クレオパトラ7世はどんな人?波乱に満ちた生涯と彼女が残した伝説とは
更新日:2023.04.05
投稿日:2022.07.12
Views: 12504

クレオパトラは歴史上で最も有名な絶世の美女で、世界三大美女の一人に数えられていることでもよく知られていますが、実はトルコにはクレオパトラに縁のある地がたくさんあるのをご存じでしょうか?この記事ではクレオパトラがどのような人物で、どのような人生を歩んできたのか、彼女の生涯とトルコの縁あるスポットについてご紹介します。
Contents
クレオパトラはどんな人?
クレオパトラ(クレオパトラ7世フィロパトル)は、古代エジプトを270年以上も支配したプトレマイオス朝の最後の女王です。クレオパトラが18歳の時に父親が急死し、8歳年下の弟プトレマイオス13世と姉弟で結婚後、共同でファラオになりました。
世界三大美女の一人であるクレオパトラは、お風呂には薔薇のオイルやヤギのミルクなどを入れ、肌や爪には蜂蜜、アロエなどを塗るほど、日頃から美容に気を遣っていたという美にまつわる数々の逸話も残されています。また、クレオパトラは数か国語を話せるほど賢く、魅力的な話術と小鳥のように美しい声であったと伝えられています。
クレオパトラの略年表
紀元前69年 | エジプトのアレクサンドリアで誕生 |
---|---|
紀元前51年(18歳) | 8歳年下の弟プトレマイオス13世と結婚 |
紀元前48年(21歳) | カエサルと出会い結婚 |
紀元前47年(22歳) | カエサルとの子カエサリオンを出産 |
紀元前44年(25歳) | 息子カエサリオンがプトレマイオス15世となり再びエジプトを共同統治 |
紀元前41年(28歳) | アントニウスとトルコで結婚式を挙げる |
紀元前31年(38歳) | アクティウムの海戦で負け、アントニウスの後を追って自殺 |
クレオパトラが残した伝説の数々
クレオパトラは数々の伝説を残していることでも有名です。彼女が残した伝説を簡単にまとめると、主に以下のようになります。
- 18歳で8歳年下の弟プトレマイオス13世と結婚しファラオとなる
- 絨毯に包んで隠れ、贈り物に変装することで、戦闘中のアレクサンドリアに潜入成功
- カエサルとアントニウスという英雄2人の寵愛を受け、子孫を残す
- 彼女を深く愛していたアントニウスからローマ帝国の一部であったトルコ南部をもらう
- 自殺したアントニウスの後を追い自らを毒蛇に噛ませて自殺
クレオパトラの生涯
絶世の美女として知られるクレオパトラですが、その生涯は波乱に満ちています。ここではクレオパトラの誕生から死去までを簡単に紹介します。
クレオパトラのシリア追放
クレオパトラは、紀元前69年エジプトのアレクサンドリアで、父プトレマイオス12世と母クレオパトラ5世の間に生まれました。父親の急死後に弟のプトレマイオス13世と共同ファラオになりました。
クレオパトラは強大なローマとの同盟がエジプトを存続させる方法と考えましたが、弟との共同政治は弟の側近の介入により行き違いをきたしました。間もなく2人に確執が生まれ宮廷内の2派にわかれて争った結果、クレオパトラの方が劣勢となり、シリアに追放されてしまいます。
カエサルとの出会い
エジプトを追放された後、クレオパトラはローマの政治家で軍人のユリウス・カエサル(英語読み:ジュリアス・シーザー)に出会います。紀元前48年にカエサルは、クレオパトラとプトレマイオス13世の和解を図ろうとしました。しかし、2人は戦闘状態だったため、クレオパトラがアレクサンドリアへ入るのは容易ではありませんでした。
そこで、クレオパトラは自身を絨毯に包みカエサルの贈り物として隠れることで、王宮に入ることに成功します。古代エジプトでは、贈り物や賄賂を絨毯に包んで届けることが多かったため、クレオパトラは機転を効かせ、自らの身体を贈ったのです。こうして出会った2人は惹かれ合い、親密な関係になりました。
カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の仲を取り持ちますが、すぐにプトレマイオス13世がカエサル軍に攻撃を仕掛けてきたため、平穏は15日間しか続きませんでした。カエサルはエジプトに来たローマ軍を使い、紀元前47年、ナイル川の戦いでプトレマイオス13世派を制圧し、プトレマイオス13世をナイル川で溺死させました。
カエサルの死
