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ペルシア戦争を簡単に分かりやすく!きっかけや有名な戦い、人物まで紹介

更新日:2023.04.05

投稿日:2022.10.26

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サラミスの海戦 ペルシア戦争

紀元前5世紀前半の約50年にわたり、ペルシア帝国とアテネ・スパルタを中心としたギリシアのポリス連合軍の間で起きた争いがペルシア戦争です。

専制政治を敷いて広大な領土を支配していたペルシア帝国に対し、ギリシアの都市国家が勝利を収めたこの戦争を経て、民主政を特徴とする都市国家は全盛期を迎えることとなりました。

今回は、古代ヨーロッパ・アジア史において大きなターニングポイントとなった、ペルシア戦争のきっかけや有名な戦い、代表的な人物などを簡単に分かりやすく紹介していきます。

ペルシア戦争とは?

ペルシア戦争

ペルシア戦争とは、紀元前5世紀の約50年にわたって、アケメネス朝ペルシアとギリシアのポリス連合軍との間で展開された戦争です。大きく分けて4回の戦いが行われたこの戦争は、争った二者の名前から「ギリシア・ペルシア戦争」とも呼ばれます。

小アジア、現在のトルコ西部・エーゲ海沿岸に位置するイオニア地方には、早くからギリシア人の一派であるイオニア人が移り住んでいました。その後、アケメネス朝ペルシアが勢力を拡大すると、ミレトスをはじめとしたイオニア人の植民市を支配下に置きます。

イオニア人の植民市は自治こそ認められたものの、経済活動などの自由は厳しく制限されました。そこで、ペルシアの専制的な支配に対し、ミレトスを中心とした植民市が反乱を起こします(イオニアの反乱)。

この反乱に対し、同じギリシア人のポリスであったアテネが援軍を送ったことがきっかけとなり、約50年にわたる戦争へと発展していったのです。

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4回にわたる戦いの結果、ポリスの連合軍が大国のペルシアに勝利。イオニア地方の独立が守られるとともに、ギリシアにおけるポリスの全盛期がもたらされました。

サラミスの海戦 ペルシア戦争

実はペルシア海軍の中心となって戦ったのはペルシア人ではなく、地中海沿岸に都市国家を建設したフェニキア人でした。そのため、ペルシア戦争は実質的にギリシアとフェニキアの戦いであったとも言われます。

こうしたペルシア戦争の概要や変遷は、紀元前5世紀にアテネで活躍した歴史家・ヘロドトスが記した「歴史」をもとに伝わったもので、ヘロドトス個人の推察や脚色も入っていると見られています。

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しかし、「歴史」はギリシア時代の情報を現代に伝える貴重な歴史書であり、人類最古の歴史書として価値のある資料であるのは事実です。

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どこの国でいつ起こったの?

イオニア地方 アナトリア

ペルシア戦争は紀元前5世紀の前半、西暦B.C.500年〜449年の約50年にわたり、アケメネス朝ペルシアとギリシアのポリス連合軍の間で展開されました。戦場となったのは、主にエーゲ海沿岸のギリシアや、現在のトルコ西部にあたるイオニア地方などです。

約50年もの長きに渡り続いたペルシア戦争ですが、大きく第1次〜第4次という4つのフェーズに分けられます。

本格的な争いは紀元前479年のプラタイアの戦い・ミュカレの海戦で終わりを告げましたが、ギリシアのポリスの雄であり、連合軍だったアテネとスパルタの対立が表面化すると、敗戦したペルシアが干渉するなどして小競り合いが続きました。

最終的には紀元前449年、ペルシアの間で「カリアスの和約」が批准され、ペルシア戦争は正式に終結したと言われています。

アケメネス朝ペルシアとは

アケメネス朝ペルシア キュロス

ギリシアに侵攻し、ペルシア戦争を引き起こしたのがアケメネス朝ペルシアです。ペルシアは、現在のイランのペルシア湾沿岸地域を指します。

アケメネス朝ペルシアの始まりは紀元前550年に遡ります。紀元前7世紀に大国アッシリアが滅亡した後、古代オリエント世界は新バビロニア・エジプト・リディア・メディア王国という4つの大国が支配していました。

