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世界遺産「チャタルホユック遺跡」の特徴や歴史、見どころをまとめて紹介

更新日:2023.04.05

投稿日:2022.07.27

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チャタルホユック アナトリア文明博物館

「チャタルホユック」は、中央アナトリア(現トルコのアジア側)で発掘された9000年以上前の古代遺跡です。人類の進化において重要な「移住から定住」や「狩猟採集から農耕牧畜」といった社会生活の変化と発展が読み取れる貴重な遺跡となっています。

人類史の謎を解くカギともいえるチャタルホユックは、新石器時代と銅器時代にかけて2000年以上もの間、大きな集落を形成していました。村というよりは都市と呼ぶべき規模の大きなコミュニティとなっており、世界的にも貴重な遺跡の一つです。

ここでは、世界遺産にも登録されたチャタルホユック遺跡の文化や特徴、当時の社会の様子などをまとめてご紹介します。

チャタルホユックとは?

チャタルホユック トルコ 世界遺産

チャタルホユック遺跡は、紀元前7400年頃から紀元前5200年頃までに築かれた大集落の遺跡です。

チャタルホユックより古い新石器時代の集落は、メソポタミアでも発見されています。しかし、チャタルホユックは新石器時代における一定規模以上の広大な都市集落としては世界最古といわれています。また、新石器時代から銅器時代にかけての何千にも及ぶ歴史的家屋があった点も大きな特徴です。

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当時のチャタルホユックには、8,000人以上が農業と牧畜によって生計を立てながら住んでおり、最盛期の人口は1万人に達していたといわれています。ほかの新石器時代の居住跡と異なり、チャタルホユックは村の域を超えて都市と化していました。都市を守る城壁はなく、統率者や支配者もいない平等主義のコミュニティだったといわれています。

チャタルホユック

日干しレンガでできた四角い箱のような家屋は天井から中に入る仕組みで、民家同士が密接していました。町には道がなく、密集した家屋の平らな屋根を通って移動するという、きわめてユニークな建築群だったのです。

近東やアナトリアではほかにも新石器時代の遺跡が見つかっています。しかし、チャタルホユックの町は遺構の大きさや社会集団の密度、力強い美術的・文化的伝統、そして2000年にもわたる継続性といった点から、世界的にみても唯一無二の価値を持っています。

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チャタルホユック遺跡の特徴や見どころとしてよく挙げられるのは、以下のような点です。

  • 新石器時代から銅器時代にかけて約2000年以上にわたり、同じ場所で居住した人々の痕跡が見られる遺跡
  • 狩猟採集・移住生活から農耕牧畜・定住生活へと移行した痕跡
  • 最古の新石器時代の家屋建築
  • 最古でありながら発達した規律的で複雑な構造の住居群
  • 最古の風景画もしくは地図と思われる壁画
  • 都市計画を壁に描いた最初の集落
  • ナトリアでの採掘が新石器時代に始まったことを裏付ける痕跡
  • アナトリアにおける大地母神信仰の中心地として最古の場所
  • 牡牛の頭を壁に埋め込む習慣
  • 部屋の床に遺体を埋める独特な埋葬文化
  • テラコッタ(素焼き粘土)のスタンプ印章に見られる財産・所有権の概念
  • ゴミを燃やすなど清潔な環境での生活

一つの遺跡から多くの進化や発展がみられる文化的価値の高い遺産として、貴重な資料となっています。

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チャタルホユック遺跡の観光情報

チャタルホユック遺跡の観光情報は、以下のとおりです。

名称 チャタルホユック遺跡(ÇATALHÖYÜK ÖRENYERİ)
住所 Küçükköy, Çatalhöyük Yolu, 42500 Çumra/Konya-Turkey
定休日 なし
開館時間 ・夏季(4~10月) 09:00~19:00
・冬季(11~3月) 09:00~17:00
※最終入場は閉館時間の20分前
※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館
入場料 無料
公式HP http://www.catalhoyuk.com/

