世界遺産エフェソスの歴史を徹底解説!ヘレニズムからローマ時代に栄えた謎多き古代都市
更新日:2023.04.04
投稿日:2022.05.16
Views: 1903

世界中から多くの観光客が訪れるトルコ屈指の人気観光地「エフェソス遺跡」。街全体が遺跡となっており保存状態が良く、2015年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
さまざまな支配者のもと、商業や文化の中心地として栄えた美しい港湾都市エフェソスは、世界七不思議の1つのアルテミス神殿がある地として、またエフェソス公会議が開催された場所として知られています。
今回は、エフェソスの歴史や見どころを徹底解説します。
Contents
ローマ帝国に次ぐ大都市!エフェソスってどんな場所?
かつて商業や文化、宗教上の要所として栄えたエフェソス。その長い歴史を振り返る前に、まずは現在の位置やエフェソスの概要をおさらいしましょう。
エフェソス?エフェス?語源と現在地
トルコ西部、エーゲ海に面した現在のイズミル地方に位置するエフェソス(Ephesus)。トルコ語ではエフェス(Efes)、古代ギリシャ語ではエフェソ、エペソ、エペソスなどと呼ばれ、「地母神の王国」という意味の “Apasas(アパサス)” が名前の由来といわれています。
古代ギリシャ名で「スミルナ」と呼ばれたイズミルは、「美しきスミルナ」「エーゲ海の真珠」とたとえられるリゾート地。周辺には、ヘレニズム時代に築かれたアゴラ遺跡や、ユネスコ世界文化遺産に登録されているペルガモン遺跡などもあります。
世界遺産ペルガモン(ベルガマ)の古代遺跡とは?トルコの人気観光スポット紹介
かつては世界で2番目に大きな都市だった
現在エフェソスに人は住んでいませんが、かつては港湾都市として、また東西を結ぶ交通の要所として交易で栄えた文化や商業の中心地でした。1世紀頃には人口が25万人を超え、ローマに次ぐ世界で2番目に大きな都市だったと考えられています。
約663haにおよぶ巨大な都市エフェソスには、アルテミス神殿や大劇場をはじめ、さまざまな建築物の跡が残っています。建設には大理石が使われ、豪華な彫刻が施された門や数多くの像、モザイク画などで装飾されていました。廃墟となった今でも、古代エフェソスの繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
古代哲学者が生まれ育ち、クレオパトラが訪れ、聖母マリアが余生を過ごした街
エフェソスでは哲学や学問も盛んでした。キリスト教において重要な役割を果たしたことでも知られ、古代史に名を連ねる数々の歴史上の人物が訪れたことでも有名です。
「万物は流転する(世界は絶えず変化し続ける)」と唱えたヘラクレイトスは、エフェソス生まれの自然哲学者。ニーチェやハイデガー、ショーペンハウアーなどの哲学者たちに影響を与えたといわれています。
また、「絶世の美女」ことプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと、ローマの権力者アントニウスはエフェソスで冬季を過ごしました。2人の恋物語は、シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』のベースになっています。
さらに、キリスト教における重要人物もエフェソスに滞在しました。新約聖書には、聖ペテロがエフェソスで布教活動を行い、アルテミス信者たちからの反対に遭ったという記録も。そして、聖母マリアと聖ヨハネはこの地で余生を過ごしたといわれています。
キリスト教の宗派や教えとは?深い歴史や三大行事の意味など詳しく解説
エフェソスを構成する4つのエリア
エフェソスはその長い歴史の中で何度も移転したため、遺跡は広範囲に広がっており、大きく分けて以下の4つのエリアで世界遺産に登録されています。
- チュクリチ・ホユック(墳墓)
- アヤスルクの丘(セルチュク城、聖ヨハネ大聖堂、イサ・ベイ浴場、イサ・ベイ・モスク、アルテミス神殿)
- エフェス古代都市(図書館、公衆トイレなど)
- 聖母マリアの家
そのどれもが約9,000年の歴史を物語る建築物として、観光客や歴史家たちを魅了しています。
エフェソスの歴史を徹底解説!