このうちペルシア周辺を支配していたメディア王国を打倒し、新たに独立王国を樹立したのがアケメネス家のキュロス2世でした。

キュロス2世はイラン高原一帯を支配下に収めると、さらに現在のトルコ周辺まで進出し、紀元前546年にはリディアを滅ぼします。紀元前538年には新バビロニアも滅ぼし、3つの国によって分割されていたメソポタミア地域の統一を果たしました。

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キュロス2世の死後、紀元前525年にキュロス2世の息子である第2代王・カンビュセス2世がエジプトを併合し、アケメネス朝は古代オリエント世界を統一する大国へと成長したのです。その偉大さから、アケメネス朝ペルシアは「ペルシア帝国」とも呼ばれます。

カンビュセス2世の跡を継ぎ第3代王(第9代との説もあり)となったダレイオス1世の時代には、西はバルカン半島南東部のトラキア地方やエジプトから、東はインダス川流域に至る広大な領土を支配下に置きました。加えて、マケドニア王国も臣従させるなど、世界帝国として強大な権力を誇った大国です。

アテネ・スパルタ中心のポリス連合軍とは

アクロポリス アテネ パルテノン神殿

現在のギリシアの首都・アテネは、古代よりギリシア語読みの「アテナイ」と呼ばれていました。

アテネはギリシア南部のアッティカ地方に位置しており、紀元前800年ごろまでにイオニア人による集住が始まったと言われています。最盛期には市民だけで12万人、奴隷なども含めると23万人もの人口を抱えていました。

アテネの中心には、パルテノン神殿などを擁し世界遺産にもなっているアクロポリスが設けられ、市域は城壁に囲まれていました。アテネのような集住により形成された都市国家のことを「ポリス」と呼びます。

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ポリスの特徴は、多くが市民による民主政を敷いていたことです。国家でありながら現代のような官僚の仕組みや組織的な軍隊があったわけではなく、市民自身が政治主体であり、軍事力も担っていました。

まとまった平地の少ないギリシアでは、アケメネス朝ペルシアのような巨大な専制君主国家は誕生せず、大小200ものポリスが点在したと言われています。数あるポリスの中でも突出した規模と力を誇ったのが、アテネとスパルタでした。

スパルタ

スパルタは、古代ギリシア人の一派であるドーリア人が先住民を征服して成立したポリスで、ギリシア南端のペロポネソス半島南部に位置していました。

スパルタは、軍事力を持つ少数の市民(スパルティアタイ)が、奴隷身分のヘイロータイや中間身分のペリオイコイを支配するという軍国主義体制を特徴としており、強力な軍事力を保つために、市民の子どもを厳しく教育していました。こうした厳しい教育が現代の「スパルタ教育」の語源になっています。

アテネやスパルタは大きなポリスだったとはいえ、大国のペルシアに対抗できるほどの力は持ち合わせていませんでした。そのため、ギリシアのポリスはアテネ・スパルタという2つの雄を中心とした連合軍を結成し、集団の力で大国に立ち向かっていったのです。

ペルシア戦争の原因

ミレトス遺跡 トルコ

ペルシア戦争のきっかけとなったのが、アケメネス朝ペルシアによる専制的な支配に対するギリシアの都市国家の反発でした。

アケメネス朝ペルシアはエーゲ海沿岸のイオニア地方に進出すると、そこにあったミレトスなどのギリシア人植民市も支配下に収めます。ペルシア支配下の植民市では自治こそ認められたものの、貿易の制限などペルシアからの厳しい干渉を受けていました。

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これに反発したイオニア地方のポリスが蜂起したことにより、ペルシアとギリシアのポリス連合軍による全面的な戦争に発展していくのです。

ペルシア戦争は、専制政治と自由な民主政という政治体制間での争いという一面も持ち合わせているといえるでしょう。

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きっかけはイオニアの反乱

ダリウス1世 アケメネス朝ペルシア ベヒストゥン碑文

先ほど紹介したとおり、ペルシア戦争のきっかけはイオニア地方のポリスが、専制的な支配を行うアケメネス朝ペルシアに対して起こした反乱でした。

アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、北部のスキタイを征伐するため、イオニア地方のポリスに対して徴兵を強要します。これに強く反発したミレトスを中心としたポリスは、紀元前500年に反乱を起こしました。