発掘中となっている遺跡のほか、当時の様子を復元した家屋も見学できます。以下サイトではバーチャル見学もできるので、チャタルホユックの雰囲気を味わってみて下さい。

バーチャル博物館チャタルホユック版:公式HP https://sanalmuze.gov.tr/muzeler/KONYA-CATALHOYUK-ORENYERI/

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チャタルホユック遺跡の場所とアクセス方法


チャタルホユック遺跡は、トルコの中央アナトリアに位置するコンヤ県チュムラ(Çumra)郡キュチュックキョイ(Küçükköy)村にあります。各地点からの移動距離は以下のとおりです。

  • コンヤ中心地から南東へ約52km
  • チュムラ中心地から北へ約11km
  • ハサン山から南西へ約136km

イスタンブールからコンヤまで

コンヤ空港

イスタンブールからコンヤまでは、国内線フライトや長距離バスが利用できます。

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コンヤからからチュムラまで

コンヤからチャタルホユックまで直接移動する手段はないため、まずは最寄りのチュムラ(Çumra)の町へ行く必要があります。コンヤからチュムラへは、旧バスターミナル(エスキオトガル)から出発するミニバスを利用しましょう。ミニバスの運行情報は以下のとおりです。

運行時間 07:00~19:00の間
運行ペース 1時間に1便
所要時間 40分
料金 16 TL
バス会社 Öz Çumraなど

チュムラからチャタルホユックまで

チュムラからはタクシーでの移動になります。チュムラは小さな町であるため、タクシーの台数は限られています。なかなかタクシーが見つからない可能性もあるため、料金は高くなりますがコンヤからタクシーをチャーターするのも一つの手です。

ユネスコ世界文化遺産に登録

チャタルホユックは、その独自性・完全性・卓越した普遍的価値において考古学的・文化的重要性が認められ、2012年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

ユネスコ世界文化遺産:https://whc.unesco.org/en/list/1405/

チャタルホユックの歴史

チャタルホユック

ここでは、チャタルホユックの歴史を振り返ります。何十万年にわたって移住生活を続けてきた人類が、定住や“町”での生活を受け入れるまでの過程がチャタルホユックには残っています。

新石器時代

紀元前7400年頃からチャタルホユックに定住した人々は、最初は狩猟採集生活をしていました。

チャタルホユックの家は、古い家の上に層のように新しい家を建てる形で積み重ねられていきました。そして、確認できる18層のうち6番目の層から農耕社会、いわゆる新石器時代となったことがわかっています。新石器時代のチャタルホユックでは、東の丘と西の丘の間にチャルシャンバ川の支流が流れており、農業に適した沖積土が形成されていました。

チャタルホユックの人々は、最初に小麦、大麦、豆を栽培し、自分たちが育てた穀物を箱に入れて保管していました。この箱からは、豊穣と守護のために入れられたとみられる小さな像が多く見つかっています。

その後、農業だけではなく牧畜も行うようになり、牛や羊が家畜化されました。さらに、塩や織り布、陶器、装飾品、かご、骨の道具、木工品を生産し、余剰分は近隣の集落と物々交換をしていたとみられています。地中海沿岸の貝殻から作られた装飾品が見つかっていることから、さまざまな場所に住む人々と取引していたことがわかっています。

ちなみに、最初にチャタルホユックに住み着いたのは遠くから移住してきた民族ではなく、アナトリア先住民による少人数の集団だったようです。時がたつにつれ、人口8,000人を超える大きな町へと成長しました。社会的階級はなく、男女とも平等な集団であったといわれています。

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銅器時代

チャタルホユック

銅器時代が始まった紀元前5500年頃に東の丘は放棄され、西の丘へと集落が移されました。西の遺丘からは、銅器時代の彩色陶器が発見されています。

なぜ放棄された?チャタルホユックの終焉

チャタルホユックは最終的に放棄されたのですが、それには事情がありました。文化の変化や気候変動により社会システムが徐々に崩壊していったことや、社会階級が形成された結果、儀式や社会交流ではなく生産や消費の場となったことなどが理由とされています。