オリエント四国分裂時代からオスマン帝国時代まで、約9,000年続いたとされるエフェソスは、どのようにはじまり、栄え、終焉を迎えたのでしょうか。エフェソスの長く深い歴史を時系列順に解説します。
紀元前11世紀 | イオニア人がエフェソスに移住しはじめる。 |
---|---|
紀元前7~6世紀 | リディア王がエフェソスを支配。アルテミス神殿が建設される。 |
紀元前546年 | ペルシャ王がリディア王を破り、エフェソスはペルシャ帝国下へ。イオニア諸国が反乱を繰り返す陰で、エフェソスは同盟国との関係を絶ち、ペルシャ帝国のもと繁栄。 |
紀元前356年 | ヘロストラトゥスという男の放火によりアルテミス神殿が焼失。エフェソス人は、さらに大きな神殿を再建。 |
紀元前334年 | マケドニアのアレキサンダー大王がペルシャを破り、ヘニレズム時代へ。 |
紀元前323年 | アレキサンダー大王が死去。エフェソスを引き継いだ将軍リュシマコスは、エフェソスをアルシネイアと改名。都市を移動させる。 |
紀元前281年 | リュシマコスが戦死。都市名は再びエフェソスに戻される。 |
紀元前263年 | エフェソスはセレウコス帝国の大部分とともにエジプトの支配下に。 |
紀元前196年 | セレコウス帝国の手に渡るも、6年後のマグネシアの戦いで敗れ、エフェソスはペルガモン王国に統合された。 |
紀元前129年 | セレコウス帝国の手に渡るも、6年後のマグネシアの戦いで敗れ、エフェソスはペルガモン王国に統合された。 |
紀元前129年 | ペルガモン王国がローマ帝国に領土を献上。エフェソスはローマの地方総督の所在地となり、その歴史の中で最も繁栄した時代を迎える。 |
1世紀 | 聖パウロや聖ヨハネなどの著名なキリスト教徒がエフェソスを訪れ、キリスト教が広まる。それまでのアルテミス信仰を糾弾したのち、キリスト教はこの街の公式な宗教となる。 |
西暦262年 | ゴート族がエフェソスと周辺都市に侵略。港や街、アルテミス神殿が破壊され、このダメージから港が衰退していく。 |
西暦395年 | ローマ皇帝が亡くなったことにより、ローマ帝国は東西に分断される。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は東側の都市コンスタンティノープル(現・イスタンブール)を首都とする。 |
西暦431年 | エフェソス公会議が開催。 |
西暦476年 | 西ローマ帝国滅亡により東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がローマ帝国の正統な後継となる。 |
6~7世紀 | 大地震、港の衰退に加え、アラブの侵略によりエフェソスの人口は激減。 |
14世紀 | セルジューク・トルコの支配下で、エフェソスは短期間の成長と建設をしたものの、悪化の一途をたどった。 |
5世紀 | オスマン帝国がエフェソスを支配したが再建ならず、その世紀末にエフェソスは滅亡。廃墟となる。 |
19世紀~現在 | エフェソス発掘作業が開始される。 |
戦士か王子か。エフェソス建設にまつわる伝説
エフェソス建設に関するはっきりとした記録は見つかっていませんが、2つの伝説が残っています。
1つは、勇敢な女性戦士の部族「アマゾネス」によって建設された説です。彼女たちはアナトリア全域で戦い、スミルナやスィノプをはじめ、複数の都市を建設しました。エフェソスの都市名は、女王エフェシアにちなんでつけられたともいわれています。
もう1つは、イオニア王国の王子アンドロクロスによって建設された説。彼は、デルフィの神託(ギリシャ人が信仰していたアポロン神殿の巫女の予言)に従い、「イノシシと魚が示す地」を新たな居住地として探していました。その結果、イノシシが示す“肥沃な土地”と、魚が示す“豊かな海産物”の両方をあわせ持つ、カユストロス川河口近くの地(エフェソス)に都市を築くことにしたのです。
アマゾネスは実在した!?ギリシャ神話の女性戦闘部族の伝説・歴史を徹底解説
紀元前7~6世紀:リディア王国の統治を経てペルシャ帝国支配下に
紀元前11世紀頃にイオニア人がエフェソスに移住。紀元前10世紀頃にはアヤスルクの丘周辺は聖地として崇められており、6世紀頃には、アルテミス神殿が築かれました。その後、リディア王国がエフェソスを支配。
莫大な富を有していたことで知られるリディア王クロイソスの支配下で発展しました。クロイソス王は、遊牧民族キンメル人によって破壊され、当時再建途中だったアルテミス神殿のために多額の寄付をしたといわれています。
紀元前546年には、アケメネス朝ペルシャの王キュロスがクロイソスを破り、ペルシャの覇権拡大に乗り出します。それによりリディア王国下にあったエフェソスは、他都市と共にペルシャ帝国の配下に置かれました。
紀元前5世紀半ば~4世紀:ペルシャ帝国時代、ペルシャ戦争の裏で繁栄
ペルシャの勢力が拡大するにつれイオニア諸都市では反感が募り、紀元前500年にはイオニアの反乱が起きました。紀元前494年に反乱軍が戦いに敗れた後、ペルシャ軍は反乱の討伐もかねギリシャ本土に侵攻。紀元前492年にはペルシャ戦争が始まりました。
イオニア諸国がペルシャ軍と戦う一方、エフェソスは都市を守るためイオニア諸国との同盟を解消し、ペルシャ帝国のもとエフェソスは港湾都市として繁栄します。学問や哲学も盛んになり、自然哲学者のヘラクレイトスが現れたのはこの時代です。
古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスって?思想や名言を徹底解説!
