一度は行きたい世界遺産・カッパドキア!奇岩と地下都市に眠る歴史を紐解こう
更新日:2023.04.05
投稿日:2022.10.31
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1985年「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」としてユネスコ世界遺産に登録された、トルコが世界に誇る景勝地がカッパドキアです。
カッパドキアは「妖精の煙突」や「キノコ岩」と呼ばれる大自然の生み出す奇跡の絶景が人気ですが、その特異な地形を利用した歴史や文化が育まれてきたことも特徴です。こうした背景から、カッパドキアは世界的にも珍しい複合遺産として知られています。
今回は、そんなカッパドキアの歴史や文化的な成り立ちを紹介するとともに、有名な地下都市についても詳しく解説していきます。
Contents
カッパドキアとは
カッパドキアは、首都アンカラの南東約250km、トルコ中央部に位置するアナトリア高原に広がる大奇岩地帯を指します。ペルシア語で「美しい馬の土地」を意味するカッパドキア。大地が織りなす、「妖精の煙突」や「キノコ岩」と呼ばれる独特な形の岩がそびえ立つ光景は、訪れる人々に圧倒的な自然の力を感じさせます。
こうした独特の地形を利用して、カッパドキアには古くから人々が定住し、独自の文化を育んできました。自然が生み出した奇跡の地形と、この場所ならではの文化的背景を伝える遺跡の数々により、カッパドキアは世界的にも珍しい複合遺産(自然遺産・文化遺産両方の基準をあわせ持つ世界遺産)として広く知られています。
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カッパドキアの歴史
今となっては、標高800〜1,200mのアナトリア高原に位置するカッパドキアですが、1,500万年ほど前までは広大な内海に位置していました。カッパドキアの西方にあるトルコで2番目に大きな湖・トゥズ湖は、その名残と言われています。
時代が進み広大な内海が干上がると、南部の地中海沿岸にあるタウロス山脈一帯に住んでいた旧石器狩猟民たちが、肥沃な土地が広がる内陸部(現在のコンヤ平原)に移住を始めました。このように、人類が文字を書くようになる以前の先史時代から、カッパドキアでは人々の暮らしが営まれていたのです。
紀元前1600年ごろには、アナトリア北中部の首都ハットゥシャを中心にヒッタイト帝国が栄え、カッパドキアはおもにヒッタイト軍の本拠地として機能しました。
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これ以降、カッパドキアは歴史の表舞台にたびたび登場するようになっていきます。なお、カッパドキアという名前が初めて登場するのは、アケメネス朝ペルシアが周辺地域を支配した紀元前6世紀ごろのことです。
カッパドキアの場所・行き方
カッパドキアは、トルコの首都アンカラより南東に約250km、ネヴシェヒル県に位置しています。アクサライ〜ニーデ〜ネヴシェヒル〜カイセリ地方に囲まれており、周辺は中央アナトリアの高原地帯です。
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ネヴシェヒル県の県都・ネヴシェヒルには、1998年に開業したネヴシェヒル・カッパドキア空港があります。イスタンブール空港から1時間半ほどで行くことができるため、トルコ国内の他の観光地へもアクセスしやすいのが魅力です。
カッパドキアは4つのエリアに分かれている
非常に広大な面積を誇るカッパドキアは、おもにギョレメ・ユルギュップ・ウチヒサル・オルタヒサルという、4つのエリアに分けることができます。
- ギョレメ
ギョレメは、カッパドキア観光の目玉となるギョレメ野外博物館やギョレメ国立公園などが立地しています。コンパクトな街でありながら、スーパーやレストラン、ホテルなどが充実しており、カッパドキア観光の拠点としてもおすすめのエリアです。
- ユルギュップ
ギョレメに次ぐカッパドキア第二の町であるユルギュップも、レストランや土産物店、ホテルなどが立ち並ぶ観光地化されたエリアです。カッパドキアの有名スポット「三姉妹の岩」はユルギュップの郊外にあります。
- ウチヒサル