要請を受けたアテネはイオニア地方のポリスを支援しますが、紀元前494年にミレトスが陥落し、反乱は失敗に終わります。

ダレイオス1世はギリシア側の反乱を口実として、紀元前492年からギリシアに遠征軍を派遣し、ペルシア戦争が勃発するに至りました。

イオニアとは

イオニア

ペルシア戦争が始まるきっかけの地となったイオニアは、地中海の北東部・エーゲ海に面した、現在のトルコ西岸に位置するエリアです。

イオニア地方には、古くからギリシア人の一派であるイオニア人によって、ミレトスやエフェソスといった植民市が築かれていました。なお、これらの植民市は、イオニア人が築いたポリスですが、元々アテネの王家が人々を率いて入植したものという説もあります。

エーゲ海に面したイオニア地方は、エーゲ海〜黒海・オリエントをつなぐ地点であるため、交易が盛んになります。交易の中で、世界最古の文明と名高いオリエント文明の先進的な情報がもたらされたことから、イオニア自然哲学という知の体系が築かれるなど、商業・文化の中心地として繁栄しました。

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そんなイオニア地方でしたが、勢力を拡大していたアケメネス朝ペルシアが進出し、紀元前6世紀中ごろになるとペルシアの支配下に入りました。

ミレトスなどのギリシア植民市の大半がペルシアに反抗する中、エフェソスは早い段階で他の植民市と結んでいたイオニア同盟を断ち切ります。

ミレトスがペルシアの攻撃により荒廃したのに対し、ペルシア支配下で破壊を免れたエフェソスは、ペルシア戦争の裏で発展を続けました。加えて、後に起こる、アテネとスパルタ間のペロポネソス戦争では、エフェソスはアテネが盟主のデロス同盟に加盟していたものの脱退し、スパルタ側についています。

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ちなみに、イオニア自然哲学を代表する哲学者であるヘラクレイトスはエフェソス出身です。

ペルシア戦争で活躍した人物

ここからは、ペルシア戦争で活躍した人物を、ペルシア帝国サイド・ギリシアサイドからそれぞれ紹介していきます。

ペルシア帝国サイド:ダレイオス1世

ダリウス1世 アケメネス朝ペルシア

アケメネス朝ペルシア第3代の王であり、アケメネス朝の全盛期の支配者だったダレイオス1世。初代王キュロス2世の娘と結婚し、第2代王カンビュセス2世が行ったエジプト遠征の際に功績を上げ、跡を継ぐ形で王になったとされます。

紀元前522年から486年にかけての在位中、新たな都となるペルセポリスの建設を開始。「王の道」と呼ばれる道路や港湾といったインフラの整備、貨幣の鋳造を行うなど、強大なペルシア帝国の礎を築きました。

帝国領土の拡大にも力を注ぎ、イオニアの反乱を口実としてギリシア遠征を行い、紀元前492年にペルシア戦争を開始した人物でもあります。しかし、紀元前490年のマラトンの戦いで戦術に長けたアテネ軍に敗北、遠征は失敗に終わっています。

その後、紀元前486年にダレイオス1世は急死してしまったため、ギリシア遠征は次代のクセルクセス2世に引き継がれることとなりました。

ペルシア帝国サイド:クセルクセス1世

クセルクセス1世 アケメネス朝ペルシア

ダレイオス1世の急死後、紀元前486年にアケメネス朝ペルシアの王位に就いたのが、ダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世です。

クセルクセス1世は紀元前480年、海・陸の大軍を率いて再びギリシア遠征を行いました。これが、4回にわたるペルシア戦争の中で最大の戦いと言われる、第3次ペルシア戦争です。

陸からギリシア本土を南下すると、テルモピュライの戦いでスパルタ陸軍に完全勝利。そのままアテネの制圧にも成功し、一時はギリシア側を窮地に追いやります。

しかし、海軍側はアテネの指揮官・テミストクレス率いるポリス連合軍との間で起きたサラミスの海戦で大敗します。この大敗で戦意を喪失したクセルクセス1世はペルシアに帰国し、残されたペルシア軍は一旦ギリシア北部まで後退を余儀なくされたのでした。

帰国後は、ダレイオス1世が完成させられなかった宮殿の建造や国家宗教の布教などに努めましたが、部下の謀反により紀元前465年に亡くなりました。

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ペルシア帝国サイド:フェニキア人

フェニキア

ペルシア帝国サイドで忘れてはならないのがフェニキア人の存在です。フェニキア人は紀元前13世紀ごろから、地中海東岸、現在のレバノン周辺を拠点として海上貿易で活躍した集団であり、ペルシア戦争においてはペルシア海軍の主戦力にもなっていました。