複数回にわたる戦いの末、ペルシャは敗北。エフェソスはギリシャの支配から解放されます。紀元前478年にはアテネが盟主となって結成したデロス同盟にエフェソスも加盟しましたが、紀元前431年にアテネとそれに対抗するスパルタの間で戦争(ペロポネス戦争)が起きると、アテネ側から離反しスパルタ側につきました。
戦争はスパルタの勝利で終わり、諸都市は再びペルシャの影響下に入りました。
紀元前4~3世紀初頭:アレキサンダー大王が統治。激動のヘレニズム時代へ
紀元前334年にマケドニアのアレキサンダー大王が東方遠征を開始。
マケドニア軍はすぐにサルデスを征服し、エフェソスにも入城しました。エフェソスは全く抵抗しなかったといわれています。
紀元前330年にペルシャ帝国が滅びると、アレキサンダー大王が東西に及ぶ大帝国を建設。ギリシャとオリエントの文化が融合されたヘレニズム時代へと突入し、エフェソスにとっても支配者が幾度と変わる激動の時代が始まりました。
アレクサンドロス大王をわかりやすく解説!東方遠征で拡大した領土と強さの秘密
紀元前323年にアレキサンダー大王が死去した後、帝国はディアドコイと呼ばれた後継者たちによって分割され、将軍リュシマコスがエフェソスを引き継ぎます。
リュシマコスは、エジプト王の娘である妻の名前にちなんで、エフェソスを「アルシネイア」と改名。都市全体を南西へ移動させ、港と城壁を整備します。
紀元前281年にコルペディウムの戦いでリュシマコスが戦死すると、エフェソスはセレウコス帝国の配下に置かれ、。都市名は再び「エフェソス」に戻されます。
紀元前263年には、エフェソスはセレウコス帝国の大部分とともにエジプトの支配下へ。紀元前196年に再びセレウコス帝国の手に渡ったあと、ペルガモン王国に統合されました。
紀元前2世紀~:ローマ帝国・属州アジアの州都に。全盛期を迎えるエフェソス
ペルガモン王国アッタロス3世の死後、紀元前129年にエフェソスを含む小アジアの全ての領土はローマ帝国に献上されます。
紀元前33年にはアントニウスがクレオパトラとともにエフェソスに滞在しており、街のエフェソスにはクレオパトラの妹の墓が残っています。
紀元前27年には、オクタビアヌス(アウグストゥス)が初代ローマ皇帝に。エフェソスはローマの属州アジアの州都とされ、全盛期を迎えます。
動乱の歴史を歩んだローマ帝国の成り立ちから滅亡までをわかりやすく解説!
人口は25万人にも及び、文化や商業の中心地として、ローマに次ぐ第二の都市となりました。エフェソス遺跡の目玉となっている円形劇場や水道橋、図書館など数々の建築物の建設・再建が行われたのもこの時代です。
キリスト教が広まったのも1世紀。聖パウロは65年~68年までエフェソスに滞在し、聖ヨハネはイエスの母マリアとともにエフェソスに移り住んだといわれています。
聖母マリアはどんな女性?教派によって異なる解釈やその生涯の謎を解説
395年:ローマ帝国の終焉。ビザンツ帝国とエフェソス衰退のはじまり
262年にゴート人がアルテミス神殿を破壊。269年、再度ゴート人の侵略により街や港が破壊されたことから、徐々にエフェソスの衰退がはじまります。
380年にはキリスト教がローマ帝国の国教に。人々の反対に遭いながらも、アルテミス信仰は徐々にキリスト教に置き換えられていきました。
女神アルテミスの特徴とギリシャ神話の有名な逸話!実はトルコの土着神だった?