プトレマイオス13世の死後、クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治を再開しました(古代エジプトでは近親婚がとても多かったようです)。この結婚はカエサルのサポートによるもので、実質クレオパトラがほとんど一人で実権を握っていました。
さらに、紀元前47年にはカエサルとの子カエサリオンが生まれます。紀元前46年にカエサルがローマの独裁官になって凱旋式を行った頃、クレオパトラは息子のカエサリオンと密かにローマに渡り滞在していました。しかし、紀元前44年にカエサルが暗殺されると、すぐにエジプトに帰国します。
カエサリオンのファラオ就任
クレオパトラがエジプトへ帰国した頃、共同統治者のプトレマイオス14世が急死したため、後継者として幼いカエサリオンを共同統治者に指名し、プトレマイオス15世に襲名させました。
一方でカエサルの甥で養子のオクタウィアヌス(オクタビアヌス)とマルクス・アントニウス、レピドゥスは三頭政治をとり、カエサルを暗殺したブルータスらの共和派を討伐します。
クレオパトラはブルータスらの共和派を支援しており、紀元前42年のフィリッピの戦いでもブルータスらの勢力を支援しましたが、敗北しました。そして、西を制したオクタウィアヌスと、東方を受け持ったアントニウスの実力者2人によって、ローマ帝国は実質的に分割統治されることになりました。
動乱の歴史を歩んだローマ帝国の成り立ちから滅亡までをわかりやすく解説!
アントニウスとの出会い
共和派を支援していたクレオパトラの出頭を名目として、アントニウスは当時居を構えていた現在のトルコ南東部キリキアの首都タスソス(現メルシン県タルスス)に、クレオパトラを招きます。クレオパトラは失った土地を取り戻すための好機と捉え、アレクサンドリアから豪華な船で、アントニウスの元へ向かいました。
アントニウスの元へ向かう際、クレオパトラは、女神のように着飾り、香を焚きムードをつくって出掛けたそうです。また、アントニウスを自らの宴席に招待するなど、彼と親密な関係になれるよう努めました。エジプトに近い東方地域では勢力を維持していたアントニウスにとって、クレオパトラと良好な関係を築くのは都合が良かったこともあり、瞬く間にクレオパトラに惹かれていきました。
互いに惹かれあった2人は、トルコ南部の町アンティオキア(現在のハタイ県アンタキア)で結婚式を挙げます。このことからもわかりますが、エジプトの女王クレオパトラは、アントニウスとともに何度もトルコに来ていたようです。その証拠に、クレオパトラがタルススを訪れる際に通った門は、「クレオパトラ門」という名が付けられています。
アンティオキア(アンタキヤ)は古代の重要都市だった!歴史と見どころ解説
アントニウスとの子供の誕生
アントニウスとトルコで結婚したクレオパトラはアテネへ新婚旅行に出かけます。紀元前39年には2人の間に男女の双子、アレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネが誕生しました。また、クレオパトラを深く愛していたアントニウスは、ローマ帝国の一部であったトルコ南部を彼女に贈っています。
しかし、実はアントニウスにはオクタウィアヌスの姉でオクタウィア(オクタビア)というローマ人の妻がおり、重婚の罪を犯していたのです。この行為は、東西で勢力を二分する義兄オクタウィアヌスを怒らせ、さらにローマ人の反感も募らせていきました。このようなアントニウスとクレオパトラの行動は、後々2人の悲劇に繋がっていきます。
アントニウスの最期
アントニウスは紀元前34年に再度東方遠征を行い、アルタクシアス朝(アルメニア王国)を攻撃して、国王アルタウァスデス2世を捕虜としました。アレクサンドリアに戻ったアントニウスは、ローマではなくここで盛大に凱旋式を行います。さらに、アントニウスはエジプトでの埋葬を希望したそうです。このようにローマを見捨てたかのように振る舞うアントニウスにローマ市民は失望し、オクタウィアヌスを強く支持するようになりました。
その後、紀元前31年にアントニウス・クレオパトラの連合軍と、オクタウィアヌス率いるローマ軍がギリシャ西岸のアクティウムで激突する「アクティウムの海戦」が勃発します。この戦いでアントニウス・クレオパトラ連合軍は大敗を喫し、クレオパトラはアレクサンドリアに逃げ帰りました。
その後、アレクサンドリアに帰ったクレオパトラの死の誤報を受けて、これを信じたアントニウスは毒をあおって自殺を図ります。クレオパトラの元へ瀕死の状態のアントニウスが連れてこられましたが、まもなく息を引き取りました。
クレオパトラの最期と死因
