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サルディスとは?世界初の貨幣を鋳造したリディアの古代都市

更新日:2023.02.28

投稿日:2022.11.14

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サルディス トルコ

サルディス(サルデス、Sardis)は古代リディア(リュディア、Lydia)王国の首都で、ペルシア帝国の主要な都市でした。サルディス遺跡は、現在のトルコ・エーゲ海地方マニサ県のサルトという村にあります。紀元前7~6世紀は小アジアの政治的・経済的な中心地であり、世界で初めて貨幣が鋳造された場所でもあります。歴史ある古代都市サルディスについてご紹介します。

サルディスの歴史

サルディス

リディア王国の首都サルディスは、紀元前7~6世紀には小アジアの政治的にも経済的にも中心となった地でした。しかし、紀元前546年にアケメネス朝ペルシアの進攻で崩壊し、紀元前334年にはアレキサンダー大王に侵略されています。紀元前180~130年には、ペルガモンのアッタロス朝の領土になりました。紀元前133年にはローマの支配下になり、アジア属州になりました。

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リディア王国とは…?

現在のトルコに位置するサルディスを首都としていたリディア王国は、ギリシア文化の影響を受けたメルムダイ朝が築きました。紀元前612年にアッシリア帝国が滅亡した後の4国分立時代(カルデア王国、メディア王国、エジプト末期王朝)の国の一つで、商工業が発達しました。

紀元前6世紀中頃のクロイソス王の時代に全盛期となりましたが、東方のカッパドキアの領有をめぐってアケメネス朝ペルシアのキュロス2世と対立し、デルフォイの神託に従って開戦しましたが、紀元前546年に敗れて滅亡しました。

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王の道の終点だったサルディス

「王の道」は、アケメネス朝ペルシア王国の大王ダレイオス1世によって、紀元前5世紀に建設された幹線道路です。王都のスーサからサルディスを結んでいて、全長約2400㎞ありました。王の道の建造によって、通常であれば片道3ヶ月を要する距離を7日間で旅することができました。20~30㎞ごとに111の宿駅が設けられ、駅伝制が整備されていました。この幹線道路は、広大なペルシア帝国の統一を強化し、交易を促進するのに役立っていました。

サルディスで世界最古の硬貨が造られた!

世界で初めて硬貨が造られたのは、紀元前7世紀~紀元前6世紀頃のリディア王国の首都サルディスだといわれています。世界で最初の硬貨は「エレクトロン貨(Electrum)」と呼ばれ、金と銀の合金で造られ重さ(価値)の異なるものが何種類か造られていました。お金は「スタテル」という重さを表す単位が使われていました。硬貨にはリディア王の紋章であるライオンと硬貨の重さが刻印されていました。

サルディスで造られた硬貨の特徴は、予め金属の重さを計り価値が系統立てられていた事です。これにより、取引する度に天秤で硬貨の重さを計る必要がなく便利だったのです。サルディスはイオニア地方に隣接し、エーゲ海に面していたので、交易が盛んで商工業も発達していました。そのため、サルディスの硬貨造りのアイデアはギリシャやローマにも広まり、アレキサンダー大王が東方遠征をした際に西アジアの地域にも伝わったそうです。

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国家として貨幣を発行したクロイソス王

サルディス 硬貨 金貨

初期のリディアの貨幣は大きさもまばらでしたが、紀元前550年頃にクロイソス王が国家の発行した貨幣として最初の金貨を鋳造しました。クロイソス王が金を発見したのは、黄金の手とロバの耳を持つという伝説を持ったミダス王の所有する川だったといわれています。リディアの首都サルディスは金が豊富に産出されていました。当初の硬貨は金と銀の合金で造られていたため、金がどれだけ含まれているかわかりませんでした。そこでクロイソス王は、一定の重量の純金と純銀を使用した硬貨を国家の信用のもとに発行すれば安心して取引ができることに気が付いたのです。

しかし、当時の技術では金と銀を分離することは容易ではありませんでした。金はとても化学変化に強い物質で、銀は化学変化にそれなりの抵抗性があります。当時のリディア人は、鉱山から採取した金の塊をハンマーで薄いシート状に伸ばし、それを食塩と一緒に壺に入れて800度ほどの温度で熱することで純度の高い金を取り出したのではないかと考えられています。硬貨を造る際に金の純度と同じ位重要なのが、その価値を表すシンボルを刻印することで、専門の職人が必要でした。最初にリディアが国として発行した金貨には文字や年代を刻まず、重量を表示する為にライオンの体の部分が刻印されました。

このようにして硬貨が造られたことにより、その重さや純度を調べる責任は商人から国家の支配者へ移行しました。こうして、サルディスでは取引が迅速に行われ商売が簡易になり、クロイソス王が発行した硬貨はリディア以外でも使われるようになりました。信頼できる最初の通貨を世界に提供したのがクロイソス王で、金本位制のはじまりでした。そして、クロイソス王は巨万の富を築き「クロイソスのようにお金持ちだ」という言葉も生まれました。

クロイソス王はお金持ちの象徴

クロイソス王

国家として初めて貨幣を発行したクロイソス王は、リディア王国の最後の王で在位期間は紀元前560年から紀元前547年でした。イオニア(エーゲ海に面した現在のトルコ南西部に存在した古代の地方)のギリシア都市を支配下に置くなど、リディア王国はクロイソス王の治世に全盛期を迎えました。交易と砂金の生産による莫大な富でエフェソスのアルテミス神殿の再建にも貢献しました。

このような歴史からギリシャ語とペルシャ語で「クロイソス(Croesus)」は、「裕福な者」という意味を持つようになりました。また、英語では大金持ちを表す言葉として「Richer than Croesus」や「as rich as Croesus」という慣用句もあります。