そして、381年にテオドシウス帝の命令によりアルテミス神殿は閉鎖。神殿の石材はキリスト教の教会を建設するために運び出され、その後再建されることはありませんでした。
395年にローマ皇帝が亡くなると、ローマ帝国は東西に分断され、エフェソスは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のもとで宗教の中心地的な役割を果たします。431年には、エフェソス公会議が開催されました。
476年に西ローマ帝国が滅亡。コンスタンティノープル(現・イスタンブール)を首都とする東ローマ帝国がローマ帝国の正当な後継となります。
世界史に燦然と輝くビザンツ帝国(東ローマ帝国)1000年の歴史をわかりやすく解説
エフェソス周辺はもともと自然豊かな場所だったものの、繁栄するにつれ木々は伐採されていきました。山から保水力が奪われ、2世紀頃には土砂が港に堆積されるように。4世紀頃には街の中心地だった港が沈み、エフェソスの商業は衰退の一途をたどりました。
6~15世紀:重なる災害と侵略。オスマン帝国下でエフェソスは滅亡
6世紀にはユスティニアヌス帝の命により、聖ヨハネの墓に大聖堂が建てられ、町の周囲には城壁が設けられました。
しかし、港の衰退に加え大地震の影響も受け、エフェソスの人口は激減。下水道は機能しなくなり、蚊の大量発生やマラリアの流行といった問題にも悩まされるようになりました。そのため890年には、政治的・軍事的重要性はスミルナに移ります。
7~8世紀には海陸両方からアラブ人の攻撃を受け、数々のキリスト教の建物が破壊され、14世紀にはエフェソスはセルジューク朝トルコの支配下に。モスクや浴場を建設し貿易も行うなど、エフェソスは活気を取り戻すものの長くは続かず、かつての繫栄を取り戻すこともありませんでした。
15世紀にオスマン帝国の支配下に入りますが、エフェソスは滅亡。住民たちは現在のセルチュク郊外に移り住み、エフェソスは廃墟となりました。
20世紀までに海岸線はさらに5㎞後退したため、現在のエフェソスは海から少し離れています。
オスマン帝国はなぜ600年以上も続いたのか?栄光と滅亡の歴史と強さの秘密
今もなお調査が続くエフェソスの発掘
エフェソスの最初の発掘は、1859~1874年にJ.T.ウッドによって行われました。大英博物館の後援のもとに行われたこの調査では、オデオン(音楽堂)と劇場が発掘されます。劇場で発掘されたものを手掛かりに、1869年にはアルテミス神殿の位置が特定されました。
1895年には、オスマン帝国のスルタンから発掘許可を得て、オットー・ヴェンドルフ(ウィーンアカデミー)の指揮下で定期的な発掘作業が開始。オーストリア考古学協会も参画し、R・ヘベルグが中心となり劇場やアゴラ、セルシウス図書館などを発見しました。1905年までに出土したものの多くは英国へ、その後1923年までのものはオーストリアに保管されています。
1954年には、エフェソス博物館もエフェソスの発掘調査と修復に乗り出します。
1979年からは、トルコ共和国文化観光省がセルチュク・エフェソス環境保護事業を開始。聖ヨハネ教会や聖母マリア教会の修繕を進めました。
2015年にはエフェソス遺跡の歴史的価値や保存状態が評価され、ユネスコ世界文化遺産に登録されましたが、遺跡の大部分はいまだ未発掘の状態であり、現在でも発掘作業が続けられています。
トルコの世界遺産全19ヶ所を大紹介!イスタンブール歴史地域からカッパドキアまで
キリスト教史が変わった?!エフェソス公会議とは
キリスト教ではさまざまな解釈を持つ宗派が存在していましたが、教義を統一するため、定期的に宗教会議を開いて「正当な解釈」を決定してきました。431年に聖母マリアの教会で開催されたエフェソス公会議は、3回目の宗教会議です。
それまでの公会議により、すでに「父(神)と子(イエス)と聖霊は、3つの位格を持つ本質的に1体の神である」とする三位一体説が正統と定められていました。しかし、イエスの神性に関する論争は続いており、この論争に決着をつけるため、東ローマ帝国の皇帝テオドシウスが公会議を招集します。
その結果、マリアは「イエスの母」であって「神の母」ではないと主張していたネストリウス派が異端とされました。三位一体説の正統性がより強調され、マリアは神の母としての立場に高められます。彼女がエフェソスに埋葬されていることも記録されました。