チャタルホユックの古代都市は14ヘクタールにおよぶ広さだったといわれていますが、現在までに発掘されているのはたった数%程度にすぎません。数千にものぼる未発掘の家が土の中に眠っているとされており、今後の発掘によってさらに多くの秘密が解き明かされると考えられます。

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古代チャタルホユック人の暮らし

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チャタルホユックに定住した当時の人々は、穀物やマメ科の植物を育て、羊や山羊を飼育し、バイソン、ノロジカ、鹿、イノシシ、鳥などの野生動物を狩って生活していました。また、リンゴやアーモンド、ピーナッツ、魚、水鳥の卵など多くの自然の食糧が手に入ったとされています。建築に必要な石膏や泥などの材料は、集落のすぐ近くで入手することが可能でした。

農耕民の多い集団ですが、実は集落近くに畑はありませんでした。建築に必要な粘土や石膏が手に入る場所を選んだ結果、畑から遠い位置になったのだといわれています。運搬用に使っていた籐(ラタン)のかごは、収穫した穀物を保管するのに適していました。しかし、遠くから粘土や石膏を大量に運ぶことはできなかったため、家を建てる材料が手に入る場所に集落をつくったのです。

また、メソポタミアやレバント(東部地中海沿岸地方)が産地であるナツメヤシの葉で造られたかごも見つかりました。つまり、チャタルホユックの人々は遠隔貿易も行っていたのです。そのほか、貝殻は地中海沿岸や紅海付近の人々との交易によってもたらされ、黒曜石は128km離れたハサン山またはカッパドキアの東から持ち込まれていたとみられています。

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平等社会だったチャタルホユック

チャタルホユックは多くの人口を抱えていたにもかかわらず、神殿や大きな社会的建造物、墓地など地位を示す建造物がみつかっていません。リーダーや聖職者のいない、きわめて平等主義なコミュニティだったとされています。

家族の枠組みもなく、血縁に関係なく何世代もの人々が共同で暮らしていました。

道がない不思議な都市

チャタルホユックの家はすべて密着した状態で作られていたため、家の間に道はなく、入口は屋根にありました。人々は家の屋根を通路として移動していたのです。屋根の高さは家によって違ったため、木製の梯子によって上り下りをしていたとされています。

また、特別な日や日常の行事なども、天気が良いときはすべて屋根の上で行っていたようです。年代が比較的新しい家の屋根には炉の跡もあり、テラスのように屋根上で飲食もしていたといわれています。

清潔好きだったチャタルホユック人

チャタルホユックの人々は、家の手入れと清潔さを大切にしていました。発見された家の中からはほとんどゴミが見つかっていません。食事のゴミや下水廃棄物を収集して焼いていた形跡とみられる、蓄積された大量の灰も見つかっています。

ハチの巣のように密集したユニークな家屋群

チャタルホユック トルコ 世界遺産

チャタルホユックのメインとなる特徴的な集合家屋の建築群は、東の遺丘にあります。建物には日干し煉瓦、木、葦などの材料が使用されており、屋上の屋根は葦を敷き詰めて粘土状の土で平らに固めたものでした。

各家は部屋と倉庫で構成された一階建ての平屋になっており、窓やドアはありません。家の入り口である屋根の穴から梯子で入る構造でした。ライオンなどの猛獣や侵略者の侵入を防ぐためだったといわれています。炉床は入口の真下に作られていたため、入り口は換気口の役割も果たしていたようです。

壁は日干し煉瓦で作られており、内部は白い漆喰でなめらかにしたあと、黄色や赤、黒の色調で人物、野生動物、手形、幾何学模様、狩猟場面、舞踊場面、星などの絵が描かれました。なかには現在のアナトリアで作られるキリム(織物)のパターンに共通する図柄もあります。また、本物の雄牛の頭を壁に粘土で埋め込んで飾る習慣がありました。

壁の前はベンチや寝台のように床より10~30cm高くなっており、壁には四角い壁龕(ニッチ)も作られていました。ほかの部屋よりも広めな聖なる部屋も併設されています。

