東西へと広がりました。例えばうどんのような麺に肉や野菜を煮込んだスープを合わせた「ラグマン」は、中央アジアの広い地域で食べられています。また、日本のうどんやそうめん、きしめんなども中国から伝わったものです。
「胡」がつくものはシルクロードから
かつての中国は、シルクロードを通じて西域から伝わったものに「胡」の字をつけていました。例えば西域に住むソグド人を「胡人」、西域の人の座り方は「胡座(あぐら)」と呼びました。
食べ物では、胡椒(こしょう)や胡麻(ごま)、胡桃(くるみ)、胡瓜(きゅうり)などがシルクロードを経て中国にもたらされました。
宗教・学問・芸術も伝播
宗教や学問、芸術もシルクロードによって伝播していきました。芸術面では陶磁器や絵画の技法などに加え、音楽様式や楽器もシルクロードを通じてさまざまな国にもたらされます。
そして仏教、キリスト教、イスラム教といった宗教が発達する上でも、シルクロードは大切な役割を果たしました。現在でもシルクロードの周辺国には多くのイスラム教徒が暮らしています。
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日本では三蔵法師として有名な「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」も、シルクロードを通った一人です。玄奘は隋の時代に中国で生まれた僧ですが、「原典を学ばなければ仏教の真義に行き着かない」と考え、国禁を犯してインドへの旅に出ました。玄奘はシルクロードの厳しい道のりを経てインドに辿り着き、帰国後は持ち帰った仏典の翻訳に生涯をかけて取り組みます。玄奘の旅の記録は「大唐西域記」にまとめられましたが、これは日本でもおなじみの「西遊記」の元になったといわれています。
伝染病も拡がる
シルクロードが運んだのは物や文化だけではありません。シルクロードを行き来する商人や動物たちによって、はしかや天然痘といったさまざまな病気が広がっていきました。
特に世界中に大きな被害をもたらしたのは、14世紀に起こったペスト(黒死病)です。もともと中国大陸で発生したペストは、シルクロードを経由して中東やヨーロッパ、北アフリカに拡散しました。ヨーロッパでの死者数は全人口のおよそ3分の1にのぼったといわれています。その後ヨーロッパでのペストの流行は、17世紀ごろまで断続的に続きました。
シルクロードの交易ルート
東洋と西洋をつなぐシルクロードには複数のルートが存在します。ここでは代表的なものを紹介します。
河西回廊ルート
シルクロード東端の出発点で、西安から、蘭州・武威・張掖・酒泉を経て敦煌までを結ぶ約1,000キロの道のりです。祁連(きれん)山脈とゴビ砂漠に挟まれた細長いオアシス地帯で、前漢・武帝の時代には武威、張掖、酒泉、敦煌の「河西四郡」が置かれました。
西安はかつて長安として栄えた街で、秦の始皇帝陵や兵馬俑(へいばよう)、玄奘(三蔵法師)ゆかりの大雁塔などさまざまな遺跡があります。世界遺産に登録された石窟「莫高窟(ばっこうくつ)で有名な敦煌はシルクロードの分岐点であり、古くから交通の要所とされてきました。
天山北路ルート
天山山脈の北側を通るルートです。敦煌から北上して新疆ウイグル自治区のハミ、トルファン、ウルムチ、イーニンを経由して、カザフスタンのアルマトイを通り、ウズベキスタンのサマルカンドに至ります。水や食料を調達しやすかったため、シルクロードの中では比較的容易なルートでした。
トルファンはブドウの産地で、観光では高昌故城や、「西遊記」にも登場する火焔山などが有名です。サマルカンドはシルクロードの交差点に位置する中心都市として栄えてきました。見どころは「レギスタン広場」や「ビビハニム・モスク」などのイスラム建築。サマルカンド・ブルーと呼ばれる青いタイルが印象的です。
天山南路ルート
ハミ、トルファンまでは天山北路と同じ道を通り、コルラ、クチャを経てカシュガルへ向かうルートです。玄奘(三蔵法師)がインドに向かう際に通ったことでも知られています。コルラはシルクロードの要衝の一つで、かつて旅人や隊商たちが検査を受けた関所「鉄門関」があります。
西域南道ルート
タリム盆地の南側を通るルートで、敦煌を出発してミーラン、チャルクリク、チャルチャン、ニヤ、ホータンを経由して、カシュガルへ到達します。こちらは玄奘(三蔵法師)がインドから長安に帰る際に通った道です。
チャルチャンはウイグル人が約8割を占めるオアシス都市で、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも登場します。ホータンは「玉(ぎょく)」と呼ばれるヒスイ(ネフライト)の産地として有名で、現在でも街中には玉の加工・販売店が多く見られます。
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ホラーサーン街道ルート