エフェソスの行き方と見どころ
エフェソスの歴史背景をおさらいしたところで、ここからはエフェソスまでの行き方や観光の目玉となっている遺跡をいくつか紹介します。
崩壊と再建を繰り返した「アルテミス神殿」
アルテミス神殿は「エフェソスのアルテミス」と呼ばれた有名な女神信仰の総本山。
ちなみに、エフェソスのアルテミスは処女神であるギリシャ神話のものとは異なり、豊穣多産を強調した姿をしています。かつてギリシャ系の住民が移り住んできた際に、もともと崇拝されていた大地母神ギベレとギリシャ神話のアルテミスが融合されたといわれています。
紀元前7世紀頃に建てられた最初の神殿は、キンメリア人の攻撃により破壊。紀元前550年頃にリディア王クロイソスの援助を受け、120年もの歳月を費やして再建されました。
そして、紀元前356年に「歴史に名を残したい」と企んだヘロストラトゥスの放火により神殿は焼失。紀元前323年に再建された神殿は、古代ギリシャ建築のなかでも最大級の規模・最高級の技術を誇ったと考えられており、「世界七不思議」の1つに数えられています。
世界の七不思議と新・世界の七不思議を徹底解説!人気ボードゲームも紹介
アルテミス神殿は信仰の中心地だけでなく、銀行としての機能を果たしていたことでも知られています。また、神殿内に逃げ込んだ人の安全が保障される場所でもありました。
9度以上崩壊と再建を繰り返したとも伝わるアルテミス神殿ですが、262年にゴート人によって破壊された後は再建されることはありませんでした。神殿の石材はキリスト教の教会を建てるために運び出されてしまったため、現在では復元された柱が1本立っているのみです。
アルテミス神殿は世界七不思議のひとつ?放火による倒壊・再建の謎や見どころを解説
聖ヨハネの教会、聖母マリアの家…キリスト教の聖地
エフェソスはキリスト教の聖地としても有名です。多くのキリスト教徒が訪れる2つのスポットと、その歴史を紹介します。
聖ヨハネの教会
聖ヨハネは、キリストから聖母マリアの世話を託された、キリスト最愛の弟子。新約聖書の著者の1人として、第四福音書や黙示録などを執筆しました。
キリストの死後はキリスト教の布教に努め、マリアとともにエフェソスで余生を過ごしたといわれています。亡くなるとアヤスルクの丘に葬られ、300年ほど後に彼の墓の上に礼拝堂が建てられたのが聖ヨハネ教会の始まりです。
その後、ユスティニアヌス帝により大聖堂が建設されます。6つのドームで覆われ、石とレンガで造られた豪壮な建物でした。
14世紀にはモスクとして使用された時期もありましたが、現在では壁や円柱、床のモザイク画の一部と聖ヨハネの墓が残っているだけです。
ヨハネは使徒と洗礼者の2人いる?イエス・キリストとの関係や何をしたのかを詳しく解説
聖母マリアの家
エフェソスの都市遺跡から約7㎞、ブルブル山の上にある石造りの質素な家は、キリストの母マリアが、余生を過ごした場所だといわれています。
この家はドイツ人修道女の予言に基づく調査の末に発見されました。本当にここで聖母マリアが余生を送ったかを証明する資料はありませんが、この家が1世紀に使われていたことは確認されています。また、聖ヨハネの墓や聖母マリアを祀る最古の教会があり、エフェソスに滞在した時期があることは間違いないと考えられています。
現在ではキリスト教の聖地の1つとして、ローマ法皇をはじめ多くのキリスト教徒が巡礼に訪れ、マリア像に祈りを捧げています。また聖母マリアはイスラム教徒にも神聖視されているため、この家ではイスラム教の礼拝が行われることも。家の外には病が治るといわれる聖水が湧いており、横の壁には参拝者が白い紙や布に願い事を書いて結びつけています。
ローマ時代の生活様式を覗ける!エフェソス古代都市エリア
エフェソスには、ローマ時代の生活を彷彿とさせる遺跡も数多く残っています。その中でも特に人気がある注目のスポットを紹介します。
図書館
エフェソス遺跡の中でひときわ目を引くのが、2階建てのファサード(前門)で有名なケルスス(セルシウス)図書館。ローマの執政官ケルススの死後、彼の息子が父の墓の上に建てさせました。
アレキサンドリアやペルガモンの図書館とともに「三大図書館」の1つとして数えられ、当時は1万2,000冊もの巻物が保管されていたようです。