古代ローマの時代、巨大な岩山を削って建てられた「ウチヒサル城塞」を中心に閑静な街並みが広がるウチヒサルは、カッパドキアでも指折りの高級ホテルが多数立地しています。落ち着いた雰囲気の中、カッパドキアの雄大な自然を感じたいという人におすすめのエリアです。
- オルタヒサル
4つのエリアの中で、比較的観光地化が進んでいないのがオルタヒサル。観光客向けのお店や施設が少ない分、カッパドキアならではの田舎町としての雰囲気が感じられるエリアです。
カッパドキアの観光について、詳しく知りたい方はこちらの記事をご覧ください。
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カッパドキアはいつどうやってできたのか
今もなお訪れる人を魅了してやまない、カッパドキアの奇跡の地形。数千年前に、エルジェス山をはじめとする中央アナトリアの火山で繰り返し発生した噴火により、火山灰と溶岩が積み重なって巨大な台地が形成されたことに始まります。
中央アナトリアの火山活動が盛んだった「堆積期」を経て、火山活動が停止し、雨や湧水、川の流れにより地層が侵食される「侵食期」がやってきました。
長い年月をかけて徐々に堆積したカッパドキアの地層は、柔らかい凝灰岩層と硬い溶岩層に分かれています。柔らかい層は侵食が早く進む一方、硬い層はゆっくりと侵食が進行。地層によって侵食スピードが異なった結果、現在見られるキノコのような不思議な形の岩が自然に生まれたと言われています。
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カッパドキアの広さ
太古の火山活動によって形成されたカッパドキアは、世界遺産登録を受けている部分だけでも100平方キロメートル、主要な観光スポットがあるエリアまで目を広げると約1,500平方キロメートルにも及びます。
地下都市や奇岩群など一通りの名所を見て回るには、数日間の滞在でスケジュールを組みたいところです。
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カッパドキアは大自然と歴史の産物
カッパドキアの奇観は、悠久の長い年月をかけて自然が作り出した奇跡の風景です。
一方、有名な地下都市が初めて発掘されたのは1963年のことであり、カッパドキアの持つ長い歴史から考えれば、ごく最近の出来事と言えます。今もなお発掘調査が進められているところであり、地下都市もまた多くの謎に包まれています。
カッパドキアの地下都市
紀元前に作られた歴史あるものでありながら、つい最近まで発掘すらされることなく地中に眠っていたカッパドキアの地下都市。現在も発掘調査が進んでいるものの、多くの謎が解決されないまま残されています。
続いては、多くの謎に包まれたカッパドキアの地下都市が誰に使われていたのか、どうやって、どれくらいの年月を費やして作られたのかなど、これまで行われてきた調査で分かっていることを紹介していきましょう。
地下都市が見つかったのは偶然
カッパドキア観光の目玉の一つにもなっている地下都市ですが、初めて発見されたのは意外にも最近のこと。1963年、ネヴシェヒルに住んでいた男性によって偶然発見されました。
その後1965年から本格的な発掘調査がスタートし、現在も引き続き発掘が進められています。2014年には、ネヴシェヒル市の住宅建設プロジェクトの解体工事中に新たな地下都市が発見され、これが過去最大級の地下都市であると判明するなど、次々と新事実が明らかになっています。
地下都市が作られた理由
カッパドキアは、かの有名なシルクロードとヨーロッパを結ぶポイントにあたるなど、古くから文化・交易・通商上の重要な場所でした。それだけに、長い歴史の中で幾度となく侵略や略奪の対象となってきました。
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時代によって略奪者や略奪の対象となる地元民の種類は異なるものの、いずれの地元民も略奪者から身を守るため、カッパドキアの地形を巧みに利用した大小の洞窟を掘り、身を隠して生活するようになります。
時には、長い期間にわたり洞窟生活を強いられることもあったため、洞窟の中で長期間生活ができるよう、水源や食物の貯蔵庫、ワイナリー、寺院や教会といった一連の都市機能を持った巨大地下空間へと発展していきました。これが地下都市の成り立ちと考えられています。