一つの家には、家族5~10人が暮らしていたとされています。居住空間では、滑らかな光沢のある黒曜石の加工が行われ、鏡などさまざまな備品が作られていました。なお、生まれたばかりの赤ちゃんや幼児の遺体は居住部屋の床下に埋葬していたとされています。

各家が密接しているため町に通路はなく、人々は各家の屋根を通路代わりにして移動していました。家族やコミュニティの絆が強く、人々が集合的な生活を好んだため、密集した造りになったという説もあります。

面白いのは、各家が約80年間にわたって使われたあと、中に土と瓦礫を詰め込んで埋め、その上に同じ設計で新たな家が建てられていたことです。使わなくなった家を埋め、その上に新しい家を造っていたことで、東の遺丘は18層、21mの高さにものぼっています。この構造により、下層の家も壊れることなく現在まで保存されていたのです。

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死者は家の下に!埋葬文化

チャタルホユック トルコ 世界遺産

壁に描かれる絵の中には、ハゲタカによって頭を食い千切られた人間の絵もあり、死者の埋葬に関係があるともいわれています。

チャタルホユックの古代人達は、ハゲタカによって肉部分が綺麗に食べられた(または自然に朽ちさせた)遺体の骨を、膝を抱えた胎児のように丸まった格好にして、基壇や寝台の床下に埋葬していました。実際に、各家の寝台の下からは大量の遺骨が見つかっています。

男性には、くさび(短剣)や矢、槍先、大理石の球、骨で造られた道具、粘土製のスタンプ印章などが、女性には化粧パレットや天然硝子の鏡、骨製ピン、貝殻のビーズ、緑石の小さなチョーカー、銅やさまざまな石でできたビーズなどが死者への供物として副葬されていました。

母神信仰のさきがけ!?

チャタルホユック

チャタルホユックでは、最初に行われた1960年の発掘の際に、土偶のような力強い豊満な女性の像が発見されています。母神を崇拝する文化がすでに始まっていたことがわかる、当時の信仰や宗教に関する重要な発見でした。

複数見つかった母神像は5~15cmと大きさにバラつきがあり、素材はテラコッタや石灰岩、大理石などで作られています。

発見された母神像にはいくつか種類がありました。豊満で大きな胸や臀部が印象的な母神像は出産の場面を現すものもあり、豊穣と多産を象徴していると考えられています。とくに2頭のヒョウの間に座って出産をする姿を現した母神像は、チャタルホユックの代表的な発掘品として有名です。

怖い見た目の母神像は豊穣と多産を奪い取る悪を象徴しており、猛禽類を従えている母神像は死の世界とのつながりを象徴していると考えられています。

母神像が多く発掘されたことから、チャタルホユックがアナトリアで最古の母神信仰の中心地であったと考えられています。この母神信仰の伝統は、その後キベレやアルテミスなどの信仰へと続くことになるのです。

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チャタルホユック遺跡の見どころや主な遺物

チャタルホユック トルコ 世界遺産

チャタルホユック遺跡を訪問するならぜひ押さえておきたい見どころや、発掘された主な遺物をご紹介します。

チャタルホユック発掘年表

これまでのチャタルホユック遺跡発掘の流れは、以下のとおりです。

1958年 イギリス人考古学者ジェームス・メラート(James Mellaart)が遺跡を発見
1961~1963年および1965年 最初の発掘により東の遺丘で計160棟の家屋を発見
1993年~現在 イギリス人考古学者イアン・ホッター(Ian Hodder)監督のもと、トルコなど数か国が共同で発掘を継続

最初にジェームス・メラートによる発掘で見つかった遺物はアンカラのアナトリア文明博物館、イアン・ホッターによる発掘で見つかった遺物はコンヤ考古学博物館にそれぞれ所蔵されています。

チャタルホユックを構成する二つの遺丘

チャタルホユック トルコ 世界遺産

トルコ語で「チャタル(Çatal)」は “フォーク”を意味し、「ホユック(Höyük)」は “遺丘”を意味します。こんもりと並んだ東と西の2つの遺丘を上から見るとフォークのように見えることから、この名が付けられました。