現在置かれている4体の女性像はレプリカで、本物はウィーンの博物館に保管されています。地震やゴート族の侵略によるダメージを受け、20世紀に修復されました。大きく豪華に見えるように造られ、湿気対策の壁のくぼみや天井の装飾など、細部にまで工夫が凝らされた建築物だったことがうかがい知れます。
図書館の地下は向かいにある娼婦の館に通じていた、という説もあります。
大衆浴場と公衆トイレ
ローマ帝国時代の高い生活様式が垣間見えるのが、大衆浴場や公衆トイレの跡です。
スコラスティカ浴場やバリウスの浴場、港の浴場など複数の大衆浴場跡が良好な状態で残っており、入浴がローマ人の生活の一部だったことがわかります。通常のお風呂や更衣室に加え、サウナやマッサージ施設、冷水プールなどもありました。
トイレも大理石で造られており、ベンチに穴を開けたの便座が並んでいます。簡易ながら上下水道が完備されており、エフェソスが技術的にも進んだ大都市だったことが分かります。
ちなみに、便座と便座の間を仕切る壁や扉はありません。トイレは用を足すだけの場所ではなく、横並びに座って語り合う社交場でもあったようです。
古代で最も大規模な劇場
パナユル山の斜面を利用して造られた劇場は、2万5,000人もの観客を収容できる古代で最も大規模な劇場です。
リュシマコスの時代に建てられ、クラウディウス帝の時代に大規模な増築改修工事が行われました。美しく豪華な装飾物はほとんど残されていませんが、ステージと半円状に広がる客席から当時の姿が想像できます。
この劇場では、演劇やコンサートから、全市民が参加できる議会や剣闘士と野獣の戦いまで、さまざまなイベントが開催されました。素晴らしい音響効果が得られる造りで、現在でもコンサートなどが開かれています。
円形劇場とは?古代ギリシャ・ローマ時代の遺跡が今も息づくトルコ
エフェソス遺跡は、門やレリーフ、神殿や泉、居住地の跡など歴史や文化を感じられるスポットが他にもたくさんあり、見どころ満載です。
エフェソスへの行き方は?
エフェソス遺跡は、セルチュクという村の近くにあります。セルチュクからエフェソス遺跡までは車で5分、徒歩で30分ほど。
イズミール空港からセルチュクまではバスで1時間ほど、イスタンブールから長距離バスを利用すると8時間ほどかかります。
営業時間 | (夏季:4月~10月)8:00~19:30 (冬季:11月~3月)8:30~17:00 |
---|---|
定休日 | なし |
入場料 | 120 TL (大人) 8歳未満の子供は無料 |
所要時間 | 3~4時間(ツアーの場合は1時間半~2時間ほど) |
公式サイト | https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=EFS01&DistId=EFS |
エフェソス遺跡は広大な敷地を歩いて回るため、歩きやすい靴で訪れるのがおすすめ。また、大理石で造られており日差しを遮るものがないため、夏場は日除け・熱中症対策が必須です。雨が降ると滑りやすいため注意しましょう。
【豆知識】エフェソスのあるイズミルってどんな場所?
エフェソスのあるイズミル県は、エーゲ海観光の拠点。イズミルや近隣の町クシャダスなどでは、リゾート気分を味わえます。
また、ユネスコ世界遺産に登録されているヒエラポリス・パムッカレの玄関口デニズリも近くです。パムッカレは国内有数の温泉保養地で、有名な石灰棚をはじめ、ペルガモン王国やローマ時代の遺跡などが見られます。
エフェソス遺跡の周辺は、他にも見どころが満載。ぜひエフェソス観光とあわせて訪れてみてください。
イズミル(イズミール)はエーゲ海の真珠!観光スポットやグルメなど徹底解説!
約9,000年の歴史を肌で感じられる!トルコ・エフェソスに行こう
オリエント・ヘレニズム・ローマ時代の歴史を圧巻のスケールで感じられるエフェソス。遺跡の規模や状態の良さ、歴史的価値のどれをとっても優れた世界遺産です。エフェソスを訪れて、約9,000年に及ぶ文化と歴史に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。
関連記事

更新日:2023.09.22
Views: 43

更新日:2023.02.28
Views: 549

更新日:2023.02.28
Views: 583

更新日:2023.02.28
Views: 860

更新日:2023.02.28
Views: 779

更新日:2023.02.28
Views: 493