紀元前6世紀後半からはアケメネス朝ペルシアの支配下で保護を受け、地中海の交易を継続していました。このため、植民市を建設し地中海貿易を展開していたギリシア人とは対立状態にあったとされます。

実際、フェニキア人が北アフリカに建設した植民都市・カルタゴは、サラミスの海戦と同年の紀元前480年にギリシアの植民市・シラクサを攻撃しています。ヒメラの戦いと呼ばれるこの争いでは、フェニキア人がギリシア人に敗れています。

こういった背景から、ペルシア戦争はフェニキア人とギリシア人の戦いとも言われているのです。

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ギリシアサイド:ミルティアデス

アテネの軍人で反ペルシア派だったミルティアデスです。イオニアの反乱後にアテネへ戻り将軍となり、紀元前490年のマラトンの戦いでペルシアを破りました。

大国ペルシアを相手に、「ファランクス」と呼ばれる槍を持った重装歩兵による戦術を巧みに用いてギリシアを勝利に導いたミルティアデスは、アテネの英雄として賞賛されたと言います。

ギリシアサイド:レオニダス1世

テルモピュライの戦い ペルシア戦争

レオニダス1世は、紀元前489年から480年にかけてスパルタ王として活躍しました。

レオニダス1世が英雄とされているのは、第3次ペルシア戦争の中心的な戦いであるテルモピュライの戦いでの功績です。わずか300のスパルタ兵士を自ら率いて、20万人以上とも言われるペルシア軍と、実に互角の戦いを繰り広げました。不利な状況となっても、決してペルシアに屈することなく最後まで戦い抜き、壮絶な最期を遂げたとされます。

テルモピュライの戦いでは敗れたものの、レオニダス1世率いるスパルタ軍がペルシア軍を足止めしたことが、結果的にサラミスの海戦におけるギリシア側の勝利をもたらしました。この活躍はギリシア中に広まり、スパルタのみならず古代ギリシアの英雄として、今もなお語り継がれています。

ギリシアサイド:テミストクレス

アテネの軍人・政治家だったテミストクレス。ペルシア戦争勝利の立役者であり、1955年以降の旧ドラクマ紙幣に肖像が使われていた人物です。

マラトンの戦いでペルシアに勝利した喜びに包まれるアテネにおいて、テミストクレスは近いうちにペルシアが海から攻め込んでくると予想していました。このため、新たに発見された鉱山からの銀収入を三段櫂船と呼ばれる軍船の建造に充て、来るべきペルシアとの海戦に備えます。

予想は的中し、紀元前480年にクセルクセス1世率いる海軍がギリシアに来襲します。テミストクレスは将軍として海軍を率い、サラミスの海戦においてペルシア海軍を撃破。第3次ペルシア戦争においてギリシアを勝利に導きました。

しかし、ペルシア戦争での活躍にすがるあまり市民の信用を失ったテミストクレスは、陶片追放と呼ばれるアテネの投票制度により、紀元前470年代末にアテネから追放されています。

ペルシア戦争の(第1次~第4次)流れと戦い

ペルシア戦争

約50年にわたり続いたペルシア戦争ですが、主に第1次〜第4次の4つの戦いに分けられます。続いては、4つの戦いそれぞれの流れを見ていきましょう。

第1次ペルシア戦争(B.C.492~)

第1次ペルシア戦争は、紀元前492年にペルシア陸軍がギリシア本土に侵攻を試みたことに始まります。冒頭で紹介したイオニアの反乱に際し、アテネを始めとしたギリシアのポリスがミレトスを支援したことに怒ったペルシアのダレイオス1世が、ギリシアに軍隊を送ったのです。

しかし、ペルシア艦隊は進軍途中、暴風に見舞われて壊滅。結果的に本格的な戦闘には至りませんでした。

第2次ペルシア戦争(B.C.490〜)