ホラーサーンとは「太陽の登るところ」を意味し、イラン北東部を中心にアフガニスタン・トルクメニスタンにまたがる地域を指します。シルクロードがイラン地方を通過する部分はホラーサーン街道と呼ばれました。パミール高原からバクトラ、ヘラート、ブハラ、メルヴを経てマシュハドへと向かうルートです。
ブハラはウズベキスタンの中央に位置するオアシス都市で、サーマーン朝の首都として繁栄しました。世界遺産「ブハラ歴史地区」にある「イスマーイール・サーマーニ廟」は、中央アジア最古のイスラム建築です。メルヴはかつてホラーサーン地方の中心都市として栄えた場所で、当時の人口は100万人を超えていました。
アラブ地域のシルクロード
マシュハドからテヘラン、バグダッドと西に進み、パルミラへ至るルートです。このあたりの地域は日本とも関わりが深く、奈良の正倉院に納められた宝物にはペルシアで作られた美術工芸品が含まれています。また「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、8世紀に遣唐使がペルシア人を連れ帰ったという記録があります。
マシュハドはイラン第二の都市です。シーア派の巡礼地であるため、毎年多くの巡礼者と観光客でにぎわいます。バグダッドはイラクの首都であり、イラク最大の都市です。シルクロード交易で繁栄し、9世紀頃には世界最大の都市としてイスラム文化の中心を担いました。
ヨーロッパへのシルクロード
アレッポからアンティオキアに到達すると、西安から続くシルクロードは一度終点となります。その先、トルコのアンゴラ(アンカラ)を経て、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都だったコンスタンティノープルへと続くルートです。
アンゴラは現在のトルコの首都・アンカラで、ローマ帝国に支配されていた歴史があります。現在でも「アウグストゥス神殿」や「ローマ浴場跡」などの遺跡にローマ時代の名残を見ることができます。
コンスタンティノープルは東ローマ帝国の隆盛にともない「世界の中心」として栄えましたが、13世紀の第4回十字軍によって衰退。オスマン帝国によって陥落し、のちにイスタンブールと呼ばれるようになりました。
ローマに至るシルクロード
シルクロードの終点・ローマまでは海路または陸路で向かいます。アテネから地中海を渡りローマに到達するルートと、ウィーン・ベネツィアを経由して陸路でローマに至るルートがありました。
ギリシャ共和国の首都であるアテネは、世界最古の都市の一つ。古代オリンピック発祥の地として知られ、パルテノン神殿を始め多くの遺跡があります。
イタリアの首都ローマは、ローマ帝国の皇帝・アウグストゥスの時代に世界最大の都市として栄えました。現在でも「コロッセオ」「フォロ・ロマーノ」「カラカラ浴場」などの遺跡が点在しており、かつての繁栄が偲ばれます。
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海のシルクロード
海のシルクロードとは、中国、東南アジア、インド、アラビア半島、ソマリア、エジプト、ヨーロッパを結ぶ交易路のことです。海賊の出現や悪天候などに左右されるため安定はしていませんでしたが、陸路に比べて大量の荷物を運ぶことができました。中世以降は航海術が発達したこともあり、陸路よりも海上交易が主流になりました。
シルクロードにあるおすすめ世界遺産9選
アジアとヨーロッパをつないだシルクロードには数多くの世界遺産があります。シルクロードの一部である「長安-天山回廊の交易路網」も2014年に世界遺産として登録されました。ここではシルクロードにおけるおもな世界遺産を紹介します。
シルクロード:長安-天山回廊の交易路網
2014年に文化遺産として登録されました。シルクロードの中でも、中国の長安から中央アジアのキルギスを経てカザフスタンに至る区間のことです。構成資産には中国・キルギス・カザフスタン合わせて33件の遺跡が含まれています。
サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン)
2001年に文化遺産として登録されたサマルカンドは、中央アジアでもっとも古い都市の一つです。シルクロードの交差点に位置したことから要衝として発展しました。ティムール朝の時代に建てられたモスクや廟(びょう)には青いタイルがふんだんに使われ、その美しさから「青の都」と呼ばれています。
パルミラの遺跡(シリア・アラブ共和国)
パルミラの遺跡は1980年に文化遺産として登録された、ローマ帝国の支配時代の都市遺跡です。夕日に染まる遺跡の美しさから、人々はパルミラを「バラの街」と称えました。
中東でも有数の観光地でしたが、シリア内戦によって近づくことが難しくなっています。2015年には過激派組織「イスラム国」がパルミラに侵攻。ベル神殿を始め多くの建物が破壊されました。