当時は近くに流れるチャルシャンバ川の支流がこの2つの丘の間を流れており、初期農業に適した沖積土の上に集落が建設されました。とくに新石器時代の大きな集落跡として考古学的に重要なのが、東の遺丘です。

新石器時代の大きな「東の遺丘」

チャタルホユック

紀元前7400年~紀元前6200年頃と古い新石器時代の集落があったのが、20mの高さの東の遺丘です。13.5ヘクタールもの広大な集落だったといわれています。1500年以上ものあいだ居住地であり続け、新石器時代の18の集落層、14の文化層で構成されています。

新石器時代の層の中には、チャタルホユックの社会組織と定住生活への移行を象徴する壁画やレリーフ、像、その他の芸術的要素が多く存在しています。この層の上には、紀元前6200~紀元前5500年頃の前期銅器時代から始まり、青銅器時代、ローマ時代、ビザンツ帝国時代、セルジューク朝時代の層が積み重なっています。

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銅器時代の小さな「西の遺丘」

8.5ヘクタールと東の丘よりも小さめで、1500年ほど遅い紀元前6200~紀元前5200年頃の比較的新しい時代の遺構が西の遺丘です。発見された数々の陶器から、2期に渡って初期銅器時代の集落があったことがわかっています。東の遺丘と同じ古い時代の文化を引き継ぎながらも、異なる新しい文化が培われていました。

西の遺丘の上層部には、ヘレニズム時代とビザンツ帝国時代の陶器も発見され、地表調査ではビザンツ時代の墓穴も発見されています。

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アナトリア最古の礼拝・祈祷所

東の遺丘では、多くの小さな像とともに、狩猟や豊穣、自然現象が壁に描かれた大きめな造りの部屋が40棟見つかっています。聖なる空間として宗教目的で使用された、アナトリア最古の礼拝所・祈祷所だったのではないかと考えられています。

最古の地図?!都市計画とみられる壁画

チャタルホユック

同じく東の遺丘では、宗教的に使われていたと考えられる部屋の北と東の壁に、横3m高さ90cmの都市計画とみられる地図のような壁画が見つかっています。空から見たチャタルホユックの家々や、約140km離れたハサン山の2つのクレーターと噴き出す溶岩が描かれているのです。

放射性炭素年代測定の結果、紀元前6300~紀元前6100年頃に描かれたものであることがわかりました。ハサン山の火山岩を年代測定した結果、紀元前7200~紀元前6300年頃に実際に噴火が起こったことがわかり、壁画が描かれた時期と一致したのです。世界最古の都市地図であるとされ、アンカラのアナトリア文明博物館に所蔵されています。

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チャタルホユックで見られる主な遺物

チャタルホユックで発見されている主な遺物は、石やテラコッタ(素焼きの焼き物)、斧、浅い皿、ブレスレット・ネックレスなどの装飾品、豊穣の母神像などです。ほかに黒とレンガ色の素焼きのカップや陶器も発見されています。母神像や神聖な動物像はテラコッタで作られていました。

道具の材料には石やテラコッタ、木、骨、黒曜石、火打ち石などが使われていました。骨で造られたナイフや針、黒曜石で造られた槍先や矢じりは、とくに貴重な遺物として扱われています。ほかに、動物の角の内側の湾曲部分に火打石を付けた鍬なども発見されています。

世界遺産「チャタルホユック遺跡」の特徴や歴史、見どころまとめ

チャタルホユック チャタルヒュユク トルコ

本記事では、トルコの中央アナトリア地域で発掘された古代都市「チャタルホユック」について紹介しました。古代人類の生活が狩猟採集・移住から農耕牧畜・定住へと移り変わるさまがわかる、文化的価値の高い貴重な遺跡となっています。

トルコを訪問する際は、ほかの世界遺産とあわせてぜひチャタルホユック遺跡を訪れてみてください。

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