地下都市の起源は紀元前にさかのぼるとみられ、何世紀にもわたりさまざまな地元民に活用され、拡張・発展してきました。
地下都市についてより詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
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主な地下都市①カイマクル
カッパドキアに数ある地下都市の中でも特に有名なのが、ネヴシェヒルの南にあるカイマクルの地下都市です。
地下8〜10層にも及ぶ巨大な地下空間の内部には、教会、学校、食糧や物品の貯蔵庫、ワイナリーに至るまで、都市生活に必要なありとあらゆる機能が設けられていました。この巨大な地下都市には最大で約2万人、平常時でも約4,000〜8,000人もの人々が暮らしていたと言われています。
作られた時代は謎に包まれていますが、紀元前の時代、ヒッタイト人によって作られたのが最初という説があります。
その後、初期キリスト教の時代、ローマ帝国による迫害から逃れるキリスト教徒たちによって拡張がスタート。アラブ人による度重なる脅威に備え、地元のキリスト教徒が数世紀にわたって拡張してきた結果、現代に遺る巨大な地下都市へ発展したとみられています。
カイマクルは代表的な地下都市であり、観光ツアーに組み込まれるケースも多くなっています。
名称 | カイマクル地下都市(Kaymaklı Yeraltı Şehri) |
---|---|
入場料 | 100TL |
営業時間 | 8:00〜19:00 |
公式サイト | https://muze.gov.tr/muze-detay?DistId=KYY&SectionId=KYY01 |
主な地下都市②デリンクユ
カイマクルの地下都市から、さらに南に位置するデリンクユの地下都市。
「深い井戸」という意味の名前を持つこちらの地下都市は、広さ約4平方キロメートル、深さ約85メートル、見学可能な範囲だけでも地下8層に及び、現在一般見学が可能な地下都市の中では最大級の規模を誇ります。実際には、地下16層にまで空間が存在していることが確認されており、規模の大きさがうかがい知れます。
その名称のとおり、30km以上にも及ぶ地下通路の下部層で多数の井戸が発見されているのが特徴です。平常時でも5,000人〜1万人、最も多い時期には約4万人もの人が集団生活をしていたと言われています。
デリンクユには、カイマクルと同様に一通りの都市機能が設けられていたほか、深さ約80mもある換気用の通気孔、滑車を利用したエレベーター、通気孔の上に設けられた見張り台、最下層の貯水池など、安全かつ快適な生活が送れる機能も充実。避難場所というよりも、恒久的に人びとが生活していたと考えられます。
ちなみに、カイマクルとデリンクユは地下トンネルでつながっているとみられています。
名称 | デリンクユ地下都市(Derinkuyu Yeraltı Şehri) |
---|---|
入場料 | 100TL |
営業時間 | 8:00〜19:00 |
公式サイト | https://muze.gov.tr/muze-detay?DistId=DKY&SectionId=DKY01 |
主な地下都市③ネヴシェヒルの巨大地下都市
2014年、カッパドキア地方の中心都市であるネヴシェヒルの市街地、ネヴシェヒル城の下で巨大な地下都市が発見されました。
発掘調査が行われたのはほんの一部に過ぎませんが、規模は約46平方キロメートル、深さ最大113mにも及ぶと推測されています。これが事実であれば、デリンクユの地下都市をはるかに上回る、カッパドキア最大規模の地下都市ということになります。
この地下都市でもワイナリー、礼拝堂など多くの都市機能が発見されており、古代からオスマン帝国の支配下に入る時代まで実際に使われていた痕跡も見つかっています。
カッパドキアは世界的にも珍しい複合遺産
雄大な自然が織りなす奇跡の景観と、古くからさまざまな民族や宗教が入り混じって形成された独自の文化により、カッパドキアは1985年「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺産群」として、ユネスコ世界遺産に登録されています。