マラトンの戦い

マラトンの戦い ペルシア戦争

紀元前490年、アテネをはじめとしたポリスの征伐を目的として、再度ダレイオス1世がギリシアに軍隊を派遣します。ここから第2次ペルシア戦争が繰り広げられました。

ペルシアは先のイオニアの反乱を支援した都市国家・エレトリアを攻略し、アテネの主要な港であったギリシア本土のマラトンに上陸します。アテネは同じく都市国家のプラタイアから援軍を受け、重装歩兵が密集して敵に向かっていく「ファランクス」という戦術を展開し、大国ペルシアに勝利しました。この戦いがマラトンの戦いです。

マラトンの戦いでギリシアが勝利した際、アテネの兵士が勝利を伝えるため、マラトンからアテネまで約40kmを走ったのち、勝利を報告してすぐに絶命したという逸話が残っています。これがマラソンの起源と言われています。

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第3次ペルシア戦争(B.C.480〜)

テルモピュライの戦い ペルシア戦争

紀元前480年、クセルクセス1世自ら率いるペルシア軍がギリシア本土に攻め込んだ一連の戦いが第3次ペルシア戦争です。この争いはペルシア戦争最大の戦いとされます。

ペルシア軍は、アテネと並ぶ有力都市国家だったスパルタ王・レオニダスの率いるスパルタ陸軍を破り、ついにアテネまで攻め込みました(テルモピュライの戦い)。

絶体絶命のピンチを迎えたアテネでしたが、指揮官だったテミストクレスの作戦が功を奏し、ペルシア海軍との戦いに勝利(サラミスの海戦)。ペルシアはギリシアの前線から退きました。

テルモピュライ(テルモピレー)の戦い

ペルシア軍はギリシアのテルモピュライで、アテネと並ぶ有力都市国家だったスパルタ王・レオニダスの率いるスパルタ陸軍を破ります。この戦いではテルモピュライの地形を巧みに利用したわずか300のスパルタ軍が、20万もの大軍だったペルシア軍を相手に善戦したと言われますが、最終的にはスパルタ軍は全滅し、レオニダス王も命を落としました。

サラミスの海戦

サラミスの海戦 ペルシア戦争

テルモピュライの戦いでスパルタに勝利したペルシア軍は、ついにアテネに攻め入ります。ペルシアの占領により蹂躙されたアテネは絶体絶命のピンチを迎えますが、指揮官だったテミストクレスの作戦が功を奏し、ギリシア艦隊はサラミス水道でペルシア艦隊を打ち負かしました。

サラミスの海戦での敗戦により戦意喪失したクセルクセス1世はペルシアに帰国し、残されたペルシア軍もギリシア北部まで後退しました。

第4次ペルシア戦争(B.C.479〜)

プラタイアの戦い

プラタイアの戦い ペルシア戦争

サラミスの海戦後、ギリシア北部まで後退していたペルシア軍ですが、体制を立て直して紀元前479年に再度アテネに侵攻を試みます。アテネとスパルタの連合軍は、プラタイアの平原でこれを迎え撃ち、苦戦を強いられたもののペルシア軍の進撃を食い止めました。

また、プラタイアの戦いと同日に起きたとされるミュカレの海戦においてもペルシア海軍が全滅し、ペルシアによるギリシア侵攻は失敗に終わっています。

ペルシア戦争でポリスの民主政が確立

アテネ アクロポリス

4回にわたるペルシア戦争の結果、アテネ・スパルタを中心とするギリシアのポリス連合軍がアケメネス朝ペルシアに勝利しました。これは、支配領域を拡大していたアケメネス朝の専制政治に対し、自由を求めたポリスが勝利したということでもあります。

実際、ペルシア戦争後のアテネでは、将軍を務めたペリクレスにより「アテネ民主政」と呼ばれる直接民主政が確立され、ポリスは全盛期を迎えたのです。

また、アケメネス朝ペルシアの支配下に入っていたイオニア地方の植民市は独立を回復するとともに、西方ではギリシアの植民市だったシラクサがフェニキア人の植民市・カルタゴの海軍を撃破。ギリシアは東西それぞれで勝利を収めました。

本格的な戦いは紀元前479年に収まったものの、その後も小さな戦いが続き、最終的には紀元前449年のカリアスの和約でようやく戦争が終結しました。

カリアスの和約

アルタクセルクセス1世

紀元前449年、ペルシア戦争の終結を目的として、アテネとアケメネス朝ペルシアの間で批准されたのが「カリアスの和約」です。

アケメネス朝ペルシアの王だったクセルクセス1世が部下によって暗殺され、キプロス島では、ペルシア軍がギリシア軍に大敗を喫します。

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こうした状況を受け、クセルクセス1世の子でペルシア王となったアルタクセルクセス1世は、アテネへ和平を求めるべく使節を送りました。