万里の長城(中国)
1987年に文化遺産として登録された万里の長城は「人類史上最大の建造物」といわれています。歴代の王朝が北方民族の侵入を防ぐために作ったもので、秦の始皇帝が基礎を作り、明の時代に現在の形になりました。
スライマン=トー聖山(キルギス)
2009年に文化遺産として登録された、キルギスのオシュ市にある山です。シルクロードの交差路に位置し、古くから聖なる山としてムスリムに崇拝されてきました。峰と斜面には2つのモスクのほか、さまざまな岩絵、多数の礼拝所などがあります。
国立歴史文化公園“古代メルフ(メルヴ)”(トルクメニスタン)
1999年に、トルクメニスタン初の世界遺産(文化遺産)として登録されました。マーリ州に位置する、中央アジア最大の遺跡です。「スルタン・カラ」のほぼ中央にある「スルタン・サンジャル廟」はセルジューク朝時代に建てられたもので、外壁5メートル、基礎6メートルの大きさです。堅牢な造りで、現在もその姿が多くの観光客を惹きつけています。
タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン)
タブリーズはイラン北西部の都市です。2010年に文化遺産に登録された「歴史的バザール複合体」は、シルクロードにおいて商業の中心地の一つでした。バザールとは屋根のついた市場のことで、アーケードの下にはレンガ造りの建物がひとつながりになっています。
バザールの中には隊商が拠点とした宿泊施設「キャラバンサライ」の跡が残っており、当時の盛況ぶりがうかがえます。キャラバンサライはシルクロード上に数多く建てられたもので、高く頑丈な外壁に囲まれ、ラクダや荷物も通すことのできる大きな門を構えていました。シルクロードを行く商人や動物たちが体を休め安全な夜を過ごすために、キャラバンサライは欠かせないものでした。
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イスタンブール歴史地区(トルコ共和国)
イスタンブールは、アジアとヨーロッパのまさに境目に位置します。そのため交易の拠点として、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)やオスマン帝国といった大国の首都として発展しました。
1985年に文化遺産に登録された「イスタンブール歴史地区」には、このような歴史を今に伝える建造物が数多くあります。オスマン帝国時代に建設された「トプカプ宮殿」には、スルタンたちが集めた中国の陶磁器が大量に所蔵されています。これはシルクロードを通って運ばれたもので、当時中国の陶磁器は金銀よりもずっと貴重でした。
世界最大級の市場「グランドバザール(カパル・チャルシュ)」の内部には、シルクロードを行き交った隊商のための宿泊施設が今も残されています。隊商宿はペルシア語では「キャラバンサライ」、アラビア語では「ハーン」と呼ばれます。
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ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群(トルコ共和国)
ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群は、1985年に複合遺産として登録されました。標高1,000mを超える高原地帯にあり、火山灰や溶岩が長い年月をかけて浸食されてできた奇岩群が並んでいます。
ギョレメの谷にはローマ帝国の迫害から逃れたキリスト教徒が作った岩窟教会が集まっていて、「ギョレメ博物館」として公開されています。また、凝灰岩を削り出して形成した地下都市も必見です。カッパドキアのいたるところに地下都市の遺跡が残されています。
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各国に影響を与えたシルクロード
シルクロードは、文化や宗教、習慣などさまざまな面で各国に大きな影響を与えました。ここではシルクロードにかかわる国や地域の関わりを見ていきましょう。
シルクロードと日本の関わり
シルクロードと日本の関わりは深く、奈良にある正倉院は「シルクロードの終着点」と呼ばれています。例えば聖武天皇の遺品である「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)」。一般的な琵琶は古代ペルシアを起源としていて四弦ですが、こちらはインド発祥とされる五絃琵琶です。同時代の五弦琵琶は、世界でもこの一つだけしか残っていません。
また「白瑠璃碗」は、6世紀ごろにササン朝ペルシアで作られたカットグラスです。同様のカットグラスは安閑天皇陵古墳(大阪府)からも出土しており、日本がシルクロードを通じて世界とつながっていたことがわかります。