世界遺産は数あれど、カッパドキアは世界的に珍しい複合遺産として登録されている点が特徴です。複合遺産とは、自然遺産としての価値と文化遺産としての価値の両方を併せ持つ世界遺産のことで、登録数はわずか30件台にとどまっています(2022年10月現在)。
カッパドキアでは、悠久の時を経て形作られた当地ならではの地形を巧みに利用して、多くの人びとが文化を紡ぎ上げてきました。こうした自然と文化の融合こそ、カッパドキアの最大の価値であると言え、今後のさらなる調査が待たれるところです。
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ギョレメ国立公園
カッパドキア地方のネヴシェヒル県にあるギョレメ国立公園。「ギョレメ」とは「見えない・見てはいけない」という意味を持つ言葉で、迫害を受けてきたキリスト教徒の歴史を今に伝えています。
ギョレメという街そのものがカッパドキアの奇岩群の中に位置しており、街を散策すればあらゆるところで奇岩からなる不思議な自然造形を見られます。
ギョレメ観光の中でも目玉の一つが「ギョレメ野外博物館」。初期キリスト教時代に築かれた約30の洞窟教会を見学できることから、人気の観光スポットとなっています。
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カッパドキアの岩窟群
複合遺産カッパドキアの特徴は、ここでしか見られない特異な地形もさることながら、そうした奇岩を上手く利用した岩窟が多く築かれていることにあります。
凝灰岩でできた一本岩をくり抜いて作られた岩窟の多くは、初期キリスト教時代の修道院で、実に365もの教会が築かれました。
わずかな採光と換気を可能にする窓や入口のみが配された洞窟教会では、キリスト教信仰を柱とした共同体生活が営まれていました。迫害から逃れたキリスト教徒は、質素な洞窟教会でひたすら信仰を守り抜いていたのです。
ギョレメ国立公園と野外博物館はカッパドキア観光の要!見どころまとめ
カッパドキアの岩窟群を訪れれば、この地に暮らしたキリスト教徒たちの信仰への強い思いを感じることができるでしょう。
カッパドキアはアナトリアの歴史において重要なエリア
現在のトルコの大半を占めるアナトリアは、ヨーロッパとオリエント世界をつなぐ場所として、古くから文化や貿易の要衝として栄えてきました。そんなアナトリアの中央に位置するカッパドキアも古代より多くの国や民族が交流・衝突しながら、栄枯盛衰を繰り返してきた歴史があります。
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カッパドキアにおける主な国・王朝の変遷
カッパドキアには先史時代から人が住んでいたと考えられており、紀元前5000〜4000年ごろにかけては、小さいながらも独立した君侯国(ベイリク)が複数存在していました。その後、数千年の間にわたり、カッパドキアはさまざまな国や王朝の影響や支配を受けることになります。
ヒッタイト帝国
紀元前2000年ごろ、それまでアナトリア中央部に住んでいたハッティ人に代わり、この地に定住し始めたのがヒッタイト人でした。
紀元前1600年ごろになると、彼らはアナトリア北中部の首都ハットゥシャを中心とする「ヒッタイト帝国」を樹立します。紀元前13世紀ごろにヒッタイト帝国が滅亡するまでの間、カッパドキアはヒッタイト軍の本拠地として重要な役割を果たしました。
ヒッタイト人がインド・ヨーロッパ語族であるのに対し、先住民族のハッティ人は非インド・ヨーロッパ語族であったとみられ、もともと両者に関係はなかったようです。しかし、紀元前2300年ごろから徐々にハッティ人がヒッタイト人に吸収・同化され始め、いつしか「ハッティの地=ヒッタイト人の住む土地」という認識に変わっていきました。
一説では、先ほど紹介した地下都市もヒッタイト人によって作られたのが始まりと言われています。
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フリギア王国
紀元前12世紀ごろ、ヒッタイト帝国の滅亡と時を同じくしてアナトリアに入ったのが、ヨーロッパから来たと言われるフリギア人です。カッパドキアをはじめとするアナトリア中央部は、紀元前7世紀ごろにかけてフリギア王国の支配下に入りました。