ペルシアの求めに応じる形で、両者間で結ばれたのがカリアスの和約です。和約の中では、主に次の4点が定められたと言われています。

  1. ペルシアはギリシア人国家の自治を承認すること
  2. ペルシアは航程が3日かかる範囲内のイオニアの植民市に干渉しないこと
  3. ボスポラス海峡以西の海域にペルシア艦隊は侵入しないこと
  4. 上の3つが守られる限りはギリシアがペルシアの領土内に侵攻しないこと

ただし、戦争が終結したからといって、アケメネス朝ペルシアが滅亡したわけではありません。この後、アテネとスパルタの主導権争いが表面化する中で、ペルシアはたびたびギリシアに干渉しました。

アケメネス朝ペルシアが滅亡するのは、ペルシア戦争終結の100年以上後、アレクサンドロス大王の東方遠征により首都のペルセポリスが破壊された紀元前330年のことです。

ペルシア戦争のその後

アテネ・スパルタを中心としたギリシアのポリス連合軍の勝利に終わったペルシア戦争ですが、終結後のギリシアやペルシアはどのようになっていったのか、その後の流れを簡単に見ていきましょう。

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アテネとスパルタの争い

ペルシア戦争では大国ペルシアという共通の敵に立ち向かうため、二大ポリスのアテネとスパルタは互いに手を取り合い、ギリシアのポリス連合軍として勝利を収めました。

しかし、紀元前478年、対ペルシアを名目にアテネが盟主となって、デロス同盟を結成。このことをきっかけに、アテネとスパルタの間でギリシアにおける主導権争いが起きます。二大ポリスの争いはやがてペロポネソス戦争へと発展。ペルシアによる干渉の影響もあり、ポリス社会が衰退していくきっかけとなったのでした。

デロス同盟

ペリクレス

紀元前479年のプラタイアの戦いで、ペルシア軍が敗れ撤退したことにより、ギリシアには束の間の平和が訪れます。ただ、諸ポリスは再びペルシアが攻め込んでくることを恐れていました。

こうした情勢を踏まえて、紀元前478年、諸ポリスはペルシア戦争で大きな功績を挙げたアテネを盟主とするデロス同盟を組織します。プラタイアの戦いで全ギリシア軍を率いたスパルタの将軍・パウサニアスの評判が良くなかったため、スパルタではなくアテネを盟主とした軍事同盟になったと言われています。

エーゲ海に浮かぶ古代ギリシアの聖地・デロス島で結成され、共同金庫も当初はデロス島に置かれました。加盟するポリスはそれぞれ一定の兵船を拠出し、船を出せないポリスは共同金庫に資金を納めるという決まりになっていましたが、実際には艦船の大半がアテネのものでした。アテネの発言権が強まるのは必然だったと言えるでしょう。

当初はペルシアに対抗するための軍事同盟という位置付けでしたが、カリアスの和約が結ばれると、対ペルシアという大義名分が消失します。紀元前454年には、アテネ民主政を確立したペリクレスの下、共同金庫がアテネに移され、アテネが諸ポリスを支配するための同盟へと姿を変えていきます。

「アテネ帝国」と呼ばれるほどデロス同盟におけるアテネの支配力が高まると、ペロポネソス同盟を結ぶスパルタとの対立が表面化していきました。

ペロポネソス同盟

ポティダイアの戦い

対するスパルタは、ペロポネソス半島の諸ポリスとの攻守同盟であるペロポネソス同盟を組織していました。実はペロポネソス同盟は、スパルタが軍国主義を確立する中で紀元前6世紀に組織されており、デロス同盟よりもはるか前から存在しています。

デロス同盟が元となりアテネが帝国化するに連れ、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とデロス同盟の関係が悪化。デロス同盟から抜けるポリスがいるとペロポネソス同盟が支援したり、反対にペロポネソス同盟から離脱するポリスをデロス同盟が取り込んだりといった動きが見られるようになります。