オクタウィアヌスは捕虜のクレオパトラが自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていました。しかし、クレオパトラは贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身を噛ませ、アントニウスの死後10日後に後を追って自殺します。
最後にオクタウィアヌスは、クレオパトラの「アントニウスと共に葬られたい」という遺言を認めました。クレオパトラとアントニウスの関係は、歴史上最も情熱的な恋愛物語の一つとして伝えられています。
ただし、クレオパトラの死因は、ここ数年で覆りつつある点には注目です。毒蛇に噛まれて死に至るまでには時間がかかり、外見も損なってしまうので、美意識の高いクレオパトラが自ら死を選ぶのであれば、もっと美しい方法を選ぶのではないか?という説も出てきてました。しかし、真相はまだ謎に包まれたままとなっています。
クレオパトラの死後
クレオパトラとアントニウスの死後、エジプトを支配したオクタウィアヌスは、紀元前30年にカエサルの後継者となる可能性があったカエサリオン(クレオパトラとカエサルの長男)を呼び出して処刑し、プトレマイオス朝を滅ぼしました。
アントニウスとの間にもうけた双子の男子アレクサンドロス・ヘリオスと、最後に生まれたプトレマイオス・ピラデルポスは病で命を落としてしまいます。双子の女子クレオパトラ・セレネ2世は、アントニウスの前妻でオクタウィアヌスの姉オクタウィアが育て、後にローマの名門家に嫁ぎました。
その後、クレオパトラ・セレネ2世はユバ2世との間に2人の子供を授かっているので、クレオパトラの血はエジプトではなくローマで受け継がれているのかもしれません。
クレオパトラの美へのこだわり
歴史に名を残す英雄2人を魅了したクレオパトラの美へのこだわりは、相当なものだったと言われています。クレオパトラは深い青のアイシャドウと、くっきりした黒のアイラインでしっかりメイクをした姿で描かれることが多くなっています。アイシャドウが深い青色をしていたのは、マラカイトやラピスラズリなどの鉱石を砕いた粉でできていたからです。
アイメイク以外にも、ヘンナ(ヘナ)という植物の葉を乾燥させ、水などで溶いたもので爪を着色し、現代のマニキュア代わりに使用していたとも言われています。
「ヘナ」はカラーや白髪染め、タトゥーに人気!効果や危険性、歴史まで紹介
また、当時のアイシャドウは、魔除けや紫外線、虫、感染症・眼病予防の目的が強く、化粧という意味合いはあまりありませんでした。古代エジプトでは、「身体に穴が空いているところから悪魔が入り込む」と考えられていたため、目のふちに濃い色を塗ることで、悪魔の侵襲を防ぐと考えられていました。
クレオパトラとアレキサンダー大王の関係
クレオパトラの生まれた王家プトレマイオス朝は、実はアレキサンダー大王(アレクサンドロス大王、アレクサンドロス3世)と深い関係があるのをご存知ですか?プトレマイオス朝の王の歴史を遡ると、アレキサンダー大王の部下プトレマイオスにたどり着きます。
アレキサンダー大王とは
アレキサンダー大王は、古代ギリシャの英雄ヘラクレスとアキレウスを祖に持つとされ、最高の家系的栄誉と共に、古代ギリシャの北方にあるマケドニア王国の王子として生まれました。東方遠征では、ギリシャから遥か東のインド北部まで世界征服をした偉大な王として知られています。
アレクサンドロス大王をわかりやすく解説!東方遠征で拡大した領土と強さの秘密
プトレマイオス朝の誕生
アレキサンダー大王が32歳の若さで急死すると、彼の築いた広大な帝国の後継者争いが勃発します。プトレマイオスは、故郷バビロニアへ運ばれていたアレキサンダー大王の遺体を略奪し、エジプトで埋葬しました。
この行動により、大王の正当な後継者はプトレマイオスであることを民衆に訴え、エジプトを支配していきます。こうして誕生したのが、クレオパトラが最後の女王となったプトレマイオス朝だったのです。
トルコにあるクレオパトラ縁の場所
クレオパトラとアントニウスが出会い、結婚式を挙げたのはトルコです。ここでは、2人に縁あるトルコのスポットをご紹介します。
エフェソス
世界の七不思議の一つとされるアルテミス神殿や、世界三大図書館に数えられるセルシウス(ケルスス)図書館で有名なエフェソスは、トルコの人気観光スポットです。エフェソスはアントニウスとクレオパトラが冬季を過ごした場所と言われています。