フリギア人は独自の文化を築いていたとされ、『王様の耳はロバの耳』で有名なミダス王をはじめ、歴代の王は神話にも度々登場します。これを通じて、ギリシャやローマの文化にも大きな影響を残しています。
強力な王国として長らくアナトリア中央部を支配したフリギア王国でしたが、紀元前7世紀ごろにアナトリア南東部を中心に勢力を拡大していたリディア王国に降り、歴史の表舞台から姿を消しました。
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ペルシア帝国(アケメネス朝・サーサーン朝)
紀元前6世紀、現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの初代王・キュロス2世は、アナトリアを支配していたリディア王国最後の王・クロイソスを敗るとともに、リディア王国の支配下にあったカッパドキアをペルシアの監督下に置きます。
アケメネス朝ペルシアは、支配する各地域にサトラップと呼ばれる総督(王の代理人)を任命し、アナトリアをいくつかの州に分けて間接的に統治しました。カッパドキアも一つの州として、ペルシア帝国に服従した地元の支配者によって統治されます。
紀元前330年、国王ダレイオス3世の死によりアケメネス朝ペルシアが滅亡し、カッパドキアはアレキサンダー大王率いるマケドニア王国の支配下に入りました。アレキサンダー大王の時代からしばらくは、大国の影響を受けつつもカッパドキア土着の王朝が認められていました。
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カッパドキアにおいてペルシアの名前が出てくるのは、さらに時を経た7世紀前半ごろのこと。当時のサーサーン朝ペルシアが東ローマ(ビザンツ)帝国と激しく争う中、カッパドキアはサーサーン朝の支配下に入りました。
ローマ帝国
しばらく独立王朝による統治が行われたカッパドキアでしたが、紀元前1世紀に入ると共和政ローマに支援を受けた統治へと姿を変えていきます。初代ローマ皇帝・アウグストゥスの時代にはローマ帝国に従属しながら独立を保つ形となり、紀元前17年にはローマ帝国の属州となりました。
カッパドキア属州はローマ帝国の最北東にあたる属州だったため、東の各勢力に対する重要な防衛拠点として常駐のローマ軍が配備されます。五賢帝の一人であるハドリアヌスが直々に訪れていることからも、ローマ帝国においてカッパドキアがいかに重要視されていたかがわかるでしょう。
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東ローマ(ビザンツ)帝国
紀元後の395年にローマ帝国が東西に分裂すると、カッパドキアは、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とする東ローマ(ビザンツ)帝国の属州となります。
5世紀ごろになると、アナトリア南東部のトロス山脈に居住していたイサウリア人による略奪が横行。7世紀前半には、当時東ローマ帝国と激しく争っていたサーサーン朝ペルシアによる支配を受けることとなりました。
640〜650年代にかけてのイスラム勢力の侵攻によって、サーサーン朝ペルシアが滅亡すると、カッパドキアは再び東ローマ帝国の支配下に入ります。当時の東ローマ帝国は軍団ごとに地方を統治する「テマ制(軍区制)」を取り入れていたため、カッパドキアも「アナトリコン」「アルメニアコン」という2つのテマに再編統治されました。
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セルジューク朝
1071年、マラズギルトの戦いで東ローマ帝国を破り、代わってカッパドキアを支配したのがセルジューク朝です。
セルジューク朝は遊牧トルコ民族の一派を起源とする王朝でした。マラズギルトの戦いによって東ローマ帝国のアナトリア防衛が弱まり、トルコ民族がこの地に次々と流入したことが、現在に至るトルコ民族のアナトリア支配のきっかけとなりました。
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セルジューク朝は1082年、ローマ時代からカッパドキア属州の州都として栄えたカイセリを征服し、カッパドキア各地にセルジューク建築と呼ばれる独自の建築物を多数建設します。イスラム諸国との交易も重視し、トルコ民族による支配とイスラム文化の流入という、まさに現代のカッパドキアの基礎が築かれた時代と言ってもいいでしょう。