両者の対立は激しくなっていき、やがてペロポネソス戦争へと発展していったのです。

ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争

紀元前431年〜404年にかけ、アテネを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟の間で発生した争いがペロポネソス戦争です。ギリシア全土とエーゲ海全域で繰り広げられたこの戦争は、古代ギリシア世界全てを巻き込む世界戦争へと発展しました。

争いの最中、アテネでは疫病が流行し、全人口の1/3もの人が亡くなります。加えて、アテネの最盛期を築いた将軍ペリクレスが病死したことによりアテネの政治は混乱し、一旦は「ニキアスの平和」と呼ばれる講和が実現します。

しかし、その後新たにテーベという有力ポリスが争いに加わり、新たな局面へと移っていきます。

テーベはアテネ北西に位置した古い都市国家で、ペルシア戦争ではペルシア側につくなど、アテネとは元々対抗していました。ペロポネソス戦争では、スパルタの同盟者としてアテネと争うこととなります。

紀元前404年、ペロポネソス戦争はスパルタの勝利で幕を閉じ、アテネの敗北によりデロス同盟は解散しました。ペルシアがギリシア人同士で争うよう仕向けたという背景もあり、長期化した戦争によりポリス社会は疲弊し、衰退の一途を辿っていくのでした。

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マケドニアの台頭〜東方遠征

カイロネイアの戦い マケドニア

ペロポネソス戦争を経てギリシアの諸ポリスが弱体化する中、力をつけていったのがギリシアの北に位置するマケドニアでした。元は諸ポリスに比べて後進的な弱小国に過ぎませんでしたが、国王フィリッポス2世の時代に国力を大幅に増強し、アテネやスパルタに肩を並べる強国へと成長を遂げたのです。

フィリッポス2世は若い頃にテーベで人質として過ごしたと言われ、そこで学んだギリシアの戦術を取り入れて、マケドニアの軍隊を強化していきました。

そして、紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベをはじめとしたポリス連合軍を撃破し、ギリシア本土のポリスを屈服させることに成功します。この勝利の後、マケドニアはコリントス同盟の締結を主導するに至りました。

コリントス同盟

カイロネイアの戦いでポリス連合軍に勝利したマケドニアは、紀元前337年、スパルタを除く全てのポリスにコリントス同盟を結成させます。

コリントス同盟はマケドニアとポリスの間で結ばれたのではなく、マケドニアが主導してポリス同士で結ばせた同盟です。ポリス間の抗争を禁じるとともに、実質的なマケドニアの覇権を認めさせる内容であり、同盟締結をもってマケドニアがほぼ全てのポリスを掌握したと言えます。

フィリッポス2世は次なる野望を果たすべく、ペルシア遠征を準備していましたが、志半ばで暗殺されてしまいました。こうしてコリントス同盟の盟主としての地位と、ペルシア遠征の遺志は息子のアレクサンドロス大王に引き継がれたのです。

アレクサンドロスの東方遠征

アレキサンダー大王

父・フィリッポス2世の遺志を継いだアレクサンドロス大王は、紀元前334年に東方遠征をスタートし、紀元前330年にアケメネス朝ペルシアを滅亡させます。さらに、紀元前327年〜326年にかけ中央アジアの各地を平定し、インダス川流域に至るまでの地域を支配下に収めました。

これにより、地中海世界からオリエント世界に至るまでの広大な地域を擁するアレクサンドロスの大帝国が誕生。大帝国の誕生は東西文化の融合をもたらし、ギリシア文化とオリエント文化を織り交ぜたヘレニズム文化(ギリシア風の文化という意味)が形成されます。

アレクサンドロス大王をわかりやすく解説!東方遠征で拡大した領土と強さの秘密

大帝国を築いたアレクサンドロス大王は、ジュリアス・シーザーやナポレオンといった英雄から「大英雄」と崇められるなど、後世に大きな影響を残しました。

ペルシア戦争の舞台になったイオニアの都市遺跡

エフェソス遺跡 エフェス

トルコ西部のエーゲ海沿岸には、ペルシア戦争や古代ギリシア世界の歴史が感じられる人気観光地があります。代表的なものがエフェソス遺跡とミレトス遺跡です。

エフェソス周辺には紀元前6千年前ごろから人が住んでいたと見られ、紀元前11世紀ごろにイオニア人が建設した港湾都市を起源として発展を遂げました。ローマ時代にはアジア州の首都として栄華を極め、現在でも世界最大級と称される古代都市の遺跡が残されています。こうしたことから、エフェソス遺跡は2015年にユネスコ世界文化遺産に指定されました。