クロイソス王が再建したアルテミス神殿

アルテミス神殿

莫大な富を誇ったリディア王国のクロイソス王が再建に多大な資金を出したアルテミス神殿は、現在のトルコ西部イズミル県セルチュク近郊にある古代都市遺跡エフェソスにあります。エフェソスはアルテミス崇拝で有名な町で、紀元前7世紀から紀元前3世紀にかけてアルテミスを祀った総大理石の神殿が存在していました。

最初の神殿は紀元前700年頃に建てられていますが、キンメリア人によって破壊されてしまいました。その後、クロイソス王の援助により再建されましたが、紀元前356年に放火で再び破壊され、紀元前323年に再度再建されました。

アルテミス神殿は世界七不思議のひとつ?放火による倒壊・再建の謎や見どころを解説

アルテミス神殿は世界七不思議の一つに数えられていますが、現在は復元された柱が1本残っているのみになっています。

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パクトロス川と金の伝説

ミダス王

リディア王国の首都サルディスには、市場を貫くようにして砂金を豊富に産出するパクトロス川が流れていました。このパクトロス川から金が採れるようになった伝説として、『王様の耳はロバの耳』に登場するミダス王のエピソードがあります。

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ギリシャ神話の酒神ディオニソスは、ある日養父のシレノスが行方不明になった事に気付きました。シレノスが酔っ払ってさまよっていたところ、農民たちによってミダス王のもとへ運ばれていきました。ミダス王はシレノスを10日間もてなし、その後ディオニソスのところへ送り届けました。

ディオニソスはお礼に何でも望みを叶えると約束しました。ミダス王は、「手に触れるもの全てが黄金に変わるよう」頼みました。最初は喜んでいたミダス王ですが、お腹が減った時に食べ物を手にとっても金に変わってしまうので食べることができませんでした。飢えと渇きに後悔したミダス王は、元に戻してくれるようディオニソスに頼みました。ディオニソスは、願いを聞き入れ「パクトロス川に行って水浴びをする」よう言いました。ミダス王がパクトロス川で水浴びをすると、全てを黄金に変える力は水に流れ出ていきました。こうして、パクトロス川から砂金が採れるようになった、という伝説があります。

サルディス遺跡

トルコのシナゴーグ

古代リディア王国の首都として繁栄したサルディスには多くの遺跡が残されています。ギュムナシオン(体育館)と公衆浴場の複合施設、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)や東ローマ時代の商店などの遺構があり、一部分が年間を通じて開放されています。

サルディスの考古学調査

サルディスは19世紀になると遺跡になっていて、主にローマ時代の建築物が残っていました。最初の調査はアメリカのプリンストン大学の調査班によって行われました。その際に、アルテミス神殿や1000以上のリディア人のお墓が発掘されました。発掘は、第一次世界大戦とトルコ革命のために中断されましたが、アルテミス神殿の柱をはじめ発掘されたいくつかの遺物がニューヨークのメトロポリタン美術館の収蔵品に加えられました。

シナゴーグ

サルディスは、1958年以来、毎年ハーバード大学とコーネル大学が後援する考古学調査が行われています。この調査によってユダヤ教の教会である「シナゴーグ」が発掘されました。

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モザイクが美しい床だけでなく、ギリシャ語の80以上の碑文や7つのヘブライ語の碑文が出土されました。このシナゴーグは、450~500年間使われていて、初期の2世紀中頃には着替えや休憩に使われていました。

サルディス遺跡があるトルコのマニサ県

マニサ・メシル・フェスティバル トルコ お祭り

サルディス遺跡のあるトルコ西部のエーゲ海地方マニサ県(Manisa)は、2012年の行政改編でマニサ県全体がマニサ大都市自治体に指定されました。トルコにある81の県のうち、イスタンブールやアンカラをはじめ30の県が大都市自治体に指定されています。

マニサ・メシル・フェスティバル

マニサには、代表的なセルジューク朝とオスマン帝国の建造物が保存されています。スルタン・モスクは、スレイマン1世の母アイシェ・ハフサによって16世紀の初めに建てられました。その後、アイシェ・ハフサが病気で苦しんでいた時に、侍医が41種類の香辛料やハーブで練り飴を処方したところ快復したことから、これを祝うお祭りが毎年4月にこのモスクの敷地内で開催されています。

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このマニサ・メシル・フェスティバルは、皇后と侍医が物語を演じ、5トンもの飴を豪快にばらまきながら配ります。オスマン帝国時代の伝統を守るお祭りとして、2012年にユネスコの無形文化遺産に登録されています。

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サルディスにあった7つの教会

使徒ヨハネ 新約聖書

新約聖書ヨハネの黙示録で、初期キリスト教における7つの主要教会として言及されている「アジアの7つの教会」の一つがサルディスにありました。ここで「アジア」といわれているのは、ローマ時代のアジアのことで、現代の小アジアであるトルコのアナトリア半島を示しています。東西を結ぶ拠点として繁栄した小アジアは、イエス・キリストの死後、数世紀にわたるローマの支配下にあっても、クリスチャンにとって重要な地域でした。

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53~56年に聖パウロがトルコのエフェソスを訪れ、滞在中にキリスト教の宣教活動を行い、その結果7つの教会が建てられました。7つの教会は全て現在のトルコにあり、それぞれの地名で呼ばれるようになりました。その他6つの教会は、エフェソス、スミルナ(イズミル)、ペルガモン(ベルガマ)、ティアティラ(アクヒサル)、フィラデルフィア(アラシェヒル)、ラオディキア(デニズリ)にありました。

このヨハネの黙示録で示された7つの教会とは、キリスト教徒が住むそれぞれのコミュニティを指していて、礼拝所や建物としてだけの教会とは限りません。

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