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セルジューク朝の崩壊後、モンゴル帝国の影響を受ける時代などを経て、15世紀以降のオスマン帝国による支配、そして現在のトルコ共和国へとつながっていきます。
カッパドキアは宗教的にも重要な遺跡
これまで見てきたとおり、アナトリアという広大な土地は立地の特性上、古くからさまざまな歴史・文化・宗教が入り混じるとともに、多くの国や民族が入れ替わり立ち替わり支配してきたエリアです。
現在のトルコ共和国では、国民の多くがイスラム教を信仰していますが、カッパドキアの歴史においては初期キリスト教とも深い関わりがあります。カッパドキアはキリスト教・イスラム教を中心とした、宗教的にも重要な遺跡であると考えられるでしょう。
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1,000以上もの教会があるカッパドキア
初期キリスト教との関わりが強いカッパドキアには、実に1,000以上もの教会や礼拝堂があると言われています。
カッパドキアがローマ帝国の支配を受けていた4世紀前半にかけ、ローマ帝国ではキリスト教徒が迫害されていました。一部のキリスト教徒は迫害から逃れるため、奇岩が連なる秘境のギョレメに身を潜めます。彼らは、奇岩をくり抜いた教会や地下都市の礼拝堂でひたすら信仰を守り続けたのでした。
その後、392年にローマ帝国でキリスト教が国教化され、東ローマ帝国の時代となった10世紀以降、大規模かつ壮麗な教会がカッパドキアに数多く建設されます。
11世紀に黄金期を迎えたカッパドキアは、続いてイスラム教の国である、セルジューク朝やオスマン帝国の支配を受けることになります。
セルジューク朝時代には建設した教会にスルタンの名前を記すなど、あくまでも彼らの支配下において建てた教会であるという見せ方をすることで、異教徒による支配を意識づけていたようです。
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とくに有名な洞窟教会
1,000以上あるとされるカッパドキアの教会の中でも特に有名なのが、ギョレメ野外博物館にある30ほどの洞窟教会です。
岩山をくり抜いて作られた洞窟教会は、11世紀ごろのトルコ民族によるキリスト教迫害から逃れ、静かに信仰を守るための空間でした。この教会には、同時期にビザンティン文化の影響を強く受けて描かれたフレスコ画が残されています。
名称 | ギョレメ野外博物館(Göreme Açık Hava Müzesi) |
---|---|
入場料 | 150TL |
営業時間 | 8:00〜19:00 |
公式サイト | https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=GRM01&DistId=GRM |
中でも、壮大なフレスコ画が残されているのが「トカル・キリセ」と呼ばれる教会です。9〜10世紀に創建されたトカル・キリセは「旧教会」と「新教会」に分かれており、旧教会には受胎告知からキリスト昇天に至る29場面の連続壁画が描かれています。
旧教会の壁画が描かれてから300年後、ニケポロスによって描かれた新教会の壁画も40のエピソードからなる連続壁画となっており、ビザンティン美術の最高例の1つと言われる傑作。カッパドキアを訪れたならぜひ見ておきたいスポットです。
一生に一度はカッパドキアへ!古代の風を肌で感じて
カッパドキアと聞くと、キノコのような形をした独特の奇岩が織りなす絶景を思い浮かべる人が多いかもしれません。確かに、自然が生み出した奇跡の景観はカッパドキアの大きな魅力ですが、複合遺産としてのカッパドキアが持つ多面性の一面に過ぎません。
地形や地層を巧みに利用した古代からの人びとの歩みを残す、地下都市や洞窟教会といった遺跡の数々もまた、世界中でもカッパドキアでしか見られない貴重な遺産と言えるでしょう。
先史時代からギリシア時代、ローマ時代と、常に世界史の中心にあり続けたカッパドキアで、先人たちが暮らした足跡を辿ってみるのもおすすめです。
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