他にも、古代ローマ帝国では貿易の要衝となり、初期キリスト教時代の教会会議や公会議が行われるなど、エフェソス遺跡は歴史的にも重要な意義を持つ場所です。また、クレオパトラの命により殺害された、クレオパトラの妹アルシノエ4世の墓とされる場所がエフェソス遺跡の中にあります。
クレオパトラ・ビーチ
クレオパトラ・ビーチはアンタルヤのアラニア地区にあります。ビーチのある地は、アントニウスが最愛のクレオパトラに贈ったとされ、クレオパトラも泳いだと言われています。また、このビーチは「ブルーフラッグ(33の厳しい基準をクリアした海だけがもらえる最高勲章)」と呼ばれるフランスの環境認証を獲得しています。
アンタルヤはトルコの地中海随一のリゾート地!観光の見どころを解説
クレオパトラ・プール
クレオパトラ・プール(アンティーク・プール)は、温泉を利用したプール施設で、トルコの世界遺産パムッカレにあります。プールの底には地震で倒壊してしまった遺跡が沈んでおり、神秘的な雰囲気を醸し出しています。クレオパトラも実際に入った温泉と言われており、透明度が高く微炭酸の泉質が特徴です。
パムッカレ-ヒエラポリスはがっかり世界遺産じゃない!観光の見どころ解説
エーゲ海に浮かぶクレオパトラ島
クレオパトラ島は、トルコのエーゲ海地方南東のリゾート地マルマリスの北16kmのギョコヴァ湾に浮かぶ島で、現在の名前はセディル島です。この島の北西部には、黄金色に輝く砂浜が特徴のクレオパトラ・ビーチが存在します。
このビーチでクレオパトラとアントニウスが泳いだという言い伝えがあり、砂浜の砂はクレオパトラがエジプトから船で持ってこさせたエジプトにしかない砂だとも言われています。
マルマリスは美しい海と山に囲まれたエーゲ海のリゾート!観光の見どころ解説
ベルガマの図書館
トルコのエーゲ海側にあるベルガマ(ペルガモン)には、ローマの侵攻によって消失してしまったアレクサンドリア図書館を凌ぎ、クレオパトラの時代に世界最大と言われた図書館がありました。アントニウスはクレオパトラに、この世界最大の図書館をプレゼントしたと言われています。
ちなみに、ベルガマには世界遺産にも登録されているペルガモン王国の古代遺跡があります。ペルガモン王国は紀元前4世紀から芸術、科学の中心として繁栄した古代王国で、ヘレニズム時代を代表する遺跡として、今でもトルコの人気観光スポットとして有名です。
世界遺産ペルガモン(ベルガマ)の古代遺跡とは?トルコの人気観光スポット紹介
クレオパトラが登場する芸術作品
数々の逸話を残したクレオパトラは、様々な芸術作品にも取り上げられています。ここでは、クレオパトラが登場する代表的な作品をご紹介します。
アントニーとクレオパトラ
『アントニーとクレオパトラ』は、シェイクスピアの戯曲で、古代ローマを舞台に恋に身を滅ぼすアントニウスとクレオパトラの悲劇を描いています。1606年から1607年頃に書かれた全5幕の作品で、1931年にロンドンのオールド・ヴィック・シアターで初演されました。
映画・クレオパトラ
『クレオパトラ』は、エリザベス・テイラー主演、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツの監督で、1963年に上映された歴史スペクタクル映画です。絶世の美女と言われたクレオパトラをエリザベス・テイラーが本物かのように演技している点に注目です。撮影開始から完成まで3年の年月と巨額の製作費を投じ、制作会社の20世紀フォックスの経営を傾かせたといわれるほど豪華絢爛な映像は必見です。
手塚治虫アニメ・クレオパトラ
実は、手塚治虫のアニメにもクレオパトラは登場しています。簡単に説明すると、3人の登場人物が紀元前50年のエジプトに転送されるお話です。史実にクレオパトラの半生が描かれている点にも注目してみてください。
クレオパトラ縁の地に想いを馳せよう!
トルコにはクレオパトラ・ビーチやクレオパトラ・プール、エフェソスなど、クレオパトラに縁のある地がたくさんあります。今ではターコイズブルーの綺麗なビーチや、ロマンチックな場所が多数あるリゾート地となっていますので、クレオパトラとアントニウスのように、エーゲ海や地中海沿岸の街で新婚旅行を楽しむのもおすすめです。
関連記事

更新日:2024.10.30
Views: 984

更新日:2023.11.29
Views: 6800

更新日:2023.11.29
Views: 1826

更新日:2023.09.11
Views: 3987

更新日:2023.12.05
Views: 4186

更新日:2023.08.23
Views: 2194