Ephesus – UNESCO World Heritage Centre

一方のミレトスも、紀元前11世紀ごろにイオニア人が入植し、周辺で最も重要な植民市として発展を遂げます。ペルシア戦争によって一度は完全に破壊されたものの再建され、オスマン帝国初期まで都市として機能していました。現在は、そうした長い歴史や文化を感じられる遺跡として人気を博しています。

ここでは、それぞれのおすすめスポットをいくつか紹介していきます。

エフェソス遺跡:アルテミス神殿

エフェソス遺跡 アルテミス神殿 世界の七不思議

アルテミス信仰が盛んだったエフェソスの象徴だったと考えられるアルテミス神殿は、紀元前7世紀から紀元後3世紀にかけて存在していたとされる、総大理石の巨大な神殿です。縦115メートル、横55メートル、高さ18メートルという壮大な神殿は、世界の七不思議に数えられました。

世界の七不思議と新・世界の七不思議を徹底解説!人気ボードゲームも紹介

残念ながら現在ではほぼ原型を留めていませんが、跡地を見れば、エフェソスが歩んできた長い歴史の足跡を深く感じられることでしょう。

アルテミス神殿は世界七不思議のひとつ?放火による倒壊・再建の謎や見どころを解説

エフェソス遺跡:セルシウス図書館

エフェソス トルコ

117年に完成したとされるセルシウス図書館は、かつて12,000冊にも上る蔵書を有したと言われ、アレキサンドリアやベルガモといった世界的図書館と肩を並べる存在でした。

3世紀の大火により蔵書や建物の多くが焼失してしまいましたが、焼け残ったファサードには美しい装飾が施され、当時の壮麗さを今に伝えています。

エフェソス遺跡で古代へタイムスリップ!観光ポイント徹底解説

名称 エフェソス遺跡(トルコ語でエフェス(Efes)英語でEphesus)
住所 Acarlar, Efes Harabeleri, 35920 Selçuk/İzmir, トルコ
公式サイト https://muze.gov.tr/muze-detay?sectionId=EFS01&distId=EFS

ミレトス遺跡:劇場

ミレトス遺跡 大劇場 トルコ

ローマ帝国の五賢帝の一人であるトラヤヌス帝の時代、100年に旧劇場を改修する形で建てられた大劇場は25,000席を擁する壮大さで、まさに圧巻の一言。一部の座席には番号が刻まれているのを確認できるほど保存状態が良いのも特徴で、思わずギリシア〜ローマ時代にタイムトラベルしたような気持ちになれます。

ミレトス遺跡とは?歴史的背景や見どころ・ミトレス学派から生まれた偉人などを詳しく解説!

ミレトス遺跡:アポロ神殿

ライオンハーバーの南東端、北アゴラに隣接して建てられた太陽神アポロに捧げられた神殿がアポロ神殿です。紀元前6世紀ごろ建てられたこの神殿は、ミレトスで最も古い神殿の一つとされます。かつて年に一度、ディディムの神殿まで当神殿から記念行進が行われていました。

名称 ミレトス遺跡(Miletus)
住所 Balat, Hacılar Sk No:9, 09290 Didim/Aydın, Turkey

これらの遺跡を訪れる際には、リゾート地として人気のクシャダスや、プリエネやディディムといった近隣の遺跡とあわせて観光するのもおすすめです。

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ペルシア戦争は古代ギリシア世界の重要な戦い

エフェソス遺跡 オデオン

強大な領土を有したアケメネス朝ペルシアと、アテネ・スパルタを中心としたギリシアのポリス連合軍が戦ったペルシア戦争は、古代ギリシア世界における重要な戦いです。特に、民主政を特徴とする小さな都市国家(ポリス)が、強大な権力を誇る専制政治に打ち勝ったという点は特筆に値します。

ペルシア戦争にまつわる主要なスポットの一つイオニア地方は現在のトルコ西部、エーゲ海沿岸のエリアであり、周辺地域ではペルシア戦争にまつわる遺跡を巡ることができます。

トルコを訪れたなら、他の魅力的な観光スポットとともに、ペルシア戦争ゆかりの遺跡で古代の歴史を感じてみるのもいいでしょう。

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