さらに日本で飛鳥時代に作られた仏像には、ヘレニズム(古代ギリシャ文明)の影響が見られます。これは仏像が最初に作られた古代王国のガンダーラが、アレクサンドロス大王の植民都市であり、仏教は仏像とともにシルクロードを経て朝鮮半島から日本に伝わったためとされます。
シルクロードと中央アジア
中央アジアはウズベキスタン、トルクメニスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンから成る地域です。砂漠に点在するオアシス都市には、かつて多くのキャラバンサライ(隊商宿)が作られました。当時は乾燥に強いラクダが活躍し、商人たちは莫大な利益を得ていました。
シルクロードには危険も多かったため、オアシス都市の存在は隊商の命をつなぐためにも、東西貿易の拠点としても欠かせないものでした。中央アジアのパミール高原を中心にして東西に広がる地域は「トルキスタン」と呼ばれますが、これはペルシア語で「トルコ人の土地」という意味です。
シルクロードとヨーロッパ諸国
遙かなる古代の交易ルート・シルクロードの終着点はローマです。1964年に発見された古代ローマ時代の少女のミイラは、絹の衣裳をまとい金とサファイアの首飾りをしていました。古代ローマ時代から、シルクロードによって中国とヨーロッパがつながっていたことがわかります。なおサファイアは、海のシルクロードの中継点だったスリランカのものでした。
また、シルクロードを通じてもたらされた中国の陶磁器はヨーロッパで高く評価されました。理由は、当時のヨーロッパには磁器が存在しなかったためです。中でももっとも上質な白磁とされた景徳鎮は、オスマン帝国の皇帝やマリー・アントワネットといった歴史上の権力者が欲したといわれています。
シルクロードとトルコの関わり
トルコはアジア大陸とヨーロッパ大陸にまたがり、黒海、エーゲ海、地中海に囲まれた場所にあります。古来「東西文明の十字路」として栄えたトルコでは、ヒッタイト帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国などが興亡しました。そのため現在でも、東洋と西洋の文化が混ざり合っているのが特徴です。
歴史的な建造物も多く、当時の風を感じられるとして旅行者にとても人気があります。シルクロードの最終的な終着点はローマですが、トルコは2つの大陸の境目であり、アジア側からの一旦の終着点とされます。トルコの最大都市イスタンブールは、交易の中継点としても有名です。
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日本とトルコの関わり
トルコは親日国として知られています。歴史上では1873年最初の交流とされていますが、それ以前にも交易はあり、絨毯などのトルコの品物が日本に入ってきていました。
1100年の歴史がある京都の祇園祭では、山鉾を飾る懸装品(けそうひん)にトルコやペルシアの緞通(だんつう:手織りの高級敷物)が用いられています。これらの緞通を飾るようになったのは、江戸時代にあらわれた豪商などの裕福な町衆です。例えば毎年山鉾の先頭を行く「長刀鉾(なぎなたぼこ)」の装飾には、18世紀ごろの「トルコ花文緞通」が使われています。
シルクロードにおいて、東西の端に位置する日本とトルコ。江戸時代から交易があったと考えると趣深いものがありますね。
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平山郁夫シルクロード美術館(山梨県北杜市)
シルクロードについてより深く知りたいなら、山梨県にある「平山郁夫シルクロード美術館」に行ってみてはいかがでしょうか。日本画家平山郁夫の絵画作品と、平山夫妻が収集したシルクロードの美術品を展示した美術館です。館内にはミュージアムカフェ「キャラバンサライ」もあります。
住所 | 〒408-0031 山梨県北杜市長坂町小荒間2000-6 |
---|---|
Tel | 0551-32-0225 |
開館時間 | 10:00〜17:00 (入館16:30まで) |
休館日 | 展示替え期間、冬季(年末〜3月中旬) *詳しい日程はお問い合わせ下さい。 |
駐車場台数 | 大型5台、普通50台(駐車無料) |
HP | https://www.silkroad-museum.jp/ |
シルクロードの息吹を感じられる遺跡を見に行こう!
東洋と西洋を結んだシルクロードは、物資をはじめ宗教や文化などさまざまなものを運びました。壮大な古代の交易ルートは、今なお私たちを惹きつけてやみません。中央アジアで観光に力を入れる国が増えたこともあり、ますますシルクロードに注目が集まっています。
興味を持った方は、ぜひシルクロードの歴史を感じられる遺跡が残る国を訪れてみてください。
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